02


「ま、また同じ……!」
 アスワンでの病院食は毎日同じメニューで、食事を運んでくる看護師よりも、それを花京院君へ食べさせる私の方が申し訳なく思ってしまった。
 台の上にトレーを乗せて、目が見えない彼に食事の内容を説明する時の心苦しさと言ったらない。
「今日は……いや今日も……紅茶とパン、あと豆のソースと……」
「大丈夫です、もう覚えてしまいました」
 苦笑しながらトレーの上のパンを探す花京院君の手に、パンを乗せる。
 入院生活七日目だった。とっくに退院させられ自宅療養を強いられているところを、旅行者ということで無理に個室を貸しきっている。
 日本人ならげんなりするだろう環境に、彼はこの一週間一言も文句を言わなかった。それどころかどこか快適そうにさえ見えて、私は彼のタフさにひっそりと驚いていたのだった。


 団員と交代ではあったが、花京院君の世話をすることで分かったのは、彼は自分の世話を焼かれることを恥ずかしがるくせに、どこか当たり前のように受け入れる部分があったということだ。
 始めは何を聞いても「いいです」と拒否を示すのだけれど、こちらが先に行動してしまえば、少し照れくさそうに「ありがとうございます」と為すがままになる傾向があった。
 きっと家庭でも、至れり尽くせりで大事に育てられたのだろう。彼を観察するにつれ、私は彼の背後に見える幸せな家庭が覗くようで、その度に寂しい気持ちを積もらせるようになった。
 どうして彼が──
 そんな思いが消えなくなってしまっていた。私から見た花京院君は幸せに満ちあふれた、他と変わりのない普通の高校生に見えた。しかし唯一普通では無いものがあるとするならば、私が生まれて初めて触れた、“スタンド”という超能力の存在なのだろう。それが、彼の恵まれた環境を崩してしまったとでも言うのだろうか。
 理由が理由なら、私は旅を続けないよう、彼を引き止めるつもりでいた。命を守るのが私の仕事だ。私は十字軍の兵士を送り出すために、医療チームに携わっているわけではない。
「出来れば食事は、さんにお願いしたいんですが」
 一日目にリーダーに向かってそう言った彼に、私は義務感を抱いた。頼る対象として私を選んだ彼は、少なくとも無意識だろうと、私に何かを望んでいたはずだった。私には、そんな気がしてならなかったのだ。
 彼の期待に応えなければならない。たとえ数日間であったとしても、彼を知らなければならないと、私は思っていた。

「あっ」
 チーズを落とした花京院君が、ぺたぺたとベッドの上を手探りで探している。すぐそばにいる私の名前を呼べばいいのに、彼は決して自分から助けを求めようとはしない。気づいた団員が手を貸すとぎこちなくお礼を言って、自分で出来なかったことを恥じるように、いつも頬をほんのりと赤らめるのだった。
「ここにありますよ」
 私は花京院君の手首を取って、腿のあたりに転がっているチーズへ彼の手を導いた。拾って差し出すことも出来たけれど、彼が少しでも自立しようとしているのなら、その意志を尊重したかった。
「こんなところにあったなんて」
と笑いながら、花京院君はやはり照れ隠しのようにばくりとチーズを口へ放った。

 八日目。包帯が取れる日のことだった。私はこれまでの七日間のように、花京院君の食事の介助をしながら、アスワンの街で見てきたことや、団員たちのくだらない話、スピードワゴン財団でしてきた仕事のことや、人で溢れかえる病院内での出来事、どんな人に会ったとか、どんな人を見たとか、とりとめのないことを積極的に話した。
 花京院君もアスワンまでの旅路で見聞きしてきたことを、まるで単なる旅行のように面白おかしく語り、病院だということも忘れて食事時は大いに盛り上がった。
 ジョースター一行のことは、私は話題には出さなかった。無事カイロに着いたことだけは、ジョースター氏からの昨日の連絡で分かっていたが、それを告げたのはリーダーだった。
 見えない壁で覆うように、無表情でぷっつりと黙ってしまった花京院君を見てから、私は彼の核心に触れることを避けるようになってしまっていた。彼を助けたいと思いながらも、彼の覚悟している死という世界が私にはまだ理解できず、無闇に突っ込んで彼との距離が空いてしまうことを恐れていた。そうなればもう、彼を引き止めることは出来ないだろう。
 むざむざ危険に向かわせるわけにはいかない。それがその時の私の正義だった。

 遠くで何を建てているのか、カンカンと金槌を打ち付ける音が聞こえる。病院はいつも賑やかで人でごった返していたが、この病室だけは切り取られたように落ち着いていた。
 穏やかな陽気だった。花京院君の横の窓からは、延々と続くナイル川を一望できた。船が何隻通るか数えるだけでも一日を過ごせてしまいそうなほど、ゆるやかな時間が流れている。
 しかし花京院君は、そうは思っていないようだった。
「傷が治るのに、8日もかかるなんて」
 午後には包帯が取れますよ、と言った私に、花京院君は笑いながら零した。しかしその声には悔しさが紛れていたように思える。
「承太郎なんか、傷口がふさがらないまま旅をしてるんですよ」
 彼はジョースター氏がカイロに着いたと聞いてから、焦りを示すようになっていた。早く追いかけたい。口からは出さずとも、何度も何度も窓の方向へ顔を向ける彼からは、そんな声が聞こえてくるようだった。
 どうして危険に向かいたがるのだろうか──
 死ぬかもしれない。承知しているくせに、何故安全な場所にいてまで彼らのことを考えるのだろうか。花京院君は彼らに命をかけるほどの義理もない。それどころか、失うものしかないのだ。
 これが何かを守るための旅だというのなら、花京院君の守っているものは、ジョースター氏すら知らない。花京院君の心の中にしか、それは存在しなかった。
「花京院君」
 自制できなかった。私は考えなしに、ほとんど感情に突き動かされるように口を開いていた。
「旅……やめちゃいませんか」
 きっと怒るだろう。じっとしている花京院くんを見つめながら、私は頭の隅で、彼が声を荒げる姿を想像していた。包帯を取って問題がなければ、すぐに財団のヘリでカイロに向かうことになる。どちらにしても、私が彼をしるならば、今しか時間はなかった。
 彼との距離は空いてしまうが、彼が怒ることで、彼の本心を垣間見ることが出来る。引き止めることが出来るかもしれない。
 私は花京院君を、私に話して聞かせた幸せな家族の光景に帰したかった。当たり前の光景でも、いくら願っても手に入らない人間だっている。どんな理由があっても、それを持っている花京院君に、捨てては欲しくなかったのだ。

「やっぱり」
 聞こえた声に、私ははっとした。怒りは含まれていない。花京院君はまっすぐ正面を向いていた。
「あなたはぼくを引きとめようとしているんじゃないかって、思っていたんです」
 遠くから、カンカンと木材を叩く音が聞こえる。それに馴染ませるように、花京院君はゆったりと言った。
「あなたの話すことは、故郷を思いださせるようなことばかりだったから……そうでしょう?」
 私は慌ててしまった。彼はまったく感情的にはならなかった。あたかも信念があるかのように、鷹揚に言葉を選んでいた。訥々と話す私とは対照的で、予想外のことに私は焦ったまま口を開く。
「花京院君考えて、あなたは」
「いいえ」
 彼は私の言葉に被せて、首を振った。
「17年間、今までずっと考えてきたんです」
 これまでの人生のすべてを費やしたと言いたげで、私は一気に我に返った。知りたかった、核心に近い言葉だった。
「良かったら、聞いてくれませんか」
 初めて話すんです。彼はそう言って、しっかりと私の方を向いた。包帯の下の目と、視線が確かに合ったような気がした。
 はじめて来た時、私は彼になんと自分を紹介したか。カウンセラー。そうだ、私はカウンセラーだった。まだ駆け出しだったけれど、端くれには違いなかった。
「はい……聞かせて下さい」
 私は、椅子に座り直した。花京院君はその物音が止むのを待った後、一度唾を飲んでから、静かに口を開いた。



 自分にとっての“自分”という存在が出来る時は、いつだろうか。何をもって「これが自分だ」と断言できるようになるのだろうか。
 ぼくにはまるで、それがなかった。自分がどういう存在であるのか、今までまったく分からずにいた。

 小学校に入学したばかりのある時、担任だった女の先生に言われたことがある。
「お父さんやお母さん、お友達やいろんな人の評価が、自分を作るんですよ」
 どうやって先生にばれないように睡眠を貪れるか。そんなことを考えている子供ばかりがいた教室で、黒板に向かっていた先生が振り向いてそう言った。
「誰かがあなた達を優しいと言えば、あなた達は優しい人間になる。誰かがあなた達を素直だと言えば、あなた達は素直な人間になる。自分で自分を優しくて素直な人間だ、と思えるようになる」
 その後は「だからあなた達は寝てばかりいないで、先生に真面目だと言われるようになりなさい」と、先生の説教が続いたが、その時は深く理解していなかったものの、ぼくの頭にはその言葉がやけにこびりついた。

 その先生の些細な言葉を覚えていたのは、ぼくがある現象を抱えていたからかもしれない。物心ついた時から、気づけば隣には緑色の影があった。人のようでいて人ではない、テレビの戦隊もののようなマスクを被った小さな人影だった。
「なにかいる」
 両親に向かって何度か指で示したことがあったが、幼児特有の幻覚症状だと言われている内に、自分の行為が両親を困らせているということに気づいて、ぼくはその緑の物体のことを極力話さないようになった。あまりいいことではないらしいと、ぼくなりに空気を読み取ったからだった。
 それでもやはり寂しかったのか、幼稚園に入っていた頃、一番仲の良かった友達にこっそりと緑の人影のことを話したことがある。
「そんなもんいるかよ!」
と無下もなく否定されたのが悔しくて、ぼくは懸命にいると言い張って、取っ組み合いの喧嘩になった。その時だ。今まで黙ってふわふわ浮いてぼくについて来ていただけの緑の子供が、長い手を伸ばして友達をぐるぐる巻きに縛り付け、動けなくした。
 ぼくが殴られそうになった時、友達の手を押さえつけたいと思ったのだが、緑の影はぼくが思った通りのことをしてぼくの身を守ったのだ。
 ぼくと友達は先生に大層怒られたが、ぼくは不可解な高揚感に満たされていた。思い通りに動く。緑のやつは、ぼくの思う通りに動く。
 その発見を伝えたくて、家に帰るなり母に向かって久しぶりに緑の影のことを告げたが、母は困ったようにぼくの頭を撫でて首を振るだけだった。父の反応も母とは大して変わりがなかったが、「男なら現実を見ろ」という一言が添えられた。
 更に悪いことに、次の日から友達は、次第にぼくのことを避けるようになっていった。

 イマジナリーコンパニオン。その言葉を知るようになって、父と母が言う幻覚というのは、それのことなのだと思うようになった。
 しかし緑の影は、決してぼくの友達ではなかったように思える。話しかけても一切返答もなく、マスクのような顔には少しの感情も見られなかった。まるでぼくの意思だけで動く人形のようだった。
 そして小学校に入っても、その緑の影はぼくの側から消えていかなかった。イマジナリーコンパニオンではない、と思い始めるようになったのは、はっきりとそれが現実に干渉していることが分かったからだ。ペンが欲しいと思えば、緑のやつは床においたカバンから机の椅子に座るぼくの元まで、軽くペンを持ってきた。
 母に言うべきだろうと、ずっと思っていた。でも緑の子供のことを話すたびに見せる困惑した表情を思い出すと、どうしても言うのが憚られた。幼稚園での友達のことも、薄っすらと心に残る傷になっていた。

 そうして「他人が自分を作る」という先生の言葉は、ぼくの胸に残り、日に日に思い出す頻度が増えていった。
 父に「いい子だ」といつも言われている。母に「思いやりのある子だ」と言って褒められている。隣の席の女の子には「優しいね」と笑いかけてもらったこともある。先生の言う通り、きっとそれはぼくの一部分なのかもしれない。
 しかし何かが足りなかった。ぼくが最も欲しかった何かが、そこには足りなかった。どんな言葉をもらっても、ぼくらしいぼくはどこにもいなかったのだ。半分が、すべての人の目から隠されているような気がしてならなかった。

 小学校中学年に進級した頃、ぼくはいよいよ日常生活で自分をさらけ出すことの限界を知ってしまった。
 この頃には既に自由自在に動かすことのできるようになっていた緑の影は、ぼくの生活の一部で、ぼくの半身だった。それを隠して生きることは、どうしても我慢ができなかったのだ。
 誰か一人でもいい。認めてくれる存在が欲しかった。信じていなくてもいい。話をさせてくれるだけでもいいのだ。話すだけでずっと楽になるように思えて仕方がなかった。
 今まで溜めてきたそんな気持ちが溢れて、ぼくは始業式が終わって帰った昼に、ランドセルを放り投げるように置くなり、台所に向かってご飯を用意する母に、「緑のやつのことだけど…」と話しかけた。
 そのことを話すのは幼稚園ぶりだったので、母はすっかり忘れてしまっていたようだった。
「何? 緑がどうしたの?」
「だから前に話したでしょ、母さん。緑の子供のことだよ」
 母は味噌汁の味見をしながら考えていたようで、小皿を置いてから思い出したように「ああ!」と声を上げた。
「そういえば、そんなこともあったわね」
 違う。あった、ではない。今もあるのだ。見えているのだ。見えるだけではなく、そいつで物に触れることも出来るのだ。
 ぼくが必死にそんなことを言うと、笑いながら聞いていた母は少しずつ口を閉じていき、最後には不安そうな顔つきになっていった。
 ああしまった──
 そう思った。でも母に認めて欲しい気持ちの方が、強くなっていたのだろう。ぼくは言ったことを証明するように、母の目の前で緑のやつを使って、テーブルの上のカップを持ち上げた。

 母の、真っ青な顔は忘れもしない。陶器で作った置き物のように静止したかと思うと、次の瞬間にはタコのようにその場にぐにゃりと崩れてしまった。
 顔面蒼白だった。母はあまり気の強い方ではない。平凡な家庭で大事に育てられてきた箱入り娘だった。
「冗談だよ、母さん。ちょっと驚かせようと思っただけなんだ」
 そう言う以外に何があったというのだろう。ぼくが冷や汗をかきながらも笑いかけると、ほっとしてぎこちなく微笑んだ母の顔を、どうしてまた歪ませることができるだろうか。
 ぼくは父も母も決して嫌いではない。一人っ子のぼくをいつも、何一つ苦労の無いよう第一に考えて育ててくれた。誕生日も祝えば、クリスマスも祝った。休みの日には旅行にも行き、キャンプや釣りや天体観測もした。誰よりも新しくゲームを買ってくれたが、そのせいでゲームから離れなくなったぼくを、父は何とかして外で遊ばせようともした。
 ぼくは、これ以上ないほど恵まれているのだと思う。緑の影の存在を話さなければいいだけの話だ。ぼくが、普通に振舞っていればいい。
 けれどどうしても、ぼくにはそれが幸せだと感じることが出来なかった。普通が何であるのか、よくわからなくなってきたのだった。

 友人に話してみようか──
 そう思わなかったことはない。しかし幼稚園での出来事が、ぼくの口をがっちりと押さえ付けていた。言ってしまえばきっと、母やあの友人のようになるだろう。それどころか前よりもっと酷く、居場所すらなくなってしまうかもしれない。
「他人が自分を作る」という先生の言葉が、いつまでもぼくについて回った。ぼくが思っている自分、つまり緑の影を知る自分自身のことを他人に話したとして、これ以上否定されてしまったらどうなるのだろうか。緑の影は、本当に消えて行くのだろうか。
 緑の影は、ぼくが認めるぼく自身だ。それを否定されたのだとしたらそれはつまり、ぼくがいなくなるということではないのだろうか。そう思うと、急に胸に穴が空いたような気がした。
 中学に入る頃、ぼくは自分をさらけ出すことに臆病になっていた。何が自分なのか、もうすっかりわからなくなっていて、他人に評価されることが嫌で仕方なかった。
 ぼくがどんな人間であるかは、ぼくが自分で決めたいと思った。

 評価を恐れて表面だけの付き合いをしてきたせいで、次第にひっそりと目立たないように過ごすようになったのは、仕方のないことだと思う。
 世間一般からすればぼくは異質なことに変わりなかったし、誰にも話せず怯えて暮らす内に、次第におかしいのはぼくなのではないかと思うようにもなった。ぼくが見えているものは周りが言う通りの幻覚で、本当は正常な精神を持たず、正確な判断すらできない頭なのではないかと。
 思った途端に背筋に冷たいものが走った。初めて味わう絶望だった。今まで正しいと感じてきたことの全てが突然目の前から消え去って、寒々とした世界に自分一人だけが残されたようだった。
 緑の影で掴んだコップは、本当は掴んでいなかったのでは?母親が驚いたのも、全く動かないコップを持ち上げたといって興奮しているわが子の姿に、異常性と非現実からくる困惑と恐怖を感じただけなのではないか。
 もしそうなのであれば、どんな場所へ行こうと、ぼくの望む日常なんてどこにもありはしなかった。緑の影がぼくの中にしか存在しない幻である限り、ぼくの居場所はどこにもないだろう。
 精神病院には行きたくなかった。家から学校の間にある病院は、鬱蒼と茂る木に囲まれてまるでこの世界から隔離されたようで、外から見る姿はとても不気味だった。

 助けて欲しい。強く願ってしまった。ぼくはぼくが信じられなくなった。いつの間にか誰かに大丈夫だと肯定されることを、強く望むようになっていった。
 ぼくの精神状態が不安定だったことを、両親はとても心配していた。毎日のように気にかけ、高校生活に慣れないせいなのではと、父は溜めていた有給休暇まで使って、エジプト旅行へ連れて行ってくれたのだ。
 そこで出会ったのが、DIOだった。ぼくの砕けてしまいそうだった脆い精神に、やつはつけ込んできたのだった。

 今思えば、それがぼくにとっては良かったのかもしれないと思える。きっかけとして、最高の出会いをやつはくれた。
 それにDIOに出会った時のぼくは、恐怖に支配されながらも、緑の影が見えるという事実に幾らか救われたような心地さえ覚えていた。
 ぼくにとっては、DIOが全ての始まりだった。DIOが、“ぼく”を見つけるきっかけを作り出したのだ。

 このひと月以上は、死と隣合わせでも夢のようだった。一生他人には見えない、認められることのない幻影に怯えて死んだように暮らすかもしれない恐怖を思えば、死ぬ危険があったとしても、旅を続けるほうがずっと希望に満ちていた。たとえ死んだとしても、旅を続けている間は、生きているような気がするのだ。
 異常者と扱われず、「これがぼくだ」と断言できる世界でようやく、自分を探すことが出来る。そこにずっと見つけたかった“ぼく”が、存在しているような気がする。



「それでもぼくは時々恐ろしくなる。もしかしたらこの旅も、ぼくが生み出した幻想なんじゃないかって。今にも現実逃避から目が覚めて、実は盲腸か何かで入院しているだけなんじゃないかって」
 話し続けていた花京院君は、喉を潤すように唾を飲み込んだ。
「だから現実的になりたかった。努めて現実的になろうとしたんです」
 私は、どんな言葉をかければいいかなんて、もう考えてはいなかった。彼を止めようとも、思っていなかった。何故なら私には、彼の苦悩の表面は知れても、本当に理解することが出来なかったからだ。
 しかし彼の話は心から信じていた。何より、ここへ来る前までに超能力の存在を信じようともしなかった私の行動そのものが、彼の話を裏付けている。

 私が黙っていると、花京院君の手が何かを探すように宙を彷徨った。さん。優しい声が私を探した。
「あなたは……現実ですか?」
 不覚にも、私は泣きそうになってしまった。本来なら、一番泣きたかったのは、幼い頃の彼だっただろうに。
「現実です……全部、現実です」
 私は声を詰まらせながらも、窓から差す光を切って、空中を漂っている花京院君の手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
 助かって欲しい。唯一願えるのは、そのひとつだけだった。大きな手をどうにか包んで、強く強く、握り締める。これは現実だ。今までだって、17年間だって、悩んできたことも、苦しかったことも、そして今満ち足りているだろうことも、みんな現実だ。
「……あったかいでしょ?」
 少し鼻声の私がそう言って笑うと、花京院君も軽く息を吐きだして笑い声を漏らした。
「冷え性じゃないですか?」
「えっうそ……!」
 慌ててお湯で温めに行こうとした私の手を、途端に掴まれる。花京院君はベッドからずり落ちそうになりながら、離さまいとぎゅっと握りしめていた。
「行かないで下さい……!」
 顎を上げてあらぬ空中に顔を向けている姿は、見えない目で私を探しているようだった。何も言わず、椅子にまた腰を戻す。
 こうしていればあったかい、と花京院は呟いた。少しずつあったかくなってくると、ほっとしたように呟いた。

 カンカンと、大工仕事を続ける音がする。穏やかなアスワンの午後とは、今日でお別れだ。
「カッコ悪いな……自分のことを話すなんて」
 ぽつりと零す彼は、一体どれだけ押し殺してきたというのか、私にはとても想像ができない。
「旅が終わったら、何をするつもりですか?」
 段々にあたたかくなってくる花京院君の手を握りしめながら、私がそう質問すると、彼は「先のことはまだ分からない」と答えた。
 超能力のまだ何も理解できていない私でも、せめて、彼との縁を大事にしたいと思った。助けになれるのなら、なりたいと思えた。
「あなたの判断力と冷静さは、財団できっと必要とされます」
 私の言葉の意図を、測りかねているのだろう。花京院君は首を回して、続きを待つように私の声の方へ顔を向けた。
です。覚えておいて下さい。将来コネに、役立ちますから」
 そう言うと、花京院君は大きい口を開けて、初めて飾らない顔で弾けるように笑った。



 シーツを敷き終えて、私は丸椅子にそっと腰を下ろした。
 彼は思い出しただろうか。死ぬ前にちゃんと、私の名前を。その日のことを、一瞬でも浮かべただろうか。彼の未来の居場所を、思い出してくれただろうか。
 そうであればいい。決して幻ではない希望に満ちた日が、そこで待っていただろうことが彼の心に宿っていたならば、まだ私のいた意味はあった。

 どうして彼が、旅立つ最期の日に私に生い立ちを話したのか、その心境は測れない。ただ彼のことを思い出す度に、病院の前で、「男は弱い生き物だ」と言った、ジョースター氏の声が頭をめぐる。
 確かに言う通り、男は簡単に死んでしまう生き物なのだろう。目的がなければ生きられない生き物なのだろう。兵隊のように正義に縋って、あっさりと。
 それでも花京院君は死ぬには早すぎた。彼はまだ何も得ていない。彼の見たかったものはまだ、何も見られていないのだ。
 人生に絶望なんて何度だってある。思い通りに行かないことなんていくつもあるし、いくら正しく生きようが、認められずに追いやられることだって沢山ある。
 けれどその人生の苦味を知っているからこそ、ほんの些細な喜びに気づけるんじゃないだろうか。だからこそ花京院君も、誰もが当然だと通り過ぎる出会いに、気づけたんじゃないだろうか。そんな特別が、まだまだこの先には待っているはずだった。
 たった17年の暗闇なんて、いずれちっぽけだったと思えるほどの壁にまたぶつかって、何度も苦悩しながら人生を歩んでいくはずだった。その中には50日間の旅に負けないような出会いと、彼しか気付けない喜びがあったはずなのだ。

 彼がああまでして出会ったばかりの仲間のために命を張ろうとした理由を、私は彼の話を聞いた今でも分からない。それは彼のような人生を歩んだものにしか分からない、苦悩と決心があるのかもしれない。
 どんなに言葉を交わしたとしても、私は所詮、彼にはなれない。全部が、憶測にしか過ぎなかった。
 しかし花京院君のことでひとつだけ分かったことがあるとすれば、それは彼が正直すぎる人間だったということだ。そしてその正直さ故に、水滴が石を穿つように少しずつ、押し込めていた不安で自分の心に穴を空けてしまっていたのだろう。
 いつでも、居場所を捨ててきたのは彼自身だった。本当は、目を瞑りさえすれば手に入った幸せも、現実の違和感を受け入れたくなかったばかりに、彼は気づかぬ内に自ら孤独を生み出してしまったのかもしれない。  彼はいつでも、ありのままに生きることしか出来ない、不器用な青年のように思えた。

 私は自分の手を握った。右手で、左手の甲をやんわりと包む。あの日の感覚が思い出されるようだった。熱い砂漠の町と、強い日差し、病室の影で長い前髪をなびかせる青年が、窓辺に浮かび上がる。
 私と話した死ぬ前の数日間、彼が何を思って生きていたのか、私は何度も何度も繰り返し考えてしまう。たとえそれに、一生答えが得られなくとも。

 目を瞑った。やんわりとした光が、瞼の裏を温めている。鳥の声や昼下がりの会話、樹の枝が擦れる音、砂利を踏みしめる音。気づかなかったものが、目を開けている時よりも鮮明に、その存在に気付かせる。
 何を思っていましたか。あの時、何を考えていましたか。今のことですか。過去のことでしたか。それとも、未来のことだったのでしょうか。
です」
 ぽつりと呟いた私の小さな声が、静かな病室に溶けていった。光に紛れるように、じんわりと。体にゆっくり染みこんでいく。
 覚えておいて下さい──

 そこは真っ暗ではなかった。決して、冷たい場所ではない。私が思うよりも明るく優しい世界が、瞼の裏には広がっていた。



|終
theme of 100/053/願い事
12/11/29 短編