02


 霊長類。確かぼくは、園内に着いてすぐににそう言ったはずだ。
「先生! ゾウが! ゾウが水を浴びてますよ! 撮らないんですか!」
 周りの様子を眺めながら、気に入った人間をスケッチブックに書き込んでいると、さんが興奮した様子でぼくの背中へ大声を上げた。他に人を呼ぶために叫んでいるのは、親子くらいだ。
 ぼくは腕で、地面と水平にスケッチブックを腰へ引っ掛けてさんを振り返った。うんざりした表情も、勿論忘れはしない。さんはそれに気づいているのかいないのか、入場口で貰ったパンフレットを額に当てて屋根を作りながら、にこにこと楽しげにぼくを待っている。
 ぼくはスケッチブックを閉じて、仕方なく彼女がいる、ゾウの柵へ歩み寄った。まだ、目的のものは猿しか達成できていない。
「自分だってカメラを持ってるじゃないか」
「私のじゃ遠くて撮れないんですよ」
 彼女に古いバカチョンカメラを渡してからというもの、エリアを進むたびに立ち止まっては、生真面目な顔をしてファインダーを覗きこむので、先に霊長類だけ回るはずだった予定はどこへやら、結局彼女につられて、猿山周辺のエリアを全て見学する羽目になった。
「先生のレンズなら、撮れると思うんです」
 挙げ句の果てには、ぼくを呼び寄せては写真を撮らせる始末だ。彼女に合わせていたら、いつまで経っても目的のものを見れないだろう。
「それじゃ君にカメラを渡した意味がないじゃあないか」
「そ、そうなんですけど……」
 言いながら、日光のせいで赤く焼け始めているさんの顔が、チラチラと水浴びを続けるゾウへと向いている。
 不意に、ぼくの胸にいたずら心が湧き上がった。さん、と呼びかける。
「偶には自分で撮ってみたらどうだい?」
 そう言いながら、ネックストラップで首にぶら下げていた、ぼくの重い一眼レフを頭から抜いてさんへ差し出す。それに、彼女は焦ったように首を振った。
「そんなつもりじゃなかったんです……! カメラに不満があるとかじゃなくて……!」
 知ってるよ、とぼくは言った。自分でも素っ気ないなと思えるような声だ。
「使ってみたらどうだ、と言っただけだ」
 カメラを持った手をさんの胸の近くまで伸ばすと、彼女は恐る恐るといった風にレンズと本体を掴んで、ぼくの手からカメラを受け取った。万一のため、落とさないようにストラップを首にかけさせる。彼女の体には大小二つのカメラがぶら下がっていて、キャラクターとしてはアンバランスだ。
「あの、それで……どうすればいいんです?」
 被っていた帽子を外してファインダーを覗きこむものの、重さとサイズが違えばフルオートタイプとは勝手も違うと思い込んで、撮影できないでいるらしい。さんは胸の前で重量感たっぷりの一眼レフを抱えたまま、ぼくの指示を仰ぐように待機している。
 カメラに困惑中のさんは気づいていないだろうが、目の前の柵では、既にゾウは水浴びを終えて日陰をウロウロと周回している。彼女は一体何を撮るつもりなんだろうか。思いつつも、
「レンズを回してピントを合わせるんだ」
とぼくは簡単すぎる説明をして彼女の様子を窺った。
 亜鉛メッキの施された柵は、昼下がりの陽光で熱を帯び、それに腕を乗せて手ブレを回避しているさんの肌は、真っ赤になっている。しかしさんはそれどころではないようだった。焦点距離の長いレンズを腕で支え、回したはいいものの、上手く合わないと言っては唸っている。ぼくは思わずほくそ笑んだ。先ほど火がついたいたずら心が、むくむくと大きくなっていく。
 ぼくは何も言っていないというのに、
「待ってください、待ってくださいね」
などとしきりに呟いてレンズを回すさんがおかしかった。しかし、いつまでも待ってはいられない。彼女の言葉を信じていたら、どこも回らない内に閉園になってしまう。

 ぼくは唸る彼女の背中から、カメラに手を伸ばした。女性はシャンプーの香りがするというのは本当らしい。鼻を仄かに甘い香りが掠めると、ひくりと、さんの肩が揺れた。それに笑いそうになるのを、必死で堪える。
 後ろからカメラを抱えれば、さんを抱き込む体勢になる。計算、という言葉はあまり使いたくないが、こうすれば彼女がどんな反応をするのかには興味があった。
 そのまま気にせずにカメラのレンズを支えている彼女の手を、子供に包丁の使い方を教えるように、上からそっと握る。
「ピントはここで合わせるんだぜ」
 距離リングを回しながら言えば、腕の中のさんの体は、面白いくらいにギチギチと硬くなっていった。顔を見なくとも、息を詰めているのが手に取るように分かる。
「ファインダーを見ながら、少しずつ調節してみるといい」
「は、はい……」
 ぎこちない返事が聞こえた後、数秒してからパシャッとシャッターを切る音がして、ぼくは彼女から離れる。さんが鉄板のような柵から、緩慢な動きで体を起き上がらせた。
「簡単だろ?」
 ぼくがにやりと笑うと、さんは目を泳がせながら、真っ赤な顔で頷いた。

 は演技が下手だ。顔に出やすいというわけじゃあないが、様子を見ていれば、何か異変があったということはすぐに分かる。それはさんが抜けているせいではなく、ぼくが彼女をよく観察するようになったからなのかもしれない。
 7月に入ったばかりだっただろうか。さんの挙動が突然変わったと感じたのは、恐らくその頃だ。年上という意識からなのか、時々馴れ馴れしいとさえ思えた態度が、今度はどこか距離を置いていると感じられるようになった。それをネタにからかってやろうと思ってヘブンズ・ドアーを使ったのは認めるが、その理由を知ったのは、言っておくが故意じゃない。偶然だ。
 しかし多少気の利かないところもあるだが、彼女に好かれるのは迷惑ではない。悪い気もしない。今日も、契約の延期を告げた途端に見せた華やぐ表情には、安心感さえ覚えた。それに加え、彼女が探していた次のアルバイト先というのも、自惚れのような気はしない。だからこそ、取材へ彼女を誘ったのだ。
 何より、ぼくの一挙一動に一々反応する姿は、面白いと言ったらないのだ。それを観察するのは楽しみでもある。
「も、もういいです……こっちのカメラで撮ります」
 いや、楽しすぎる──
 ぼくと少しも目を合わせずに、ぐいっと突っ返したさんの手から一眼レフを貰って、「そうかい?」と言いながら、すっかり大人しくなった彼女にぼくは笑ってしまった。
 ゾウは暫く前から、施設の日陰に引っ込んだまま出てこない。


 しかし暑い。これだけ暑ければ、レジャーでも屋内施設へ行く人間のほうが多いんじゃないかと思えてくる。もうどこへ行っても、冷房はガンガンつけているのが普通の気温だ。駅前通りの店などはどこもかしこも内外の温度差が激しく、立ち寄る用事が多い時などは、そのせいで体力を消耗したような気になる。それよりならば、屋外プールやビーチに行く方が余程涼やかな気持ちになれるだろう。
「暑いな」
 汗を拭いながらファインダーから目を離して、さんの姿を探した。
さんはあれから随分と静かになった。ぼくから一定の距離を置いて、偶に写真を撮ったりぼうっと動物を眺めていたりと、数分前まではしゃいでいたのが嘘のような姿だ。
 スケッチや写真撮影をするぼくに気を使い始めたのかもしれないし、もしくは日射病で倦怠感を抱いているのかもしれない。しかしそれに、もうひとつの可能性があるから、面白いのだ。
さん、とぼくは呼びかけた。片側に木が植えられた一本道は、道の半分を木陰が続いていて気持ちがいい。木漏れ日の中で鳥を覗いていた彼女は、帽子を抑えながら顔を上げて、「何ですか?」とぼくの元へ歩み寄った。
 比較的涼しいからなのか、地べたに座ってスケッチをする子供がずらりと並んで、影を陣取っている。その道の中ほどまで行くと、高台へ登る階段があり、その上に食堂があった。黄色い派手なのぼりが、土手の上ではたはたと緩やかな風に揺れている。
「アイスを食べよう」
 ぼくは食堂を見上げながら言った。ヘアバンドの下から垂れてくる汗をまた手の甲で拭うと、それをじっと見つめるさんと視線が合う。彼女は不自然なタイミングで目を土手の上に向けて、「そうですね」と返事をした。

 今日ここで分かったことと言えば、は優柔不断な性格らしいということだ。先程から、壁に貼ってある5種類のソフトクリームのメニューを前に、うんうんと頭を悩ませている。後ろで彼女の心が決まるのを待っている、ぼくの気持ちにもなって欲しい。
 彼女を待つ間、何度足の重心を移動したのか、もう数えるのも億劫だ。腕を組んだまま、食堂の人間観察をするのも飽きてきた。ぼくは気の長い方ではない。
 ついに痺れを切らして、
「どっちも頼めばいいだろ」
と言うと、さんは大真面目な顔をして、
「2つも頼んだら食べきれないじゃないですか」
と振り向いたので、ぼくは呆れて声も出せなくなった。しかしすぐに、いい案が思い浮かぶ。
「ぼくのと半分にすればいい」
 それがいい、と思った。ぼくの言葉にぽかんとしている彼女を置いて、さっさと半券を持っていく。彼女が悩みに悩んでいた2つを恰幅のいい中年の女性に告げると、数分と経たずにぼくの手にはコーンと、その上に乗った二種類のソフトクリームが握られた。
「どっちも食べたかったんだろ?」
 言いながら、後ろで心配そうに待っていたさんへ片方を渡すと、彼女は「ありがとうございます」と照れ臭そうに笑って、ぼくのソフトクリームをちらりと見た。
「全部食べやしないさ。君にも分けるから安心しなよ」
「え、あ……」
 カップはない。手にはコーンと、透明なプラスチックの小さなスプーンが刺さったソフトクリームだけだ。つまり、そういうことだ。動揺して、言葉にならない音を吐き出すさんが愉快でならなかった。
 美味しかった方を食べればいい、と言ってぼくは笑った。彼女をからかうのは、実に楽しい。

 変なことにスタンドを使わないで下さいよ!──
 この時浮かんだのは、康一君の声だった。そう言われたのは、丁度一週間前のことだ。彼の剣幕たるや、幼い顔に似合わず、それは凄まじいものだった。
 康一君は口の軽い男ではない。軽薄とは程遠い、硬くて誠実で正義感もあり、それでいておおらかな人柄を持った男だ。
 その彼に責められるのは、どうも苦手だった。それはぼくが、彼が相手を思いやった上での正論しか言わないと知っているからなのだが、についての追求を受けた時も、ぼくには返答のしようもなかった。
「好きなんですか?」と康一君は尋ねたように思う。のことは嫌いではない。寧ろ、どちらかといえば好意的に思っている。
 というのも、康一君自体はいいやつなのだが、如何せん、彼の交友関係と言ったらぼくの感性に合わないとんでもない人間ばかりで、それがまた彼の器を示しているのかもしれないが、を紹介された時も、またそういう類の人間かもしれないという可能性を考えざるを得なかった。
 しかし彼女はぼくの予想に反して、間田敏和のように陰湿で小心者でもなく、東方仗助のように打算的でもなく、山岸由花子のような精神異常者でもなく、虹村億泰のように単細胞でもなかった。初対面で康一君へ感じたのと同じく、極々平凡で好感の持てる人間だと思えたのだ。
 そして時折見せる年上面を除けば、仕事には誠実であるし、ぼくのいたずらにもめげない熱心さで、康一君の人脈にもまともな人間はいるのだということを、さんはぼくに証明してくれた。だから彼女に対して抱くイメージには、今もって少しもマイナスはない。

「……露伴先生?」
「ん?」
「溶けちゃいますよ」
 アイス。その声と一緒に、ざわつく食堂内の音がぼくの耳に流れ込んだ。テーブルを挟んで向かい側で、さんがぼくのソフトクリームを指差している。彼女の背後のバルコニーからは、市内一緑豊かな園内の風景と、隣接する遊園地の観覧車が見える。
 さんはぼくの様子を窺いながら、不思議そうな顔で自分のアイスをスプーンで掬った。言われて見れば、氷の粒が滑らかに液状になっている。ぼうっとしていたらしい。
 コーンから垂れかかっていたのを、慌てて口で迎えに行って食べると、それを見ていたさんは、目尻を下げて口元をほころばせていた。自分では気づいていないのか、その柔らかな表情のまま、ちびちびとソフトクリームを口へ運んでいる。
 妙に落ち着かなくなって、ぼくは眉を寄せた。そうして少し考える。
のことが……好きなんですか?──
 康一君の問いかけに、答えを出せずにいる。どうなのだろうか。正直なところ、そういったことには疎い。
 のことは嫌いではない。これは真実だけれど、好きかと聞かれると答えに窮する。彼女を知りたいと思うのも、からかうのも、それは康一君へしたこととほとんど同じだったからだ。ぼくの欲求というのは、人間に対する好奇心とどう区別をつければいいのか迷ってしまう。
 しかしたとえば、もしぼくがを好きだったとして、これ以上の関係を望んではいないのは確かだ。それでも、恋だと言えるのだろうか。
「露伴先生」
 もう一度紡がれたぼくの名前に、コーンから顔を上げる。
「その……一口貰っても、いいですか?」
 彼女はぼくとアイスを交互に見て、ほんのりと頬を染めた。考えにふけっていたせいで、彼女にあげると約束していたことをすっかり忘れていた。
 とろりと溶け始めてしまっているソフトクリームを、彼女の手が届くところまで持って行くと、嬉しさを噛み締めるようにはにかんで、さんはぼくのソフトクリームへスプーンを入れた。妙に落ち着かない。むず痒い感覚が続く。
 面倒だ、とぼくは思った。康一君にも言ったが、つまり、面倒なのだ。恋愛は面倒だ。恋愛は契約のようなものだ。一度結べば、互いの行動に干渉力を持つことになる。他人の日常を自分の日常に組み込むということが、どれだけ労力を使い、精神を削いでいくことか、想像するだけでも億劫だ。
「おいしいですよ、良かったら、先生もどうぞ」
 ぼくが考える間もなく、さんは自分のソフトクリームを差し出す。ぼくは無言で、彼女のそれへ浅くスプーンを挿し込んだ。彼女は満足気に目を細めている。
 は個人契約の家政婦でしかない。ぼくはその雇い主という関係だ。恋人などでは決してない。それなのに、これはなんだろうか。
口の中へスプーンを入れると、清涼感のある柑橘系の味が広がった。「ね?」とさんはぼくに笑いかけながら、手元のソフトクリームを掬って食べている。3歳くらいの子供が水の入ったコップを手に、何やら喚きながらテーブルを掻い潜り、横を駆けていった。
 落ち着かない。足元が浮いているような気持ちになる。面倒だ。こういうのは、とても。余裕が削がれていくのは好きじゃない。
 それならないっそ、ゲームのように過ごした方がいいじゃあないか。


「疲れましたねぇ」
 ぼくの目的をようやく果たせた頃、暑さに音を上げたさんに合わせて、仕方なく近くのベンチに腰を下ろした。これではどちらに付き合っているのかわかったもんじゃない。
「まだ半分しか歩いてないじゃないか」
 言いながら、手持ち無沙汰に風景写真を撮っていると、「意外と体力あるんですね、露伴先生…」と疲れを滲ませた声が返って来た。それは恐らく、さんの体力がないだけに違いないのだが、ぼくは敢えて何も言わない方向で行くことにした。
 ゆっくりと辺りを見回す。地面に水彩絵の具を広げながら、木に寄りかかって写生をする子供の姿が気に入った。被写体との距離を測りながら、ベンチに座ったままの体を反らせる。背中に当たった何かがビクリと揺れた。何か、と言っても、背後にはさんしかいない。
 食堂を出て日照りの中を歩く内に、ぼくの中には再び余裕が戻ってきていた。洋々たる海原もかくやと、広がる穏やかな心に湧き上がるのは、いつもの好奇心だ。
「おぉーっと、ごめんよ」
 にやけながら、カメラを構えた体勢でわざとらしく体を後ろへ傾けると、さんに背中が当たる。
 是非とも彼女の反応を楽しもうかと、ベンチに手をついて振り返った。飛び込んできた彼女は、驚くように目を見開いた後、遅れて真っ赤に染まっていった。手のひらに柔らかい感触がする。ベンチに置かれていた彼女の手に、重ねてしまっていたらしい。
「わ、私こそすみません……!」
 明らかに演技っぽいトーンだったというのに、さんはすっかり慌てふためいて気づく様子はない。そうだ。こうでなくちゃあならない。ぼくと彼女というのは、これがベストなのだ。
 ベンチを立ち上がって荷物を落とした彼女に、愉快なあまり、ぼくは偶然を装っていたことも忘れて吹き出しそうになる。

 それからというもの、園内の残りのエリアを歩く間も、さんの視線は頻繁にぼくに注がれるようになった。隣をしずしずと歩きながら、檻の中の動物へカメラを向けているかと思えば、時折ぼくの手を眺めては顔を赤らめている。これには随分前から気づいていた。
 しかし今では、はっきりとした原因がある。“彼女”の本を捲ればすぐに分かることだが、最新のページに、ぼくの筆跡で一文付け加えられているからだ。
 岸辺露伴に触れたくなる──
 一応、言っておく。康一君への義理があるので弁解をしておけば、これはが望んだことだ。それをぼくが許可する形で手助けをした。それだけだった。別段、スタンドを悪用したということにはならないだろう。
 彼女のために一役買ってやろう、とぼくは思ったのだ。
 さんの視線が注がれるたびに、ぼくの手に何かあるのだろうかとしげしげと眺めてみたりもしたが、ベンチでの出来事でようやく分かった。
 だからこそ、これは彼女のためだ。楽しいことになりそうだと、胸がうずうずとしてざわめく。
 そうして書き込んでからは、彼女の行動は顕著になった。一定の距離を置いていたはずが、いつもぼくの側に立っては、もどかしそうに手をあちらこちらに移動させているのだ。目が合うと愛想笑いはおろか、焦った表情であからさまに背けるので、おかしいと言ったらない。
 不意に、構えていたカメラを下ろしたぼくの手に、冷たい感触があった。さんが伸ばした指が、触れたようだった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
 自分から触れたというのに、さんはぎょっとした顔をしていた。彼女自身、実行してしまったことに戸惑っているのだろう。
 ぼくはわざとらしく首を傾げて、触れたことすら気づいていなかったという風に、知らんふりをしてみせた。するとさんは、安心したような、残念そうな様子で、小さなため息を付いた。

 歩くごとに、彼女とぼくの距離はどんどん縮んでいく。至近距離と言っても、過言ではないほどだ。
 広い園内をぐるりと回った頃には、とうとうべたっと離れなくなって、流石のぼくも素知らぬふりを出来なくなっていた。
 だらしなく寝そべるカンガルーを眺めていた視線を、左腕に沿って下げる。触れるか触れないかのところで、さんが体を抱き込むようにして自分に腕を回し、堪えるようにじっと佇んでいた。
「そんなにくっついたら歩きづらいだろ」
と煩わしそうに言わざるを得ない。
「そ、そうなんですけど……でも、なんか……」
 彼女は俯き加減に呟いた。続けられた声は、蚊の鳴くようにか細く、耳を澄まさなければ聞き取れない。
「急に、離れたくなくなって……」
 ぞわりとした。困惑しながらも小さな声で恥ずかしそうに呟いたさんに、ぼくは背中を何かが駆け抜けていくのを感じた。限界だ。唐突に、頭にそんな言葉が浮かんだ。
「……いいさ」
 彼女はまだ、ぼくに触れることを迷っている。ぼくが増長させるように書き入れた自分の欲求と、必死で戦っている。何度もぼくへ手を伸ばそうとしては、叱られた子供みたいに眉を下げて、真っ赤になって手を戻す彼女を見ていると、ここが潮時だと思えてくる。
さん」
 名前を呼んだ時には、彼女の顔ときたら泣きそうになってしまっていた。

 何度も言うが、は演技が下手だ。今回のことは、それだって原因なのだ。一々反応するのが行けない。あんな面白いものを見たら、誰だってからかいたくなってしまうだろう。
 いつの間に、時間が経っていたのだろう。ポールの上に取り付けられたスピーカーから、閉園の音楽が鳴っている。道行く波は、どれも同じ方角へ流れて行っている。
 さっさと行こう、とぼくは言った。頭を俯かせていたさんが、ゆるりと顔を上げる。
「次が最後のバスだぞ」
 出来るだけ抑揚を付けずに言ってから、攫うようにして、さんの手を掴んだ。しっとりと汗ばんでいるのに冷たく、それでいて吸い付くような手だった。ぼくは来た時と同様に、足早に入園口へ向かった。さんは動揺して何やら呟やいているが、言葉になっていないので、少しも聞き取れやしない。


 列を作るバス停に並んで、時間まで待った。園内では家族連ればかりだったが、並んでいるのは子供同士であったり、カップルや夫婦が多い。ぼくとさんは、その中に紛れ込むようにして、手をつないで立っていた。
 隣に立つ彼女を見やる。数時間前まであれほどうるさかった彼女は、ぷつりと口を閉ざし、寡黙になってしまっている。
 駅で魔法を解いてやろう、とぼくは心に決めた。罪悪感。康一君ならぼくの行動の起因をそう判断しそうだけれど、決してそのためではない。
 そうしたら彼女はどんな顔をするだろうか、と思っただけだ。きっと思い出して慌てふためく姿が見れるに違いない。理由をつけて逃げ出すかもしれない。それもいいだろう。どうせ、来週になれば嫌でも顔を合わせるのだ。しかしそれでも逃げる可能性があるなら、保険に彼女へ「毎日出勤」とでも書いておいてやろうか。

 本数の少ない杜王駅前行きの表示が、道路からひょっこりと頭を出した。藍染を広げたような青空を背にしたバスが、ゆっくりと坂道を登ってくる。さんはぼくの腕に遠慮がちに手を添えながら、握られたもう片方の手を落ち着かなく見つめている。
「ほら、来たぞ」
 その手を解いてバスを示すと、さんは慌ててぼくの手を追いかけて自分から掴んだ。はっとした顔が触れ合った手と手を見つめてみるみる内に赤らんで行く。
 ぼくはにやけるのを抑えられなかった。
 閉園時間になっても、夏の日暮れはまだ遠い。昼に比べて弱まったとはいえ、強い日差しはアスファルトに向かって、休むことなく降り注いでいる。園内からか、もしくは市内の街路樹からなのか、微かに蝉の声が耳に届いている。
「暑いな……」
 言って彼女が掴んでいない、反対の手で汗を拭う。
「本当ですね」
 消え入りそうな声で言うと、澄み切った空に向かって、真っ赤なさんが眩しそうに顔を上げた。
 どうぞ。そんな声がして下へ顔を向けた。さんが花の刺繍が施されたガーゼハンカチを、ぼくへ差し出していた。食堂に入る前にも、彼女はこんな風にぼくを見ていたことを思い出す。もしかしたらずっと、気になっていたのかもしれない。
「よかったら汗、拭いてください」
「あ、ああ……すまない」
言って、そっと額に押し当てる。彼女と一緒にゾウを撮影した時と、同じ匂いが鼻孔をくすぐる。
「暑いですね」
 ぼくの手に、じんわりと汗が滲んだ。腕に添えられたさんの手から、熱がのぼってくる。呟くような彼女の声は、遠くでじわじわと鳴く蝉の声に溶けていくようだ。
 坂を登り切ったバスは、錆のついた車体を震わせ、アスファルトの熱気でゆらゆらと揺れながら、こちらへゆっくりと向かってくる。帽子の下で汗の粒を浮かべながらもさんは、ぼくの手を離そうとはしない。握り合った手に、僅かに力を込めてみた。
「暑いな……」
 もう一度呟いて、ぼくはバスが停車するまで、彼女の匂いのするハンカチを額に当てていた。



|終
theme of 100/038/どうぶつ
12/12/30 短編