ペンの先では熱が待つ

01


 カバンを持った手に、じんわりと汗が滲んだ。燦々と照る太陽は、東北にもすっかり夏を運んできている。
 この日、7月20日が何の日であるか。S市随一の避暑地である杜王町の人間なら、誰もが忘れることはない。なんといっても海の日だ。サービス業も小売業もこれからが書き入れ時で、子供も学生も学校を忘れて遊び狂い、父親は休む間もなく家族旅行に駆り出される、賑わい出す夏の始まりのような日だ。
 そんな夏を象徴する日に、私はのぼり旗の影で涼みながら、家族連れが行き交う中に一人佇んでいた。日本らしくないからりとした暑さに、思い思いの期待を孕ませた影がいくつもいくつも通り過ぎていく。しかしカラッと晴れた空と丁度いい空気に反して、私の手のひらはしっとりとしていた。それが気になって、カバンの取っ手と一緒に服を掴む。
 お腹の前で組んだ私の両手には、動きやすいようにと自分用に選んできた小さなショルダーバッグの他に、もう一つ、カバンが握られている。画材道具の入った、私のよりずっと大きなカバンだ。他でもない、露伴先生のカバンだった。
 露伴先生は家族連れの行列の最前列で、チケットの自動販売機に硬貨を投入している。いつものヘアバンドに、清潔そうな白い半袖タイプのカットソーを着た露伴先生は、強い陽の光を浴びて、後ろからでも先生と分かるほどに、反射光で眩しく輝いている。よく外出をするせいか、職種の割に程よい褐色の肌までもが滑らかに照らされていた。
 その腕の先に伸びている節くれだった指が、大人と書かれたボタンを二回押すと、機械音と共にチケットが二枚、銀色の出口の上に落ちる。それを掴んだ露伴先生が振り返って、財布をポケットに突っ込みながら私の元へ歩み寄ってくる。そうしてから、先生に見惚れていた私に、当然のように買ったばかりの一枚を差し出した。
「……」
 無言で先生とチケットを交互に見ている私に、先生は急かすようにピラピラとチケットを揺らす。
「おい、何を呆けてるんだ?」
「あ、い、いえ……!」
 暑さでおかしくなっちまったのか?という顔をして眉を寄せる露伴先生に、私は慌てて首を振った。露伴先生はチケットを差し出したまま、反対の手で私が預っていたカバンを攫うように無理やり取って肩に掛けた。そうすればボケた私でも、チケットを受け取るしかないと思ったらしい。
 露伴先生の思惑通り、私は空いた両手で先生の指に挟まれた薄っぺらい入場券を迎えに行った。しかし先生ときたらそれを確認するなり、
「さ、行くよ」
と言って、私を待たずにさっさとベビーカーを押す主婦の流れに身を滑らせてしまったのだ。もたつく私が待ち切れないのはわかるけれど、早速自分のペースではないか。
「ま、待って下さいよ!」
 もつれそうになる足を踏み出して露伴先生の背中を追いながら、帽子を抑えて空を仰いだ。真っ青なはずの空は、目が潰れそうになるほどの光が絶え間なく注がれているせいで、少し白っぽく見える。眩しさに目を細めて、私は頭上に架かるアーチ型の看板を眺めた。
 S市立動物公園──
 書かれたその文字をなぞってから、露伴先生の姿を探した。とうに入り口を抜けた先生は、入ってすぐのペンギンの手前で、私を待つようにパンフレットを開いている。胸に沸き起こりそうになる浮かれた感情を押しこめながら、私も急いで入場口へ走った。


 どうしてこんなことになったのか。私だってまだよく理解できていない。分かるのは数時間前、「取材に付き合ってくれよ」と言った露伴先生に頷くと、仕事も中断させられて、何が何だか分からないまま引きずられるようにして連れてこられたということだけだ。
 いや、でも重要なことはそれではないのかもしれない。これはきっと、オプションにすぎない。
「もう少しここで働くことは出来るか?」
と言われたことに比べれば、岸辺邸での仕事のひとつにすぎないのかもしれない。だって「ここで働く」ということは、契約の引き伸ばしを頼まれたということなのだ。

 岸辺邸での家政婦業が、今日で最終という日だった。康一から露伴先生には恋人がいない、という情報を得てから毎日を有頂天で過ごしていた私だけれど、家政婦業が終わりを告げることには変わりはなかった。
 露伴先生への最後の昼食を、この三ヶ月で一番丁寧に、伝えられない愛情を料理に込めてボリュームたっぷりに作って、達成感と共に寂しさを感じ始めていた時、のそのそとキッチンに入ってきた露伴先生が、一人しんみりとしていた私の気も知らず、前触れもなくそれを告げたのだった。
 いつも突拍子のないことばかりする人だったけれど、私はこれには驚きよりも笑顔が溢れてしまいそうになった。
「君にも都合があるだろうから、夏の終わりまでどうだい?」
と露伴先生は言った。
 私はびっくりして、そして笑顔を堪えるのに必死で、声を出すのを忘れてしまっていた。棚からぼた餅どころか大判小判のような話だったからだ。
「先約があったなら、別に無理にとは言わないけど」
「い、いいえ! 是非お願いします!」
 是が非でも、という言葉だけは心に留めて、私は先生に向かって思いっきり頷いた。思わず満面の笑みを浮かべてしまった。誤魔化すために慌てて、洗い終えたフライパンを布巾で拭って片付ける。
 よかった。ほっとする。同時にカバンの中に押し込んでいた求人広告が思い出される。
 露伴先生との繋がりを切ってしまいたくなかった私は、丁度本屋とカフェドゥ・マゴのアルバイトを検討しているところだった。康一に詰め寄って、露伴先生の情報を得た結果、そこへよく足を運ぶのだと知ったからだ。
「アルバイトを探してたところだったんです」
 嬉しさのあまり、ぼろりと零すと、露伴先生は興味を示したように「へぇ」と呟いた。
「どこに行くつもりだったんだい?」
 しまった、と思った。まさか聞いてくるとは思っていなかったのだ。でももう遅い。
「か……カフェドゥ・マゴって喫茶店と、その近くの本屋を…」
 舌を縺れさせながら、ようよう私は言った。露伴先生が常連と知っていながら、知らないふりをして口に出すのは、白々しいような気がした。そのお陰で私の声には張りがない。嘘がつけない性格が恨めしかった。
 しかし露伴先生は大袈裟に「奇遇だな!」と驚いた声を出した。
「ぼくもよくそこへ行くんだよ」
「へ、へぇえ…そうなんですか」
 今まさに思い浮かべていたことを言われたので、どきりとした。心臓がバクバクと、激しく動いている。
「どうしてそこに?」なんて聞かれても、露伴先生目当てに康一ルートで決めたとは、口が裂けたって言えるわけがない。
「なんとなく、です」
「フーン……」
 引きつった顔を何とか自然に見えるように微笑みながら返すと、何故か露伴先生がにやけながら私を見ていることに気づいた。そんなはずはないと分かっていても、下心が見透かされたように思えて、話を逸らしたくなる。
 しかしにたりと笑いを浮かべていた露伴先生は、私と目が合った途端にハッとした顔をして、不機嫌そうに口を引き結んでしまった。私は不思議に思いつつも、見つめられていた視線にどぎまぎしながら、作りおきの準備に集中する。
 テーブルに用意した皿という皿に乗った料理からは、ほくほくと湯気が立っている。露伴先生は席についてその山盛りてんこ盛りのフルコースを見るなり、「君がいると夏バテを忘れそうだな…」と少し引き気味に呟いた。

 暫く、露伴先生の箸が皿を突く音や咀嚼する音と、私がラップを切る音、タッパに夕飯のおかずを詰める音。そういった生活を表す音だけが、広いリビングに響いていた。
 黄色の日差しをフローリングへ降り注ぐ窓からは、ゆるゆると気持ち程度の風が吹いている。休日だというのに、昼時で家の中に引っ込んでしまったか、もしくは家族で朝早くからどこかへ出かけてしまったのか、子供の声も聞こえない。まったりとした、穏やかな時間だ。
 露伴先生は水を飲んでいた手を止めて、それを破らないトーンで私へ話しかけた。
「それで、さん」
「はい」
「今日の午後は空いているかい?」
「え、ええ……」
 何もありませんが、と付け足す。露伴先生は私の返答に、すぐには続けなかった。豆腐のサラダに入れた豆だけを器用に箸で摘んで、ちびちびと数個口に入れると、続きを待つ私を放って、マイペースに豆を咀嚼して飲み込んでいる。その後で何か言うのかと思ったけれど、私の予想とは裏腹に、先生の左手は次にご飯茶碗を抱えてしまっている。
「何かあるんですか?」
 私は耐え切れずに先を促した。
 それに先生はご飯を入れて膨らんだ頬をもごつかせながら、考えるように「うん…」と言って飲み込むと、ピカピカと光る白米の入ったお椀から、箸を上げて言った。
「もしよかったら、取材に付き合ってくれよ」
 そう言う間も、明らかに作りすぎたおかずを取り皿に分けていて、先生の思考の半分は食事に向いている。
「取材……ですか?」
「うん」
 先生はまた繰り返した。口にものを入れているから、「うん」としか言えないようだと、私は気づいた。ものを食べながら話すのに、慣れていないらしい。
 食事を邪魔している申し訳なさを感じながらも、どうして私なんかを誘うのか不思議に思った。でもこの三ヶ月見てきた気ままさを思うと、それは大した疑問ではないとすぐに頭から消えていった。
 それよりも、私は先生の仕事を手伝うかもしれないことに、未知なる期待を感じて高揚してしまっていた。どんな理由であったとしても、きっと何者にも、私の好奇心を止めることなんて出来なかったのだ。
「いいですが……」と始めに言った。何としてでも露伴先生のことを知りたかった私には、まず頷いておくことが最優先事項だったのだ。それから、
「何をするんですか?」
と尋ねた。しかし露伴先生はまたもや私の質問には答えず、キュウリの漬物を高くつまみ上げて、じっと見つめている。沢山の料理をつくるためにはりきりすぎて急いでいたせいか、漬物が上手く切れずにバネのように繋がっていた。
 それを見た露伴先生は、何を言うのかと思えば、
「こういうデザイン、あるよな。バチカン宮殿とかさ。空間を利用して視覚トリックを使う……でも料理に入っているのは初めて見たなァ…君のは切れているように見えて、実際掴んでみると切れていないって手法だろ?斬新なセンスだよ」
 などと嫌味を言っている。先生はウリ科が嫌いだったことを私は思い出した。そのせいもあるのだろう。
 久々に絶好調な露伴先生に触れて苦笑いしつつも、私が「急いで切っていたのですみません」と言うと、
「動物観察に行こうと思うんだ」
と先生はようやく私の問いの答えを返した。さっきから、会話の流れが飛び飛びになっているような気がしてならない。常に論理的で、筋道を立てて話をする先生にしては、珍しいことだった。
「動物観察ですか……」
 しかし聞いたところで、取材などというものをしたことのない私にはよく分からない。道端の猫でも眺めるのだろうか。それとも露伴先生のことだから、どこかの大学の獣医学科にでも行って研究の見学でもするのだろうか。
 想像を巡らせつつも、私は予定を尋ねることにした。
「行くとしたら何時頃ですか?」
「食べたら」
 露伴先生は言った。食べたら。つまりそれは「今から」と、おんなじことだ。私は驚いて声を上げてしまった。
「あのっ、お仕事は……?!」
「今日はいいよ」
 ゴクリ。露伴先生がコップの水を飲んだ音だった。
「それよりも、食べきれないからこれも冷蔵庫に入れてくれないかい?」
 のんびりとした声だった。流石、普段から余裕を持つことを意識している露伴先生だ。休日の静かで眠くなるような空気に、溶け込んでしまっている。
 作り置きを入れたタッパを持ったまま立ち尽くしていた私は、その様子にもう、頷くしかなかったのだ。


 それがまさか、動物園に来ることになるだなんて、思いもしない。あの流れから、誰が想像するっていうのだろうか。
 私は入場口で渡された園内パンフレットを落としかけながら、数分後に先生の元にたどり着くことができた。
「せ、先生……! こんなに人が多いのに、置いて行かないで下さいよ!」
「何を言ってるんだ。ちんたらしていたら、すぐに閉園時間になってしまうじゃあないか」
 先生は目蔭をさしながらぐるりと園内を見回して、「最初に猿を見よう」と右の通路を指さした。
「猿ですか?」
「うん、霊長類が見たい。近くにチンパンジーもいるし…ほら、ここのルートを通って行くとゴリラも見れる」
 露伴先生が開いていたパンフレットを何気なく覗き込んでいると、見やすいように気遣ってか、先生は説明しながら私へ体を寄せた。
 ふわりとインクと香木の爽やかな香りが鼻を掠めると、パンフレットに真っ黒い影ができる。近い。俯いたまま私は印字に目を凝らした。ドクドクと、心臓が早速無理をしている。これでは早死してしまう。
 露伴先生の長い指が、これから歩くルートをなぞっている。私か露伴先生のどちらかの影が、先生の手を二色に彩る。とても、男らしい手だと思った。
 気を紛らすために必死で地図を追って、私は先生の目的の動物と、売店とトイレの場所を頭に刷り込んだ。
「それじゃあ行こうか」
 地図を閉じた先生が言った。そうして先にスタスタと歩いて行ったかと思うと、また遅れた私を振り返って、「置いてくぞ」とちょいちょいと手を振っている。
 思わず肩に掛けたカバンをがっしりと掴んだ。何かにしがみついていないと、落ち着かない。取材どころじゃない。
「ま、待ってください!」
 半身で立ち止まっている先生まで、足を必死で動かす。今日は休日だ。夏のスタートを象徴するような日だ。だからこそ、子供連れに混じって確認できる、もう一つの手をつなぐ二人組。
 私はそれを横目に通りすぎて、顔を赤らめた。坂道の先では、露伴先生が性格に似合わず、穏やかな顔で待っている。カバンを掴む手に、どんどん力が入っていく。これじゃあ。これじゃあまるで。
 デートのようだ──
 自分で思った言葉に、私は胸を震わせた。これは取材の手伝いなのだ。デートなんかじゃない。そう言い聞かせても、どうしたって先生と歩けることに嬉しくなってしまう。

「先生! 先生、見て下さいよ! あのツキノワグマ」
 動物園に来るなんて、それはもう何年ぶりなのだろうか。喜んで見ていたのも小学生までで、十代を過ぎればいつの間にか他のものに目移りして、小さい頃に楽しかったものには興味を失くしてしまう。でもそういうものにこそ、大きくなってから新鮮味を覚えるものなのかもしれない。
「全然クマらしくなくて、ぼよぼよのだらだらですよ!」
 暑さでぐったりとしたクマは、境のコンクリートの日陰に隠れながら、休日の父親さながらに寝そべってこちらにはまったく関心も示さない。それを指さしながら、横で猿山の写真を撮っている露伴先生に声を掛けた。
 私は先生の背中を追いながら動物に囲まれた道を歩き出した途端、ものの数分で取材ということも忘れて、はしゃぎきっていた。
「……」
 先生はカメラを構えた姿勢のまま、興奮してうるさい私を、じっとりと見返している。
「まさかここに野生があるとでも思ってるんじゃないだろうな?」
「思ってませんけど…面白いじゃないですか、ギャップが」
 言って、私はにこにこと露伴先生まで歩み寄った。隣のエリアの猿が、木製の遊具を渡りながら仲間を追い回している。
 露伴先生はその様子を写真に収めると、ネックストラップでカメラを首にぶら下げ、「そうだ」と言いながらおもむろにカバンを漁り始めた。私達の横を、画板とアイスクリームを抱えた兄妹らしい子供が二人、楽しそうに通り過ぎていった。ベンチに座っている夫婦のもとに、走っていったようだ。
 家族のどっという笑い声が聞こえてきそうな、和やかな姿を眺めていると、目の前に露伴先生の手がずいと差し出される。
「これを君に渡しておく」
 黒い革のケースから、ネックストラップらしい紐が伸びている。カメラに見えた。
「バカチョンカメラだ。君でも使えるだろうから、何か撮ってくれ」
 先生からフルオートタイプの軽いそのカメラを受け取って、私は早速首に掛けた。帽子に引っ掛けながらも、首にすとんと落ちて、胸の間に収まる。
「何って……なんでもいいんですか?」
「ああ、君の目で見て好きだと思ったものを撮ってくれればいい」
 なんでも、人の感性は違うから、自分とは異なる視点の絵が欲しいのだと言う。「女性の視点というのも、興味がある」と先生は付け足して、私の首にかかったカメラを少しだけ引っ張って、簡単に使い方を説明し始めた。
 肩が触れ合う。先生と私の薄いカットソー越しに、太陽ではない熱を感じる。私は今度こそ、恥ずかしさで身を離したくなったのだけど、カメラの紐が首に掛かっていては、少しだって背けることも出来ない。
 息を潜めながら、私は必死で先生の説明に意識を集中した。先生の大きな手に、小さなカメラはすっぽりと収まってしまっている。


 私を取材へ誘った先生は、「食べたら出る」なんて言うから、他人に関してはせっかちな露伴先生のことだから、てっきり本当にそのまま出かけるのかと思いきや、私を一旦帰してから、タクシーで私の家まで迎えに来ることになった。先生も準備することがあるからだろう。でも、いくらなんでも岸辺邸を出てから30分後というのは、乙女の支度を考慮しての時間にしては、短すぎやしないだろうか。
 言いたい文句も、家の前に時間前に着いていて、玄関から出てきた私に向かって、タクシーの窓越しに手を振った露伴先生を見た途端、消えてしまった。
 満足に支度する時間もないので、私の格好といえば、仕事をしている時とほとんど変わりがない。帽子とカバンが、手の中に召喚されただけだ。それは露伴先生も変わりはなかったのだけれど、この服装でよかったのだろうかと私は心配になった。
「いいよ。どんな格好だって構わないさ、裸じゃなけりゃあ」
「からかわないで下さいよ……!」
 不安そうに尋ねた私に、露伴先生といったらどうでもよさそうに返したので、私も安心して気にするのをやめることにした。
 現地に着くまでは、先生も私も無言だった。目的地は初めから運転手さんに告げていたようで、私が乗って数分も経たない内に車内はエンジン音だけになった。タクシーの運転手も会話をしない人のようだ。いつもなら気にならない沈黙が、やけに気になる。
 何となく、バスで行ける場所へタクシーで行くというのは、居心地が悪いものだ。お尻の辺りが落ち着かなくて、何度もシートで身動ぎをしてしまう。露伴先生は黙ってフロントガラスから景色を見ていたけれど、その先生の近さにも私の心拍数は上がっていった。
 タクシーの車内なんて、そんなに広くはない。幅も狭ければ、天井だって低い。狭い密室空間で、ちょっと体を揺らせば肩が触れそうなほどに近い距離に、露伴先生がいるのだ。緊張するなと言う方が無理に決まっている。人が乗ったエレベーターで、息を止めてしまうのと同じような原理だ。とにかく、近いのだ。沈黙も、むず痒さを助長させる。
 そんな狭い場所に座っていれば、嫌でも先生の手が目に入るし、景色を見ようかと顔を窓の外に向けてしまえば、まるで喧嘩をしているようにも見える。先生の無愛想な顔は、無言で並んでいればそう見えるのだ。
 だからいつもとは違う空気に、タクシーに乗ってすぐ、私は沈黙に耐え切れなくなって、あれやこれやと質問をした。
「どちらに向かうんですか?」
と尋ねてはみたものの、露伴先生は相変わらずのゴーイングマイウェイっぷりで、
「着けば分かるさ」
と言ったきり、窓枠に肘をついた手で口を覆って、ぼんやりと景色に没頭してしまう。どの問いに対してもそうだった。だから私は緊張を抱えたまま、黙って膝に置かれた先生の右手を眺めているしかなかったのだ。
 そうすれば、手の皺だって見えてくる。どこにほくろがあるかだとか、爪の形だったり、手のひらと手の甲の色の違いも、トーンカッターで切ったのだろう指の傷も、細かいことが私の記憶にインプットされていく。

 だからだろうか。露伴先生の手が、気になって仕方がない。気を抜くと、すぐに先生の手や腕に視線を送ってしまっている。自分でも気づかない内に、追ってしまっているのだ。いつの間にか、先生の手ばかり見ている。
「簡単だろ? さ、これで君もカメラマンというわけだ」
 言って、私の元から先生と、カメラを操作していた手が離れていく。
 触れたい、と思っていた。私の頭は暑さで湧いてしまったのだろうか。家族連れに紛れて、カップルの姿が多く見られるからかもしれない。この日差しの中、手をつないだり、寄り添うように歩く男女が、少なくはないからかもしれない。
 ちょっとだけ、先生の手に触れてみたい。ペンを握る動作も、スプーンで掬う動作も、泥だらけで庭を掘り返す動作も、チケットを買う動作も、カメラを構える動作も、私を呼び寄せる動作も、全部、その手の中にある。それに触れてみたい。先生の手に、少しだけ──
 気づけばそんな願望が沸き上がっていた。
「……さん?」
「あっ……はい! 分かりました」
 露伴先生の声に我に返る。僅かに汗を掻いていた。ハンカチで軽く拭って、アスファルトの照り返しの眩しさに目を細めながら、私ははにかんだ。
 ムルソーは異邦人で、殺人の動機を太陽のせいだと言ったけれど、これもそう言えるのなら言ってしまいたい。青空をバックに日に照らされた露伴先生は、屋内で見るよりもずっと格好良く見える。目を細めたり、目蔭を指す仕草なんかは、特に。これは、太陽のもたらしたものだ。そして、私がそれから目が離せずに惚けてしまうのも、暑さで頭が沸騰してしまったからに違いない。
 先生の手に、視線をひきつけられながら思う。それは全部、夏のせいなんじゃないだろうか、と。



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12/12/27 短編