03


 男が荷物を持ってからというもの、の買い物は止まらなくなっていた。小物ばかりを買っていたので大して荷物の量は変わらなかったが、行く先々で必ず何かしら手に握りしめて離さないので、男も流石に呆れて苦笑いをしていた。
 男が組んだ予定も、大して守れていない。二人は気づけば寄り道ばかりしていたために、丸っきりルートを変更して気の向くままに歩く羽目になった。加代がふらふらと歩いても男は少しも文句は言わなかったし、自ら望んで道を逸れることさえあった。それでも大聖堂も博物館も動物園も行けたし、予期せぬ脇道のお陰で一般的な観光ルートを歩くよりもずっと楽しめたのかもしれない。
 不思議だったのは、何が無くともどうしてか笑い合えていたことだ。ただの住宅街を歩いているだけなのに、自然と笑い声が漏れる。
 男はよく自分の家族の話をした。それがあまりにも幸せを絵に描いたような情景ばかりだったので、男の話はに耳に心地よく響いてもっと聞きたいとさえ思えたし、男もも国が全く違うせいか話に尽きることもなく、普段なら話題にも上げないようなくだらないことでも、新鮮なもののように思えた。

 町を横断する広い川を、フェリーで周回出来るらしい。川のある街にならどこにでも見られる観光業だけれど、その土地々々で乗るのは一味違って楽しいものだと、男は言った。
 それに頷いて乗り場に来た時には、達の他にも大勢の人間が集まっていた。中には学生と思える男女もいて、渡し舟ではないのだが、観光客だけではなく、地元の人間も利用することがあるらしい。
「あなた、大学には行ってないの?」
 お金を渡してフェリーへ飛び移りながら、は男へ尋ねた。先に乗っていた数人の観光客が、日に赤い肌を晒しながら、眩しそうに川向うを眺めている。
「あ~……」
 キャッチボールが得意な男にしては珍しく、言葉を濁らせる。は不意にしまった、と思った。男の踏み込んではならない所に入ってしまったのかもしれなかった。
「……中途退学」
 続けて男が乗り込んだ振動に揺られて、は青と黄色のポップなデザインの船に捕まった。そうして急いで男へ口を開く。
「ごめんなさい、何か理由があったのね」
「いーや!」
 男は首を振った。
「ただ旅をしたくなっただけさ」
 本気か冗談か分からないことを言って、ボートの床に腰を下ろしたに向かって笑う。
 そうして隣に座って、後から来る乗客のために距離を詰めると、男はが背中を預けている船のヘリに腕を回した。これだけ狭いと、振り払う気も起きない。
「それで、旅をして何週間?」
 不可抗力だがすぐ側に男の顔があって、には振り向けなかった。気を紛らわせるために、船首からの景色を眺める。
「そうだな…もう2年になるかな……」
「に……」
 ぎょっとして、男との距離も忘れては首を回してしまった。しかし、すぐにからかわれたのだと思った。2年も流浪の旅なんて、今時聞いたことがない。
 誤魔化すように咳をして、はたゆたう運河へ視線を戻した。
「けどそろそろ帰らねぇと、妹に怒られちまうな」
 男の言っていることは本気なのか冗談なのか、先程から全くわからない。ただ、しまった──という思いだけが、の胸に渦巻いていた。男を見ることが出来ない。近いのに、少し振り向くだけでいいのに。
 フェリーが走りはじめた。絵本の中のような、カラフルな家々がの目の前を滑っていく。男は“Whaou”と歓声を上げながら、楽しげにフェリーを堪能している。
 塔の上でに訴えかけた、男の必死な姿がの頭から離れない。フェリーを降りても、ひんやりとした焦燥感がの中にずっと停滞していた。
 何かは分からないが、が聞いたことは、きっと男にとって大事なことだったのかもしれない。が父親に対して抱えているような何か、話したくないことが、きっと男にもあるのかもしれないと思った。
 川のようにのんびりと時間が流れ、あたたかで穏やかな異国の景色にも笑い声を漏らしながら、ドッドッドッといううるさいエンジン音が、の心臓にとてもよく響いた。


 一日中歩き回ってくたくたになった頃、ようやくブリストルの日が暮れた。遠くまで伸びていた空が、すっかり近い闇に変わっている。
 それを熱気の篭るパブの窓から眺めながら、は漏れそうになる欠伸を柔らかく噛み締めた。手に握りしめたジョッキのエールビールから、水滴がつ、と流れ落ちる。
「疲れたかい?」
 ジョッキを半分空けて、青トマトのフライをつまんでいる男には微笑んでから、遅れて「ええ」と返事をした。
「でも、今日は楽しかったわ」
 すんなりとこんな言葉が出ると思わずに、は自分でも驚いた。しかし、取り消すつもりはなかった。
 そんなに、男はしてやったりと言いたげないたずらな表情で笑い声を漏らす。
「そぉーそ、女の子はそういう素直な態度が大事よ」
「チョーシに乗らないで」
 数時間前の無愛想な態度を指しているのだろう。は少しばかり口を尖らせながら、胡桃パンの横のピクルスをつついた。男はそれが可笑しいのか、ケラケラと声を上げて笑っている。
 ビールはまだ一杯しか飲んでいないはずだったが、疲れもあって大分酔いが回っていた。男はもう、二杯目ももうすぐ飲み終えてしまいそうだ。
 店内からワッと弾けるような声が上がった。パブクイズが盛り上がりを見せているらしい。男はジョッキを煽りつつ、その様子を眺めている。
 は改めて男を見た。鼻筋の通った横顔は、楽しげな店内の様子に緩んでいて、時折目尻に寄るシワがとても優しげだと思った。男が瞬きをする度に、オレンジの明かりに照らされる目は真っ青に光っている。青い目だった。うっとりするような青さが、そこには光っている。
 どきりとして、は慌ててビールを煽った。
 これじゃあ、これじゃあまるで──
 見惚れていたようだ。思ったことに思いっきり首を振る。
「あの用紙によォー」
 の視線に気づいた男は、パブクイズのことを知りたいのだろうと思ったのか、目元を緩めて愉快げに話し始めている。
 男がどうしてそんな子供のような屈託のない笑顔を滲ませられるのか、にはわからない。どこか、あどけなさがあると思った。それが途方もなく、を惹きつけるのだ。

 夜風が心地よかった。ぬるい風だったが、アルコールとパブの熱気で温まった体には丁度良く染みこんでいく。陽気な気分に浸っているのか、男の足運びは軽快だった。
 夜景が綺麗だというクリフトン吊り橋が、建物の影からチラチラと見える。の気分も、アルコールにすっかり舞い上げられていた。ステップでも踏みそうな男の顔を見上げると、つい今朝のことを思い出してしまう。
 ねぇ、と言うの声につられて、男は口を緩ませながらを振り向いた。酔った心地よさに眠たげな瞼が、ゆるりと瞬く。
「何で私に話しかけたの」
 何となくだった。ナンパ男にそんなことを聞くのもおかしいと思ったし、うまい言葉で煽てられるのを期待していたわけでもなかった。が男の誘いに乗ったように、男にも何か心境の変化があったのかもしれないと思ったのだ。
 男は「あー……」と、やはり口ごもった。自分の事となると途端に歯切れが悪くなるのは、たった数時間の付き合いでももう分かっていた。
 言い逃れが出来ないよう、が促すような眼差しでじっと見つめていたせいか、初めは目を挙動不審に彷徨わせていた男も、観念したように口を開いた。
「……ずっと故郷に帰ってなかったから、フランスが恋しかった…のか、も…」
 そう言いながら、男の徐々に視線がから逸れていき、それに──と続けた男は、足元のレンガを眺めたまま、頬の辺りを手で落ち着かなく触っている。
 男の頬が、一呼吸の間にほんのりと上気していった。
「笑顔に、ほっとしちまったんだ」
 思わず胸を抑えた。無意識だったが、の手の下では心臓が忙しなく脈を打っている。卑怯だ──と思った。気恥ずかしそうにはにかんだ男に、は不覚にも可愛いと思ってしまった。
 背丈は大木のようで、顔は整っているが厳つくて、引き締まった体には逞しい筋肉がついていて、到底可愛いなどという形容詞には縁のないような男なのに、は照れ臭そうにはにかんだ男に、紛れもなく愛おしさを感じてしまっていた。

 男はがフランス嫌いだということを知らなければ、その理由も知る由もない。驚くことに、自身でさえ、それをついさっきまで忘れていたのだ。
 男の言葉を聞いた途端、今までなら真っ先に浮かんだはずの嫌悪感が少しも無かったどころか、自分は何を知っていたのだろうかと思った。
 イメージばかりにとらわれて、何か見落としてきたことがこれまでも沢山あったんじゃないだろうか。それどころか、向き合わずに無意識に排除さえしようとしていたことが、もっと沢山あるんじゃないだろうか。の異常なフランス嫌いは、自身でも気づかないところで、単なる拒絶のきっかけとして根付いていたのかもしれない。
 思ったところで父親のことは好きになれそうもないし、それに続くフランスのイメージも今もって完全には拭えそうもない。けれど、それでいいと思った。にとって目の前の男は、もう“フランス人”ではなかった。“ジャン=ピエール・ポルナレフ”という、フランス人だった。

 照れたまま笑っている男の手を、はそっと掬い上げた。男はぴたりと動きを止めて、ぼんやりとを見つめている。アルコールのせいなのか、のせいなのか、ほんのりと赤い男の顔を白い街灯がうっすらと照らす。
 お喋りが取り柄の男は、一向に口を開く気配がない。ただ、半開きの口で呆けている。今度はが顔を赤らめる番だった。
「さ、早くしないと電車に遅れるわよ」
 自分でも、どうして男の手を取っていたのかわからない。けれどきっとアルコールのせいだろうと思った。気が緩んでいるから、人の肌に触れたくなったのだ。
 照れを隠すように、は男の手を取ったまま引きずるように歩き出す。引っ張った手は、の冷たい指先とは反対に熱を持って温かい。意外にも手のひらに沢山の豆があることは、こうして男の手に触れてみなければ分からなかっただろう。
 ぎこちなく触れていた手に少しずつ力が入る。
「……、……!」
 後ろで戸惑いながらついてくる男が名前を呼んでいるが、は無視をした。今振り向けば、きっと後悔をする。自分の顔だけは見せたくはない。たとえその赤らみが、アルコールのせいだとしても、今は振り返りたくない。
 柔らかなの手を、男がぎゅっと握りしめた。それだけで言い知れぬ震えが胸へ上ってきたのも、多分、アルコールのせいだと思いたかった。


 今朝に見上げた駅の大時計が、頭上で時を刻んでいる。駅まで何故か無言だった。駅前のバス停を通りすぎてからすぐが手を離すと、男は少しだけ名残惜しげにを見た。
「君はホテルに泊まるんだったっけ」
「ええ、すぐそこよ」
 男は安心したように頷いて駅の入り口で立ち止まると、ぶら下げていたの土産袋を手渡した。受け取る時に、微かに手が触れる。
「ありがとう……今日は楽しかったわ」
「俺もこんなに楽しかったのは久しぶりだぜ」
 ホームまで送るつもりはなかった。一日限りの行きずりだ。連絡先も住所も、聞こうとは思わなかった。名前さえ知っていればそれでいいと思った。
「列車の時間さえ無ければ、君と夜景でも眺めたかったんだけど、残念だ」
 最後の最後に、歯の浮くような口説き文句を社交辞令に使う。これだからフランス男は嫌なのだ、とは思った。軽薄で、口先ばかりで、言葉の機微を分かっていない。
 男に肩を竦めてから、はすんなりと背を向けた。まばらな人をくぐりながらアスファルトを踏みしめる。男は、まだ入り口に立っているようだった。

 小さな声が背中にかかる。
「……幸せにな」
 二十数年生きて、そんな別れ方をする人間は初めてだ。微かに寂しさを滲ませたような声に、フェリーでの男が浮かぶ。それが社交辞令からではなく、恐らく何よりも男の本心なのかもしれないと、感じてしまったのだ。
 本当に、これだから──は繰り返して、頬に手を当てた。どうしたら収まるのか分からない。いつ、このアルコールは抜けてくれるのだろう。
 男に似合わないそんな繊細な別れ方をされて、振り返らずにいられるわけがなかった。
「あなた!」
 言うことだけ言って構内に向かって歩き出した男の背に、は気づけば声をかけていた。大きな声がレンガに囲まれた夜道に響いて、男だけではなく通行人まで振り向く。
 それに構う間もなく、の口から音は飛び出していた。
「サイテーよ!」
 振り向いた男は、驚いて目を見開いた。その顔を見て、はじわじわと頬が緩むのを感じる。
「元気でね」
 加代の視界に映る男とブリストル駅の時計台の上で、英国旗がゆらゆらとはためいていた。それを記憶に残すように目を瞑って前を向く。
 男はやはりまだ、入り口に立っているのかもしれないと、は思った。

 ホテルまでの道のりを、は時間をかけてゆったりと歩いた。出会いの余韻を味わうように、一日の出来事を思い返す。
 フランス行きはどうしようか──
 思いながらも、の胸の中にはもう答えが決まっていることを感じていた。
 父のことは好きにはなれない。でも、父のことを知るのもいいかもしれないと思った。知って、それから墓石に線香を投げたって、いいではないか。その方がずっといい。
 喉の渇きを覚えて、立ち止まって鞄からペットボトルを取り出した。しかし、一度も飲んだ記憶が無いはずなのに、手の中の透明なボトルには半分ほどしか水が入っていない。
「そうだったわ……」
 ポテトで喉を詰まらせた男に、が差し出したのだった。そのまま渡してしまえば良かった、と飲む気にもならずにキャップを締め直す。男のいる前で飲むならまだしも、一人で思い返して飲むのは気恥ずかしすぎる。そう考えた自分自身に、は頭を振った。

 夜風はやはり心地よかった。川と一緒に時を刻み、落ち着いた闇の中に浮かぶ街が、そう感じさせるのかもしれない。
「ジャン=ピエール……」
 歩きながら無意識に呟いていたことに、しまったと頬を赤らめる。
 でも男のウィンクや笑い顔が、とてもキュートに感じたことは否定出来ない。それが見れなくなるのはちょっと寂しかった。そして本当は“Good bye”ではなく、“See you”と言いたかったことも。
「あーもう!」
 は髪をかきむしった。旅行用にと買った歩きやすいスニーカーが地面を蹴る。
 父に似た外見を憎み、母の遺伝の弱さを嘆いていたが、やっぱり血というものは争えないらしい。はフランス生まれの父親の子でもあり、それを愛した母親の子でもあった。
 少しだけ、後ろを振り向いた。いくら目を凝らそうが、男はとっくに2ブロック先の駅の中に消えてしまっている。
“Cheers”
 どこかにいるであろう男の背中に呟いて前を向くと、はホテルまで二度と振り返らなかった。



|終
theme of 100/026/ちょっぴり苦手
12/11/02 短編