娘がえり

01


 はフランス人とのハーフだった。それは殆ど運命で決められていたかのように、避けようのない現実だった。
 母親は日本人で、地元を離れて東京の大学に通っていた頃、留学してきた父と同じサークルで出会い、卒業して数年の後、父親が日本に籍を置く形で晴れて結婚したらしい。いや、晴れてとは形容し難い。何せが生まれて間もなく、の父は家を出ていったのだ。離婚だった。
 どうして──その理由はの知るところではない。詳しい話を聞いたことがなければ、父親の顔どころか、名前すら聞いたことがなかった。
 唯一“片親の面影を知る”という意味で幸福だったのは、父親が白人だったことだ。そのせいでは日本人離れした顔をしていたし、お陰で父のこととなると途端に口を閉ざす頑固な母親から、の父親がフランス人であるということが分かったのだ。
 ただ、知ることそれ自体がにとって良いことだったのかは、とうに二十歳を過ぎた今でも分からない。
 しかしが父の出身を知っていたことで、母は心置きなくフランス男を貶すことが出来たし、もまた片親として苦労してきた母への同情や、母が仕事に追われるあまり満足に甘えることの出来なかった幼少時代の寂しさを、父への恨めしさに変えることで、幾分か発散することが出来た。そういう意味ではきっと、不幸中の幸いとでも言えるのかもしれなかった。
 恐らく父親は、日本に永住するつもりが、自分でも気づかない内に感じていた祖国とのギャップが積み重なり、ストレスでホームシックでも起こしたのだろう。相手のために常に一歩引くような日本人らしい母親は、リードが得意な気の強い女性ばかり見てきたフランス男には、味気ない人間のように感じられたのかもしれない。
 は“フランス”という限りなく表面的なイメージから父親をそう解釈して、情けない男と思って疑わなかったし、その結果、父のみならず“フランス人”──その響きにどこか軽薄で裏切り者のような印象さえ抱いていたのだった。


 窓から暖色の光が差し込む。イギリスに降り立ってから空は相変わらず曇っていたが、は雲ひとつなく晴れ渡った景色を眺めているような気分に浸っていた。
 海外旅行は初めての経験だった。無事に大学で必要な単位を取り、小会社への就職も決まり、卒業まで余った残りの数カ月をどうしようかと悩んでいたのだが、のんべんだらりと実家で日を送っているを見かねたのか、イギリスへ永住を決めた母の友人が、卒業祝いと称して一週間のホームステイを提案したのだった。
 唐突な決定に、は出立するまで何をするべきかとあたふたとしていたが、次第に面倒になって、お土産を除けば殆ど鞄ひとつの状態で飛行機に飛び乗っていた。いつでも行き当たりばったりが染み付いて、後で後悔することは知っていても、どうしても計画性というものは持てなかった。
「暇だわ……」
 たった今、それを身に沁みて感じていた。
 異国の景色を眺めているのは悪くないし、最高に気分が良いと感じていたが、時間が経つとどうにも飽きてくる。鞄を開いて物色しても、とても時間を潰せるような物をが持ってきているわけがなかった。
 出る前に何となく引っ掴んだ小説は、もうとっくに機内で読んでしまっていて、たとえまだページが残っていたとしても、時差ボケで到底読む気にはなれない。
 眠気を感じながらぼんやりとしている内に、列車はいつの間にか駅のホームに止まっていた。それと同時に、車内が少し賑やかになる。そのざわめくような空気の揺れにつられて、も鞄に入れていたペットボトルを取り出し、中の水を口に含んだ。

 男と、目が合った。
 たった今乗ってきたばかりなのだろう。リュックサックを肩にぶら下げるようにかけて、と目が合った途端、人懐っこそうな笑顔を浮かべて嬉しそうに歩み寄ってくる。独特な髪型をした、銀髪のとても大きな男だった。
「Bonjour, Mademoiselle」
 まるで知人に話しかけるかのような陽気なトーンに、一瞬人違いではと思ったが、男の目はしっかりとを捉えている。は曖昧に笑ってから目を逸らし、飲みかけだったペットボトルのキャップを閉めた。
 先程まで通路の反対側に座っていた乗客はこの駅で降りてしまったらしく、窓からホームの向こう側がすっかり見える。男は窮屈そうに通路を歩くと、が眺めていたそこへすんなりと腰を下ろしてしまった。
「Vous etes etudiant?」
 とても自然な流れだった。は思う。何一つ違和感のない、とても自然な流れだった。
 話しかけられるのは嫌いではない。幸い、何かと国際的な母親やその友人達のお陰で英語に困ることはなかったし、退屈をしていたのだから、にとって話し相手が現れるのはこれ以上もないほどの幸運だ。
 だが、フランス男だけは別だった。

 男は一見して旅行者とすぐ分かった。もまた旅行者だからこそ、男に同じ匂いを感じたのかもしれないが、英国にいて、鉄道に乗り、大きなリュックサックを背負っている。そして口から奏でたのはフランスの音だ。これだけ揃えばでなくとも分かる。
 男はと違って、異国での運命的な出会いでも感じたのだろう。がシートに置いていたのは旅行にしては小さな鞄だが、凡そロンドンから来たには不釣り合いな、見慣れない日本の土産袋も大量に持っていたし、何よりは父親によく似ていた。ハーフだとも分からないほど、フランスの顔をしていたのだ。
 この人、絶対勘違いしてるわ──と、間違われた不快感を抑えながら、男に向かって肩を竦めてみせ、それから窓の外へ視線を戻した。フランス語はこれっぽっちも分からない。知ろうとも思わなかった。
 しかしそんなの遠まわしな拒絶は、同士に出会えたと思っている男には伝わらなかったらしい。するすると流れるようなフランス語が途切れることなくの耳を撫で、言語の中では子守唄の柔らかささえ持つ音色であったが、にとっては過剰にぶら下げた安っぽい風鈴でしかない。
 シートを乗りださんばかりに話しかける男に苛立つ心を感じながら、無表情のままとっくに読み終えた日本語の小説を取り出し、これ見よがしに開いて見せつけるように読み始めると、男はようやくの様子に気づいたらしい。
 フランス訛りの強い英語が耳を打った。
「Euh...Excuse me, Are you French ?」
 今更“Excuse me”もあったものではない。
「No」
 意識したわけではなかったが、語気は荒くなっていた。
 のあまりにもつっけんどんな態度に男は気まずそうに謝ると、それからが席を立つまで話しかけては来なかった。ほっとしつつも、間違っても乗り過ごさないよう、は眠気を耐えることに残りの時間を費やした。
 男は先程までのお喋りが嘘のように、ただ静かに景色を眺めていたようだった。


 がブリストルに着いたのは昼前だ。
 ブリストルは小さな港町で、母親の友人はここから少し離れた田舎に住んでいるらしい。ウェールズにあるイギリス人の夫の実家へ行っているため、こちらに戻るのは明日の朝になると聞いていた。それで、はわざわざ一日早く着くよう日本を出立したのだった。折角なのだから、一人で好き勝手歩くのも悪くないと思ったのだ。
 駅前はどこかゆったりとして、港町らしいのどかな空気に包まれている。予約したホテルも駅に近い。予想通り、歩きやすそうな落ち着いた場所だった。
 駅の外壁の大時計をもう一度確認してから、は荷物を抱え直した。大して大荷物ではないが、ロッカーのないことだけが惜しい。観光するにつれ、少しずつ荷物が増えていくことは目に見えている。
 やっぱりフランス行きは諦めようか──思いながら、は気の赴くままに歩き始めた。

 父親が死んだ。その知らせが届いたのは4年前だった。ろくに養育費も寄越さず縁が切れているといっても過言ではなかったというのに、訃報だけが母との元へ律儀に送られてきた。癌だったという。父親には恋人がいたが、再婚はしておらず、子供も一人だけだった。
 遺産のこともあり、母は両親の勧めで仕方がなくフランスへ渡ったが、は一度もその話を聞こうとは思わなかった。
 母は全ての相続を放棄して帰って来たようだ。ここまで自分一人で育ててきたのだ。今更何もいらないと思ったのだろう。は一度だけそのことを謝られたが、責める気持ちはおろか、母親の行動はにとっても有難いことだと思っていた。
 父を知ろうなどとは一度も思ったことはない。それは父の死を聞いても変わらなかったし、もし墓参りを勧められようものならば、あからさまに顔をしかめたに違いない。
 しかしは母の友人に会った後、フランスから帰国する予定を組んでいた。勿論、墓参りなどではない。折角ヨーロッパくんだりまで行くのだから、父に文句を言ってやろうと思ったのだ。出来れば生きている内に直接言ってやりたいと思っていた恨み言を全て、ぶつけてやろうと思っていた。
 だが実際来てみれば、わざわざ旅費を割いて、親子を置き去りにした父親に会いに行くなど、これ以上馬鹿らしいことはないような気がした。それも、もう二度と口の聞けない石だ。言葉も分からなければ、唾を吐きかけられたって分からないだろう。もっとも、生きていてもを見て自分の子供と気づけたかは定かではない。

 一時間ほど駅の周辺を散策して、はベンチに腰を下ろした。列車で移動している間は田園風景を薄い雲が覆っていたが、ブリストルに降り立つ頃には雲も流れ、澄んだ青が広がっていた。車通りも多くない。ほっとするような午前の空気だ。
 常緑樹がゆったりと葉を揺らし、その影に撫でられながら、が次はどこへ行こうかと考えていた時だった。
「Euh...Excuse me,」
 背後から咳払いが聞こえて、はは何気なく振り返った。そして声を辿って首を上げてから、ぎくりとする。
 強い訛りのある英語には、聞き覚えがあった。
「フランスから初めて来たもんだから迷っちまって…グレートブリテン号はここからどう行ったら………あ」
 は思わず返事をするのも忘れて、目を見開いてしまった。そこには二時間ほど前、列車の中でに話しかけて来た男が、地図を開いて立っていたのだ。
 ぽかんとしたまま互いに言葉を失っていたが、が口を開くより先に、男は転がり落ちそうな程に目を見開くと“Whaou!”と嬉しそうに笑って、自分の顔に手を当てた。
「君はさっき列車に乗ってた子だよな?奇遇だなぁ〜!別れてからまた出会うなんて俺、運命感じちまうぜ〜」
 “運命”を表しているらしいジェスチャーで、男は興奮しながら両手を大袈裟に振っている。はその様子をまじまじと見つめながら、頬が引きつるのを止められなかった。
「な、なんて軽薄なの……」
 思わず日本語で口に出してしまったが、目の前の男は勿論理解できるはずもない。
「ん?もしかしてドイツ語?」
の方へ耳を傾けて呑気な事を言っている。を西洋人と思って疑わないらしい。父親もこんなのだったのだろうか。思えば先程までの優雅な気持ちも、どんよりと薄暗くなっていくようだった。
「グレートブリテン号は駅の方よ」
 は聞こえなかったふりをして、男からさっと地図をとると、持っていた赤ペンで道筋に線を引いた。
 グレートブリテン号はブリストルの代表的な観光スポットで、船の中にある博物館だ。大きな教会から真っすぐ歩いた川沿いにあったので、もふらりと立ち寄ったところだった。特別迷う場所にはない。今まで歩いて来た道を引き返すだけだ。

 男はの肩越しに地図を覗き込みながら“Euh”としきりに頷いている。フランス語で何か呟いていたが、男がの独り言を分からないように、にも男が何を言っているのかはさっぱり分からなかった。特別、興味もわかない。
「分かった?」
 尋ねながらも、の語尾には反論を許さない強さがある。だが男は地図を見て理解したようだった。
「Danke」
 語尾にハートでも付きそうな笑顔でそう言ってウィンクを一つすると、男はまた勘違いをしたまま、さっさと通りを抜けて路地を曲がっていってしまった。
 道案内を頼まれたら、観光客狙いの詐欺とでも疑ってやろうと思って身構えていただけに、些か拍子抜けをした。
 だが単なるナンパ男だとしても、の淡白な対応には流石に会話も続かないだろう。そう考えると途端に勝ったような、愉快な気持ちになった。
 もう少し町の雰囲気を楽しんだら、お昼にしようかな!──そんな呑気なプランを浮かべながら背伸びをして、は暖かくなってきた日差しに踏み出した。


 けれど多分、運命はある。が父親の血を引くことと同様に、回避できない濃い運命というものが存在しているのかもしれない。信じたくはなかったが、はたった今それを、まざまざと感じざるを得なかった。
 込み合う前に腹ごしらえをと思って入った、細い路地の一角にある、小さな軽食店の中である。
「あっ」
 今度はすらも声を上げてしまった。そして日本語で「何で?!」とも。
「WhaouWhaouWhaouWhaou!」
 陽気な声を放つのは、相変わらず大袈裟なジェスチャーを備えた、奇抜な銀髪の男だ。
「おいおい、こんなんありか〜?偶然にしても、運命的だぜ」
 言いながら、許可もしていないというのにあろうことか、男は勝手にの向かえの席に腰を下ろしたのだ。
「ちょっ、ちょっと…!」
 開いていた地図が手の中でシワになるのも気にせず、は反射的に椅子から立ち上がりかけた。しかし同時に、昼時で騒がしい店内が目に入った。
 何で勝手に座るのよ!──と文句を言おうと思ったが、相席しなければ空いている座席なんてない。はこの男が気に入らなかったが、店にとっては顔見知り同士には違いないのだ。ここで騒げば、小さい女と見られるのは必至だろう。この男のために見下げられるなんて、それだけはのプライドが許さなかった。
 出かけた言葉を必死に呑み込んでいるにも気づかないようで、男はメニューを開きながら、
「もしかして俺が気になって先回りしてたりする〜?」
などとつまらない冗談を言っている。
 勘弁してよ…!──
は心の中で叫んだ。あまりにも面白くない冗談に鳥肌が立つ。
 ただでさえフランス男にはいい印象を持っていないのだ。それなのに目の前にいる男は、が抱くフランス男の中で最もイメージを下げている“ナンパ男”の要件を完璧に満たしているのだから、頭が痛くなるのも仕方がないことだった。
 休憩のつもりだったけれど、とても落ち着けそうにはない。メニューを眺めながら、そっと胃袋を摩る。

 ジャン=ピエールと名乗った男は顔に似合わず、たいそうなお喋り好きだった。一度口を開くとなかなか止まらない性質らしい。まるで初対面ではなく、数年を過ごした友人のような馴れ馴れしさで語りかけてくる。それを聞き流していても、気にもせず当たり前のように突っ込んでくるところもまた、人見知りの存在を知っているのかも疑うような男の特徴だった。
 がキドニーパイを頼んだ時も、男は「うげっ」と声を漏らし、顔をしかめて無遠慮に見つめてきた。本気かと言いたげな表情であった。
 店員もと男の容貌と荷物の様子を見て、フランスの旅行者だと思ったのか、「食べたことがあるか」と尋ねるのが面白い。けれどは、友人にご馳走になったキドニーパイの、クセのある味は嫌いではなかった。

 料理が来るまでの間も、当然のごとくは沈黙とは無縁だった。だからといって会話が弾んでいるわけではないが、どんな一言にでも食いついてきた。
「えっ、ジャパニーズ?!」
「そうよ。籍だけじゃなく人種も」
 旅行者同士楽しく食事をしようという努力か、勘違いしたままの男がドイツの話題を振るのにうんざりして、がついに「フランスでもドイツでもないわ」と言って明かしたのだ。男はやはり驚いたように目を見開いた。
「っつーことは、ご両親のどちらかが西洋人ってことか?」
「あなたには関係ないでしょ」
 が質問を跳ねのけると、男はそれ以上追求しようとはしなかったが、東洋には流石に話題も及ばないらしく、「どんなところだろうなぁ〜」などとうっとりと呟いている。
 そんな男を尻目に、はまた地図を開いた。先ほど男が現れ慌てたせいで、すっかりシワがついている。丁寧に伸ばしながらペンのキャップを捻って、目的地へバツ印をつけた。
「それ、フランスの地図だろ?」
 は、頬杖をつきながら覗きこんでくる男を、少しだけ睨んだ。
「怖い顔すんなって…!国を間違えたのは謝るからさァ」
 何を言っても軽薄にしか聞こえないことには、も感服した。黙って地図にメモをしていく。男も慣れたのか、特に気にする様子もない。
「そんな田舎に行くのか?」
「……田舎?」
 ペンを止めてが男を見上げると、頬杖をついていた手でいくつも円を書くように、そっと地図をなぞった。
「この辺りはすげー田舎だぜ。俺はこっちの方に住んでたけど」
 男が指で囲った場所には、がつけたバツ印がすっぽりと入っている。父親の墓のある場所だった。
「観光するならここがオススメだぜ」
 男の声を遠くに聞きながら、ぼんやりと地図を眺める。田舎。何となく頭に残る。フランス人。は父親についてそれ以外を知らなかった。



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12/10/24 短編