風鈴の音

01


 初めにこのことを話しておかなければならない。

 私は迷信を信じる方ではないし、これといって勘も働いたことがないので、そういった非科学的なことには縁遠いと思っていたのだけれど、大学2年目も後半に差し掛かった2000年秋のことだ。夏からバイトを始めた喫茶店で、ドアから入って窓際三番目の席のジンクスというのを、私は強く確信した。
 その席はレジの丁度正面、カウンターの斜め右側、トイレから一番遠い場所に位置していて、広くはない店内の中でも同じ客同士では気づきにくく、店員からは一際目の行く特徴を持っていた。注文をしやすく、周りを気にせず静かに席についていられるのが長所だ。
 しかし、私にとっては鬼門に他ならなかった。その席に座るお客さんに関して、何かとよろしくないことが起こるからだ。
 そもそもの喫茶店自体は、駅の裏手を真っ直ぐ進んだ住宅地の中にある。コンビニもスーパーも商店街もなく、表札でも眺めながら歩いていると、突然安っぽい看板とともにレンガ風の外装がぽつりと現れる。
 レンガ風といえば聞こえはいいが、見目がいいのは表の一部だけで、横側の壁はびっしりと蔦で覆われ、二階に目を向ければ、生活感溢れる物干し竿と洗濯物が常にセットになって視界に飛び込んでくる。そんな寂れた喫茶店だ。
 見た目がそんな有り様なので、すぐにでも潰れてなくなりそうに感じるものの、客足はそれほど悪くはない。
 店の前の道路幅は狭くなく、たまに近くの霊園帰りと見られるお客さんや、S市内へ続く道路から曲がって立ち寄る方もいる。近隣に住む学生が訪れることも少なくはない。しかし制服を着た中高生は、やはり駅前の洒落た喫茶店へ流れているようだ。
 この店がいつからあるのかは分からないが、もちろん個人経営なので、町内の顔もきき、よくご近所同士の集会所になっていたりもする。居心地もいい。
 だからなのか、やたらとツケにしようとするおじさんや、机の上で延々とお金を数え続けるおじいさん、コーヒーを抱えたままいびきを掻いて寝てしまう仕事帰りのお姉さん、鬱憤を晴らそうとわざわざ杜王町の端から愚痴を言いに来るおばあさんなど、自由っぷりはもう種々様々で、その時だけは跳梁跋扈と言っても過言ではない。
 そしてそういう人に限って、ドアから入って窓際三番目の席なのだ。いつでも選び放題の席の中で、誰も彼もが示し合わせたように、三番目を選ぶ。

 だから長期休暇の覚めやらぬ秋口に、耳障りと評判のドアベルを鳴らして入ってきた男性が、ちょっと迷ってから三番目の席に腰を掛けた時、私は壮絶に嫌な予感を抱いた。
 初めて見る顔だった。私が出勤していない時にも来たことがあるのかもしれないけれど、座る席に迷っていた様子を見る限り、初回の人で間違いがないように思える。
 男性の姿も独特だった。額にあてたヘアバンドと特徴的なイヤリングは、この店の急作りな雰囲気には浮いていて、一見して年齢がわからない。学生のようでもあるものの、既に社会人のようにも見える。では何の職業かと想像すると、途端にひとつも浮かんでこなくなるのだ。どれもこれもはね退けるような雰囲気は、私の予感を助長させた。
「ブレンドコーヒーをひとつ」
 男性はメニュー上部のコーヒーコーナーをちらりと見た後、すぐさま片手を上げて、近寄った私へ一言告げた。
 ギクリとした。次いで私の頭に浮かんだのは、「この人はケーキを食べなくても大丈夫だろうか」という心配だった。
「セットでケーキも頼めますが、よろしいでしょうか?」
 私は遠回しにケーキを頼んでくれるよう、願いを込めて声をかけたのだけれど、男性は私をちらりとも見ずに「いや、結構だ」と即答したため、一層に緊張感が高まった。というのも、この店はブレンドコーヒーが大評判だったからだ。決していい意味ではない。
 ブレンドコーヒーの豆を選んでいる店長は白髪のほっそりとしたおじいさんで、昔は大学の教授だったらしい。元は網元の出のようで、県北のかなり大きな土地持ちなのだとお客さんからこっそり教えてもらったので、この喫茶店も老後の道楽の一つなのだろう。
 お金に困っていた夏頃にアルバイト募集の張り紙を見て訪れたものの、どういうわけか未だに店員は店長と私の二人だけで、たまに奥さんが二階から手伝いに来る以外は、店長一人の時さえ多い。
 私のいる意味を真剣に考えてみたくなる状態なのだが、気まぐれで喫茶店を始めたような人らしいので、アルバイトを雇ったのも所詮気まぐれに違いなかった。
 そういうわけで、ブレンドコーヒーの質も想像できるというものなのだ。何せ料理がド下手な私でも初日から厨房を任される具合なのだから、適当っぷりもここまで来ると酷いものである。ほとんど出来合いだから構わないと思ったにしても、いつもこの調子なので、コーヒーも何時に来ようと目の前で淹れてもらおうと、何故か煮詰まった酷い味がする。
 そんな店でもケーキだけが自慢で、それ以外はからっきしと言われても、足繁く通ってくれる人もいる。しかしそのケーキさえも店長の弟さんが経営しているケーキ屋から提供されているというのだから、店長が提供しているのはこの店の空間と、コーヒー、もしくは紅茶だけになるのかもしれない。
 それは分かっている。分かっているのだが。

「よくこんなコーヒーを出せるもんだな」
「申し訳ありません……」
 苦々しげにそう言いながら、あれから頻繁に通ってくるこの人。必ずドアから入って窓際、三番目の席に座る人。ヘアバンドの男性だ。
 最近はケーキを食べると緩和されることを覚えたみたいだが、毎回支払いの時になると、「ナァ、猿が淹れたってこんな味はしないぜ」とか「いくらなんでも不味すぎるんじゃあないか?」と必ず一言文句をつけていくので、そろそろ私の謝罪のレパートリーも底をつき始めている。
 その割には通う頻度は多く、ケーキ以外あまりにメリットのない店と自負しているために、最初は「もしかして私目当て……?」なんて冗談交じりにあらぬ妄想をよぎらせたものの、何せ三番目の席。三番目の恐怖、なのだ。今でも面倒なのに、関わると碌な事がないに決まっている。
 しかしコーヒーを頼まなければいいだけなのに、頑なにそれを注文するところを見ると、店長のブレンドは麻薬のような副作用でもあるのかもしれない。私も気をつけなければならなかった。

 私が季節外れの風鈴の音に気づいたのは、そんな頃だった。
 杜王町の南西には霊園があるせいか、S市中心地へ抜ける橋が通っていても、駅の東側に比べれば住宅地もそれほど開発されていない。
 西側を北西にあるぶどうが丘の学校以北まで低い山が連なっていて、この一帯は駅裏と合わせて現在も開発途中である。都市開発とともにベッドタウンの広域化も進んでおり、買い取られた土地が多いものの、未だにこの辺りは山沿いに農地が広がっていて、20年前の姿を垣間見ることが出来る。
 そののどかな杜王町西部を、ちりん、ちりんと、軽やかな風鈴の音が流れてくるのだ。どこから聞こえてくるのかはまったくわからない。遠くのような気がするし、近くのようでもある。住宅街から聞こえてくるような、農地の方から流れてくるような。音源は不思議とどこという印象を与えてこなかった。しかし、その隠されたような神秘さが、私にはわくわくとしてたまらなく好きだった。
 川沿いのアパートから線路を越えてバイト先に来るまで、買い手を待ってぽつりぽつりと点在する住宅の間をオンボロの自転車で駆け抜けながら、時折聞こえるその澄んだ風鈴の音色を、私は密かな楽しみにしていた。
 気分のいい時には、その気持を少しでも誰かと共有したくなって、
「いい音色ですねぇ」
としみじみと店長に話したこともあるのだが、何度言っても「ぼくには聞こえない」と返された。見た目は紳士的で中々にハンサムでも、店長もいい加減に歳なのだろうと、私は四度目の時、いかに心やすらぐ音かを伝える試みを諦めたのだった。
 どこから聞こえてくるのだろうか。どういう人の家に吊るされているのだろうか。ぼんやりとそんな想像を膨らませていると、すっかり三番目の席の常連達も次第に気にならなくなり、ヘアバンドの男性も遂には何も言わなくなった。


 それからひと月近くは経ったかもしれない。暫くの間は学業に加え大学祭の準備やサークル活動で慌ただしかったこともあって、風鈴のことも忘れていた。3日に一度は来ていたあの男性も、そういえば最近はめっきり見かけない。
 その日は喫茶店も休みの日で、午前中に入っていた講義が教授の急な出張で休講になり、私はいきなり出来た暇を持て余していた。付き合ってくれそうな友人たちは、この日に限って皆ぎゅうぎゅうに講義とバイトを詰め込んでいる。
 よく晴れた暖かい日だった。ずっと肌寒い気温が続いたので、久々の行楽日和に特に何をするでもなく、通学路を外れて周辺を散策したい気分になった。
 自転車を引きながら川べりを歩いていると、午前の落ち着いた空気に、微かに聞き覚えのある音が交じる。風鈴の音だ。そういえば気になっていたのだということを私は思い出して、せっかくの余りある時間を謎の究明に費やすことに決めたのだった。
 こんなに綺麗な音色の風鈴をぶら下げているのは、どんな家だろうか、と私は思った。この時期まで鳴らしているのだから、面倒臭がりな性格の人かもしれない。なんでも億劫がって、きっと庭の手入れも行き届いていないだろうし、服もまだ夏物が竿にかかっているかもしれない。玄関先は間口が狭くて靴がそこら中に散乱していたり、奥の庭からは雑草が飛び出しているような家かもしれない。
 あるいは──
 私はくすりと笑って、また別の光景を浮かべた。一人暮らしのおじいちゃんが、夏に娘夫婦が孫を連れて来た時に、孫のために風鈴をつけたものの、取り外せずにそのまま放置しているのかもしれない。困った顔をしながら、ちりんちりんという音に、そろそろ愛着を覚えてきているかもしれない。
 色々なことが頭をよぎって、私は暫くその無限に湧いてくる風鈴の妄想に耽って歩いた。

 ふと、土手の前で足を止めた。霊園から2㎞ほど歩いた、静かな住宅街の一角だ。横手になだらかな坂道が見える。
 一応上に登れるようになっているが先は松林で、人の往来はない。もう少し前の秋口に、たまに子供が松ぼっくりを拾いに来る程度だろう。
 特に珍しいものがあると期待していたわけではないのに、妙にこちらを登りたくて仕方ない気持ちになっていた。下から覗くことの出来るふかふかとした針葉樹の枯葉のクッションは、木漏れ日を浴びて心地よさそうな色を湛えているし、木の特有の匂いが満ち、町中に比べてずっと澄んでいる。のどかな雰囲気につられて歩きたくなるのは仕方なかった。
 音は土手と反対側から聞こえてきているような気がしたのだけれど、杜王町に2年近く住みながらも、この周辺には一度も来たことがなかったので、私は少し寄り道をしてから風鈴探しを再開しようと決めたのだった。
 まさかこんな近隣で迷いはしないだろうと、さくさくと中へ足を踏み込む。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ進む。後ろから聞こえていた風鈴の音は、次第に枝葉のざわめきに遮られて微かになっていく。
 そうして数分ほど歩く内に、明るい日が射す木々の間に、切り取られたような一帯が見えた。そこだけ木が生えておらず、ちょっとした空き地になっていて、ところどころに人為的な窪みが見受けられる。
 どれくらい前なのかは分からないが、恐らく何代も以前は、ここに人家が建っていたのだろうと、景観を想像しながら改めて周囲を見渡した。
 目が吸い寄せられた。土の一段下がったところ、堀の跡と思われる向こう側に、木陰に隠れるようにして苔に覆われた石井戸があった。近づいてみれば、どうやらつるべ井戸らしい。それらしい屋根もあり、ばらばらになってはいるが、桶らしきものもある。
 井戸というともう殆ど見慣れなかったし、あっても転落事故を防ぐために鉄柵がしてあるのが普通だ。しかし視線の先では薄暗い穴が、虚空に向けてぱっくりと口を開いている。見たところ、何の手も加えられずそのまま放置されていた。
 まだ井戸が盛んに使われていた時期でも、掃除の際には下へ降りたまま窒息死する人もよくいたのだと、小さい頃に祖父から聞いていたため、少なくとも私は井戸に対して不気味な印象を持っていた。でも、一度湧き出た好奇心には勝てなかった。怖いもの見たさというのも、あるのかもしれない。
 私は近づいた者のごく自然な流れで、中を覗きこんでみようという軽い気持ちで屋根の中に踏み出した。

 ビキッと、体に力が入る。ブレーキをかけるように、つま先が無意識に踏ん張っていた。
 急に。急にだ。不安感が胸にせり上がってきた。理由はないが、なんとなく覗きこまない方がいいのではないかという考えが、唐突に頭に浮かんでくる。
 しかし理由がなかった。危険だとか覗いてはならないという、はっきりした理由がなかった。
 次の瞬間には勝手に体が動いていた。重くなった足を一歩踏み出す。むわりと鼻を刺激する異臭を感じた。一瞬怯みかけたものの、そっと中を覗き込む。真っ暗だ。何も見えない。ただ泥や硫黄のような腐敗臭が微かに漂っているだけだ。
 なんだ。なぁんだ。
 私は思いながら些か拍子抜けし、また何事もないと分かっていながらも妙な気持ちを抱いた自分に笑いそうになった。突然働いた勘は、きっと異臭に対してのものに違いないと思った。
 深呼吸をする。気抜けした顔が息を吸い込むために上を向く。目が、そこへ吸い寄せられた。ギクリ。そんな擬音がふさわしい。心臓が嫌な音を立てた。
 白い天井が目に入った。塗ってあるのではない。薄暗い井戸の屋根にびっしりと、札が張ってあったのだ。
 私はいよいよ不気味な感覚を味わった。下から漂う異臭が濃くなる。頭上の枝がガサガサと音を立てた。ビクッと体を震わせて後ずさる。カラスが飛び立ったのだ。
 気味が悪かった。行きは美しく感じられた松林が、どんよりと暗く隔絶された空間に見えてくる。いつの間にか、吸い込む空気もどこか重苦しい。
 何がいるでもないのに井戸を何度も振り返り振り返り、次第に早足になって、私は一目散に土手の下まで戻った。

 息せき切って林を抜けると、土手の下に男の人がいる。あの三番目の常連だ。
 目が合うと、男性は「あ」という顔をしたが、気づいた様子を見せただけで別段挨拶をしようとも、また立ち去ろうという気配もない。私から目を逸らすと、ただ立ち止まって、のんびりと土手の方を眺めたり、住宅街へ目を向けたりしている。
 私はそれでも少し安堵した。さっきのことで誰かの声を聞きたくて仕方なかったので、鬼門である三番目の席の常連だということも忘れて、声を掛けたくなった。
「どうも、何かお探しですか?」
 男性は怪訝そうに横目で私を見た。何だこいつは?──もろに顔にそう書かれている。目は口ほどに物をいうと言うが、この人のは格別で、口よりも分かりやすいに違いない。
「ああ……」
 男性は頷いたかと思うと、すぐさま首を振った。
「いや……ないね。正確には、君が分かる探しものはないかな」
 私は一瞬、ほんの一瞬だけ、男性に話かけたことを後悔したが、土手の上での不気味な感覚がまだ体に残っていたので、無視されなかったことを素直に有難く受け取ることにした。
「あのぅ、」
 なんとか会話を続けられないものかと次の言葉を探す。しかしいくら頭を引っ掻き回しても、拒絶される展開しか思い浮かばない。まだ声をかける私に、男性は鬱陶しげな目つきでジロリと睨んだ。
 私は続々とせり上がってくる後悔を意地で押し戻しながら、その視線と目を合わせた時、そういえば風鈴のことを忘れていたのを唐突に思い出した。今はしんと静まり返って、どこからも風鈴の音がしない。
 確かにこの周辺で聞いたはずなのだけれど、土手の先にはあの不気味な井戸しか見当たらず、住宅街へ入るとどちらの方角から鳴っているのかわからなくなる。近づいたと思った音は気のせいだったのだろうか。先ほどのこともあって化かされているような気分になり、それがまた私を気味の悪い思いにさせた。
「この辺りで風鈴を見かけませんでした?」
 自分でも突拍子もない妙な質問だと思ったものの、聞かなければ気が済まなかった。
 再び私を振り返った男性から、ぱちくりと、瞬く音が聞こえたような気がした。
「風鈴って……」
「風鈴です」
「あの?」
「はい、夏に縁側によくぶら下がってる、あの」
 言って頷けば、男性はあの“何だこいつは?”という目を一層深めた後、素っ気なく「知らないね」と手を振った。
「ホームセンターにでも行けば置いてるんじゃないか? 安売りのやつがさ」
「ええと……」
 一切の拒絶だ。もう沈黙が落ちる。延々と続く静けさのように思えた。男性は、じっと土手の方へ目を向けている。
「そっちには行かないほうがいいですよ」
 まだいたのかというように、男性がちらりと私を見た。
「井戸があるだけでしたから」
 言ってから、私は仕方なく塀に立てかけていた自転車を起こした。サドルに跨って男性を振り返るが、やはり立ち止まったままどこへ行く様子もない。
「またお店来てくださいね」
 去り際に忘れずに社交辞令を述べてから、私はペダルをこいで走りだした。男性は背を向けたまま振り返らない。思った通り三番目の席の人は本当に碌なことがない。でも、十分に気は紛れていた。
 ほんのりと暖かい日差しの下を、涼しい秋の風が吹き抜ける。ちりん、と風鈴の音が、後ろの方から聞こえた気がした。


 この時期の風鈴は別段珍しいものでもなかったらしいと気づいたのは、数日もしてからだ。意識するとよく音が聞こえてくる。まだ夏の名残りでぶら下げたままの家や商店もあるのかもしれないと、私は見つけられなかった悔しさを無理矢理に納得させた。
 ちりん。ちりん。耳にするそれは、肌寒い風の中で聞くにはうら寂しげな音色をしている。
「いやぁ最近来ないねぇ、岸辺さん」
「岸辺さん?」
 真ん中の席に腰掛けて写真雑誌を眺めていた店長が、私が零したあくびを聞いて、間延びした声で言った。
 暖房をつけはじめた店内は、がらんとしている。夕方ともなるとこの時期にはもう日が沈んでしまっているので、仕事帰りや散歩途中に立ち寄っていた人も、寒さもあって急ぎ足で家に帰ってしまう。
 夏が終わってから最も冷え込んだ日には、「もう少し気温に慣れてきたら、また人が増えるよ」などと、店長は廃品回収でくすねてきたらしい相撲雑誌を捲りながら、呑気に言っていたものだが、まだその日は来そうにない。
「ほら、お洒落な彼、いたでしょ? いつも奥の窓際に座る……」
「ああ~~……」
 ヘアバンドの男性のことだ。思い当たって声を上げたものの、尻すぼみになった。
「知り合いなんですか?」
「違う違う」
 店長は笑いながらレジに向かい引き出しを開けたかと思うと、ごそごそとかき回してから、元いた椅子へ腰掛けた。よっこいしょ、という年寄り臭いため息が漏れる。
「君がいない時、一度だけ領収書を出したんだよね」
 そう言って、店長は持ってきた領収書の束をペラペラと捲った。私は興味が湧いて、寄りかかっていたカウンターから背中を離し、店長の背後に歩み寄った。
「ほら、これこれ」
 見開いた控えを覗きこむと、確かに“岸辺”と店長の達筆で書かれている。
 岸辺さん。頭に思い浮かべる。あの嫌そ~な目と神経質そうな顔つき。岸辺さん。あまり知りたいとも思っていなかったが、初めてヘアバンドの人に名前がついた。
「コーヒーのブレンド、上手く行ったのかと思ったんだけどなぁ」
 私は押し黙って、領収書の文字をまんじりと見つめた。あれだけ文句を言われていたのも、店長には聞こえていなかったらしい。
「私、会いましたよ」
「え?」という風に、店長が上目に私を振り返る。無理な姿勢のせいで皺がグッと伸びて、奇妙な顔になった。
「霊園の方の土手で何か探してましたっけ」
「ふーん」
「忙しいんじゃないですか?」
 ふっと黒い人影が浮かんだ気がして、戸口へ顔を向ける。誰かの気配を感じたのだけれど、暗がりの中、向かえの垣根の紅葉がさわさわと揺れているだけだった。お客さんは一向に訪れない。
 相変わらず風鈴の音は、どこかで鳴り響いている。


 おかしい──と思ったのは、更に数日してからだった。もう冬も始まる。北の方では既に雪が降ったと人づてに聞いていたし、厚手のコートでなければ夜はとても歩けない。
 ちりん。
 聞こえるのだ。
 どこへ行っても風鈴の音が聞こえる。電車の中でも、大学の締めきった講堂の中でも、聞こえるはずのない場所で、はっきりと聞こえるのだ。
 しつこいくらいにお店に通っていた三番目の席の岸辺さんは、風鈴の音が途切れたあの井戸の近くで見かけたっきり、ぱったりと姿を見せなくなっている。それもまた、私の妙な胸騒ぎを助長させた。

 北風がびゅうびゅうと吹き付ける。季節の変わり目でまた不安が募っていたこともあったせいか、私は熱を出しがちになった。気が重くなった。昔から体調を崩すと、よく幻覚を見たからだ。
 講義を終える頃にはいつも真っ暗な道を帰らなければならなかった。中学時代に親戚からお下がりでもらったブレーキの不安定な自転車を、風に抗うように必死で漕ぐ。
 ちりん──
 闇夜の中、涼しげな音が鳴る。くっきりと切り取られたように、それだけがはっきりと耳に届く。私は不可解なズレを感じた。こんなに風が吹いているのに、風鈴とはちりんと、ひとつだけ鳴ることが出来るのだろうか、と。
 不安になって、アパートに着くなり早足で階段を駆け上り、ドアを閉めた。
 木造の古い二階建てのアパートは、お風呂とトイレも別々について、一人暮らしには丁度いい和室6.5畳の1Kだ。しかし築40年とトイレが和式、そして駅も大学も遠いという理由で、家賃が安い。つまり便も悪く、ボロいのだ。オマケに窓のすぐ下は藪で、川に面しているために夏には蚊が大量に発生する。何かあったとしても、このアパートが不安を拭ってくれるとはとても思えなかった。でもここ以外に帰る場所はない。
 私は入るなり真っ先にドアと窓の鍵を閉め、カーテンも隙間なくぴったりと閉じた。それから、ストーブをつけて、電気の紐に手を伸ばす。
 ちりん。
 思わず、耳を澄ませた。暗闇の中、目を凝らす。住宅に囲まれたアパートは車通りもなく静かで、冷蔵庫の機械音だけが部屋に響いている。静かだ。動くものもない。ただドクドクと私の心臓が、やけに大きく音を立てている。
 隣の部屋の住人は夜勤のようで、いつも朝方に帰ってくる。物音に敏感なので、夏でも窓辺に風鈴はぶら下げていなかった。他の住民もだ。季節を感じようなどという風情のある一人暮らしは、残念ながら私を含めて誰一人としてこのアパートにはいなかった。
 ちりん。
 はっきりと聞こえた。私は唾を飲み込むことすら出来なかった。
 息を押し殺す。もう一度。
 ちりん。
 確かに聞こえる。幻聴じゃない。
 私は気付いた。音が。どんどん近くなっている。
 足が張り付いて動かない。振り返ることもできなかった。一つの都市伝説が、頭の中をぐるぐると回って離れなくなったのだ。知っているだろうか。有名な、メリーさんの話だ。

 少女は引っ越しをしなければならなかった。住み慣れた町から出ていかなければならない。慣れるためにも、荷物を整理して気持ちを入れ替えようと考えた。少女は、メリーと名づけた外国の人形を捨てていくことにした。古く汚れていたためだった。
 その日の夜のことだ。大きな荷物を送り出した家はがらんとしていた。しんと静まり返った部屋に、突然電話がかかってくる。夜も夜中だ。一体誰だろうと思いながら、少女は電話に出た。受話器に耳を当てると、小さな女の子の声が聞こえる。
 あたしメリーさん。今ゴミ捨て場にいるの……──
 舌っ足らずな声が話した後、通話が切れるでもなく、静かな沈黙が続く。いたずら電話かと思い、少女は電話を切った。でもそれにしては思い当たることが多かった。日が暮れる前、メリーという人形を、ゴミ捨て場に捨てたばかりだったのだ。まさか、と思った。まさかそんなことは。
 不気味に思っていると、また暗い部屋に無機質な着信音が流れる。すぐさま受話器を取る。
 あたしメリーさん。今タバコ屋さんの角にいるの……──
 ごくりと、唾を飲みこんだ。タバコ屋は家の数軒隣にある。角を曲がればゴミ捨て場だ。少しずつ、家に近づいているのではないか。そんな考えをよぎらせて、少女は慌てて電話を切った。そんなはずない。ありえない。誰かのいたずらに決まっている。
 大きな音が鳴り響いた。少女の目の前で、ピカピカと電話の液晶がライトを放っている。青白い光が壁を照らしては消え、延々に鳴り続く。あの少女に違いない。予感だった。
 心臓がどくどくと嫌な音を立てる。震える手を抑えて、ガチャリと受話器を持ち上げた。恐る恐る、耳に近づける。あたしメリーさん。受話器の奥の声は言った。
 今、あなたの家の前にいるの……──
 ぞわりと、得体のしれないものが背中を駆け抜けた。時が止まる。
 目だけを、玄関へ向けた。それをゆっくりと首が追う。戸口には鍵がかけてある。誰も入って来られないはずだ。きっと、きっと誰かのいたずらだろう。
 少女は足を忍ばせて、ドアに耳をあてた。荒くなる息を必死で押し殺す。何の物音もしない。そっと、ドアスコープを覗きこんだ。そこには誰もいなかった。
 なんだ。少女はほっと胸を撫で下ろした。一応確認しておこうとドアを開ける。やはり誰もいない。辺りを見回して戸締まりをすると、少女はようやく安堵した。
 家の中に戻って数歩、再びけたたましい着信音が廊下に反響した。ドキリとしながらも、少女は受話器をとった。大丈夫。全部、いたずら電話だったのだ。
 あたし、メリーさん。今──
 声が聞こえた。
 あなたの後ろにいるの──
 重なるようにして、受話器と、背後から……

 バン! と窓に何かがぶつかった大きな音がして、私は弾かれたように戸口へ駆けだした。逃げよう、なんて思ったからじゃない。本能が体を動かした。
 何かいる。何かがいる。前か後ろかはわからない。でも私は戸口へ向かうしかなかった。だって、ここは二階なのだ。ベランダもないし、下には藪と、川が流れている。窓へ向かっても飛び降りることはできない。そして下に人がいて、何かを窓へぶつけることも、出来るはずはない。
 バン、バン、バン! と、今度は激しく窓が叩かれた。“叩かれた”のだ。確実に、叩かれていると、分かる音だ。
 全身の血がサァッと足元へ落ちて行く感覚がした。もつれる足をなんとか動かして、錆びた階段を転げるように駆け降りた。学生の夜遊びか、一階の住人の気配はない。いたとしても面識はないので、助けを呼ぶことも出来ないだろう。こんな時のために、挨拶くらいはしておくんだったと、私は今になって後悔をした。
 自転車へ飛び乗る。新しいのが欲しいので、いつ盗まれてもいいように鍵をかけていない。しかし隣の自転車は盗まれたとしても、私の自転車が盗まれたことは一度もない。
 ちりんと、やはり背後から音がした。追ってきている。何かが、私を追いかけてきている。音だけではない。窓を激しく叩くような、得体の知れない“何か”だ。

 初冬の寒さが私を吹き付けた。どこへ向かえばいいのか、見当もつかなかった。熱が上がって頭がグラグラする。けれど走った。走らなければならなかった。追いつかれたら──
 追いつかれたら?
 分からない。分からないが、後ろにいるのはきっと凶悪な何かで、捕まれば残酷な末路が待っている。そう感じる。

 見慣れた景色がどんどん暗くなっていく。沢山あった街灯が、ぽつぽつと消えていた。横手に住宅街があるけれど、しんと静まり返って灯りもまばらだ。
 私はどこへ向かっているのだろう。こっちじゃだめだ。なるべく人の多い所へ──
 ふと辺りを見回して、ぞっと、強い悪寒が背中を一直線に駆け抜けた。匂いと既視感。ここは見覚えがあった。町中にはない草と土の匂い。右手に土手がある。ブロックが延々と続いて暫くすると、足で踏み固められた土手を上る細い坂道が見えてくる。その先にあるのは、崩れかけた井戸だけだ。
 私は恐怖で混乱していたけれど、ここへ来ようなどとは思っていなかった。決して、鬱蒼とした夜の林になど、あの井戸の方角になんて、来ようだなんて思うはずはなかったのだ。
 ちりん。
 後方から絶えず響いてくる微かな音。
 ちりん。
 ぶるぶると体が震えだした。言いようのない不安が体中を支配した。
 私がここへ来た……? 違う。そうじゃない。もし、追い詰められているのだとしたら。吠え立てる獣から逃げる兎のように、音によってじわじわと、こちらの方へ。行き止まりへ。このまま気づかずに走り続けていたら、もしかして私は林の中へ逃げ込んだのだろうか。ふらふらと苔のむす穴へ。真っ暗で湿った、井戸の中へ。

 目の前に人影が飛び出した。私は叫び声を上げて自転車のハンドルを切った。人影からも大きな声が上がった。男の声だ。狭い道なので自転車はすぐ土手へ突っ込んで、車輪が溝に嵌ったまま持ちあげられなくなった。
 私は咄嗟なことに声も出ず、何も考えられなくなっていた。ひとつ、逃げなければならないという思いだけで、自転車にも構わず走りだそうとした。
「オイッ、ぶつかりかけといて一言もなしかよ!」
 私は怒鳴り声から取れる人らしい言葉に、踏み出した足を思わず止めた。心底ホッとしたと同時に我に返った。このままでは、後ろからくる何かに巻き込んでしまうかもしれない。
 勢い良く振り返る。溝に埋まったままの自転車の後輪が、カラカラと回り続けている。離れた角に、消えそうな街灯が薄っすらとついているだけだ。あまりの暗さに、私はライトを点けずに走っていたらしいことに気づいた。
 躓きながら人影に駆け寄る。ぼんやり見える男性の顔を見上げて、私ははっとした。見知った顔だった。
「あっ……! あの……!」
 咄嗟に名前が出てこなかった。何度も空気を吸い込む。喘ぎながらようやく声を絞り出す。
「岸辺さん……っ!」
 すがるように名前を呼ぶと、岸辺さんは先日と同じ“何だこいつは?”という目で、私をまんじりと見返した。暗がりで、しかも必死の形相でも、誰かは認識したらしい。
「君……」と呟きながら、不意に背後に目を遣った岸辺さんが、顔色を変えた。なにか恐ろしいものでも見たような顔だった。私は熱のせいではなく、本当に追いかけてきているのだと知らされたようで、とても後ろを振り向くことが出来なかった。
「こっちだ」
「えっ」
 突然腕を引っ張られて、ぐんっと体が傾いた。男の力で引きずられるようにして方向転換をさせられる。岸辺さんは迷わず土手を駆け上がった。その先には街灯なんてあるはずもない。真っ暗だ。
 抱えていたバックを漁って、岸辺さんがペンライトを取り出す。視界に、足元が微かに映しだされる。私は困惑した。ここへ来たら、逃げるどころか袋のネズミなんじゃないだろうか。ここは、追いかけてくる“何か”にとって、終着点なんじゃないだろうか。
「だ、ダメです! そっちは……」
「逃げるんだろッ」
 私は足を踏ん張って必死で岸辺さんを止めようとしたけれど、「じゃあ置いていってもいいんだな?」と言われて、ぐっと声を飲み込むと、彼の走るままに付いて行ってしまった。一人になることのほうが、余程恐ろしく思えたのだ。

 時折視界の悪さに転びかけながらも、ずんずんと林の奥へ進んでいくと、狭い木々の空間に小屋が見えてきた。ペンライトのか細い光に、汚い外観が浮かび上がる。
 眉を寄せた。前に来た時、こんなところはなかった。雑草が生えた空き地の端に、井戸だけがぽつりと取り残されていたのだ。今もただ、真っ直ぐ進んできただけなのに。
 私はまた急に恐ろしくなった。私の腕を掴む他人の手に、目を向ける。厚いジャンパーを羽織った岸辺さんの足運びに、微塵も迷いはない。機械的とさえ思える。ゾッとするような想像が、ぽつりと浮かび上がった。
 岸辺さんは、どうしてここに?──
 あんな人通りの少ない道に、こんな暗い時間、どうしていたのだろう。家が近いとも考えられる。でもそれなら今は? 逃げるなら、普通は明るい場所だ。人が多くて、紛れ込めそうな場所へ逃げるに決まってる。なのに、なのにどうして、こんな一番暗い林を選んだのだろう。まるで連れて行っているようだ。逃げているのではなく、井戸の方向へ。
「は、離して下さい……」
 暗闇に響かないよう、小さな声で走る背中へ投げかけた。しかし岸辺さんは声も聞かずに、黙々と小屋へ足を運んでいる。
「離して下さい……」
 もう一度呼びかける。掴まれた腕が、ギチリと締め付けられる。彼が止まる気配はない。闇の中に浮かぶ岸辺さんの肌が、不気味なほどに青白く見える。私の脈拍がピークに達した。
「やだ……! 離してッ!」
 半狂乱になりながら腕を振り、声を上げる。岸辺さんが腕ごと私を引き寄せて、片手で私の顔を固定した。
「離したら、どこへ行く気だ?」
 私は震えながら、岸辺さんの言葉を反芻した。
 自分が逃げようとしていた方向を見た。荒くなった息で視界がブレれる。暗闇の向こう。そこは、土手とは反対の方角だ。この闇で見えるはずもないのに、林の手前の石井戸が、私の網膜に焼きついたようにぼんやりと浮かぶ。
 ひんやりと、手先まで冷たくなった。膨張していた空気が急激に冷えるような感覚。ぐるぐるとビデオテープを逆再生するように自分の行動が蘇る。
 アパートから飛び出した時、私はここへ来るつもりじゃなかった。もっと町中へ逃げようとしていた。でも、いつの間にかこの土手に来ていた。今も市内へ向かうつもりだったのだ。それなのに、体は井戸に向いている。それより何より、もっと前。
 初めてここへ来た時から、あの井戸のことが頭から離れなかったのは何故か──
 寒気が走って、身の毛がよだった。もしさっき林の入り口で、岸辺さんが私の腕を離していたらどうなっていたのだろう。私は、どこへ走りだしていたのだろうか。目の前が真っ暗になって、意識がフェードアウトしそうになる。
「オイ、君」
 片腕に抱えられていた体が、がくがくと揺さぶられた。岸辺さんが私の頬に手を当てたまま、険しい顔でじっとこちらを見ている。何度か瞬きをしてはっとする。ようやく、眼の焦点が合った。
「大丈夫です……」
 大丈夫。私は自分に言い聞かせるように呟いた。落ち着かなければならなかった。
 背後からがさりと音がした。私は思わず見てしまった。暗い林の幹の間を、這いずるようにうごめく影を。左右に揺れながら、頭部らしきものを時折がくりと下へ向ける。ヨタヨタ、ガクリ。ヨタヨタ、ガクリ。そんな歩調で、こちらへじわりじわりと近づいてきている。
「もたついてる暇はないぜ」
 岸辺さんがガチャガチャと小屋の錠を開けて、戸を引く。私は真っ青になりながら、迷わず中へ体を滑り込ませた。



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13/11/22 短編