ドラマティック・モーション

01


 「イッ……!」
 肩と背中に巻かれた包帯を触ってみると、呻くほどの激痛が走った。スティーリー・ダンという下衆な根性をした野郎から受けた傷が、思ったより深手となっているようだった。
 いつもはジョースターさんの波紋で自然治癒力を高め、ある程度痛みを軽減してもらっているのだが、その要がかなりの攻撃を受けていたために、重症だろうと気を使って今回ばかりは医者にかかることにしたのだ。
 それだというのに、俺より前に治療を受けたジョースターさんは見事に予想を裏切り、シップ一枚を背中に貼られただけで、安っぽい診療所から先に帰されていた。スタープラチナの衝撃を食らったくせに、何故か打撲程度で済んでピンピンしているところを見ると、年齢詐称どころか人間なのかと疑いそうになる。
「痛いんだがのう……?」
と言いながら、医者に「大した怪我ではない」と宣言されたことに腑に落ちない様子で、とぼとぼ診察室から出たジョースターさんは、椅子に座る俺の前を首を傾げながら通り過ぎて行った。その足取りは戦う前と何ら変わりない。寧ろ足だけ見れば、その年とは思えないほどに力強く地面を踏みしめているのだが、ジョースターさん自身はそれに気づいていないらしい。
 元気なのはいいことだった。俺なんか肩に触れただけで、切り傷がじくじくと痛んで仕方がない。

 包帯は、この辺りの郊外で唯一の医者だというダボダボの白いシャツを着た男が巻いてくれたばかりのものだ。しかし医者といっても、傷を洗って何かを塗っただけで特別なことをするというわけでもなく、水さえ買えば自分でも出来る手当で、大いに期待を裏切られたようだった。
 スピードワゴン財団の援助や、またジョースター一族自体が富豪であるため、金が惜しくなったということではない。薬剤を渡されるでもないあまりにも簡単な内容に、金を払うのがちっとばかし悔しい気がしたのだ。
 しかし、単純な手当だというのに丁寧で優しいもてなしをされ、口を開いては閉じとしている内に、俺は文句を言うにも言えなくなってしまった。
「ったく旅行者だって言ってんのによォ」
 薬を渡さない代わりに毎日通うように言われ、首を振れば「傷が膿むぞ」と引き止める親切さは有難いんだが、長く滞在する時間もなければ、また来る予定もない。
 俺は後で自分で替えるしかねぇか、と思いながらそろそろと肩を撫でた。手に触れる包帯は、よって出来た皺で傷が痛まないように綺麗に巻かれ、無茶をしても解けないようにぎっちりと結ばれている。なんともないのなら、後でジョースターさんの波紋にあやかることも出来るだろう。
 肩に当てていた手を外して、俺は外で店を冷やかしながら待っているはずの仲間を探した。

「承太郎達は……っと」
 ずらりと並んだ露天商を掻い潜りながら、道を見晴らせる場所まで出る。イスラム圏らしい装飾の施されたカラフルなバスが、広い通りを左右に揺れながら行き交っている。陽気すぎる景色だったが、インドよりも穏やかな空気が流れていた。
 しかし、フランスの真夏日なんて目じゃない暑さだ。海沿いのカラチはまだいいが、砂漠になんて入ったら全身の水分を搾り取られてしまうだろう。
 うんざりしながら辺りを見回していると、背の高い独特な服を着た集団を見つけた。ジョースター一行だ。観光客と言っても、承太郎も花京院も揃って珍しい服装のために悪目立ちしてしまっている。振り払っても振り払っても、DIOの刺客がことごとく追いついてくるわけが俺には分かってしまったような気がした。

 承太郎達は喉を潤すためか、果物を買っていたようだ。「いなすった」と呟きながら、俺は三人に向かって手を振ろうとしたのだが、腕を上げたまま静止してしまった。
 三人の男の側には、見慣れない女が擦り寄るようにして立っていた。すべての光を吸い込んでしまいそうなほど黒々とした髪をなびかせ、白い肌を日に晒しているところを見ると、この国の女ではないらしい。
 イスラム圏の女は、決してみだりに肌を出したりはしない。目深に布を被って顔にすら影を作るほどだ。その神秘さが俺にはたまらなくイイのだが、それは今問題ではなく、海岸では着衣水泳が基本のこの海の近いカラチで、肌を出して俺達に近寄る女というのは用心しなければならない。これまでを振り返れば、追手は二日と空けずに律儀にやって来るのだから、用心深くもなるだろう。
「だからわしらは同行は遠慮してるんだよ」
 ジョースターさんの申し訳なさそうな声が届き、どうやらしつこく付きまとっているらしい外人女の顔を拝んでやろうと、俺は歩み寄りながら目を凝らす。
 しかし、イイ女だったらラッキーだな、と思っていた気持ちは、 しなを作った女の顔が見えた途端、すぐに吹き飛んでしまった。

「あッ……てめーは!」
 俺が指を向けて叫ぶと、甘ったるい顔で承太郎に擦り寄っていた女が、雑踏を見回してから俺に気づいて愛想笑いを浮かべ、すぐに目を見開いた。俺が誰かと悟ったのか、チークでもしたように桃色だった頬は、すっと陶磁器の白さに変わっていく。
 女は口を開いて何か言おうとしたが、俺が手を下ろして近づこうとすると、跳ね上がって広い道を駆けて行った。荷を運ぶ男にぶつかって文句を言われても、女は一声も上げずに疾走していく。それほどまでに焦っていると見えて、人を掻い潜ることも忘れてしまっているらしい。
 当たり前だ、あれだけのことをしやがったんだからな──
 ふつふつと湧き上がる怒りに拳を握りしめ、「待ちやがれッ!」と叫びながら、女が駆け出すと同時に俺も地面を蹴った。
「お、おい! どうしたんだ」
「ポルナレフッ、どこへ行くんだ!」
 選別中だったのだろう、果実を手に持ったまま振り返ったジョースターさんと花京院にも返事をせず、ドンドンと人にぶつかっては罵倒されている女の後を追う。女が自ら雑踏を慣らして道を作っているせいで、背中に追いつくのは簡単だった。疾走したまま細い路地へ入り込もうと体を傾けたのを、腕を掴んで捕まえる。俺に捕らえられたことで女の軸足が砂利を滑り、大きく砂埃が立った。
「なっ! 何すんだよ!」
「それはこっちのセリフだぜ……!」
 腕を鷲づかみにした途端に、驚いて悲鳴を上げた女に向かって、はっきりと名前を呼んでやった。。記憶違いでないのなら、それがこいつの名前だ。女は嫌そうに顔を顰めたので、間違いはないようだ。
「離せ! 離しやがれこんちくしょうッ!」
 女は狂ったようにもがいた。暴れながら俺の腕に噛み付こうとしたので締め上げると、女は骨が折れたと大袈裟に叫んだ。周囲からの視線が痛い。そうして俺の気を逸らせるのがこの女の目論見なのだろうが、ここで離してしまえば二度と捕まえることはできなくなる。
 手加減していた力を強めると、女は今度こそ本当に痛かったらしく、俺の股間を足蹴にして逃げようとしたので、膝に足を入れて地面に崩した。
女は俺に後手に掴まれたまま、がくりと膝をついた。

 ジョースターさんと承太郎が真っ先に駆け寄って来る。花京院は果物の支払いを任されたようで、紙袋を抱えながら遅れて二人の後ろへ追いついた。
「知り合いか?」
「これが本名ならな」
 俺が吐き捨てるように言うと、女は腕を掴む俺を肩越しに睨みながら、馬鹿にするように鼻で笑った。
「なんだ、あたしの名前が知りたくて追いかけてきたのかい? 見かけによらず熱い男だねぇ」
「ふざけてんじゃねーぞこのアマ……ッ」
 カッとなって脅すつもりで腕を振り上げると、花京院が「ポルナレフ」と俺の名を呼んだ。
「まず話を聞かせてくれ。煮るなり焼くなりするのはその後でもいいだろ?」
 静かな花京院の声に、俺は苦虫を噛み潰したように舌打ちをして腕を下ろす。
 しかし花京院は口ではそう言いながらも、女子供には特に甘く、軽い仕置で簡単に逃がしてやるような奴だということは分かっていたので、俺は泣き落としで逃げられないよう、女を掴んだ手は離さずにいた。女は膝をついて尚、俺を射殺さんばかりの目を向けている。
 一歩、砂利を踏む音が鳴った。旅で磨り減った承太郎の革靴が、女の前に立ちはだかっている。今までむっつりと佇んでいた承太郎が、節くれだって太い人差し指を女に向けて、おもむろに口を開いた。
「煮ても焼いても磨り潰しても構わねーが、俺達が一番知りたいのは、そいつがスタンド使いかってことだぜ」
「ああ、DIOの手下なのか? お前が操られていた時に面識があったとか……」
「いいや、違う……少なくとも、一年前まではな」
 俺は女を睨み返しながらジョースターさんの問いに首を振った。路地裏から花京院が俺達を呼ぶ。女が騒いだせいで、人が集まりだしていた。いつ刺客が現れるかしれないこんな場所で、面倒事は御免だ。
 とりあえず花京院の後について目立たないよう移動してから、事の経緯を説明することにした。


 とは、俺がDIOに肉の芽を埋められる前に出会った女だ。
 その頃、快楽殺人の嗜好を持つJ・ガイルが、犯行の目立たない田舎を狙っていると踏んでいた俺は、ヨーロッパ各地の田舎町を虱潰しに歩いていた。一年は国内を探し回っていたが、両手とも右手という特徴を持ち、それを目撃された以上、やつがフランスに留まることはないと見切りをつけてパスポートを申請した。しかし広いヨーロッパで一人の男を探すのは、雲を掴むような話だった。
 どこを回れど情報は得られない。親類も、失ってしまったたった一人の妹だけで、平和な田舎育ちの伝手なんて持っちゃいない俺は、どこへ行っても爪弾きも同然で、そんな状態で妹の仇を見つけるのは困難を極めた。状況は、ほとんど絶望的なように思えた。
 憔悴する心持ちになりかけていたそんな時、南イタリアの酒場で朝っぱらから酒を飲み、途方に暮れていた俺に、と名乗る女が声をかけてきた。一目見て東洋人だとわかったが、どこの国かまでは浮かばなかった。薄暗い酒場の中でも、やはりの肌は透き通るように白かった。
「兄さん一人かい?」
 そう言って俺の座るカウンターの隣に無理やり腰掛けた女は、色合い鮮やかなリュックを背負って、それとは反対なボロボロのジーンズのポケットに帽子を突っ込み、旅行者のような格好をしていた。
 今と変わらず所作も言動も粗雑で、教養を微塵も感じさせない女だった。無視をしていても構わず話しかけてくるしつこさに、始めは売春狙いなのかと思ったほどだ。
 しかし参っていた俺には、娼婦だろうとなんだろうと声をかけてくれる存在が少しありがたかった。
「あたしも一人なんだ……故郷に帰れなくなっちまってね」
 だから女がぽつりと呟いたその一言に、俺はすっかりほだされてしまったのだろう。

 は自分は日本人なのだと話した。互いに故郷のことを語り合い盛り上がる内に意気投合し、昼を過ぎた頃、にしつこく付きまとっているという男がいることがわかり、いつの間にか同行して、話をつけに行くことになっていた。
 ビザや滞在許可証だけでなくパスポートまで全てを男に取られたせいで、出国すらできないのだという。ダメな男に引っかかったと嘆く姿が、枯野になっていた俺の心に正義という水を与え、お節介焼きの芽をすぐさま開花させた。
 観光するが如く軽装で前を歩く女の背中をついて歩きながら、リュックに縫い付けられた有名ブランドのロゴを眺めて、俺はふと、いつもはどこに住んでいるのだろうかと気になった。想像ができなかったのだ。
 女の格好は、どこかちぐはぐだった。綺麗な新品同様のスニーカーを履きながら、ズボンは裾が擦り切れていて、ブランドのリュックを背負いながら、胸の開いたV字のカットソーは着古したとすぐに分かる。拘らない性格だとしても、妙に気になった。
 しかし化粧を施された顔が振り返りにっこりと笑うと、男ってのは単純なもので、それにつられてにやけている内に忘れてしまうのだが、女が背を向けてしばらくすれば同じ違和感が浮上してくる。
「なぁ、君は……」
「着いたよ」
 尋ねるべく俺が口を開いた時には、女は古ぼけた四階建ての安アパートの前に立って唇を引き締めていた。ゴミクズが散乱する道路に、よく磨かれたミルク色のチンクエチェントと真っ赤なキャデラックが停まっている。ちぐはぐだった。俺の違和感はますます強くなっていくのだが、それが何を示しているかがピンと来ない。
は薄暗いアパートの階段の前へ立つと、屋内の影って冷えた空気に怯えたような目をしていた。
「あんたがいるから大丈夫だよ」
という笑い顔は、とてもじゃないが、平気そうには見えなかった。それで俺は心に響いていた最後の警鐘を、自ら聞かぬふりをすることに決めてしまったのだ。

 男は三階の部屋に住んでいた。アパートの狭い木製の階段を軋ませながら登った先にまた狭い通路があり、それに沿って横並びの部屋の一番奥に行くと、空気を入れ替えるようにドアが開け放たれていた。
 がドアの一歩手前で立ち止まり、俺を振り返る。中ではレコードをかけているのか、古いジャズナンバーが漏れてくる。
「……ここか?」
 俺が静かに言うと、は神妙な面持ちで頷いた。女の肩に手をかけて前に出た後、戸口に立って中を窺う。
 家具ばかりが目立つ狭い部屋だった。至る所に衣服が散乱し、中央に置かれたテーブルには煙草の吸殻が灰皿から溢れ出ている。しかしそれ以外に、目立って汚いと印象付けるものはなかった。そこに男の姿はない。
 俺は後ろから中を覗き込むへ一度目をあわせてから、中へ向かって咳払いをしてみた。返事はない。保存状態が良くないのだろう。レコードが時折音飛びをするのを聞きながら、ドアをノックする。息を潜めても、室内からはレコード以外の音は聞こえてこない。
「ジャコモ!」
が叫ぶと、奥から何かを閉めるような音が届き、足音が近づいてきた。そして窓側の棚の奥から黒い短髪の男が、コーヒーカップ片手に随分とラフな格好で姿を現した。香ばしい豆の香りが漂う。
「誰だい?」
「失礼、俺はジャン=ピエール・ポルナレフという。の付き添いで来た」
 男は部屋に吊り合わないソファーの上を片付けながら、コーヒーを啜って「…」と思案するように呟いていたが、思い当たったのか、「ああ!」と声を上げて俺を見ると、柔らかな物腰でソファーへ手のひらを向けた。
 俺が中へ足を踏み入れると、後ろからもそっとついて来る。視界に入った顔は真っ青で、唇は震えていた。
 男は俺達をソファーへ座らせて、自分は木製の椅子へ腰掛けると、
「それで、何の用件だ?」
と胡散臭い笑顔を向けた。
 何をしらばっくれてやがる──
 の話を聞けば、男は自由を奪って逃げ道をなくしている。付きまとっている、と言っていたが、この怯えようを見れば暴力を受けたこともあるに違いない。
から盗ったもの、返してもらおうか」
 俺は張り付いた男の笑顔を睨みつけながら、率直に用件を突きつけると、男は意外そうに眉を上げて、「盗った?」と聞き返してきた。それからを見て、大笑いをした。
「おいおい、馬鹿言っちゃ困る! 俺は預かっただけだぜ?」
 男は手に持っていたカップを、吸殻だらけのテーブルの上に置くと、
「そうだろ、?」
と言って、薄っすら笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。
 男がこちらへ歩み寄る動作をすると、がビクッと肩を跳ね上がらせて、ガタガタと震えはじめる。一歩近づくと、体を縮めながらソファーの端へずりずりと引き下がっていく。異常な光景だった。
「ヒッ……!」
と小さな口から悲鳴が漏れて、妹の恐怖に歪んだ顔が、女の姿と被った。

 食器の崩れ落ちる音と共に、優雅に流れていたレコードが止まった。蓄音機が男の頭に落ちて、鈍い音を立てる。
! さっさと外に出ろ!」
 気づけば俺は吸殻を撒き散らし、テーブルを踏み越えて男を殴り飛ばしていた。放心していたは、男のうめき声に我に返って、荷物をかき集めてから、床を這うようにして戸口へ逃げていく。
「何しやがんだテメェーーー……」
 男は右頬を抑えて、壁に手をついてようやく立ち上がった。壁と蓄音機に頭を打ち付けたせいで、足取りが覚束ないようだった。
「テメェ……あの女の何なんだ」
「ただの行きずりだ。だが、許せねーから話を付けに来た」
「行きずり、ねぇ……」
 男は俺の言葉に口から唾と一緒に血を吐き捨て、切れた唇を舐めた。
「ハナからテメェとつける話なんざねーんだよ」
「あぁ?」
「あの女が何したか、知ってから来たのか?」
 男は俺を殴り返すでもなく、そう言って嘲笑を浮かべた。
 静かだった窓の外から、エンジン音が鳴る。男は部屋を見回して舌打ちをしてから、散らかった部屋を泳ぐようにして窓へ手をかけた。
「クソッ! あの女、やりやがった……ッ!」
 車の走り去る音に、男は慌てて戸口の側の棚へ走り、中を確認するように引き出して全て床へ投げ捨てると、「チクショウ!」と大声で髪をかき乱して叫んだ。血走った目が、怪訝に眉を寄せていた俺を振り返る。
「テメーはまんまと利用されたんだよッ! パスポートって言ってたな……それはあのアバズレをここから逃さねぇためだ!」
「……待て、が何をしたって……?」
「組織の金を盗んだんだ」
 組織。その単語に目を見開く。そんな話は聞いちゃいない。金の話どころか、ギャングに関わっているなんて、これっぱかしも聞いちゃいない。ただ、ろくでもない男に付きまとわれていると、そう言っていただけだったのだ。
「全部持ってかれちまった」と叫ぶ男の声にハッとして、俺は自分のカバンを探した。置いたはずのソファーの上には、何も残っていない。床にも、崩れたテーブルの下にも。
「おいおい……」
 オイオイオイオイ、マジかよ──全身の血が引けていった。男と同じく窓へ駆け寄って階下を覗きこむ。
 路上にはよく磨かれたミルク色のチンクエチェントが停まっている。無い。来るときに目立っていた、真っ赤なキャデラックは?どこへ消えた。一体あの車の音は?まさか……
「待てよ……?」
 男の呟きが聞こえたと思った途端、背中に硬いものが当てられた。体が固まる。首を軋ませながら背後を窺うと、男の黒髪が目の端に映った。冷や汗が流れるのを感じた。
「もしかしてお前、グルか?」
 もう、拳の通用する次元ではなかった。覚悟を決めて、銀の光沢を解き放つ。
 男を振り返れば戸口にパスポートがひとつ、情け深く放置されているのが視界に入った。


 は、麻薬取引中に捕まったギャングの金を、警察の手に渡る前に掠め取ったのだという。前からスリや詐欺まがいのことをして暮らしていたらしいが、ギャングの金に手を付けたのが、間違いだった。豪勢に遊びに使っちまった後で、あのジャコモという構成員に捕まり、金を返さなければ麻薬漬けにして売り払うと脅されたらしい。
 罪のない女を痛めつけるのは許せねぇと、正義感に燃えてしたことだったが、結局俺は女の自業自得の尻拭いに、代わりに付き合わされただけだった。それも関わり合いになったギャングから逃れるのに、俺を出しに使った挙句金も盗み、身代わりにまでしたのだ。
 お陰で俺は仇を探す間もなく、なけなしの金を手に、命からがら国外へ逃げ延びる羽目になった。
「この際ギャングのことは言わねぇがな、俺が行く場所行く場所浮浪者扱いされるのは、お前のせいだぞ! 分かってんのかッ!?」
「知ったこっちゃあないよ」
 後ろ手に縛られたまま地面に座って胡座をかいた女は、男四人に囲まれても怖気づくことなく、寧ろ喧嘩腰に鼻を鳴らした。
「それに“旅は身軽な方がいい。必要最低限だけ持っていればいい”って言ってたのはあんたじゃないか」
 だから身軽にしてやったんだ、寧ろ感謝して欲しいと胸を張った女に、俺が「こンの……!」と言って胸ぐらを掴もうとすると、花京院が肩を押さえ付けた。それを振り払って言い返す。
「必要最低限ってのはなァ、体一つってことじゃねーんだよ! お前は全部持ってっちまったじゃねーか……俺はな、毎日パンツは履き替えなきゃ気が済まないし、歯も一日三回磨きたいし、トイレは綺麗じゃなきゃ使いたくない、清潔がモットーの男なんだよ。それをお前は……」
「神経質で女々しい男だね」
「何ィーーーッ」
「ポルナレフ!」
 女の肩に手をかけた俺を、花京院がさっきよりも強く引き止める。女は俺の手を汚らわしいと言わんばかりに体をよじって、
「あたしだって、あんたの汚いパンツや使用済みの歯ブラシが欲しくて預かったわけじゃないわ」
と吐き捨てた。
「……ちょっと待て、預かっただと?」
「ええ、預かったの。あんたが遊んで使わないように。でも会う機会が無かったから、あたしの投資と思って受け取ったよ」
 悪びれもなく言ってのけた女の口は止まらず、「あ、そうだ」とまだ続ける気でいるようだ。
「あんたの大事なパンツと歯ブラシ諸々は責任持って捨てたよ。だって知らない男のなんてビョーキ持ってそうで気持ち悪いし、汚いから替えるいい機会だっただろ?」
 病気を持ってそうなのはお前だ──と言いかけた言葉を飲み込んで、俺は頬がヒクつくのを感じながら深呼吸をした。
 黙ったまま腕組をして壁に寄りかかっている承太郎は、老けた顔に皺を寄せて苦り切った顔をしているし、ジョースターさんは帽子のツバの位置を直しながらため息を吐いている。
 さんざ俺をなだめすかしていた花京院といえば、感心しきった顔で「こんな女性もいるんですね」とジョースターさんに耳打ちをしているので、これ以上に呑気なことはない。
 もう終わっちまったことだ。今更言ったって仕方ない。すっかり毒気の抜かれた俺からは、言いたいことも言ったからか落ち着いた声が出る。最後の質問だった。
「俺の財布はどうした」
「さあ?」
 女は肩を上げて小馬鹿にしたように笑った。戻っちゃこない。分かっていたが、一応、確認しなければ気がすまなかったのだ。
 首に手を当てて、息を吐き出しながら屈めていた上体を起こした。承太郎たちへ目配せをする。その目は、俺の意思を尋ねていた。
「……」
 そっぽを向いて、地面にベッタリと座り込んでいる女を見下ろす。
「時間がない……行くとしますか」
 俺の声に、承太郎が壁から体を離す。後ろ手に結んだ縄を解いてしまえば、手首に残った痕を除いて、女は元の自由の身だった。



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13/01/15 短編