02


 その後は特に会話もなく日本人らしく食事を終えて、も男を待つようなことはしなかった。男が食べ終わるより先に、さっさと席を立って店を出る。後ろから慌てて呼び止める声が聞こえたが、席を立つときに挨拶はしたのだからそれでいいだろう。
 は今度こそと逃げるように路地を抜けて市街地に出た。もう会うことも無いと思っても、一度記憶に残ると変な縁がつくらしい。
 ひと通り歩いて、飲み物を買おうと入った小さなスーパーの中だ。目立つ銀髪が飲料のコーナーに立っていた。ぎょっとして思わず後ずさると、置き去りにされていた買い物カゴに、はお約束とばかりに足をぶつけた。
 まるで再会するのが決められていたかのようだ。ばっちりと男のタレ目と視線が交差する。次は男の方が声が出ないようだった。
 “運命”とやらを感じているのかもしれない。指をへ向けて、ふるふると震えながら言葉を探している。
「ストーカーなの?!」
 足を抑えてが叫ぶと、近くにいた店内の人間が一斉にこちらを振り返った。
「おいおい!勘違いされちまうだろーが」
 男は持っていたペットボトルを戻して、焦ってに向き直る。観光地で間違って警察に突き出されたら、たまったものではないと思ったのかもしれない。
「観光してるんだから、狭い町なんだ、会うに決まってるだろ?」
「こう何度も会ったのはあなただけよ!」
 それも、有名とは言い難い町角や、路地や、スーパーだ。そう言って身を遠ざけるとは反対に、男はの言葉に納得したふうに唸って頷いた。
「もしかして俺たちって、思ってる以上に気が合うのかもな」
 キドニーパイは頂けないけど──と男は一人で楽しそうに笑っている。冗談じゃない。
「あなた、次はどこへ行く予定なの?」
 は手帳を取り出して男へ尋ねた。
「もしかしてデートのお誘いかい?そうだな…カボットタワーとブリストル大聖堂と美術館だろ、それと──」
「待って、待って…!」
 手帳を思いっきり閉じると、男は指を折って数えていた顔を、不思議そうにへ向けた。男の行く場所はと、ルートまで殆ど被っていたのだ。
 気が合うどころじゃないわ…!──
 男の言う“運命”というものを危うく信じかけてゾッとして、早く離れてしまおうとは男に手を振った。男の行かないような所に行けばいいのだ。何も観光は歴史建造物を見るためだけにあるのではない。

 でも、しかし。
「何でトイレまで一緒に並ぶのよ!変態!」
「ひ、人聞きの悪いこと言うな!」
 何だろうこれは、とは思った。何の因果があって、同じ場所に来てしまうのだろう。いや、同じ時にもよおしてしまうのだろう。よりにもよって、最悪の場所で。
 これならスーパーの方が余程良かったと嘆きそうになるのを抑えて、は男を促した。スーパー近くの公園には、小さな共同トイレしかない。イギリスに、日本のようにそこかしこにトイレがあるわけでもない。
「先に入って」
「はぁ?あんたが先に来てただろ?それにレディファーストが俺のモットーなんだ。数分程度でチビるものでもないしな」
「いいのよそんなナンパ思考は……早く入って」
 男はの前に突っ立ったまま、きょとんと佇んでいる。大きな体の威圧感はあるが、にはそれどころではなかった。じれったくなり、「わからない人ね!」とトイレのドアを開けて促す。
「あの…に、臭いが残るのが嫌なのよ!」
 顔が赤くなるのを感じた。最後の方は、早口だが声がどんどん萎んでいく。音が聞こえるのも嫌だと、は思った。少なくとも顔見知りなのだ。そんな人間が数秒も経たずに後に入るのは、どうにも恥ずかしかった。
「そんな歳でもねーだろ」
「失礼ね、まだ20代前半よ!」
 見りゃ分かるよ、と男は呆れたように言うと、仕方ねーなぁと溜息を吐きながらドアの中へ渋々と入っていった。
 あまりにも必死な様子に、「もしかして大きい方だったのかな」と思われている可能性があると思い至ったのは、がトイレから出た後だった。
 てっきりもういないと思っていた男は、何故かトイレから少し離れた場所でぼんやりと立っている。が明日、母の友人に迎えに来てもらうように、男もまた待ち合わせでもしているのかもしれない。
 先程の行為を謝って、お礼でも言っておくべきだろうか。そう思いながら迷いつつレンガを踏みしめると、男は足音に気づいてを振り返った。
「さ、次はどこへ行く?」
 きょとんとするのはの番だった。まるで代わる代わる化かし合いをしているようだ。
「またばったり会って、ストーカー扱いされるのはごめんだからな」
 男はそう言って、おどけたようにエスコートの姿勢を取る。
「時間があるなら一緒に観光しようぜ、お嬢さん」
 男の放つウィンクに、は途端に馬鹿らしくなった。
 行きずりの宿世というものもある。意図せずともこれだけ顔を合わせる縁というものが、この男にはあるのだろう。フランス男というのが最もにとっては許せないことであるが、の容貌と同じように、これも因縁のようなものなのかもしれない。
「……そうね」
 吐きかけたため息を、はどうにかして飲み込んだ。どうせ同じ場所を見て回るなら、避けて行くよりずっといいだろう。
「そうするわ…」
 男はじわじわと笑みを顔に広げていたが、が返事をした途端、ぱっと日が差したように破顔した。気が抜けるような笑顔だった。
 だからこそ、その晴れやかな表情を追って、はぎこちなく笑いかけることができたのだ。


 イギリスといったらフィッシュ・アンド・チップスだ。
 男はそう言いながら、停留所の近くで買ってきた箱を二つ抱えて、きっかり時間通りに来たバスへを引き込んだ。踊るように乗り上げたステップから差し出された手を見つめてから、は子供ではないと断った。
 それはジャン=ピエール・ポルナレフがナンパなフランス男だからではなく、誰に対してでも極力手を借りまいとするの一種の病気のせいだったのだが、男はフラれたような残念そうな顔で後部座席へ導いた。
「はい、君の分」
 男はにっこりと笑って、作りたてが入った温かい紙製の箱を手渡す。は頼んだつもりはなかったのだが、それは当たり前のようにの手の上に乗っている。
「ありがとう……でも悪いわ」
「何だよ、つまみくらいで。これがボトルのワインだってんなら、気にしてくれてもいいけどさッ」
 そう言いながらヒョイッとポテトをつまみ上げて、口に放り込んだ。

 気にするに決まっている。は隣の男の気配を感じながら、手の中のお手軽な郷土料理をすっかり持て余していた。
 行きずりの観光客。それがとこの男の関係であった。でも、忘れてはならないのはどちらも一人旅だということだった。夫婦や子連れの旅行者が出会って意気投合し、連れ立って歩いているわけではない。
 も男も盛りの20代で、それも男女だ。男が信用できるかどうか以前に、は男について名前と国以外何も知らないし、行動するきっかけも殆どナンパと言っても良かった。何よりここは日本ではない。
 いつ、間違いがあってもおかしくないとは思った。軽率なことをしたが、思えば断っておくべきだったのかもしれない。ナンパを受け入れるということは、そういう行為すら半ば承諾したに近いということで、考えなくとも分かる。誰に答えを求めなくとも、危険を否定出来ないのは明らかなことだった。
 ちょっとでも変な素振りをしたら、あそこに蹴り込んでやるわ…!──
 が拳を握り締めるのと、男が鼻歌交じりに立ち上がるのは同時だった。
「ここで降りよう」
 男はの心境などこればかリも知らない。は男に聞こえないようにため息を漏らしてから、まだ手を温めているフィッシュ・アンド・チップスと一緒に、男を追ってバスを降りた。


 カボットタワーは15世紀にヘンリー7世の命令でブリストルを出港し、北アメリカ大陸を発見したイタリアの航海者、ジョン・カボットに由来する塔だという。今では街を見渡せる展望台として親しまれ、ブリストルの観光名所になっている。
 の行った時期が良かったのか、はたまた塔を囲む敷地が公園となっているからかは分からないが、観光名所という割には人もまばらで穏やかな場所だった。グリーンの柔らかな芝生の感触が、心地よくの足を進ませる。
「バースには行かないのかい?」
 フィッシュ・アンド・チップスをつまみながら、そこへ続く散策道をゆったりと踏みしめていると、少し先を歩いていた男がを振り返った。
 バースとはイングランドでも指折りの観光地だ。ロンドンとブリストルの間に位置するので、大体の観光客はブリストルよりもバースを優先する。それを通り過ぎてここまで来たを、男は不思議に思ったのだろう。
 陽気な母の友人の顔が脳裏に浮かんで、は静かに首を振った。
「明日の朝、滞在先の知人が迎えに来るの。バースは有名だから、多分真っ先に案内されるわ」
 地元の話題が出ると途端に活気づく世話好きな性格で、日本にいた時も一度自分がいた場所のこととなると、嬉しそうに自慢話をしては、止まらなくなってしまう女性だった。も小さい頃、足がパンパンになるまであちらこちら連れ回された記憶がある。
 夫に連れられてイギリスに住むようになってからは、電話越しやメールでしかその様子を知れないが、久々の再会、しかも初旅行とあっては、を引きずり回さないはずがなかった。
「へー、地元の人間がいるっていうのはいいな。俺なんてパンフレット見て、後で後悔することが多いからよォ」
 男はとっくに食べ終え、丸めた容器をの渡したゴミ用のビニール袋へ入れて、ぶらりと手に引っ掛けている。
「あなたは行かないの?」
「俺は今夜発つんだ。バーミンガムから飛行機でスコットランドへ行こうと思ってさ」
「観光で?」
 男が答えるまでには少し間があった。
「んー……まぁちょっと違うけど、そんなもんかもな。っつっても俺は君とは反対で、人を迎えに行くんだけど」
 垣根に囲まれたベンチに座る老夫婦を横目に通り過ぎ、塔の入り口に立つと、洋々とした空が惜しげもなくへ日を降り注いだ。この陽気の中丘を登ったせいか、男が少しだけ手の甲で汗を拭う仕草をした。
 レンガ造りの塔の中は陰っていて、入り口に立つと涼しい空気が肌に触れる。
「君は両手とも右手の男を見かけたことがあるかい」
 男にしては唐突で、おかしな質問だった。そんな怪奇な出会いはしたことがない。
「……無いわ」
 何かの怪談話でも始まるのだろうかと男を見上げたが、塔の壁に添えていた手を撫でるように離すと、「そりゃそうだよなぁ」と呟いて、を塔の中へ促した。
 その方がいい──という男の小さな声が聞こえた気がしたが、「さ、登ろうぜ!」と急かす男の呑気な顔を見ると、には風の音だったのかもしれないと思えた。

 ブリストルは一日じゃ回りきれない。日本の観光ガイドには載っていないこの町を、は甘く見ていたと痛感した。
 塔から見える景色で知っている場所を互いに指で示し合っていたら、いくら時間があっても足りないということに気づいたのだ。
「こりゃ大分絞んねーといけないなぁ」
「あなたに合わせるわよ」
 書き込みのあるガイドを眺めて、惜しそうに髪をかく男にが言うと、男は聞き返すように目を見開いた。
「今夜発つなら、悔いの残らないようにしないと」
 つい数分前に「後で後悔することが多い」とぼやいていた男の言葉を思い出して、は冗談交じりに言ったのだが、男はえらく感動したらしい。
「じゃあ君のリストを見せてくれ」
と、の渡した手帳と自分のガイドと格闘しながら、これからの予定を組み始めた。ぼんやりと塔から港町の景色を堪能していたに声がかかる頃には、男は遊園地のアトラクションを前にした子供のように、すっかり興奮してしまっていた。
「君に気を遣わせてしまって悪いけど……そうだ、その代わりと言っちゃなんだが荷物を持つぜ?」
 フィッシュ・アンド・チップスの箱を持つの腕に、明日落ち合う母の友人への土産袋がぶら下がっている。大して重くはないのだが、歩きまわるには少し邪魔だった。
 目の前の男には全く悪意は感じられない。けれどは、この異国の地で初対面のナンパな異人に、そこまで気を許すつもりはなかった。
「さっきも言ったけど……」
 公衆トイレの前で誘いに乗った時、は一度男の申し出を断っていたのだ。
「気にしてくれて有難いけど、自分の荷物は自分で持つわ」
 あくまで人の手はあまり借りたくなかった。自分の身の回りのことは自分で処理する。その線引をしたかったのだ。男をまだ警戒する気持ちもあるが、例え男が数年来の付き合いであったとしても、大して変わらなかったかもしれない。
 それは、の癖だった。

「君は……」
 男はへ伸ばしていた手を、言葉を探すように彷徨わせた。
「いつもそうなのかい?」
 一瞬、男の言葉が何を指しているのか分からなかった。だがすぐに、荷物を男に渡さなかったことだと理解すると、得体のしれない靄がの下腹部に溜まっていく。
 言葉に出来ないそれのせいか、男の言葉のせいなのかは知れないが、は苛立ちがこみ上げてくるのを感じた。
「どういうことよ」
 自分の事を自分で処理して何が悪い。女はいつでも、男の自己満足のようなフェミニズムに甘えていなければならないとでもいうのだろうか。それは優しさではない。己の株を上げるための偽善だ。はナンパ男のそういったお為ごかしの性質があるから、嫌いなのだと思った。
 ふつふつと湧き上がる感情の数々をが押し留めていると、男は、
「怒らないでくれ、そういうつもりじゃあねーんだ…!」
と焦ったように胸の前で手のひらを広げた。
 男は機嫌を取るというわけではなく、不穏な空気を纏うを前にして困惑しきっている。上辺の言葉ではなく、が思うより伝えたい事が、男にはあったのかもしれない。
 必死な様子に、少しだけ男の言い分を聞いてみてもいいかも知れないという気になった。怒るなり別れるなりするのは、それからでも遅くはない。
 口を閉じて真っ直ぐ男を見たにほっとして、男はやはり迷いながら続けた。
「お節介かもしれないけど、なんつーか君は……気負いすぎてるように見えるぜ」
 男の手に持つビニール袋が、時折カサカサと音を立てた。風は吹いていない。何故かは、男が緊張しているのかもしれないと思った。
「俺は君を日本人って事しか知らないけど、何か原因があって自分自身を凝り固めちまってるっつーか……そこをちょぉーっと気を抜くだけでいいんだ」
 はゆっくりと瞬きをした。頷く代わりだった。男はそれを確認してから、また口を開く。
「例えばある目的があるとするだろ?そしたらそれを叶えるまでは、ずっと難しい顔してその事だけ考えてなきゃならないのか?そんなの疲れちまう……目的を捨てるってわけじゃねーんだ。ただふっと肩に乗ってるものを忘れてみて、空の色とか、街の景色とか、赤い屋根が何個あるかだとか、見知らぬ恋人のくだらない会話だとか、そういうのを知ることだって大切なんだよ。だってそういうどうでもいいものの中に、俺や君が存在してるんだろ?」
 男は一つ一つ言葉を噛み締めて、ゆっくりと話している。が傷つかないように、気を遣っているのかもしれなかった。

 父親がいない人生は、にとって不幸だったのかどうか分からない。生まれた時既に父親の影のない家庭で育ったのだから、父親という存在に情を感じる機会はなかった。それよりも、物心ついてから片親を失う人間のほうが、余程不憫に感じられた。同じ片親でも、それはとは全く違った。何故ならは、初めから誰も失っていなかったのだ。
 だからもしが自分の生い立ちを嘆くのなら、それは周囲が己の身を基準として植えつけた価値観にすぎない。それでも次第にそれはの胸に刻まれていって、母親が身を粉にして働くにつれ、友人が両親の話をするにつれ、父親の喪失感を覚えるようになった。
 何も誰にも頼らずに育ってきたわけではない。厳しくも優しい母親に甘えに甘えて、何不自由なく育った。それでも、親子としてあるべき姿に一人の存在がいないということは、頼れないこともある。二人分を一人で背負う親に、話せないことは沢山ある。
 それでもは背負っているわけではない。背負われているのだ。男が心配するのつっけんどんの原因は、何も気負っているのではなく、に染み付いてしまった性格だった。
「つまり俺が言いたいのは──」
 言葉を詰まらせながらも続けようとする男に、思わずは笑ってしまった。男の話していることは、まるで男自身のことのようだった。
 が男のことを知らなければ、男ものことを何一つとして知らない。なのに、少し煩わしそうにしていた手荷物を男に頼らなかったたったそれだけで、その何も知らないに、必死になって自分を重ねている。
 説教臭い男だと、は思った。軽くて説教臭いが、男にはどこか、と同じ匂いがする。説明することは出来ないけれど、そう感じたのだ。
「ごめんなさい」
 笑いを残しながら、は言った。
「あなたこそ、誰にでもそんな説教をするの?」
 真剣に話していた男にこんな事を言うのは失礼だと思っていても、どうしてもそう言う以外に相応しい返答が思い浮かばなかった。男が真摯だっただけに、下手な事を言えば、微妙な空気を味わうような気がしたのだ。
 そのお陰で、笑いを滲ませているに、身を強張らせて様子を窺っていた男は一気に脱力して、大きく息を吐き出しながら眉を下げた。
「俺は大真面目だったんだけどなぁ」
「ごめんなさい」
 ぼやいているのに居たたまれなさを感じて、笑いながら一言謝った。そうしてから、さっさと次の場所へ行こうとは鞄を抱え直す。
 手元を見ると、男が奢ってくれた箱の中には数本ポテトが残っている。少しだけ考えた。しかしそれも一瞬のことで、まだ何か喋っている男を無視して、は箱に入った残りのポテトを男の口へ突っ込んだ。ほぼ反射的な行為だった。そして空き箱をくしゃりと丸めて、男の持つビニール袋へ入れる。

 突然の沈黙だった。ふと気になって見上げると、男は呆けていた。少し厚いポテトを二本、唇から覗かせながらゴミを捨てるを見て静止している。先程の腹いせと嫌がらせ、それと僅かな照れ隠しのつもりでやったのだが、いつまでも動かない男の顔を窺って、の方が困ってしまった。
 男の頬は、ほんのりと赤らんでいた。ポテトを咥えたままの奇妙な顔のまま、ぼんやりと頬を染めている。
「……ちょっと」
「……あっ」
 が戸惑いながら声をかけると、男ははっとしてポテトを飲み込んだ。どうやっても丸呑みしたようにしか見えない。
 案の定苦しげに喉を押さえた男に、はキャップを開けてミネラルウォーター手渡す。男は余程焦っていたのか、それも味わうことなく殆ど流しこむように煽った。
 まだ一度も飲んでいない筈が、の手に戻った時には半分ほど消えていた。
「落ち着かない人ね」
「ハハ……Merci」
 男は照れたように顔を逸らして、頬に手を当てている。
 ペットボトルのキャップを締めながら、は自分がいつの間にか笑っていたことに気づいた。意識せず、自然に頬が緩んでいる。
 男を見た。ふ、と男もを見ていた。視線が合うとやがてにっこりと笑って、
「さ、行こうか!」
と変わらない快活さでを促す。しかしその頬にはまだほんのりと、先程の余韻が残っている。
 変なところ初心なんだから──
 フランス男のナンパ男の癖に、とは思いながら塔の床を踏みしめる。それはにとって以外だったし、そのせいでどうにも調子が出ない。
 先に降りた男はレンガの外壁の側に立ってを待っていた。が塔から出るのを見計らっていたのか、外へ出るとの前に流れるように手を差し出す。
 そうしてから男はこう言った。
「お荷物を…お預かり致しましょうか、Mademoiselle?」
 ホテルマンを気取って、恭しく腰を下げている。は男の執念に呆れたけれど、今度は拒絶しようとは思わなかった。
「Merci Beaucuop」
 がたどたどしくフランスの音をなぞると、男は嬉しそうに目尻を下げた。その顔は嫌いではないと、は思う。一人でできるかどうかではなく、頼ることも恐らく、気遣いなのだ。
 柔らかな芝生を堪能する頃には、の不安はとうに消えてしまっていた。



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12/11/01 短編