記憶とはいい加減なものだ、と思う。どんなに大切なことで、忘れてはならないと分かっていても、無意識に失ってしまっている。或いは覚えていたつもりでも、別々の記憶が重なって、全く違う形に作り上げてしまっている。それを本当の記憶だと思い続けたまま過ごしてしまっている。
 夢もそうだ。心地の良い陽気の中を歩いている時に、不意に思い出すのは悲しい夢だった。思い出したことはなくても、いつも見る夢だと感覚が覚えている。
 もやもやとした感覚の糸口を探っていると、突然、悲しみが突き上げきて、私はいつも泣きそうになるのだ。どんな切ない映画を見るよりも胸が締め付けられた。その理由のない痛みを振り払うように、仕事や用事に没頭する。けれどどうしてか、帰りには忘れていても、そんな日には必ず泣きそうな夢を見る。
 どれほどの悲しみだったのか。起きた時にはすべてが消失していた。細くて鈍い気だるさだけが、体に沈殿していて、ほかの感覚は跡形もない。
 そんな夢を見た日は、ぽっかりと空いた穴を埋めなければならないという焦燥感に襲われる。ものを買っても満たされない。人に会うと、少しいい。ものを食べると、もっといい。
 だから好きなものを食べに行く時は、その夢を見た日だけなのだ、と言うと、岸辺さんは「埋めたいのは胃袋だろ」と返した。わざわざ心底呆れたような表情を作ってまでだ。私が欲しい反応と違うことに拗ねて黙りこめば、それからちょっと笑う。

 わかりにくい人。意地のわるい人。本当はやさしい人。私が、一目惚れした人。



かたみの色

01


 思ってみれば、奇妙な体験だった。
 今でもその瞬間の高揚は、鮮明に浮かべることができる。
 はじめてその人を目にした時、不思議と胸のふるえるのを抑えられなかった。火が灯る瞬間のように、体の一部に赤々とした光が弾け、それからゆらめくようにして立ち上がった火柱からぽっと、熱が次第に広がっていく感覚が、私の頭を霞ませた。決して夏の暑さのせいではなかった。
 私は、その人のことを知らなかった。以前に会った記憶はなく、どこかですれ違って既視感を覚えたとも思えない。その人はとても独特な雰囲気を持っていて、一度でも会ったことがあるなら、余程のことがない限り印象に残ってしまうだろうからだ。
 しかし理性でそう窘めはしても、私の胸だけは確かな反応を示していた。トットットッ、と僅かに足踏みをしていた鼓動が、次に見かけた時にはゆるく走りだしていて、三度目にはもう、私の思考を置いていくかのように、胸には駆け足の鼓動が延々と続いていた。
 一目惚れ、というものかもしれなかった。そういうものがあるとは聞いていたけれど、些か現実離れしているように思えて、まさに自分にその都市伝説風の現象が起きたのだと認識するまでには、大分時間がかかった。
 その人をはじめて見かけた日、私は行きつけの定食屋で少し遅い昼食をとっていた。大学時代から相も変わらず通っている大衆的なお店で、知人の伝手で入った職場からも近く、サラリーマンや学生、若い女性やはたまた町内らしき騒がしい面々と、来る客に特定の決まりはない。
 大衆食堂は、裏通りにあった。風にはたはたとたなびく暖簾と、曇りガラスを嵌めたアルミサッシのなんてことない戸口をくぐると、カウンターと木製のテーブルに椅子と、肌に張り付くようなちょっと脂っぽくてどこか懐かしい匂い。壁に貼られたビールの広告と、画用紙を切って貼っただけの黄ばんだ手書きのメニュー。夏でもクーラーなんてものは無く、扇風機の頭がこちらを向く瞬間か、窓から自然の風が申し訳程度にそよいで来るのを待つ。それでもダメならあとは冷水で涼を取る。あまり広くはない店内の端には三畳程度の畳敷きの小上がりがあり、夕方になると胡座をかいて楽しそうにビールを傾ける会社員の姿が見えたりする。そういう庶民的で、いつとも素のままに入れるような店の雰囲気を、私はとても気に入っていた。
 だから私は、その人のあまりにもこの店に似合わないことを、気に留めずにはいられなかった。何故こんな人が来るのか。そう思わずにはいられないほどに、その人はあまりにも垢抜けていたからだ。こんな路地を数本入った定食屋なんかより、メインストリートに面したカフェでサンドイッチでも頬張っていた方が、ずっとこの人に似合っているし、本人だってきっとそれを意識しているはずだった。
 私が抱いた印象に反して、カラカラという軽快な音を鳴らして引き戸を開けたその人は、彼の雰囲気と相反する店内に圧倒されることも、またすることもなく、どこか体に染み付いたような所作でテーブル席を選んだ。重たい木製の椅子を引きずる音と光景が、何故かその人を印象づける一場面として、私の中に残った。出された冷をぐっと飲み干すと興味半分に壁に貼られたメニューを眺め、ぐるりと全て見渡し終えれば、気が済んだ様子でカウンター越しに厨房へ注文をする。その声のやけにはきはきとしていたこと。とてもじゃないが、カフェでサンドイッチ一筋の客の出せる声ではない。その後は定食が運ばれるまで、他の客がするようにぼんやりとテレビを眺めている。彼の内面の嗜好は、決して私が思うような、カフェとサンドイッチに限ったものではないらしかった。
 気づけば、食べかけだった白米が、喉を通らなかった。血潮がざわめいて食欲なんてとうに押しやられてしまっていた。その時にはもう、胸が鳴って仕方がなかった。どうしてなのかはわからない。もしかすると、彼の外見と店とのギャップが、知らずの内に強烈な意外性という印象をもって、私の心を惹きつけたのかもしれなかった。
 それまで私は、恋というものは、日々の積み重ねの中から、じわじわと浸透してくるものなのだと思っていた。気づく瞬間は突然だとしても、あたたかくて優しさに包まれた、穏やかな気持ちの中に訪れるものなのだと。間違っても、特に面白くもない情報バラエティが流れる脂っぽい大衆食堂のテーブルで、一目見ただけの男性に沸き起こらせてしまうようなときめきを、恋と認めたことは一度もないはずだった。
 けれど、実際に私が恋に落ちたのは、ロマンスとは程遠い炒めた肉の香ばしい匂い漂う定食屋で、クラシックかモダンジャズに取り巻かれながら確信するはずだった気持ちも、騒がしいテレビの笑い声がひっきりなしに流れている空間に取って代わっている。
 それでも、理想があまりにも現実に近づきすぎた中でも、その人はいつまでも私を夢のなかに留めた。美術に詳らかで、クラシカルな調度を好み、イタリアに傾倒し、独特なファッションセンスを持っている。それなのに、湿って油くさい食堂に通う、ちょっと偏屈な人。
 その時は挨拶をすることさえ想像もできなかったのだ。


 岸辺さんは初めて来店してから日は浅いものの、殆ど週数回のペースで顔を見せるので、ひと月も経てばれっきとした常連だった。
 昼に見かけることもあれば、夕方に定食を食べていることもあった。店主とはいつの間にか仲良くなっており、私がその人の名が「岸辺さん」で、職業が漫画家だと知ったのも、気さくな店主と世間話を交わしているのを耳に挟んだからだった。
 マニュアルで固められたチェーン店でもない限り、大抵のお店はひと月に数回通えば顔も覚えられるし、話しかけられることだってある。それを私のように居心地がいいからと大学時代から毎週のように通い続けていれば、互いによほど無愛想で付き合い下手でもなければ、自然と顔見知りくらいにはなるだろう。暇な時間に立ち寄れば、店主とおかみさんの話し相手になる。岸辺さんとは、そんな時にはじめて言葉を交わしたのだった。
さん、もしも転職する時はちゃんとウチに顔出すんだよ」
 おかみさんの愚痴に流されて、ついつい仕事の弱音を零した日、席は離れていたというのに、巻き込まれるように話を聞かされていた彼は、私が笑いながら席を立つと、「ぼくもそろそろ行くよ」とちょっと素っ気なさを感じさせる声でおかみさんに挨拶をして、私の後を追うように勘定を置いた。
 とっぷりと暮れた裏通りは、残照のせいか生暖かい。それでも脂っぽい店内から出て吸い込んだ空気は、澄んだ味がした。
 背後で、カラリと戸の閉まる音がした。
「君、よく来るみたいだな」
 少しばかり身が強張った。店の外で話しかけられるとは、思ってもみなかった。これだけ顔を合わせていて、短いといえど店主を介して言葉を交わすこともあったのだから、普通なら二言三言会話をしても不思議ではない。しかしおかしなことだけれど、私は岸辺さんと話すなんてことは、一度も想像したことがなかった。意識するがゆえに私がそう思い込んでいただけかもしれない。けれどそうじゃなくても、岸辺さんには近寄りがたい雰囲気があった。どちらにしても、知れず距離を置いていたのは、私の方だった。
「学生の頃から、よく来てるんです……住んでたアパートがこの近くだったので」
 驚いたのを悟られないように、胸をなだめながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「今はちょっと離れてるんですが、どうしても食べに来ちゃうんですよね」
 量も多いし、と付け加えたところで失言に気づいて、慌てて口を閉じる。頬が赤くなるのがわかって、岸辺さんに見えないように俯いた。がっついて食べる女だとは、自分から暴露する必要はなかった。
 しかし岸辺さんは私の言葉に軽く笑い声を漏らすと、
「なるほどな」
と相槌を打った。何に納得をしたのかはわからない。くつくつと喉で笑っていたかと思うと、「その内デブるぜ」なんて言葉が落ちてきた時には、照れくさいを通り越して顔から火が出るかという思いになった。バカにされたのではない。からかわれたのだ。岸辺さんの声色は柔らかかった。
 反射的に岸辺さんを振り返る。羞恥で身が焼かれる思いだったけれど、その声に親近感に似た好意が含まれていたことで、急に気が緩んでしまった。お返しになにか気の利いた返しでもしてやるぞと意気込んだのに、私の高ぶった熱意は一瞬で口腔内で霧散してしまった。どうしてか岸辺さんの方が、ぎょっとした顔をして佇んでいたからだ。
「いや……」
 岸辺さんは言い訳をするように、片手を軽く振って「悪かった」と短く謝った。
「友人に言う感覚でつい……君に似た女性がいたものだから」
「い、いいんです! 私もよく友人に言われてましたから。“今はいいけど、その内ツケが来てデブるぜ”って」
「……そう?」
 何故か狐につままれたみたいな、不思議そうな顔をしていた岸辺さんが、私の言葉に驚いた風に眉を動かしたかと思うと、不意に目を細めて穏やかに笑っていた。表情で何があったのか聞き返してみても、岸辺さんは気づかない様子だった。無意識に顔に出していたらしい。

 私にとって、それは意外な出来事だった。
 オシャレで偏屈で近寄りがたい雰囲気で、でもきっと、これが岸辺さんの素の顔なのかもしれない。
 そう思った瞬間から、その姿が脳裏から離れなくなった。通勤途中、休憩中、お風呂に入っている間や布団をかぶった途端に、ふと岸辺さんの柔和な目元を思い出す。この人を好きだと思った。
 私の一目惚れは、ひと月と経たずして、すっかり後戻りできなくなっていたのだった。

 それからというもの、定食屋で会うと、話しをすることが多くなった。初めは二言三言だったのが、いつしかおかみさんを通さなくても声をかけるようになり、店主を交えての長話になると、親父さんという人はただでは帰してはくれない。あれよあれよという間にビールが注がれ、気づく頃には店仕舞い。帰りには岸辺さんと肩を並べて、途中まで酔い覚ましに歩くことになる。岸辺さんと一緒に店を出る時の、カラカラと扉を閉める音が、なんだか気恥ずかしかった。それからというもの、鉢合わせれば自然と相席をするようになった。
 だからといって恋愛とはご無沙汰だった私は、岸辺さんと進展したいとか、そういったことに頭が回るわけでもなく、好きな店を通して気の合う知人を見つけた奇跡に感じ入っていたところがあった。帰路で話すことも、やれあそこの店が美味いとか、どこのカフェが洒落ているだとか、どこで何のイベントがやっていて、出店期間がどうのと、食い気ばかりで色気はない。話題に出た場所に行ったことを話すと、今度は岸辺さんが私が勧めた場所へ行ったと話し、そんな報告会のようなことが数ヶ月以上続いても、共通の話題は尽きることはなかった。夏に遠目に眺めていた岸辺さんと、冬にはカウンターに並んで座っているのは、現実であるはずなのにとても不思議な光景だった。

 ひと月に数回、大衆食堂だけの常連仲間。そんな奇妙な関係が始まって、半年近く経とうとしている頃だった。どういう話のきっかけか、どちらからともなく、なら今度行くときは誘い合おうという流れになった。最近では暖かくなり始め、出かけるにも丁度良かった。大分気を許していることはお互いに感じていたので、変に構えたりはしなかった。
 “店で顔を合わせる常連仲間”から大きく進展した関係に、胸を高鳴らせながら店を出て、いつものように並んで歩く。月明かり差す路地裏の涼やかな風を肌に感じた時、あっと声を上げそうになって呑み込んだ。
岸辺さんには彼女はいないのだろうか──
 私はこの時になってようやく、本当にようやく、思い当たったのだ。
 すると、さっきまで胸を取り巻いていたあたたかみが、夜風に攫われるようにして、サッと冷えていく。まずいことをしたかもしれない、と思った。今まで全く考え付かないことだった。それは私が恋愛と離れていたせいもあるし、岸辺さんと話せることに舞い上がっていただけで、恋のその先を一度も連想しなかったからかもしれない。
 出会って初めて、岸辺さんと近づくことに焦りが湧き上がった。それは、恐れにも近かった。
 もし、岸辺さんに彼女がいるのなら、今回の約束はお断りした方がいい。私だけが、岸辺さんへの恋慕という邪な感情を抱いて接することになる。居心地の良い“常連仲間”の共有すら、失ってしまう。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
 酔いの回っているせいもあって、私は冷静な判断ができていなかった。

 岸辺さんへ唐突に向き直り、「申し訳ありません」と私が頭を下げると、岸辺さんは心地よい酔いを孕ませた声色で、「ん?」と零しながら、私へ目を向けた。
「その、もしかして、お付き合いしている方がいたら、ご迷惑をお掛けしてるんじゃないかと思って……私、本当に全然気が回らなくて、今になって心配になって……」
 しどろもどろになりながら話していると、要らぬ心配だったのではという気分になってくる。取り繕うように言葉を重ねていけば、頭上から吹き出す音が聞こえた。こわごわと目を向けると、岸辺さんが大笑いをしている。見たことのない顔だった。
「お付き合い~~?」
 笑い声の途中でまた、「お付き合いだって?」と息継ぎもそこそこに繰り返している。余程のツボをついたらしいけれど、私は突然のことで呆気にとられるしかなかった。
「嫌なこと言うな、君も」
 岸辺さんが落ち着けるように息を吐き出した。笑いの余韻を含んでいた声に、ふと、僅かな冷静を感じる。ちらりと窺った岸辺さんは笑っているのに、何故か胸が締め付けられ、私は不可解な感情に心中で動揺した。

 横を車が通り過ぎ、どちらからともなく、また歩を進める。沈黙が落ちた。先ほどのことを考えているせいか、数秒か数分かわからなかったが、不自然には感じないほどの間隔だった。
「君はどうなんだ?」
と、岸辺さんが言った。
「何がですか?」
 先ほどの会話の続きだとわかっていても、間に挟んだ沈黙を、岸辺さんは会話の終了と感じているかもしれないと思ったからだ。余計な気遣いだということは、私自身理解していた。中途半端に話を終わらせるわけがないということを。大変なことを聞いてしまったという居心地の悪さから、逃げようとしているだけだった。
 岸辺さんは、それをちゃんとわかっていたのだろう。
「ぼくと出掛けてるようだと“お付き合い”なんてしてる奴はいなそうだが、気になってる奴はいるのか」
 心臓が跳ねるのがわかった。私は岸辺さんを見上げて、その先にあった視線から思わず目を逸らした。岸辺さんは、私が俯いている間、ずっと視線を合わせようとしてくれていたらしかった。
 顔がみるみるうちに赤くなり、ますます岸辺さんを見れなくなる。穴があったら入りたかった。岸辺さんは遠回しに、付き合っている人がいるなら、私と出掛けたりはしないと、私の質問の答えを返してきたからだ。冷静に考えれば思い当たることだった。けれど、彼女はいない。その事実にか、それともそう示した上で約束を取り付けてきたことにか、いつの間にか私の頬には、羞恥とは違う熱が含まれていた。
「い、」
 いないと言おうとしていた私の舌は、気づけば縺れるようにして別の言葉をなぞっていた。
「います」
 しどろもどろになりながら、慌てて付け足す。
「あ、あのお付き合いしてる方じゃなくて、最近気になっていて……」
 途中で、我に返った。言い訳をしたつもりが、失言に失言を重ねただけだったことに、言ってから私は気づいた。それも言い切ればよかったのに、不自然な切り方をして、これでは下心が丸見えのようなものだった。
 後悔と一緒に、顔に更なる熱がじわじわとせり上がってきた。なんとか誤魔化さなければならない、と思った。けれど、こわごわと見上げた先の岸辺さんは、そんな私の窺うような顔色を見てから、「ほ~」と楽しそうな声色を零して、ゆるやかに笑みを浮かべていた。もうその時には、取り繕うはずだった言葉は、口の中で溶けて消えてしまっていた。
 岸辺さんの表情。私を見る顔。迫り来る期待のような予感に、胸が破裂しそうなほど苦しくなった。からかい混じりの声とは裏腹に、私に向けられたその目元は、私と岸辺さんの関係の距離からは考えられないほどに、あまりにも穏やかで、親しみをにじませていたのだ。
 私は初めて店の外で話したあの時以来、今まで一度だって、岸辺さんの顔をしっかりと見つめられなかった。その目に、いつの間にこんな色が宿るようになったのだろうか。
 気付かなかった。ただの“知り合い”にはない、信頼という、心地よくて、甘ったるいほどに優しい色は、今の私にはあまりにも甘美だった。私の胸は不意打ちの嬉しさにぱんぱんに膨らんだせいで、トリップしたみたいにわけがわからなくなっている。早い鼓動の中で、幸福感だけに包まれていく。驚きと一緒に、あとからあとから鼓動が迫ってきて、息継ぎができない。
 その時私は不思議と、岸辺さんが次に何を言うのか、わかっているような気がした。固まっている私に反して、岸辺さんの目は、それだけ穏やかだった。
「それは、会社の同僚かい?」
 私は待っていたとも思える声に、首を振るでもなく、息を薄っすらと吸い込むと、静かに、「違います」と答えていた。
「岸辺さんです」
 つかえることなく、すんなりと喉を通った。
 迷う間さえ、なかったように思う。か細い声だったけれど、聞こえない音ではなかった。
 岸辺さんに、驚いた気配はなかった。都合のいい解釈かもしれないけれど、私がそう言うのを待っていてくれたのかもしれなかった。それでも、その時ばかりは視線を外すと、少しだけ照れたように額を掻いて、沈黙をした。
 数秒の時間でさえ顔を赤くさせ、青くさせと、天国と地獄を行き来している私を悠々と待たせると、「そうかい」という呟きが返された。随分とのんびりとした調子だった。
「奇遇だなぁ」
 それだけだった。でも、それで十分だった。岸辺さんの横顔と、ちらりと寄せられた視線で。そこに滲んでいた、目元だけに押し込めたような、隠し切れない笑み。それだけで。


 付き合い始めたと言っても、私たちはこういうことに関して、あまりお喋りにはなれないようだった。出会ったばかりにも等しいから、関係がすぐに変わるわけでもなく、お互いのことは少しずつ知っていった。一目惚れの私にとって、知ること一つ一つが大発見だったのだ。
 岸辺さんは慣れてくるととても良く話す人だということがわかった。嫌味っぽくて理屈好きなところもある。職業柄なのだろう。興味の幅が広いらしく、色んなことにすぐに熱中してしまう。そうして熱くなって一人で語っている時には、私は黙って耳を傾けていた。少しだって退屈することはなかった。岸辺さんのひとつひとつを知ることが、新鮮で胸が高鳴った。合う度に初めて聞く話に私も夢中になった。楽しそうに語る姿が少年のように見えて、私はそんな岸辺さんの素の一面を見るたびに、幸せの膨らみを感じていた。
 役得もあった。一通り話し終えると、不意に私の顔を見てハッとして、
「すまない」
と拗ねたような顔をして謝る岸辺さんが見れるからだ。謝るのが苦手な人だった。けれどその子供っぽさが嫌いじゃなかった。
 ある休日の昼下がり、岸辺さんの取材に付き合ったあと、地方誌で紹介されていた喫茶店で、私たちは軽食をとっていた。所作はとても落ち着いていたけれど、取材後とあって、岸辺さんが興奮気味なのが、私にはわかっていた。
 淡々とした低い声が、時折笑いを含ませたり、かといえば真剣になったり、嫌味を交えたり、私はサンドイッチを頬張りながら、時折相槌を打ち、質問を投げかけ、そうして起こる音の起伏を、コーヒーと一緒に楽しんでいた。
 暫くすると、やはり岸辺さんはハッとして、
「つまらない時は言ってくれ」
と、申し訳なさそうな声色で言った。いつも自信たっぷりな口調からは到底想像できないような言い方が、私にとってはとても意外だった。
 どうしてそこまで謝るのかわからないけれど、私に気を使ってくれている、その事実が舞い上がるほど嬉しかったし、その反面申し訳なくもあった。聞き上手であれば、きっとそんな風に心苦しさを感じさせないはずだからだ。真剣な表情も、余所行きの面持ちも、疲れた顔色も、仏頂面もしたり顔も、全部好きだったけれど、私は岸辺さんの楽しそうに口元を緩ませている顔が、何より好きだった。
「そんな……すごく楽しいんです。私、あの、いつも上手く言えないけど、以前は読まなかった本を買ったりして……全部、岸辺さんが話したことなんです」
 岸辺さんが悪いのではないと伝えたかったのに、必至になってしまったあまり、私の表現はあまりにもぼんやりとしていた。岸辺さんは何か返そうとしていたようだったけれど、適当な言葉が見つからなかったのか、たまに見せる切なげな目をして、そっと口を閉じた。伝えたいことが伝わったのかわからないまま、少しの沈黙が流れた。気恥ずかしい空気に、コーヒーを何度も口へ運ぶ。
 岸辺さんは、自分の手元を見つめながら、ゆったりとした口調で続けた。
「君と一緒に話すべきだった。ぼく一人じゃなくて……いや」
 突然言葉が区切られると、岸辺さんは小さく唸りながらガシガシと頭を掻く。
「調子狂うよな」
「はい?」
 首を傾げた私と、頭を掻いた姿勢のままの岸辺さんの視線が合った。横目の真顔と目が合ったので、どきりとした。それを悟られないように、コーヒーカップで半開きの口元を隠す。
「君と……話したいと思っていた、ずっと」
 私の思考は置いてけぼりをくらって、ぽかんと口を開け放ったまま、何故か怒ったような顔をしている岸辺さんをまんじりと見つめた。
「相槌ばかりじゃなく、だな……君の言葉が聞きたい……いや、違う、そうじゃなく、相槌が嫌だとかそういうのではなく……」
「岸辺さん……?」
 段々にひとりごとのように萎んでいく岸辺さんの語調に、思わず名前を呼んだ。岸辺さんの姿勢は、それはもう自信という自信を失ったように前屈みになっていた。
「つまりだな……その」
 カップを口に当てたままの私と、俯き加減になって、片手で口を覆った岸辺さんの目が、再びぱちりと合う。
「……君のことを知りたい」
「あ、あの……」
 私の顔が一瞬で、火のついたみたいにぼっと熱くなった。傍目から見ても真っ赤だろうと想像できるくらいに。岸辺さんがそんなことを言うとは思いもしなかった。付き合い始めたと言っても、はっきりと岸辺さんの言葉を聞いたわけじゃなかったから、私の中ではまだ、私だけが好きで、岸辺さんと少しだけ距離が近づいただけのような気がしていた。でも目の前の岸辺さんは、違っていた。そわそわとして居心地悪そうに体を背け、ちらりとこちらを見ては逸らす。もどかしくて、甘い空気を纏っている。片手に持っていたと思っていた私のコーヒーカップは、いつの間にか両手で顔の前に抱えられていた。
「もう一回、お願いします……」
 とてもじゃないけれど、顔は見せられない。両手で覆ったカップを額に押し付けて、深々と頭を下げた。恥ずかしさに、目を開けているのか瞑っているのかよくわからない。わからないけれど、もう一度聞きたかった。岸辺さんの、好意。恋人らしい言葉。片思いの終わりを告げる言葉。
「二度と言うもんか」
 諦めきれず、懇願するようにカップ越しにちらっと岸辺さんを窺うと、怒っているような照れているような表情が私を待っていた。怒っているのかもしれない。だけどどうしてだろう、くすぐられるようにこそばゆい。いつまでも見つめたままの私を睨むので、ふざけてコーヒーカップに隠れるふりをする。すぐにちらりと顔を出すと、岸辺さんはふっと口元を緩め、「負けた」と言ってから破顔した。


 「恋人」と実感するようになって変わったことは、私が以前よりも、岸辺さんと目を合わせて話すようになったということだ。岸辺さんの方は、あまり変化があったようには思えない。たまに私が変な沈黙を作ってしまって、甘い雰囲気になりそうになると、ちょっとだけ照れくさそうにつっけんどんな物言いになるだけだった。その方が意識してしまってずっと恥ずかしいというのに、頑なに不器用な岸辺さんが、可笑しくもあり、どうしてかとても嬉しい気持ちになるのだった。
 それから岸辺さんとは、休日によく出かけるようになった。

 夕飯なんかは、よく待ち合わせて、一緒に食べることもあった。そういう時、岸辺さんはいつも私の退社時間に合わせてくれた。漫画家だから、予定を組みやすいのだと言うけれど、私には漫画家というと常に締め切りに追われているようなイメージしかない。気を使ってくれているのだと思い、
「無理をしないで下さいね」
と言うと、岸辺さんは予想外にも、
「心外だ」
とちょっぴり自尊心を傷つけられたような顔をした。岸辺さんという人へ、少しだけ近づいたような気がした。
 外食が定番だった。お互い金銭的にも余裕があり、食道楽ということもあり、色々なところへ行った。岸辺さんは美味しいものであればどんな食べ物でも好んで食べるようだけれど、やはりイタリアンやらフレンチやらといった、特に洋食のお洒落なお店は好きらしい。私はといえば生活に余裕があると言っても限度があり、そんなお店は年に数回行けばいい方だ。それに定食屋に足繁く通うくらいなのだから、私は庶民的な食べ物が好きだった。ラーメンも勿論その然りである。だからといって、付き合いたての恋人同士で、つゆが飛び散り、ズルズルと音を立てて啜るような食べ物を、しかも私から誘うのは、いくら小汚い大衆食堂の出会いだとしても、多少なりとも勇気がいるものだ。
 それでも、誘惑に勝てず、ここぞという機会を狙って誘うことがある。食に関してうるさい岸辺さんは、意外にもどんな提案でも受け入れるけど、ことこれに関しては、
「ラーメンはやめよう」
と、必ず言うのだ。ラーメンが嫌いなのかと意外に思っていたけれど、付き合う以前、帰り道に一人で入っていく姿を見たことがある。それを指摘すると、結局チャーハンと餃子を食べたのだと先生は答えた。
「なかなか気分にならないものってあるだろ」
 岸辺さんはそう言って、来たら誘ってやるよと、結局日本蕎麦を食べに行った。付き合って大分経つけれど、ついぞ岸辺さんの気分がラーメンに向いたことはない。私に気を使って嫌いだとは言わなかったのだろうか。でも、あのはっきりとしすぎる物言いの人が、これくらいのことで変な気遣いをする理由がなかった。
 一つだけ私が気づいたことは、岸辺さんはラーメン屋の前を通り過ぎる時、ふと、よくわからない顔をするということだ。

 旅行にも行った。有給を使って、いつもは泊まらないような、ちょっとだけ高い旅館に行ったりもした。
 初めて岸辺さんと泊まる最初の夜、私はドキドキとして、一日中落ち着かなかった。きっとそういうこともするのかもしれないと、期待のような不安のような、全部が綯い交ぜになった緊張で、やけにハイテンションだったように思う。
 それぞれ入り口で別れを告げてから温泉に浸かり、一緒に食事をとって、浴衣に靴という滑稽な出で立ちでぶらりと散策をする。肌に張り付くようなぬるい風も、旅行先では新鮮なものに変わる。岸辺さんは「君は随分単純だな」と憎まれ口を叩いていたけれど、顔は優しかった。
 部屋に戻ってくると、こういうシチュエーションの定形みたいに、布団はしっかりとくっついて並んでいた。
 私の気も知らず、
「さて、寝るか」
 なんて悠長な岸辺さんに返事をして、しずしずと布団へ向かい、横になる。岸辺さんが部屋の電気を消して、暗闇をたどるようにしてすり足で布団へ歩み寄る気配がすると、私の鼓動は早鐘のようになった。暗がりで耳を澄ましていると、思っている以上に隣の岸辺さんは近いことに気づく。ちょっとした身じろぎも、呼吸も、いつも意識していないようなものまで、鮮明に聞こえてしまうのだ。私の心臓の鼓動は、寝る前とは思えないほどに激しくて、情けないことに、体中を強張らせたまま全く身動きが取れなかった。
 息を殺して、岸辺さんの音を聞く。布団が擦れると、もしかしたら手を握ってくれるんじゃないかとか、私の布団に来るんじゃないかとか、小綺麗な旅館だからそういうことはしなくたって、添い寝なんかしてしまったりするのだろうかとか、キスをするとき、暗くて唇の位置がずれたりするんじゃないだろうかとか、そんなことばかり考えてしまって、ちっとも寝る気になれない。
 そうやって待つこと数分後には、私の目も闇に慣れて、薄っすらと岸辺さんのことが見えるようになってくる。身じろぐ気配。布団の擦れる音。すぐそばの岸辺さん。
さん」
 胸を鷲掴むような低い音の震えが、私の鼓膜を震わせた。私は「はい」と、上ずって心細気な返事をようやく吐き出した。
「おやすみ」
 落ちてきたのは、安堵しきった声だった。穏やかで、子供を甘やかすみたいな、そんな声。
 
 抱きしめることも、キスだって、手を繋ぐことさえも、岸辺さんは一度もしてくれたことはなかった。
 薄々、こうなるんじゃないかと予想はしていた。そういう覚悟だってしてきた。でもやっぱり、恋人としての期待の方が勝るのは当然のことだ。その分、落胆は大きかった。
 一週間前から手入れしてきた時間や、一人で想像を膨らませてしまっていた他ならない私自身が滑稽で、それしか考えることのできない、ひどくつまらない人間のように思えた。
 この時、付き合い始めてからこれまで、薄っすらと抱いてきた予想というものが、確信に変わった。
 岸辺さんが、私に触れることはない。いつまでかはわからないけれど、私が恋人として当然のように求めている内には、きっと。

 けれど、だからこそ、私には不可解でならなかった。
 どうしてこの人は、時折、こんなに優しい目を私に見せるのだろう。嬉しさや気恥ずかしさに満たされるはずの私の胸は、その岸辺さんらしくない穏やかな目を見る度に、どうしてか締め付けられるような、細やかな痛みを感じる。
 岸辺さんは、本当に私が好きなのだろうか。それなら何故、触れることを避けるのだろう。穏やかな目に、わかりやすいくらいの切なさを含ませるのだろう。
 そんな様子を見るたびに、私は脈略もなくひとつの光景を思い出すのだった。
 一目惚れだったからこそ、初めて話した会話を、私は後生大事に覚えていた。
──君に似た女性がいたものだから
 あの時岸辺さんの目が、遠くを見るように細く歪められたのを、私は見逃すことはなかった。とても、とても印象的だったのだ。誰かを思い出すかのように、ふっと膜を張った気配は、私が抱く岸辺さんの雰囲気とは似ても似つかなかったから、よく覚えていた。それが今になって、私をどうしようもなく悲しくさせた。
 岸辺さんの言う、“私に似ている女性”というのは、一体誰のことなのだろう。もしかすれば私は、岸辺さんにとって埋められない、その人の代わりなのかもしれなかった。裏付けることなんて何一つとして無いのに、そう思えば思うほど、どうにもならない切なさに感情は行くあてもなく、
 岸辺さん、私を見ていますか?──
と、そんな馬鹿らしいことを、呟いてしまいそうになって、いつも咄嗟に口を閉じなければならなかった。



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16/04/17 短編