03


 一度路地に入ると入り組んだ道が続き、建設途中で放置された建物の影で、冷たい空気が流れている。楽園のような土地にも、どこかに影はある。全てが光りに照らされた国なんて、それこそ天国にしかないだろう。
 急激な成長によって眩いばかりになればこそ、それにあやかろうと逃げこむ奴らもある。そして元々闇を好んでいた奴らが必死で逃げ場を探そうとすれば、どこかに必ず遮光の場を作り、いつしか真っ当に生きることの出来ない人間の掃き溜めになっていく。この区域には、どこかそんな雰囲気があった。
 は、すぐには見つからなかった。しかし走り回っている内に、どこに向かおうという気だったのか、市街地とは見当違いの場所へ黙々と歩き続けている女の背中を見つけた。どこかで安堵しながら、
「おい!」
と呼ぶが、女は立ち止まるどころかどんどん足を早めていく。
 何意地を張ってやがる──思って、追いかけて肩を掴んだ。
「ヒッ…!」
 小さな悲鳴が上がった。目の前の女からだ。そんな反応が返ってくるとは思わずに、俺は思わず身を引きかけた。人違いかと驚いて、恐る恐る「?」と名を呼ぶ。
 女が振り向いた。それは自身を「」と名乗った女には間違いなかった。だが、俺の目に映った女は、まったくの別人に見えた。
「な、なんだ……あんたか」
 そう言った女は、少し、泣きそうに見えたのだ。その顔は、男四人に縛り上げられても平然と啖呵を切っていた女と同一人物だとは、とても思えない様相で、俺は怯んで肩を掴んでいた手を離してしまった。一年前、ギャングの構成員に迫られた時と、それは似たような顔だった。
「仕返しにでも来たのかい」
「大人気なかったと思ったんだよ……送ってやる」
 息をついたように見えたのも束の間、女は何を勘違いしたのか、俺の言葉を聞いて一歩後ずさった。
「そ、そういうのは困るんだ」
 女は言いながら、動揺したふうに後退していく。俺は女とのすれ違いに嫌な予感を覚えて、引き止める気持ちで「何がだ?」と聞き返した。女はそれに、逃げ腰のまま首を振った。
「あたしはこんなだけど、体を売ったりはしないんだ……!」
 俺は吹き出した。
「ば、馬鹿言うな! 誰がそんな物好きなことするか」
さんざ追い回しておいて、そんなことをよく考える。どうして今更怖がることがあるというのか。自分では擦り寄ってくるくせに、相手に近づかれると警戒心を抱く様子が、どうも俺には納得がいかなかった。
「方向音痴なお前さんを、市街地までエスコートしてやろうって言ってんだ。約束を守らねーと居心地が悪い」
 言うと、女は口をあんぐりと開けて呆然としていた。俺は「行くのか?行かないのか?」と返事を急かしたが、女は開いた口が塞がらないようで、返す言葉を失ってしまっている。
「あ……あんた、あんまり頭良くないだろ」
 唾を飲み込みながら、やっとのことで出したのがこれだ。相変わらず感謝というものを持ちあわせてはいないらしい。
「騙して盗んで逃げたのに……」
 そりゃ確かに苦労をした。クレジットカードなんざ持っちゃいないし、現金だけが頼りだったのだ。フランスに帰れば父親が残してくれた金を引き下ろすことが出来たが、何せ全部盗まれたのだから、旅費すらないのだ。ポケットに突っ込んでいたなけなしの金を手に、大使館へ行って電話を借り、恥を忍んで知人に帰国分の借金をした。
 どこのギャングかも、がどれだけの金を盗んだのかも知らないが、派手にノシて来た上に俺がが手を組んでいた思われていたために、旅費が送金されるまでの数日間は追手を恐れて身を隠す羽目になった。だが、それとこれとは別だ。俺がのために苦労をしたからといって、女も同じ目に遭えとは思わない。

 古びた建物に囲まれた暗い道を、無言でずんずんと歩いて行く。強がっていたは急にしおらしくなって、しきりに「待ってよ」と言っては俺を小走りに追いかけた。
「待ってって言ってるだろ……!」
 不安げな声に、本当に強がっていただけなのかもしれないとさえ思えた。女はどこまでが演技なのか分からない。だから俺は全てが嘘なのだと思い込んでいた。でも、本当にそうなのだろうか。
 俺だって好き好んでこんななりをして、人を殺すために旅をして回っているわけじゃない。本当ならスタンドを戦いに使うことなく、時には友人をからかったり、たった数歩先のものを取るのに不精をするために使う、平穏で何の変哲もない日々を望んでいたのだ。
 ならば女だっておんなじだ。きっと、初めからこんな生き方をしてきたわけじゃない。こうなるきっかけが、どこかにあったのだ。今の俺のように。妹が殺される前の俺なら絶対に見抜いただろう女の泣き落しに、俺がいともたやすく騙されてしまったように。こうなるまでの変化が、どこかにあったんじゃないのか。
「置いてかないでくれよ……頼むから……お願いだよ……」
 歩みを止めない俺へ投げかける声は、演技とはとても思えなかった。何か女の声には、真実があったのだ。たった今怖くて出た響きなんかじゃあない。怯えているように思えた。
 足を進めながら、俺は後ろをついてくる女へ言った。
「お前確か……故郷に帰れないって言ってたよな」
 女は沈黙している。本当なのか、と聞きたかったのだが、続きは声になっては出て来なかった。もし本当であったなら、それを聞けば傷つけてしまうような気がして、俺は言い淀んだ。

 人がいるのに活気のない、鬱塞とした道を静かに踏みしめる。狭い道幅から時折覗く顔は、他国からの労働者なのか、やけに沈みきった顔色をしている。
 日本車らしい一台の車が走ってきて横を通り過ぎると、女はビクつきながら俺の腕を掴んだ。思いがけず立ち止まると、目が合う。女はすぐ、バツが悪そうに俺から手を離した。
「父さんに……」
 ぽつりと呟く声が、しんと静まり返った道に落ちる。
「売られそうになったんだ。借金してて……だから金を盗んで逃げた」
 女は重たい口を無理矢理に動かして、訥々と俺へ語りかけた。

 の母親は、が小さい頃に離婚をして家を出て行ったらしい。父親が働きもせずに賭け事ばかりに熱を上げるような男で、母親は男にすっかり食いつくされていたのだという。それでも母親は、酒をやらないから、うちの人はまだ大丈夫だと言い張っていたが、が生まれる頃には父親は酒を飲み始めるようにもなり、賭けに負け続ければ酒を煽ってウサを晴らし、面白くない気持ちで飲むために次第に酒乱となって、母親にも手を上げるようになっていった。
 は、半ば捨てられたようなものだった。元から子供に愛情があったわけではなく、更生しようもない父親にうんざりして別の男を見つけると、暴力を理由にさっさと離縁し、二度との前に現れることはなかった。
 家にいたくなかったは、中学を卒業してすぐに家を出た。どんな下働きでもいい。父親の元から離れて生きていけるのであれば、なんだって良かった。楽園だった。それでも初めての給料日に、父親が先にの給金を取っていってしまったことを知ると、泣きたい気持ちになった。
 ゴミ捨て場にあった靴を与えられて履き古した靴底は、もうすっかり擦り切れて穴が空きそうだったのに、それを買うお金すらない。そんなを哀れんで、上司がお下がりの靴をくれることもあったが、人にたかってしか生きていけない自分が情けなくて仕方がなかった。自分は、人の人生を食い物にする父親とは違うのだと思いたかった。
 父親は、を手放そうとはしなかった。新しい女を作っても、酒乱と知れれば捨てていくからだ。酒が入ったまま仕事場へ現れ怒鳴り散らすこともあり、折角伝手で務めた仕事も、何度も替えざるを得なくなった。
 こんな女と、付き合いたい人間なんているわけがない。父親のことが知れた途端、惚れた男にはすげなくされ、友人にも曖昧な同情を向けられ、距離を置かれるようになる。上手く行きかけた所で、いつも父親はの人生をぶち壊していった。
 頻繁に金をせびるようになったその頃には、もう借金は返せる額をゆうに超えていたようであるし、もしかしたら父親は麻薬にも手を出していたのかもしれない。
 父親に売られそうになった時、は、日本にいてはもう自分の居場所なんてないと思った。だから国外に逃げることに決めたのだという。
「あんた、妹が死んだって言ってたじゃないか」
 の話を聞いて、俺は「ああ……」と息を吐くように答えた。
「それが何だ、って思ったんだ。世の中には家族の思い出がないやつだっている。家族がいるお陰で、どんなに信頼できる人間を見つけたって、見放されることだってある。それに比べりゃ、あんたはよっぽど幸せそうに見えたんだ。それなのに不幸ぶって……だからそれが妬ましくなって……」
 話したことに情けなくなったのか、後悔したようには舌打ちをして、唇を白くなるほどに噛んだ。

 妬ましい、か──
 俺だって、随分苦労をしてきた。母親のいない家庭は毎日が冬のようにどこか薄暗く、仕事に励む父親の代わりに、俺が幼い妹の面倒をみた。妹へご飯を出してやりながら、たまに俺も他の同い年の子どもと同じように、時間を気にせず遊んでみたいとも思った。日が暮れるまで外で駆けまわって、泥だらけにした服を見て怒られたり、もしくは笑って許されたいと思った。
 でも愛するものを失っても尚、一人で子供二人を育てなければならない父親の負担を思えば、俺にはどうしても我儘は言えなかった。その父に「シェリーを頼むぞ」と頼まれてしまえば、男として断るわけにも行かず、俺は幾らか抑圧した幼年期を過ごした。
 その父が死んで、嘆き悲しむ妹を支える役目も、勿論俺しかいなかった。その後の処理に追われている内に、泣く時間さえ十分には取れなかった。
 父は、まさか自分まで死ぬとは思っていなかったのだろう。親類との付き合いを切っていた両親のお陰で、俺と妹はたった二人きりとなり、父の財産が残っているとはいえ、俺も妹の将来のために学校を辞め、働かざるを得なくなった。俺の青春は、凡そ、俺の望んでいるものとはかけ離れていた。
 そして三年前、その妹すら殺されてしまった。
「そうか……」
 俺は、の話にそれしか返すことが出来なかった。
 辛いことだって、あったのだ。家族が全員揃って食卓を囲み、参観日には父は仕事を休んで母と一緒に来てくれる。口に出すことはなくても俺も、そんな家庭に憧れた。普通に生きたいとだって、思わなかったわけじゃないのだ。
 でも、それを人に話してどうする? 人の悲しみは、他人には計ることは出来ない。どちらが辛いかなんて、計ることは出来やしない。俺には俺の人生で感じた辛さがあって、にはの生きてきた中で感じた苦労があるのだ。それを知っているからこそ、話せば話しただけ虚しくなるだけだった。
 だったら楽しい思い出だけを語って笑って欲しかった。そうやってしか、俺は自分を励ませなかったのだ。
 だがそれは、にとっては苦しめるものでしかなかったらしい。
 は身の上を話してしまった自分に対して、恥じるように眉を寄せると、
「忘れてくれ」
とか細い声で言った。俺は、それに頷きも返事もしなかった。そこはかとなく、の気持ちが分かる気がしたからだった。

 立ち話をしていた時間を取り戻すように、俺達は黙々と歩き続ける。一本の路地を抜けた先に、見知った車が目に入った。俺が運転していた車だ。見間違うはずもない。
 安堵する俺に、女の声がかかった。「言っとくけど」という脈略のない唐突な前置きに、俺が振り返る。てっきり付いてきていると思っていた女は、数メートル後方で立ち止まっていた。
 何やってんだ、と思いながら、眉を寄せて様子を見守る。
「本名だよ」
と女が言った。
「あ?」
は、本名」
「あ、ああ、そう……」
 意図していることが、読めなかった。また、女の気まぐれだろうと俺は思った。
 そういえば意外にも怖がっていたのだ、ということを思い出してを待てば、女はどうしてか泣きそうな顔をして歩み寄り、「謝るよ」と小さく呟いた。
 その謝罪は、何に対してのものだったんだろうか。しかし女のその一言で、責める気持ちの何もかもが冷めてしまった俺は、お人好しもいいところなのかもしれない。だからにもカモにされ、ネーナにも簡単に騙されたのだろう。


 車に戻ると、ジョースターさんが窓を開けて待ちくたびれたと言わんばかりに声を上げた。
「まさか一人でお楽しみかと思ったぞ」
 その冗談に、俺は慌てて首を振った。に勘違いされてはまた面倒事になると思ったのだ。父親のことがあったからなのか、女は男の欲望の対象にされることを、ひどく嫌悪し、怯えていると分かったからだ。
 後ろで俯いてしまっている女に、俺は焦ってしまった。
「違うぞ、、これはおっさん流の下品な冗談で」
「下品とはなんだ」
 心外だと返すジョースターさんを遮って、俺はあたふたと女の前に立つ。
「お前、何焦っとるんだ?」
と言うジョースターさんは困惑気味で、爆睡している承太郎を除けば、花京院も迎えに行った時とは違う俺の様子の違いに気づいたらしい。
「何があったんだ?」
「いや、特に何もあるわけじゃあねーんだけど……」
 言いかけた俺の声を遮ったのは、警戒していると思っていた女だった。いきなり、細い手で手首を掴まれる。驚愕して女を見返すと、顔を俯かせていた筈の女が俺をじっと見つめていた。何もしていないというのに、俺はぎくりとする。
「あんた……すごくいい男だよ……」
「はぁ……ッ?」
 出てきたのは、こんな言葉だ。感じ入ったように吐き出すため息には、色気すらこもっている。
「よく分からないけど、あたしの好みじゃないのに、すごくカッコよく見えてきた」
 そう言う女の頬に、みるみるうちに熱が集まっていく。
「その変な髪も……よく見るととても素敵だわ……」
 舌を引きずってうっとりと呟くと、女の口からは砂糖菓子よりも甘ったるい声が出た。ゾッとして俺が眉を寄せて体を固めると、それにすら目をうるませて「男らしい……」と溜息を付く始末だ。
「ポルナレフ……さん」
 いよいよ俺は痙攣しそうなほどに、顔を引き攣らせる。
「……素敵よ」
 女が赤らんだ顔に手を当てながら、つーっと指先で俺の胸をなぞると、俺は真っ青になって、助けを求めるように勢い良く背後へ視線を送った。
 車内ではジョースターさんと、狸寝入りをしていたらしい承太郎が帽子のツバを傾けて笑いを隠しているけれど、助ける気は毛頭ないらしく、花京院に至っては昨日の恨みを晴らす機会だと、口元に浮かぶ笑みを手で抑えながら傍観を決め込んでいる。
 なんて薄情なやつらだ!──と自分を棚に上げて心の中で罵っていると、
「あたし決めたよ」
と女がやけにはっきりした声で言った。俺の手を両手で包んで、ぐいぐいと引っ張る。
「連れてっておくれよ、ねぇ、あんたに惚れちまったんだ」
 いいだろ? という艶混じりの声に、俺は気を失いそうになった。

「変わりたいんだ、あんたとなら変われる気がする……」
 父親のようにはなりたくないんだ、と言う女のこれは嘘なのか、本当なのか、結局のところ俺にはまったく分からない。これだけころころと態度を変えられては、理解しろという方が無理なのだ。
 女の寂しげな顔を思い出して危うく頷きそうになりかけながら、俺は「市街地までだ!」と叫んでまた花京院の隣に女を詰め込み、運転席へ急いだ。
 この女、本当に見抜いてんじゃねーだろうな、と俺は怪しんだ。そうならスタンドよりも恐ろしい能力だ。
「頭打ちつけんなよ!」
 言って、俺はアクセルを踏み込んだ。
 惚れちまったんだ──
 頭を振って、女の声を振り切る。あの時、何で俺が騙されたか。それだって、今更言ったって、仕方ないことなのだ。

 女はまだ後ろで「連れてってくれよ」とせがんでいる。「誰が連れてくか」と俺は笑った。
 嘘か。本当か。そんなことを考えるのも、面倒になっちまった。だが、粗暴でも儚げに見えた女に惚れちまった、過去の俺は嘘じゃあない。それさえはっきりしてれば、後はどうでもいいことだった。



|終
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13/01/19 短編