02


 そうだ。女は自由の身だ。捕まって牢屋にぶち込まれない限り、今まで通り好き放題男を騙して生きていける。
 しかし、だからって。
「何でついてくんだてめーは!」
 バスから降りるなり不吉な人影を見つけ、見間違いかと何度も見直して、俺はぎょっとした。俺達の乗っていたバスから、がしっかりと降りてきたのだ。移動中見つかって放り出されないようにか、ご丁寧にイスラム流の布まで巻いている。
 俺が叫ぶと女は顔を歪めて、
「見つかっちまったか」
と舌打ちをした。すぐさま布を頭から下ろす潔さは認めるが、簡単に逃したせいで甘く見られ、付きまとわれるのは御免被りたい。
 俺は女の元へ大股で歩み寄って、念を押すように指を突きつけながら、女に合わせて腰をかがめた。
「オメー……俺達にタカろうなんて考えたって無駄だぜ。もうお前の顔は覚えちまったんだ。ハンカチ一枚だって渡さねーぜ」
「誰があんたの鼻水まみれのハンカチなんざいるかい」
「……折角見逃してやったってのに、いい度胸してやがる」
 何を言っても無駄のようだと、俺は苦いため息を吐いて女から体を離した。女は胸の前で腕を組み、片足に重心を乗せながら俺を舐めきった態度で、放り出したもう片方のつま先で地面を軽く叩き続けている。
 後ろから様子を見ていた承太郎が、「やれやれだぜ」と零して俺の名を呼んだ。
「放っておけ。それより急がねぇと、船に間に合わなくなっちまうぜ」
 振り返れば、とっくにジョースターさんと花京院の姿は見当たらなかった。船を確認するために先に埠頭へ向かっていってしまったらしい。
「船?船でどこへ行くんだい?」
「なぁ~に勝手について来る気になってんだ!」
「そうさ、その通りだろ! あたしがどこ行こうと勝手じゃないか」
 俺は、黒衣を掴みながら不貞腐れているを見下ろす。つくづく迷惑な女だった。
「何を企んでるのか知らんが、俺達はお前の望むもんは何も恵まねーからな」
 もう一度繰り返してから、俺は承太郎とバス通りの多い市街地を抜けたが、女の影はそれでも後をつけてきているようだった。

 カラチには長く留まることはしなかった。既に承太郎の母親が助かる期限が、残り20日を切っている以上、休む間も惜しいというのがジョースターさん達の心境のようだ。
 それでバスに乗って市街地を通る間に、移動手段について話し合った結果、より早くより安全な旅程と判断して、アブダビ行きの船へ乗ることになった。
 より早くと言っても、カラチの国際空港を使って行けば二時間程度で着くのだが、香港沖で墜落した機内で灰の塔との死闘があってから、ジョースターさん達は空路での戦いの逃げ場の無さを実感したらしく、出来る限り陸路か海路を取ることに決めているのだという。
 急ぐ旅だが、犠牲者を減らさなければならない。きっかけだった一人を守るのに、いつの間にか前に進むには大勢を守らなければならなくなっているのが、この旅の辛いところだ。DIOの存在そのものが、承太郎の母親や、俺の妹、そしてアヴドゥルのような犠牲者を増やす種を世界中にばらまく元凶となっているのだから、ひとつの物事だけではもう測れない事態になっているのだろう。
 どんなにゆっくりであろうと、目的へ近づけるのであれば時間が許す限り、確実に進める道を選ばなければならない。常に急がば回れというわけだ。
 しかしそこに、道を崩しかねない爆弾の火種がいるのが、俺にはどうも許せないことだった。
「本ッ当にしつこい女だなお前は……!」
「だって、アブダビに行くんだろ? あたしも一度はあそこへ行ってみたかったんだ」
 なんてったってセレブの町だよ。デッキに立って海を眺めながらそう言ってのけた女を、俺は船に乗ったばかりでも構わず、次の寄港を待たずにボートに乗せて、港へ送り返してやりたい気分になった。
 この女ときたらあれだけの素行を見せておいてからに、隠れるでもなく、極々当たり前と言わんばかりに俺達の輪の中に混じって話に入り込んでくるのだ。図々しいを通り越して、どこか神経が切れてしまっているに違いない。
「へー、典明って言うんだ。名前のことはよく分からないけど、あんたが言うと優しそうな響きだね」
「はぁ、どうも」
「ね、あんたの声好きなんだ。ちょっとあたしの名前も呼んでみておくれよ」
「はぁ……」
 ちゃっかりと花京院の隣を保持し続けている女は、どうやらお得意の嗅覚で、花京院がこの中で一番のフェミニストだと感じ取っているらしい。いざとなれば自分の逃げ道を作ってくれるだろう男を確保しているとは、つくづく抜け目のない性格で、どんなに譲っても俺の性には合わない。
「………………さん」
「キャーーーッ!!」
 花京院が押しに負けて仕方なく呟くと、女の黄色い声が響いて耳を突き抜ける。あまりの喧しさに顔を顰めて横目に見ると、女は立ち尽くす花京院の横で、耳を抑えて悶えている。呆気にとられるような光景で、俺の口からは思わず舌打ちが出た。
 不審がないかと船内を見回ってきたジョースターさんが、騒ぐを見つけて苦笑いしながら戻ってきた。手すりに寄りかかって、眉間に皺をぎっちりと刻ませた俺の様子を見るなり、「苛立っとるのォ~」と笑う。
「苛立つなっつー方が無理ってもんですよ」
 の「あたしだってこれなんだ。他の女が放っておかないよ!」という褒め言葉に困りきった花京院がまた、「はぁ……」と曖昧に答えながら助けを求めて俺達に視線をよこすのだが、俺もジョースターさんも示し合ったように一斉に顔を背けた。
ジョースターさんと肩を抱くように二人へ背を向けて、同時に顔を突き合わせる。
「おいおい、冗談じゃねぇ。あいつにゃ反省って心がない……俺はもう関わりあいたくねーぜ」
「ここは花京院に任せよう。彼なら上手く躱してくれるはずだ」
 俺はジョースターさんの肩越しに、少しだけ花京院を振り返る。
 が僅かだが、着実に花京院との距離を詰めている。花京院はそれに合わせてじりじりと手すりを移動しながら、口だけで「ポ・ル・ナ・レ・フ!」と俺へ救援を要請しているが、俺はそれにゆっくりと腕を上げて力強く親指を立てることで、ジョースターさんの生贄作戦に従った。
 また顔を元の位置へ戻す。ジョースターさんがよくやったと言わんばかりに、俺の背中を二回軽く叩いた。少しずつ遠ざかっている二人の様子を振り返って、「ケケケ」と意地の悪い笑い声を漏らしている。
「作戦はうまく行ったようじゃの」
「しかし……ジョースターさん、あいつを連れてったらあっちで何するかわからないぜ~~?」
 俺が渋面を作って言えば、
「大丈夫だろう」
と意外にも、ジョースターさんは笑みを引っ込めてはっきりと言いきった。
「彼女がアブダビで引っ掛けるとしたら金持ちだけだろう。あちらの中心は警備が厳しいし、下手な詐欺をすればすぐに捕まる。それで国に帰されると考えれば、追い返す手間も省けるじゃないか」
「なるほどね……」
 女の抜け目なさも中々のものだが、ジョースターさんのしたたかさにも舌を巻く。
 俺が妙なところで感じ入っていると、ジョースターさんと同じく船内を見回っていたらしい承太郎がのっそりと甲板へ戻ってきた。しかし何やら考え事をしていたらしく、不注意の末に早速に絡まれ、ハッとした後で不愉快そうに振り払っていた。孤立無援だった花京院は、助け舟とばかりに承太郎へそれらしい話題を振って、女からようやく抜けだせたようだ。
 さぞ恨み言を言われるだろうと覚悟をしたのだが、女が後をついて来たので、俺とジョースターさんは、花京院の切れ長の目でじっとりと睨まれるだけに終わった。誤魔化すように揃って苦々しく笑みを返して、ほっと胸をなでおろした。


 二度パキスタンに寄港して、一夜明けた頃にはアラビア半島が横手に見えていた。
 たとえ女の声が不快であろうとも、波に揺られながら進む客船は、香港からの救命ボートクルーズに比べれば遥かに静かで居心地がいい。晴れた空から注がれる光で、ペルシャ湾には想像していたよりも明るく美しい青が揺らめいている。
「うっとーしい、寄ってくんじゃねぇ」
「随分つれないじゃないか」
 女が標的を花京院と承太郎へ定めたおかげで、俺とジョースターさんはぐっすりと体力を回復することが出来たのだが、朝一で聞く声がこれではうんざりもする。二人は延々追い回されたようで、さっさと船室に引きこもったためにろくにクルーズを満喫も出来ず、軟禁状態のようだった。
 男でもタマが縮むともっぱらの評判の、
「やかましいッ!」
という承太郎の怒声でもっても、女は目を丸めただけで、次第に催眠でもかけられたようなうっとりとした顔つきに変わっていく。
「その声……シビれる……」
などと目の前で言われた日には、幾ら脅しにかけては適うものなしの承太郎でも、為す術もないだろう。女の傍若無人と怖いもの知らずには、いい加減あきれ果てた。

 何度か汽笛の音が空高く響く。海岸沿いには、ちらほらと船の姿を確認できるようになってきた。アブダビにももう一時間と経たずに到着するだろう。
 甲板の椅子に、心なしか眠たげな承太郎と花京院の姿を見つけながら、俺には一つの懸念が頭に浮かんできた。
「おい」と女の背中に向かって声を上げる。わざと無視をしていると見えて、承太郎の近くに寄り添ったまま見向きもしない。俺は仕方なく呼びたくもない名前を大声で投げかけた。
!」
 不本意に振り向いた女のその顔は、邪魔するなと言いたげだ。邪魔なのは自分だってことを棚に上げてやがる。
 俺は構わずに女の元へ足を運んで、
「お前のパスポート、まさか偽造じゃねーだろうな?」
と率直に尋ねた。それに、は不機嫌そうに俺を睨みつけた。
「ふざけたこと抜かしてんじゃないよ! 正真正銘、外務省お墨付きのあたしのパスポートさ」
「わからねーなぁ、世の中には偽造出来ないものなんてないからな」
「なにさ!」
 女が声を上げると、くたびれていた花京院が、
「確かに否定するのは難しいですね……」
と口を挟んだ。
「それに偽造じゃなく写真を張り替えただけかも。ぼくも昔香港に行った時に盗まれたことがある。そういうのを売ってる店もありますからね。今はそれの方が主流みたいです」
「ほうら見ろ!」
「調子づいてんじゃないよスカタン!花京院の知識に助けられただけじゃあないか!」
 しかし金を取るでもなく、騙そうという素振りもなく、ただただ輪の中に溶け込もうとしている女に、俺はここで確信を持つことが出来た。
「お前の考えは見えてきたぜ? 俺達の仲間と見せかけて降りるのはやめておけよ」
「あんたに命令される筋合いはないよ」
 女は俺にベッと舌を出して、肩を怒らせながら船内への階段を大股で降りていく。いなくなったことにほっとしたのか、承太郎も花京院も椅子の背もたれに崩れるようにしてどっと体を押し付けていた。
「あのアマ……家出少女よりたちが悪いぞ」
「ここまで開き直っていると、ある意味尊敬できますよ」
「呑気なこと言ってんじゃねーよお前ら…」
 港につくまでの間、どこかで別のカモを探しているのか、それきり女は戻っては来なかった。

 という女は、口汚ければ素行も悪い。女に生まれてきたのが間違いだと言われても納得できる。嘘で固められた女は、どこまでが本心でどこまでが真実なのか分からないからこそ、どれもこれもがうそ臭いのだ。
 大体、初めに俺に言った日本人だというのも怪しいものだ。今となっては油断させるためのような気がしてならない。
 一年前のことも、人のせいにするわけじゃない。俺の不注意が起こした事態だったので、そこまで女を責めようという気持ちもない。だが仇の情報も得られず、途方に暮れて憔悴しきっていた心を利用しようという性根の悪さが、どうにも俺には許せなかったのだ。
 しつこさは同レベルだが、承太郎の言う通り、これなら素直なだけ家出少女の方がずっとマシだった。

 安心していた頃になって、何事もなかったかのように女はひょっこりと俺達の元へ顔を出して、仲間であるかのように振舞った。降りる間際に騒がれると面倒なので、結局俺達はまたまんまと女に利用されたというわけだ。
 挙げ句の果てには、俺達が車を手配することを知った途端、「どうせ中心街まで行くのなら乗せてってくれ」とまで言う始末だ。乗せなければ騒ぐ。まるで手に負えない子供そのものだ。
 仕方なく後部座席へ詰め込むと、女は満足そうににこにこと、
「そうそう、神様もみてくれてるよ」
と調子よく笑った。
 問題は、俺達四人だった。女が後ろに乗った途端、これまでの旅の信頼もどこへやら、不穏な空気に包まれる。俺は思わずジョースターさんと目配せをした。承太郎と花京院が何かを言う前に、急いで、しかし自然な動作で運転席と助手席のドアを開けてさっさと乗り込み、唖然とする承太郎たちへ明るく声をかける。
「さ、行くぜ~」
「時間が惜しいからの~」
とわざとらしい響きで陽気に言えば、「覚えてやがれ」という呟きとともに花京院が放り込まれて女の歓声が上がった。バックミラー越しに承太郎の静かな目が俺を睨んでいるが、ジョースターさんの方へ向けてしまえば問題はなかった。

「ほら、お望みの市街地だ。さっさと降りやがれ」
 数分車を走らせてから乱暴に停めて、女に降りるように促す。舗装はされているが、まだ道端はゴミが目立ち、人通りも多くはない。
 女は左右の窓から辺りを見回して、俺へ不平を吐き出した。
「まだ着いてないじゃないか」
「早めにお前を降ろしておかないと、また何を企んでるかわからんからな」
「あんたって本当にウルサイわねぇ……! 彼女いないでしょ? キレイ好きって言う割にみすぼらしいし、そーゆー説教臭いところがいけないのよ」
「なぁにィーー……! 誰のせいだと……」
 後ろを振り返って座席越しに言い合う俺と女に、三人はうんざりした顔で、開発途中の住居が並ぶ景色を眺めている。
「昨日からあたしに突っかかってばっかりだけど、まだ昔のことを気にしてんのかい? 尻の穴の小さい男だね」
「……なんだと?」
 俺が声を低くすると、女はそれが優位に立ったようで嬉しかったのか、愉快そうに「ああそう」と思い出したように挑発した。
「あんたの財布、気にしてたようだけどね、お金だけ抜いてとっくに捨てたわ」
 ぷつりと黙る。言い返す気も起きなかった。
「……さっさと行っちまえ」
 俺は女の顔を見るのも嫌になった。どんな表情をしていようが、少しだって俺の望む色を浮かべることはないと分かっているからだ。
「行けっつってんだよ!」
 怒鳴りながらハンドルを叩くと、クラクションまで鳴った。中心部と違って閑散とした道路に、その音はどこまでも響く。
「……ムキになってんじゃないよ」
 女はどこか寂しそうにそう言って車から降り、粗雑にドアを閉めると、今度こそ本当に俺達の元から立ち去っていった。

 皮財布でも使い古したものだ。捨てられようがどうってことはない。金がなくてもそこまで吝嗇を起こしたりはしない。だがあの財布には、家族の写真が入っていた。母が死ぬ前、妹と家族全員で撮ることの出来た、たった一枚だけの写真が入っていたのだ。
 車を走らせても、何となく無言が続く。ギアを握ったまま俺が沈黙しているのを、どうしてか三人は何も言わずに受け入れている。
 暫くしてそれを破ったのは花京院だった。女の消えた方向を振り返ってから、俺に話しかける。
「……確かあっちは未開発地区じゃなかったか?」
「知るかよあんな女」
 ここらへんは石油産業で得た金で観光地化が進んでいる。アブダビといったらセレブ御用達で、治安もいいのが売りだ。南イタリアで逞しくカモを探していた女なのだから、ここはもっと安全だろう。
「でも都市を少し外れると、未だに強姦なんてこともあるみたいですし……売春婦と勘違いされることもあるから」
 心配ですね、と花京院が言った時には、俺はいつの間にか車を停めていた。いつ減速していたのかも覚えていない。自分でも驚く。行動の理由を飲み込めずに、静止する。
 女の顔が浮かんだ。微かに別れを惜しむような表情が、すっと頭を流れる。故郷に帰れない、と呟いた声がおぼろげに蘇る。
「だァアーーーー!」
 反射的に無理なUターンをしていた。ギアを切り替え、アクセルを踏んで先程の場所まで飛ばす。シートベルトなんてものは着用しない三人は、窓に頭をぶつけて呻いている。
「ポルナレフ、丁寧に運転しろ! 捕まったらどうするんだ」
 ジョースターさんの叫び声がした時にはブレーキを踏んで、運転席のドアを開けていたのを遅れて理解する。俺は一度迷って、しかしそれから座席を降りた。
 ったくあの女!──
 本当に何なんだ、あの女は。俺が見捨てられないって知っていて、付きまとってやがるのか?それを見抜いてカモに選んだのか?
 どっちにしたって、もし俺達が放り出したせいで間違いがあったんじゃ、後味が悪い。襲われるなり巻き込まれるなりするなら、俺達と関わりのないところにしてくれ。
「ジョースターさん! すぐ戻ってくるからここで待っててくれ」
 言ってから俺は慌てて駆け出した。まさか自分をギャングに売った女を心配して後を追うことになるなんて、どうしようもない馬鹿としか言いようがない。
 承太郎は後部座席に手をついて体勢を直しながら、俺へひらりと手を振って、仮眠をとるためにか帽子を顔に傾けた。




13/01/18 短編