02


 中に入ると、むわっと埃が押し寄せた。微かにカビの臭いもする。
 岸辺さんの明かりで、小屋の中がぼんやりと見えた。鎌や草刈機、熊手や竹箒といったような道具が、部屋の隅に寄せてある。戸と対角に一つだけ小さな窓があり、内部は6、7畳ほどの広さしかない。天井もあまり高くないので、人が二人入ると用具の間に押し込まれるようで圧迫感がある。
「鍵をくすねておいてよかった」
 岸辺さんがスライド式の内鍵を閉めて、ペンライトを私へ差し出した。反射的に受け取る。
「くすねたって……」
 思わず、声を絞り出した。酷くかすれていた。叫んだのがいけなかったようだ。
「……盗んだんですか?」
 状況についていけなかった。岸辺さんはここで偶然会った人のはずだ。これじゃあまるで。まるでここに来ることを計画していたようだ。
「ああ、もしもの時に使えるんじゃあないかと思ってね」
 岸辺さんは緊迫した面持ちで、戸に耳を当てた。声のトーンに聞き流しそうになるが、とても普通じゃない。
 私は外を窺う背中を見つめながら、自分の中に再度迷いが生まれてくるのを感じた。外に出れば何が起きるかわからない。だが、この人も十分異常なんじゃないか。
 警戒する私をよそに、岸辺さんは抱えていたバックからおもむろにペットボトルを取り出して、私に指で合図をした。ライトで照らせと言いたいらしい。
 岸辺さんの手元に心細い光を向けて、コツコツと歩く彼を追う。狭い小屋を一周しながら、岸辺さんは壁沿いにぐるりと水を巻いた。奇怪な行動に、段々に私の緊張感が高まっていく。
「な、何を……?」
「何って塩水さ。正しくは砂糖入りの塩水だが……編集者に体にいいって無理やり勧められたのはいいけど、全然好みじゃあないんだよな、こういうの」
 私は眉を寄せた。ペンライトの光に照らされながら、岸辺さんは空のペットボトルを鞄に突っ込んで、「幽霊対策だよ」と言った。
「効くと思うかい?」
 効いてくれなきゃ困る。私も岸辺さんもあの黒い影に捕まったら、この小屋から井戸に引きずり込まれて、そのまんま食い殺されてしまうかもしれない。

 静寂が続いた。待てども待てども、何者かの迫ってくる気配はしない。時折板の隙間から微かな風が吹き抜けて、小屋を小さく軋ませていく。林の外は風が吹いていたが、木々がざわめくだけで強風はない。しかし凍えるように寒かった。熱も上がっているような気がする。
 ペンライトはもう消していた。視界の効かない、延々と薄暗い世界に投げ出されたような心細さが、じくりじくりと胸を蝕んでいく。
 ここにいて大丈夫なのだろうか。やっぱり町中へ逃げ込んだほうが良かったのでは。そもそも塩水なんて、あんな得体のしれないものに効くのだろうか。
 止めどなく渦巻く不安に押しつぶされそうになり、私は部屋の真ん中で膝を抱えて蹲った。岸辺さんは私の隣に立ったまま、戸口をじっと見つめている。
「ぼくはあれのことを調べていた」
 唐突に、空気に溶けこむような声で岸辺さんが言った。私はゆるりと顔を上げた。
 私と同じように、風鈴の音を聞いてここへ来たのだと、岸辺さんは呟いた。勾当台の家で聞いた風鈴の音が、霊園周辺でも聞こえて、不思議に思ったのだと。
「絶対音感があるわけじゃあないが、同じ風鈴だと思った。“同じ種類”の風鈴じゃあなくて、はっきり“同じ”風鈴だと思った……その時点で少しおかしいだろ? 霊園の近くと勾当台で同じ音を聞けるわけがない。何キロも離れてるんだから」
 岸辺さんは話しながら、窮屈そうにジャンパーの首もとを緩めた。
「君がこの土手から降りてきた後、ぼくも同じようにここへ来たんだ」
 私が井戸を見た日のことだ。思えば、私も風鈴の音を探してこの辺りに来た。
「妙だと思った」
「な、何がです……?」
「井戸なんてなかったからさ」
 ドクリと、私の心臓が一際大きく跳ね上がったのを感じた。
「この小屋はここの林を管理するために建てられたものだ。ちゃんと風鈴もあった。けど、井戸なんてどこにもない」
 戸口に向けていた岸辺さんの目が、すぅっと私に寄せられる。窓からのほんの僅かな光で、岸辺さんがじんわりと汗を掻いているのが見える。夜目がきいてきたのかもしれない。
「君……一体どこへ行ってたんだ?」
「どこって……」
 私は答えられなかった。林の中を、ただ真っ直ぐ歩いていただけだったからだ。
「さっきぼくが引き止めた時も、君が真っ青な顔で見ていたのは納屋だった……」
 これ以上聞きたくはなかった。周囲はどこまでも真っ暗闇で、今では自分さえ信じられない。それでも、岸辺さんの声に縋るしかなかった。知る以外に、恐怖を紛らわす方法がない。
 信じ難いことだけれど、彼の口ぶりからこういった状況に慣れている雰囲気を感じ取ったので、私は仄かな希望をこの人に抱き始めた。
「あれの正体を、知ってるんですか?」
「いや……」と岸辺さんは口を閉じた後、一拍間を置いて、
「悪霊ってのかもしれないな……見たのは数日前だ」
と囁き声で話を続けた。
「納屋の奥の、影になったところにあいつはいたよ。君の言う、井戸の上の辺りだった。真っ黒な影だ……影のようなもの、かもしれない。ぐちゃぐちゃにもつれた黒い物体が、寄り集まって出来た塊に見えた。例えるなら、腐りかけた人間の腸を繋げて、人の形になるまで巻きつけたようなものだ」
 とにかく、いいものじゃないことはわかったのだと、岸辺さんは言った。
「観察していると、そいつは光のあるところには出てこられないようだった。日の暮れる頃になると、納屋から這い出して来て、この周辺をひたすらウロウロしている。でも何故か、この小屋の周辺にだけは絶対に踏み入れなかった。時折入りたそうに近づくが、小屋を含めた一定の区画には絶対に入って来ない」
 私はこの空き地に訪れた時、柱の跡らしきものを見つけたことを思い出した。恐らく井戸が使われていた頃に、家屋が建っていたのだろう。それを岸辺さんに話すと、やはり難しい顔をして、今度はぶつぶつと何やら独り言を始めた。
「きっと入れないんだな。幽霊の制約かもしれない。生前の名残か、もしくは結界でも張ってあるのか……」
 梢が紗を流すように鳴き、隙間風が足元を撫ぜて行く。頭は熱に浮かされて痛みすら感じるけれど、手は凍るように冷たい。きっと紫色になっているに違いなかった。
「ナァ、風鈴の音は今でも聞こえるのか?」
 私は震えながらぎこちなく首を振った。
「ぼくもだ」
 岸辺さんの顔は、険しく歪んでいる。脂汗が滲んでいた。不安。緊張。恐れ。私の抱いているもの全てを、ヘアバンドの下に覗かせている。追い詰められた顔。間違いなく打つ手を無くした顔。
 私は崖の淵に立っているのだと気づいた。岸辺さんは身を隠せる場所を確保していたが、解決する手立てを知らない。
 逃れられるか分からない──
 血が冷たくなるようだった。心臓の鼓動が体の中で膨らんで、鼓膜をがんがんと打つ。嫌な、形容しがたい臭いが立ち込め始めた。

 唐突に肩を掴まれた。ひゅっと喉が詰まる。隣に片膝をついた岸辺さんが、「シッ」と制止の声を上げた。
 みしり、みしりと、小屋の壁が軋む。左側の後方。私の後ろだ。何者かが、板を押している。ツンと鼻を突く臭いが強くなった。
 古い板目を軋ませる音が止まると、今度はカリカリカリ、と引きずるような音へ変わった。決まった間隔を置いて、どこかに引っかかる。それからまた、カリカリカリ、と続く。小屋の板の継ぎ目が、丁度いい間隔にある。耳を塞いでしまいたかった。きっと、岸辺さんの言う人の形を借りた影が、指を模したもので、すぐ傍の外壁をなぞっているのだ。
 小屋の幅は狭くて、二人並ぶと壁とほとんど隙間がない。一枚の木材越しに、“何か”がいる。
 寒気がした。冬だからではない。外の空気と、これは明らかに違っていた。ガタガタと体が異常なほどに震え出した。自分でも分からない。止まらない。寒いからではない。怖いからでもない。
 カリカリとなぞりながら徐々に背後から迫って、戸口へゆっくりと向かっている。私のすぐ横で気配は立ち止まった。耳元で、継ぎ目に引っかかる音がする。隙間から、腐乱臭のような耐え難い臭いが漂う。吐き気がした。それでも正面の虚空を見つめながら、息を押し殺す。
 バン! と壁に平手を叩きつけられる衝撃が走る。ビクリと体が跳ねた。
 バン、バン、バン! とアパートの窓を叩かれたように、何度も何度も激しく横の壁が打たれる。
 震えが収まらなくなった。何者かに操られているみたいに、私の意志に反してぶるぶると揺れる。私はその原因の分からない異常に、おそろしく恐怖を感じた。怖い。止まらない。こわい……!
 いつの間にか岸辺さんの腕を掴んでいた。岸辺さんは身を固くしながら、私の体を抑えこむように引き寄せている。
 暫く打擲し続けると、再び板をなぞるようにして、音が移動を始めた。
 カリカリカリ……カリカリカリ……
 何かの音が、確実にこちらに向かっている。
 私は恐怖なのか、震えのせいなのか、いよいよ息ができなくなってきた。岸辺さんは息を凝らしながら、闇の中を見つめている。腕の力が強くなった。
 目の前で、足音が止まった。みしり、と戸が軋んだかと思うと、カリカリ、カリカリ、と引っ掻くように鳴る。
「き、岸辺さ……」
 岸辺さんが手で私の口を覆った。
 音を聞きつけたからか、またバンバンと激しく戸口が叩かれた。それが幾度も幾度も繰り返された。

 閉じ込められたまま、数時間が経った。真っ暗闇が晴れ、小屋の中が輪郭を現している。戸をしきりに掻いていた音も止み、静かになった。嘔吐感を誘う強烈な臭いだけが、残されたように漂っている。
 私の具合は限界だった。寒さの中で硬直していたために、熱で意識が朦朧としている。姿勢を保っているのさえ難しい。何者かに捕らえられる前に、自身の熱で命を落としかねないとさえ思えた
 岸辺さんは、あの人型は明るみには出られないのだと言っていた。井戸の底に潜むものだからだろうか。しかしもう空は白んでいる。確かめなければ、いつまでもここから出ることが出来ない。
 岸辺さんも同じことを思ったのか、重たげな目を動かして、戸口へと忍び寄っていった。耳をそっと当てて、物音を確認している。
 私も這いずるように後ろを向いて、窓に近づいた。鬱蒼と茂る木の根元に、納屋が見える。岸辺さんの話は本当だったのだ──と、私は目をこすった。熱で幻覚を見ているのかもしれない。納屋に、苔に覆われた石井戸が重なって見える。
 視界の端で何かがもぞりと動いた気配がした。蜘蛛の巣や埃が張り付いて、ベタついたガラスに、反射して映るものがある。ドクドクと心臓の鼓動で、体が小刻みに揺れる。恐る恐る、眼球をずらした。
 全身の毛が逆だった。窓のすぐ横に、壁に張り付いた人間がいる。影じゃない。確かに、人間だ。ぎょろついて血走った目が零れ落ちんばかりに見開かれ、こちらを凝視している。糸のように細いざんばらの髪が、崩れ落ちた頭皮にぶら下がって、ぶらりぶらりと風に揺れている。体にはボロ布のような着物を身につけているが、剥離した表皮から、絶えず腐敗した体液が音もなく滴って、その中をウジ虫が蠢きながら地面に落ちていく。
 ちりん──
 風鈴の音が背後からして、思わず私はそちらの方を振り向いた。岸辺さんが勢い良く腕を伸ばして、私を乱暴に引き寄せた。腐乱した赤黒い手がぬっと現れて、膿らしきものを飛び散らせながら私が覗いていた窓を叩く。腐っているからか、その度にぐにゃりぐにゃりと跳ね返される。
 何者かは分からない。女か男かも判別できない。しかしただひとつわかった。この耐え難い臭いは死臭で、外で待ち構えているのは死体だということだ。
「あと少しで完全に日が昇る」
 窓から後ずさりながら、岸辺さんが疲れきった声で言った。


「もう大丈夫そうだ」
 その声に顔を上げた時には、既に臭いも闇も消え失せ、まばゆい光だけが差し込んでいた。岸辺さんが生き延びたといった風に、お腹の底から息を吐き出す。一晩中聞こえていた物音はせず、冬らしい静かな朝が外に満ちている。
「助かったんですね……?」
「ああ、どうやら……今のところはな」
 ずっと力んでいたせいか、私の声はカサカサとして消え入りそうだった。まだ頭は朦朧とするが、熱は引けてきているような気がする。意識的なものだったのだろうか。
「よく……ああいうのを見るのかい?」
 目頭を抑えながら眠たげに聞く岸辺さんに、私は首を振った。
「体調を崩した時にたまに幻覚を見るんです……でもあくまで幻覚で、こんな本物だとは……」
「そう」
 尋ねた割に、素っ気ない一言が零された。何か言いたげな視線が、私に注がれる。ふと我に返った。
「……あ」
 がっしりと、自分の手が岸辺さんのジャンパーを鷲掴みにしていた。まだ、至近距離で抱き合っていたことを思い出す。どうやら私がしがみついていたので、動こうにも動けなかったらしい。
「ご、ごめんなさい……!」
「痣ができたかもな」
 嫌味を言いながら立ち上がって、岸辺さんは背伸びをした。ゴキゴキと鈍く体が鳴るのが聞こえる。そうして体をほぐしてから僅かに開けた扉の隙間から頭を出し、左右を見回して安全を確認すると、ほっとしたように小屋の外へ出た。さくさくと軽快な歩幅で松の葉を踏み鳴らすのが届く。私は力の抜けていた腰を無理やり立たせて、よたよたと岸辺さんの後に続いた。
 岸辺さんが戸の錠を元の通りに閉めている間、私は気になって、小屋の後ろをふっと窺った。ほっとした。松の間に納屋が建っていて、今度は井戸は見えない。本当に一難は去ったようだ。思いながら視線を外すと、岸辺さんが目を細めて私が覗いていた方を見つめていた。思わず目の先を辿ってしまう。
 私はがしっと岸辺さんの腕を掴んだ。言葉を失った。
「いるよな?」
「は、はい」
 頷きながら、神妙に唾を飲み込んだ。
「……腐った……人が」
 喘ぎ喘ぎ、目に映るものを確認する。少しの沈黙の後、「君、相当取り憑かれてるんじゃあないか?」と、向こうを見つめたまま、岸辺さんが言った。
「ぼくはやはり黒い人影だ」
 私は岸辺さんを見上げて、また納屋へ視線を送った。納屋の暗がりに紛れてよく見えないが、あのぶら下がった頭皮が揺れているのがわかる。絶対に黒い影なんかじゃあない。ぞくぞくと悪寒が駆け抜けて、金縛りにあったように体が固まる。
 しかし明るいからなのか、こちらが見えていないのか、追いかけてくる気配もない。ただ納屋の奥に立っているだけだ。
「前に知り合いに紹介してもらったんだが、いい住職がいる」
 私は眉を寄せて、岸辺さんの続きを待った。私を振り返った顔が、もどかしげに顰められる。“わからないのか?”とでもいうようだ。
「今日中に払わないと、今夜もこの小屋かもしれないぞ。まあ、ぼくはもう必要なくなるだろうから、この鍵は君にあげてもいいけどな」
 今しがた閉めたばかりの鍵をちらつかされて、もう私は死に物狂いだった。掴んでいた岸辺さんの腕を両手で持ち上げて、額まで擦り付ける。
「い、行きます! お願いします……!」
 二人でも死ぬ思いをしたというのに、あの暗闇の中で一人で籠城だなんて、耐えられるわけがない。執拗に何度も頭を下げた。岸辺さんはそんな私の様子に、隈の浮かんだ目を意地悪く歪ませて、愉快そうに笑っている。
 いつもならばむかっ腹が立ったものの、私は巻き込んでしまって申し訳ないやら、岸辺さんが意外にも最後まで付き合ってくれるのが有り難いやらで、この時ばかりはどんな顔をすればいいのか分からなかった。

 透明な光に照らされた住宅街へ、岸辺さんとふらふらと土手を降りる。
 乗り捨てた自転車が見事に倒立姿勢で、土手に突っ込んだままだった。すっかり忘れていたので、体力も気力も限界だった私は、置いていくわけにも行かないことを思うとげんなりとした。何とか頑張って引き上げたものの、ブレーキは完全にいかれてしまったようだった。岸辺さんときたら、その間一切手出しせず、我関せずを決め込んでいるのである。正直いい人なのか悪い人なのか、判断できない。
 私は一生懸命引っ張りあげたオンボロ自転車を転がして、岸辺さんの後を追いかけた。異常も吹き飛ぶほど、晴れて気持ちのいい朝だというのに、岸辺さんも私も、足元がおぼつかない。完璧に滑らかに舗装された道で、躓いたりよろめいたり、危なっかしい足取りだ。
「お寺に行く前に、どこかでコーヒーを飲んでいかないか」
「でも私、お金持ってないんです」
「一杯くらい奢ってやるよ」
 願ったり叶ったりな申し出だった。本当にお世話になってばかりだ。思えば岸辺さんとはほとんど面識がないといってもいいくらいなのに、たった数時間で色々なことがあった。
 そこで私には、どうしても確認しないと気が済まないことがあった。回る車輪を見つめながら、岸辺さんの名前を呼ぶ。
「笑わないんですか?」
「何がだい」
 あんなに取り乱して泣きついたのだ。それも何かに追われているだなんて気違いみたいなことを口走りながら。幻覚を見るだなんてことまで。しかし岸辺さんは、「まさか」と愉快げに笑った。
「そういうのは信じた方が面白いに決まってる。信じれば体験できるかもしれない。体験すれば、作品のリアリティが増すじゃあないか」
 作品? 今度は私が首を傾げる番だった。彼はクリエイターなのだろうか。わからない。わからないけど、確信したことがある。この人は、やはりおかしい。やはり三番目の席の人だ。
 あんぐりと口を開ける私に、「でも今回のようなのは御免だけどな」と付け足すものの、憔悴しきった岸辺さんの顔に満更でもない色を認めて、私は今更ながら、とんでもない人に関わってしまったと思ったのだった。


 いつもの喫茶店に入ると、頭上から涼しげな音がした。見上げれば、ドアベルの代わりに風鈴がぶら下がっている。
「あ、気付いた?」
 ドアを開けたままぽかんと首を上げている私に、店長がすかさず嬉しそうに声をかけた。
「どうしたんですか、これ」
 店長は顎を手のひらで擦りながら、
さん、この前風鈴がどうとか言ってたでしょ? 前のドアベル何だか煩いって不評だったみたいだし、そろそろ替えどきかなって思ってて、じゃあ風鈴ならオリジナリティーもあっていいかなぁ、と思ったわけだよ」
 無言でドアを閉めると、揺れた風鈴がちりんちりんと鳴る。
 私は店長の満足げな顔とは正反対に、この夏の音に胃が痛むような心持ちになった。

 はたして久しぶりにこの店のドアを開けた岸辺さんも、私と同じことを思ったらしい。上を見上げて、首を捻ってドアにぶら下がった風鈴を見る。それから、どういうことか事情を説明しろと言わんばかりに、わたしに顔を向けるのだ。
「オリジナリティーですよ、オリジナリティー。この店ならではのドアベルです」
 入口にいる岸辺さんを置いて、メニューと一緒に水をさっさと憎き三番目の席へ運んでしまう。
「そんなものより直すものがあると思うがな」
「誰だって思ってますよ、店長以外は」
 ふんと鼻を鳴らしながら、岸辺さんが席につくのを待つ。
 あの一件から、一週間が経っている。初めの数日は怖くてたまらなかったものの何事も無く日が過ぎ、岸辺さんの知り合いのお陰で、私の憑きものも消えたのだと安堵していた。
 岸辺さんがお店に訪れるのは久方ぶりだけど、お祓いのこともあって、このアクの強い人と一日中過ごす羽目になったことを思うと、慣れた気分になってくる。躱し方も心得るというものだ。
 木製の椅子に腰掛けると、岸辺さんは間髪入れずにブレンドコーヒーとチーズケーキを注文した。
「この間の顛末」
「え?」
 伝票に書き込む手を止める。
「君が言ってた井戸のことだよ。知りたいかい?」
「調べたんですか……?」
「あんな目に遭って、知らずにいる方が気味が悪いだろ」
 いいネタにもなるしな、と言った岸辺さんは、一枚の写真のコピーを私へ差し出した。それを受け取ってから私は、あっと思わず声を上げた。あの井戸だった。札がびっしりと張ってある崩れかけた屋根、剥がれて散らばった桶の板、苔の生え方まで、私が見たものと同じだ。
 私は目を見開いたまま、こちらの返答をじっと待っていた岸辺さんを見つめ返した。岸辺さんは私の顔を見て、やっぱりなという表情を浮かべ、口を開いた。
「君の言う井戸ってのはもしかして埋め立てられたんじゃないかと思って、管理小屋を建てた業者を当たったんだ」
 使われなくなった井戸の多くは放置されていても、住宅街周辺は好んで残している家以外、好奇心旺盛な子供に間違いが起こることを恐れて、大抵は撤去される。その際に、以後も使う土地なら尚更、沈下を防ぐために入念な地盤調査をするのが普通だ。だから記録も残っている。
 丁度小屋の東側、納屋の位置に、その井戸はあったのだという。
「出たらしいぜ」
 岸辺さんが声を低めた。
「人骨がごろごろと……それも未熟児や足の無いような、異常のあるものが多かった。ずっと昔のものらしいけどな」
 言葉を失った私に構わず、「思うに」と岸辺さんは続けた。
「この辺りは山を切り崩してニュータウンを建設したっていうだろ? 当時もう住んでいる者はなかったようだが、古い集落の跡はあったって聞いたことがある」
 岸辺さんの声は淡々としている。私はごくりと唾を飲みこんだ。
「いつのことかは知らないが、捨ててたのかもしれないな。邪魔な人間を、井戸の中にさ」
 聞き出した年配の関係者が言うには、埋め立ての時にはしっかりとお祓いをしたらしい。でもそれは井戸に対してのお祓いだ。名も知らない骨となって重なり落ちていた者に対しては何もなされていない。
 あの御札は死者へのものだったのだろうと、岸辺さんは語った。私もそう思う。無残に投げ捨てられた恨みか、殺された無念か、そういうものが寄り集まってできた怨念ごと、あの井戸から出すまいと封じ込めていたのかもしれない。それが井戸が撤去された際、一緒にお札も取り払われたことで解放され、やがてああいうひとつの人の形にまとまり、恨みを晴らそうと狂う姿になってしまったのかもしれない。
 恐ろしい推測だけれど、それよりも哀れな気がした。骨と変わった人たちは生きることも許されず、気持ちさえ、恨みさえあの薄暗い腐った井戸の中に永遠に閉じ込められてしまったのだ。そう考えると、御札を貼る人間の姿に、より一層の残酷さを感じざるを得ない。
「でもわからないんです。何で私だったんでしょうか」
「巻き込まれるのに理由なんてないさ。交通事故にだって、意思はない。そうだろ?」
 あの悪意の塊のようなものに無作為に選ばれたのだとしたら、これほど辛い偶然はない。
「一応あの跡地にもお祓いをするよう、手は打っておいたよ」
「ありがとうございます」
 言いながらも、あの恨みを抱え、晴らす人間も失い、それでも腐りながらも歩き回っていた人が、これからまた居場所をなくすことを思うと、恐ろしさとともに同情のような、得体のしれない寂しさが胸に残る。

 私から写真を受け取って、岸辺さんは自分の左腕をさすった。それを眺めながら、私は今日までのひと月を感慨深いもののように思い出していることに気づいた。
「また君に痣を作られても困るしな」
「えっ」
 呟かれた声に、私は目の前の人を凝視した。目線の先の耳の後ろ、刈り上げられた襟足、首筋を通って右腕、右手が抑える左手首上部。椅子にかけた上着は、あの日と同じものだ。
 ぶわっと顔が急激に熱くなった。急に、急にだ。皮膚という皮膚が紅潮した感覚。小屋でのことが蘇ったのだ。
 しがみついてほぼ一晩。自分以外の温かな体の感触。家族以外で、こんなに長く体温を感じたのは初めてだった。それも顔見知りと言っても、名前と、三番目の席が好みということしか知らない男性のだ。それなのに、匂いまではっきりと覚えている。きっと臭いを避けようと思うあまり、無意識に顔を押し付けていたかもしれなかった。
 理解した途端、私は茹で上がったタコみたいにつま先から頭のてっぺんまで真っ赤になって、湯気のような何かが全身から吹き出すような気がした。
 岸辺さんは一向に立ち去らない私に気付いて顔を上げる。訝しげな目とばっちり視線が合うと、私の心臓は飛び上がった。
「あっ、あの……!」
 とんでもない無礼をしたのだから、その謝罪とお礼を言うだけだ。それなのに声が上ずってしまった。あわあわと口だけが開いたり閉まったり忙しない。
 岸辺さんは私の真っ赤な顔を見ていたかと思うと、何か合点したようにますます眉間にしわを寄せた。そしてあろうことか、
「まさかとは思うが、ぼくに惚れたとか言うんじゃあないだろうな?」
などと言ってのけたのだ。そのものすご~く煩わしそうに歪められた顔を見た途端、私の赤面は羞恥と怒りの意味に取って代わった。
「そういうのは御免だぜ? 面倒臭くって仕方ない」
「この間はどうもって言いたかっただけですっ! ご注文をどうぞッ!」
「さっき言っただろ!」
 文句を跳ねつけて、私は再び注文を聞き返した。
 やっぱり三番目の席は碌なもんじゃない。この人がとんでもなく自信家だということを、今度こそ忘れないよう、強く頭に刷り込まなければならない。
 足を踏み鳴らしてカウンターへ戻る。厨房の中はがらんとしている。店長はどうやら、私と岸辺さんが話し始めた頃から、常連のおばさん達と世間話に花を咲かせているようで、昼か朝かといったこの時間には、ローカルという呼び名も洒落過ぎなこの店には、他に客足もない。私はしぶしぶ、岸辺さんのコーヒーを用意することにした。
 ドリップする間は暇なので、陽光ばかりが真新しく光る店内の様子を窺う。「まったく」などと呟いていたのも一瞬で、今ではぼんやりと窓の外を眺めている岸辺さんは、夜更かしでもしたのか、行儀悪く頬杖をつきながら、珍しくあくびを零している。

 先ほど、岸辺さんに話しそびれたことを脳裏に思い浮かべた。この一連の体験に終止符が打たれかもしれないと、知らせるつもりだった。
 昨日、実家へ電話をかけた時だ。
「大丈夫だった?」
 バイトがどうの試験がどうのと他愛もない報告をしていると、母が思い出したように尋ねた。
「何が?」
「ひと月前から夢見が悪くてね、」
 母は昔から、寝付きだけが取り柄なのだと自慢しているような人だ。それが急にうなされるようになって、どうしたのかと考えている内に、私に何かあったのではないかと嫌な予感がしたらしい。
「もしかしたら意地でも張って、お米がなくなったって言えないでいるのかもって思って……送っといたから」
 安心しろと言わんばかりの声に、私は漫画のように、受話器ごとコケそうになった。惜しい。惜しいのだが、不吉な勘で一番最初に浮かぶのがお米では、なんとも頼りない。
 快くお礼を告げて会話を終わらせると、受話器越しからちりん、という微かな音。
 私は急いで、離しかけた耳をもう一度受話器に押し付けたが、電話はもう既に切れていて、ツーツー、と無機質な音がひたすらに繰り返しているだけだった。

 思い出したことがあった。今年の夏、私がサークルやバイトにかまけて不精をし、実家へ帰らなかった頃、そういえば母は父と行った旅行先の神社で、風鈴を買ったのだと言っていなかっただろうか。秋になっても飾ったままにしていたので、やかましくてかなわないと、父に文句を言われたことを、母は確かにぼやいていたように思う。
 風鈴は今ではただの風物詩として軒先に飾られているだけだけれど、元は魔除けの意味を持っていたのだという。だとしたら、風鈴とあの暗闇から覗いていた目は別物だ。もし、私に危険を警告をしていただけなのだとしたら。安全な方向へ導いていただけなのだとしたら。
 だとしたら風鈴の音は、岸辺さんに会った途端、消えていた気がするのだ。何より岸辺さんが言う小屋の風鈴は、私には見えなかったのだから。彼も知れず、同じように導かれていたに違いない。

 店長が戸口を振り返った。私の薄すぎるコーヒーの香りが一筋に流れ、窓際の岸辺さんがまたあくびをする。少しの侘びしさを乗せた風鈴の音が、またチリンと鳴った。



|終
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13/11/22 短編