瞼の裏のララバイ

01


 サンルームの清潔な広い食堂で午前の疲れをとった後、空になった食器を片付けて職場への長い通路を歩くと、まだ昼休憩中なのか、機材の準備で忙しかった病棟は窓から燦々と日が差すばかりで人の気配はなく、がらんとしていた。
「うーん!」
 人がいないのをいいことに、漏れる声を抑えず思いっきり背伸びをする。よく晴れた外の光が暖色の廊下を反射して、さわやかな空間に知れずに心が浮き立った。
 明後日から私は、スピードワゴン財団が新しく設立した病院にカウンセラーとして配属されることになっていた。新しく開業する病院はまだ薬品や患者から漂う生活臭もなく、真新しい匂いばかりが漂っている。履き古したナースシューズがつややかなビニル床に吸い付いて、歩きやすく気持ちがいい。

 ここへ来るまでは決してひとっ所にいられるような状態ではなかった。常に本部と支部の間を行き来し、他のチームに同行して現地における患者の精神的なケアをする役目を担っていたため、腰を落ち着ける暇もなく各地を飛び回っていた。
 本当にいろんな所へ行った。言語には自信のある方ではないが、それでも現地の通訳を介してなんとかやってこられたし、そのお陰で一生分の旅をし、一生分の出会いをしてきたように思える。
 それが二年目でようやく腰を落ち着けられるようになるのだと思うと、ほっとしたような、まだまだ旅をし足りないような、どちらとも言えないもどかしい気持ちになる。
さん」
「は、はい……!」
 これから過ごす場所を確かめるように、手すりを撫でながら一歩一歩廊下をなぞっていると、後ろから財団の看護チームのチーフが両手いっぱいにシーツを抱えて私を呼び止めた。
 すっかり油断していた。どこを見渡しても新しく綺麗な病棟に盛り上がり、鼻歌でも歌いそうな気分でいたために、私は顔をほんのりと赤らめながら後ろを振り返った。
 明後日からといえ、まだベッドすら運ばれていない部屋も沢山あり、今日いっぱいは派遣された財団の人間は全て慌ただしく病院内を駆けずり回ることになるだろう。熟年のチーフは私の顔を見てほっと笑みを漏らしながら、きびきびと歩み寄った。
「丁度良かった。一番端の個室、まだベッドメイクをしていなかったと思うの。休憩が終わったらでいいから、シーツを敷いてきてくれない?」
「いいですよ、もう十分休みましたから」
 きっと、昼も休まずに動き回っていたのだろう。少し汗の滲んだチーフの顔に笑ってから、私は廊下を引き返してシーツを受け取った。パリっとして、ノリの香りがする。
「無理しないで少し休まれて下さい」
「大丈夫よ、私、働いてないと落ち着かなくて!」
 サバサバとした物言いでナースステーションへ引き返していく背中を見ながら、私は軽いシーツを抱え直した。

 以前に同じようなことを言っていた人を、私は一人知っていた。その人は財団の人間ではなく、働いていないどころか、成人すらしていなかった。私が慌ただしく世界中を駆け回っていた、その時に出会った青年だ。
 もう、一年が経つのだろうか。昼下がりの穏やかな空気に満ちた廊下を歩いていると、どこへ行っても必ず一人の青年を思い出してしまう。アスワンの白く染みの目立つ壁に囲まれた部屋のベッドに静かに腰掛けながら、包帯を巻いて見えるはずのない目で、いつも窓の外を眺めていた青年を。
「ここかな」
 チーフに言われた部屋の軽い引き戸を開けた途端、眩しい光が反射して目を細めた。それにもすぐに慣れ、窓際に置かれた裸のベッドへ近寄った。彼がいた部屋も個室だったけれど、ここまで綺麗ではなく状態もあまりよくなかったように思える。
 それでも私は穏やかな病棟の廊下やがらんとした個室を見ると、いつも彼のことを思い出してしまう。彼と目を合わせたこともない。まともに顔を見たこともなく、彼も私の顔を知りもしないというのに、それなのにどうしてか、とても強く心に残る青年だった。


 スピードワゴン財団に超常現象に特化した部門があることは、財団の人間であれば誰でも知っている。世間ではあまり有名ではないらしいが、解決できない奇怪な現象に遭遇した時の最後の砦として、知る人ぞ知る裏の研究機関とされていた。
 広い分野に手を伸ばす財団といえど、医療や自然保護、考古学といった社会的利益を目的とした研究を基本としていたために、その財団の中に超常現象というオカルトチックな機関があることは、たとえ知っていたとしても創設者、スピードワゴン氏の道楽だったのだろうと思われても仕方なかった。
 しかし、内部の人間は必ずしもそうではなかった。特に医療に関わる多くの財団の人間は、冗談と笑い飛ばしていたとしても、いつか関わる日がやってきたために他の分野の団員よりも多くが、超常現象に対しての一定以上の理解を示していた。示さざるを得なかった、というべきかもしれない。
 例に漏れず私も、その多くの中の一人だった。

 ジョースター一族の名前を聞いたのは、私がアメリカのケア施設から東京支部の国際医療チームに派遣されて間もなくのことだった。創設者のスピードワゴン氏と深い繋がりのある命の恩人で、死後も延々支援し続けるというのが、財団の隠れた仕事だというのだ。“方針”ではなかった。それは財団の絶対的な掟のようであった。
「財団が超常現象を研究しているのは知っているな」
「はい……でもそれは」
 創設者の趣味などではない、と上司は言った。とても新人を驚かすためのドッキリを仕掛けているような顔ではなかった。
「あるんだよ、本当に……超能力ってものが。ジョースター一族が、それを見つけたんだ」
 ぽかんとして、私はすっかりその深刻な雰囲気に飲み込まれていた。信じる気持ちは全くなかった。でもずっしりと重たい空気に圧倒されてしまっていて、「嘘だ」と口にだすことも、「まさか」と笑い飛ばすことも出来なかった。
 チームの他のメンバーの顔も、皆本気だった。神妙に頷くものさえいた。
「行ってみれば分かる」
 そう言われて飛ばされたのが、話にあったジョースター一族が旅をしているという、エジプトのアスワンだったのだ。まったくもって、青天の霹靂だった。

 私達はジョースター氏と行動を共にしていた青年を、数日間保護することを目的として派遣されていた。ジョースター一行の、とても信じ難い旅の話は機内で十分すぎるほどに説明されていたが、上手く飲み込めていなかったというのが事実だ。事情も知らなかった私が、そんな危険な旅のサポートのために了承も取らずいきなり派遣された災難を思えば、二の句も告げなかったと言った方が正しいのかもしれない。他の派遣員は全員志願していたものだったので、私の存在はやはり浮いていたようだった。
 超常現象部門の話と、ジョースター一族の話。結局私がそれを信じたか信じなかったか。そんなことを考える間もなく、事は起きたように思う。
 その一行の中の一人が負傷しているというので、状態を見ようとアスワンの病室に足を踏み入れた途端のことだった。
「誰だ!!」
 突然、壁に何かが衝突し、砕ける音がした。同僚のすぐ横で陶器の花瓶が粉々に砕け散り、床に散乱していた。
「名前を名乗れ!」
 低いがまだ若く張りのある青年の声がして、一同揃って声のした窓の方向へ顔を向けた。一歩も動くことが出来なかった。
 兵隊がこちらに銃でも構えているかのように凍りついて、全員が息を呑んだ。しかしそこには、包帯を目に巻いた細身の青年がベッドから起き上がった姿勢で、目は見えないだろうけれど私達の方へ顔を向けて座っているだけだった。顔の筋肉は強張り、険しい顔付きをしていた。
 私達が微動だにも出来なかったのは、その青年の正面にずらりと、コップやペン、本だけでなく、重い木製の椅子までもが宙に浮いていたからだ。少しでも動いたならば、床の花瓶の残骸のように、今にでも私達へ投げつけられることは予想できた。
「名前を言えッ!」
 青年が大きな口を開いてもう一度叫ぶ。チームのリーダーが、口の震えを抑えながら声を出した。
「……す、スピードワゴン財団の者です。東京から、あなたの治療にと」
「財団の……?」
 青年がそう呟く。暫く無言になった。固唾を飲んで見守っていると、宙に浮いていたものがまるで見えない人間が運んでいるかのようにふわりと泳いだ。目が見えないからか、青年は持ち上げたものがどこにあるのか分からないらしい。空中で手を彷徨わせてから、たどたどしい動きでペンと本を受け取った。
 信じられない光景だった。しかし目の前で起こったことは現実で、信じるより他になかった。行ってみれば分かるという上司の言葉が、頭をよぎった。
「こら、花京院! 無茶をするでない!」
 息をつく間もなく、私達の後ろから太く力強い声が上がりぎょっとして振り返る。大柄な老年の男性が私のすぐ背後に立って、青年を睨みつけていた。
 リーダーはその人を見ると帽子を脱いで頭を下げた。
「これは……ジョースター氏」
「財団の方々ですな。失礼致した。彼は今目が見えないので、少し過敏になっていてな…申し訳ない」
 その男性も帽子を取ると、短い白髪の下から端正な顔が覗いた。若い頃はさぞ美男子だったのだろうと感じさせる、甘い顔立ちだった。
「すみません……ジョースターさん」
 青年が小さく呟いた。私達に向かって叫んだ先ほどの声とは似ても似つかないほど、柔和で幼い感じのする声色だった。
 それに、リーダーとハンドシェイクをしていたジョースター氏が振り向いて、呆れたように笑う。
「いや、いくら治療のためとはいえ、昨夜から一人にしてすまなかった。承太郎かポルナレフを一緒にいさせるべきだったな……」
 ジョースター氏は滞在する時間もないというので、すぐにでもアスワンを発つと青年に告げていた。青年は当然だというように頷いて、船のあるナイル川のほとりまで見送りに病室を出た。
 彼は目が見えないのだ。それなのにジョースター氏が構わないというのにも食い下がって、見送るといってきかなかった。その時の私には、彼のその必死さがとても不思議に思えて仕方なかったのを覚えている。

 青年の名前は、花京院典明と言った。体は大きいが、ジョースター氏と話す声を聞いて若いとは思っていたけれど、驚くことにまだ17歳で、高校生だった。
 病室に入った時は白いYシャツに制服のズボンを履いていたので、てっきりスーツなのかと思っていたが、ジョースター一行を見送りに部屋を出る時に彼は丈の長い学生服を身にまとったために、そこで初めて彼が本当に若年であったことを知った。
 それは数日前にアメリカ本部の団員までが犠牲になり、ジョースター氏には死と隣り合わせの旅なのだと聞いていた私にとって、目の当たりにした超能力以上に理解し難く、信じられないことだった。

 ホテルから来るのだという他の仲間を待つ間、私は財団の車に寄りかかるジョースター氏にそれとなく尋ねることにした。私がまたこの一行の元へ派遣されるとは、思えなかったからだ。その時の私は今よりもずっと未熟で、正義感にあふれていた。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
 ジョースター氏は人好きのする目を開いて、「何かね?」と私に明るく眉を上げた。
「花京院君ですが……」
 一瞬、聞いていいものか迷った。17歳の青年が死の旅に参加するからには、私にはとても想像できないような何か壮絶な事情があるのかもしれないと思ったからだ。
 しかし、私の仕事はカウンセリングだった。傷ついた目の傷を治すのが他の団員の仕事なら、心の重荷を取り除くのが私の派遣された理由だった。
 不思議そうに私を見るジョースターさんを見上げて、私はそのまま続けた。
「彼は何故この旅に?」
 すぐに返答はなく、顎をさすって言葉を探しているところを見ると、目の前の紳士が相当悩んでいることが分かる。
 そうだな、とジョースター氏は言った。
「DIOに屈したくないと言っていた。だが本心は分からん……ただ」
「ただ?」
「彼はあまり自分のことを話そうとしない」
 答えにはなっていなかった。どうやらジョースター氏さえ、あの青年の心の内をしっかりと把握しているわけでは無いようだった。その声色はどこか「仕方ない」と言いたげで、私は胸に僅かな憤りが宿るのを感じた。
 生死に関わる旅で、「仕方ない」などという見解があっていいはずがない。ましてや花京院典明という青年は、ジョースター氏とはまるで縁のない人間だというではないか。
「ですが、彼はまだ17歳ですよ?」
 病院の入口に立っている花京院君へ聞こえないよう、声を潜めて私は言った。
 私の言葉にジョースター氏は流石に困ったようで、先程よりも長く考える素振りを見せる。微かな唸り声の後、ジョースター氏はシワの刻まれた頬を動かして、絞りだすように声を発した。
「花京院は確かに若い……だが、誰でも一生に一度はどうにもならない壁にぶつかって、前にも後ろにも進めなくなる時がある。男は自分が思うよりずっと、生きることに対して弱い生き物だ。限界を悟れば簡単に死んでしまえるような生き物だ。彼は、そんな弱さと戦っているように思える」
 死を乗り越えるために自ら死に向かう? ジョースター氏の言葉は不可解でならなかった。それは私が青年の背景を知らないからかもしれないが、とても納得できるものではなかった。
 当の彼は、何故か気持ちよさそうに空を見上げている。

 ジョースター一行を見送った後暫く、花京院君は静かにナイルのほとりに立っていた。ジョースター一行の船はぐんぐんと遠ざかっていくが、勿論彼にはそれも見えていないはずだ。それでもただ黙って、風の中の一行の匂いを辿るかのようにじっと佇んでいた。何を考えているのかは、包帯で覆い尽くされた顔からは読み取れなかった。

 病室へ戻って包帯を替えてから、次に私の仕事が待っていた。花京院君の精神状態を確かめ、ストレスを軽減させなくてはならない。恐らく今回の派遣で、最も重視されていたことだったのかもしれない。
です。治るまでの間、話し相手になって下さい」
 そう言って私がベッドサイドの椅子に腰掛けると、目の見えない彼は正面を向いていた顔を回して、
「花京院典明です」
と穏やかに名前を告げた。彼は私達が駆けつけた時とは反対に、至極落ち着いていた。
 彼がそういう態度だったからかは分からないが、私は彼の敵意を含んだ攻撃的な能力を目にしたばかりだというのに、物怖じすることはなかった。異質な能力を持った彼を前に怯えられずにいられたのは、元から超能力のことを知っていた周りの団員が当然のように受け止めていたことと、花京院君の置かれた状況に私が動揺し、使命感にとらわれていたからかもしれない。

 私は彼がチームの治療を受ける間に、彼に関する情報を他の団員から聞くことが出来た。どうやら彼は日本に両親を残したまま、黙ってこの旅に参加したらしい。決して私が想像したような、重く残酷な過去を抱えていたわけではなく、平均よりも裕福な家庭で、何一つ不自由なく育ってきたのだという。
「失明ではないけど、目が見えないだけでこんなに苦労するものなんですね」
 中々できる経験じゃないですよ、と笑う彼は随分と大人びたことを言っていたが、私にはどうしてもまだいたいけな子供のように見えた。
 立ち上がった十字軍の中には、まだ15にも満たない青少年もいたと言われるが、でもそれは10世紀も前の話だった。彼は1989年の、戦争のない平和な日本の高校生として、それも恵まれた環境で生きていた筈だ。
 ジョースター一族のような過酷で呪われた運命を背負っていたわけでもない。一行と行動を共にするジャン=ピエール・ポルナレフとも違う。他の一行と並ぶと明らかに、彼には目的も一行に付き添うほどの縁すらも欠落していた。戦う理由は恨みでも、宿命でも、義理でもない。
 だからこそ、どうして戦う必要のない彼がこのアスワンにいて、私達の看護を受けているのか。そう思うと一層、包帯の下にあるだろう傷が痛ましく思えてならなかった。
さん……でしたっけ?」
「はい、何ですか」
 私は少年に感じている不可解を押し込めて、穏やかに返事をした。
「怖くはないんですか」
「怖い……?」
 正直、怖いものは沢山あった。異国の地に来る度に、帰りの飛行機がちゃんと日本に着くかと思ってしまうし、病に冒されるのではないかと不安に思わない日はなく、事件やテロに巻き込まれたら、とあらぬ妄想に怯えることも一度や二度ではない。現に彼らの戦いに巻き込まれるかもしれない恐怖を、私は彼を救うという使命感で鈍らせていた。
 しかし私には彼の問いが、戦いに巻き込まれることか、それとも先ほど攻撃を受けた彼の超能力に対してのものだったのか、分からなかった。
 何がですか、と聞き返そうとした口を閉じて、代わりに私は笑いながら「怖いものなら数えきれないほど沢山あります」と答えた。
「花京院君はどうですか?怖いものはありますか」
「……ぼくも沢山あります」
「たとえば?」
 マッチ。と花京院君は答えた。意外な回答に、私は目を丸くして繰り返した。
「小さい頃、マッチを擦る動作に憧れたんです。テレビで観た、マッチを擦って手で風除けをしながらタバコに火をつける動作が、たまらなく格好良かった。だから真似をしてみようと思って……」
 花京院君はその時のことを思い出したのか、少し言葉を切った後、笑いを含んだ声を出した。
「無事に火は付けられたんです。でも、それが嬉しくて燃えてる先端を覗きこんだら、前髪に火がついちゃったんです」
 大変だ。私が驚いた声を漏らすと、花京院君も大変でしたと頷いた。
「母は大騒ぎするし、父には怒られた上にテレビを禁止されて、暫くゲームも出来なかった」
「ゲームが好きなの?」
「ええ、暇さえあれば毎日画面にかじりついていました。お陰でコントローラーにボタンが沈没してしまって、その度に母に頼み込んでこっそり買ってもらっていたんです」
 アウトドア派の父にはとても言えませんからね。花京院君はひっそりと笑って、彼の父親の話を続けた。

 花京院君は、私が想像していたよりもずっとよく喋った。話題の幅は広く、話をしようとすれば流れが途切れることはなかった。彼と会話をすることに、私の方が心地よさを感じてしまったほどだ。
 彼はあまり自分のことを話そうとしない──
 そう言ったジョースター氏の言葉が嘘のように思えた。花京院君は自分を表現することに不自由を感じてはいない。彼と一時間話してみて、私はそう感じたのだった。
「ご両親には連絡しなくていいの?」
 しかし彼は私がこう尋ねた途端、ネジを回しきったオルゴールのようにゆっくりと口を閉じて、次第に表情を失くしていった。
「……今は、したくないんです」
ジョースター氏の言った意味が、この時になってようやく分かった。花京院君が喉を震わせて出したのは、恐ろしく感情のない声だったのだ。

 花京院君が両親を恨んでいる様子は全くなかった。それどころかとても信頼しきっている様子が、話からは感じ取れていた。それなのに、どうして。
 この年齢の全てといっていいほど、多くの青少年の行動は家庭に原因が存在している。だから、彼もそうなのだろうと思った。けれど話を聞いていると、彼の成長過程に問題があったとは到底思えない。
 私の彼に対する疑問は、再び振り出しに戻っていった。いや、最初から少しも進んではいなかったのだろう。誘導していたようでその実、彼は上手く私の問いから核心に近づくのを避けていたのかもしれない。
「それじゃあ、今日はここまでにします」
 黙りこんでしまった花京院君になるべく明るい声で告げると、何か考えていたのか彼ははっとした様子で顔を上げた。
「また明日も話を?」
 はい、と私は答えた。
「だって、退屈でしょう?」
 刺客を危惧して勝手に歩くことを制限され、視界を遮られているために本を読むことも手紙を書くことも出来ない。あとは余生を送る老人のように、ぼんやりと部屋に紛れ込む音を拾うだけしか楽しみはないのだ。ここまでつまらない入院生活というものはない。
 老後生活を送る高校生の姿を想像して、おかしそうに私が言うと、花京院君もそれを頭に思い浮かべたのか、お願いしますと少しだけ口元を緩めて喉を鳴らした。
「退院するまでは24時間交代でナースステーションにいますので、他にも何かあったらコールを…」
 私は席を立ってから、サイドテーブルに用意されていたペットボトルを花京院君の手元に置いて言った。彼もすんなり頷いて、それから部屋を出ていけるだろうと思っていた。しかし、花京院君は私が全てを言い終える前に言葉を遮った。
「大丈夫です」
 彼は耳で私の位置を探すようにペットボトルを握った手に顔を傾けたまま、やけにはっきりとした口調で、
「もうあなた方に迷惑はかけませんから」
とそう言った。
 怖くはないんですか──
 最初に私にした質問の意味を含ませているのだろう。治療のことではなく、戦いに巻き込むことはしないと言っているのだろう。
 私は彼の口から出たその言葉を聞いた途端、急に切ない気持ちがこみ上げて泣きたくなった。

 彼は、17歳だ。人生の4分の1すら生きていない、ただの高校生だ。私と10年も年齢の違わない、これからまだまだ何年も明るい青春を送れるだろう青年なのだ。
 どうしてそんな彼から、本来なら庇護されるべき彼から、死を覚悟した言葉を聞かなければならないのだろう。一体たった17年の人生で、彼の何が重荷を背負わせようとしているのだろうか。
「あと、後では切り出せそうにないので今の内に頼んでおきたいんですが……」
 言葉に詰まってしまった私を知ってか知らずか、花京院君はペットボトルを両手で落ち着かなく弄りながら、小さく私の名前を呼んだ。さん、というやわらかな声。
「何ですか?」
 私の声は、気を抜けばすぐ掠れてしまいそうだった。だから、気づかなかったのだろう。
「出来ればその、食事は……」
 手伝って欲しい。いつの間にか花京院君の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。照れからか居心地悪そうに包帯の下の視線を四方八方に彷徨わせるので、その度に頭が小刻みに揺れて、彼の頬を髪の毛が数本撫でるように泳いでいる。
「……分かりました」
 私はどうにか声を出すことが出来た。複雑な気持ちだった。
 今日の昼は一人で食べたと聞いていたけれど、やはり難しかったのかもしれない。いや、そうなのだろう。彼のYシャツの胸辺りに薄いシミが残っているのを、私はその時になって気づいたからだ。
「ではまた食事の時間と、この時間に」
「ええ……すみません」
 迷惑はかけないと言った手前か、花京院君は申し訳なさそうに深々と頭を下げた。そのあまりにも出来すぎた彼の態度に、私は叱りつけてやりたくなる。何故もっと頼ろうとしないのかと思うと、悲しさと苛立ちが足元に絡み付いてくる。
 私達のチームが、初めて病室に入った時に見せた花京院君の威嚇は、怯えていたからではなかっただろうか。それをどうして隠そうとするのだろうか。
「花京院君」
 私が呼ぶと、彼は声の方向へ顔を向ける。少し方角は違かったが、私は彼に目を合わせようと努めた。
「トイレも、呼んでくださいね」
 ベッドの脇に備えられた車椅子を軽く叩きながら私が言うと、今度こそ花京院君は顔を真赤にして、
「そ、それは出来れば男の方に……!」
と慌てるので、私はようやく、彼に笑いを零すことが出来た。



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12/11/28 短編