02


 そういえば私、岸辺さんの名前、一度も呼んだことがない──
 思い至ったのは、会社の同僚に名前を呼ばれた時だった。
 付き合い始めてから、気づけばもうそろそろ一年になる。季節の終わりを知らせるように、まだ時折雨雪が降るけれど、日が差した空気の中には、仄かに春の匂いが混じっていた。気分が上向きになってくる。新しいことを始められるような、そんな気持ちが芽生えてくる。
 岸辺さんの下の名前を意識することはあったけど、一目惚れの強烈な印象がそのまま名字に結びついてしまっていて、何度も呼び続ける内に、私の中で“岸辺さん”は半ばあだ名のように定着してしまっていた。思えば岸辺さんは最初から私の名前を呼んでくれていた。これだけ長く接しているのだから、親しみを込めてもいいんじゃないだろうか。何より、名前で呼びあうことは、とても恋人らしいことなのではないか……
 凝りもせず、私は期待をした。捨てても捨ててもそれは手元に舞い戻ってきているものらしかった。
 意識してから何度目かの待ち合わせで、首に巻いた厚めのマフラーを落ち着きなく弄りながら、私はようやく決意をした。岸辺さんの手は、ダウンジャケットのサイドポケットにしっかりと収まっている。その事実に負けまいと、少しだけ声を張り上げる。
「岸辺さんっ」
「ん?」
 岸辺さんは、口元を埋めていたカシミアのマフラーから、くぐもった声を出した。
 言いかけてから、急に怖くなった。名前を呼びあえたら嬉しい、という気持ちもあったけれど、それと同じくらい隠しきれない恐れと懸念があった。呼ばせてもらえるだろうか、という気がかりが常につきまとって、私の期待で岸辺さんを試しているような気がしたからだ。
「いえ……」
 こんな心配をしているうちは、やっぱりやめようと思い直して顔を上げると、急かしもせずに私の言葉を待っていた岸辺さんは、告白をしたあの日よりもずっと優しげな顔をしていた。不意のことに、私は動揺して言葉を失ってしまった。まるで愛しさに直に触れるような、好きな人の甘ったるい、そんな目元を知ってしまったからだ。
「さ、行こうか」
と言って歩き始めた岸辺さんに、私は飛び出る声を抑えられなかった。気づけばその声は、口をついて出ていた。
「露伴」
 さん、と続けようとした時、岸辺さんはゆっくりと立ち止まってから私を振り返った。驚いたのは、私の方だった。彼の顔からはもう先程の雰囲気はかき消えていた。信じられないものを見るように、真っ青になっていたからだ。間違ったことをしてしまった、と思った。私の心臓は、凍りついたみたいに軋んで、今にも割れてしまいそうになった。マフラーを巻いていても、首筋から熱が奪われていく。次の言葉を続ける唇から、冷たい息が吐き出されている気さえした。
「露伴さん……と呼ばれるのは、嫌でしょうか」
 私は震えながらも、ようやく言葉を紡いだ。その時の岸辺さんの目に微かに浮かんだ落胆の色に、私の胸が軋むように悲鳴を上げた。
「いや、嬉しい……違うんだ、すまない」
 すまない、と岸辺さんは繰り返した。
「まだ、名字で呼んでくれないか……その、嫌なわけじゃあないんだ、本当に」
 その言葉の裏に、一体どんな気持ちが隠れているというのだろうか。苦渋に満ちた声に、私は彼の何がそうさせているのか、まるで分からなかった。ただ、泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「私ではだめですか……?」
 声が震えて、情けなく掠れてしまった。
「私では、」
 その先は言葉にならなかった。なんと言えばいいのか、今まで溜め込んできた思いが溢れて、整理ができなかった。
 手をつないだことがない。抱きしめてもらったことも、キスをしたことも。それどころか、名前を呼ぶことすらできない。そんなの、付き合っていると言えるのだろうか。
 断りきれなくて、仕方なくこの関係を続けてるだけなんじゃないか。本当は想っている人がいて、私がその人にどこか似ているから、酷くできないだけなんじゃないか。
 岸辺さんは蒼白になっている私を見て、何かを言いかけていたけれど、結局それを言葉にすることなく口を閉じた。眉を曇らせた、悲しそうな顔だけが、岸辺さんに残った。
「ごめんなさい」
 私は思わずそう口にして、早足で岸辺さんの元を離れた。心のどこかで追ってきて欲しいと思いながら、引き止める声が欲しいと願いながら、丸くなるように歩き去る。けれど何歩歩いても、街の角を曲がっても、どんなに耳を澄ませても、私の望む音は決して聞こえてこなかった。

 私はいつしか、岸辺さんと会うのが怖くなった。どんな顔をして接すればいいかまるで分からない。私の胸の中に沈殿しているこの気持を、いつかちゃんと話し合わなければならないと思いながらも、今度、また今度と先延ばしにする内に、口にすることさえできなくなっていた。たったの恋愛一つで、日常が崩れ去るように辛くなった。
 あの日以来岸辺さんからの連絡はなく、私はそれが答えのような気がして、ますます核心に近づくのが怖くなっていった。


 久しぶりに訪れた大衆食堂は、季節が変わっても引き戸から漏れる明かりは変わらず、暖簾の文字が目に入る場所まで近づけば、肉炒めや汁物の、なんとも言えないいい香りが漂ってくる。夕食時をとうに過ぎた裏路地は人通りもなく、食堂も一人か二人入っていればいい方だろうと思った。
 暖簾を押し分け、カラリと気持ちのいい音を立てて引き戸を開けると、厨房から店主が明るい顔で出迎えた。滅入っていた気持ちが、それだけで少し楽になる。
 通路の片隅で、小さな石油ストーブが懸命に働いている。風で巻き込まれた暖簾を押し戻して、慌てて戸を閉めた。
「おう、来た来た」
 言って店主は「おい、お前」と乱暴に叫ぶと、おかみさんが店の奥から顔を出して「あらやだ、やっと来たのね」とはしゃぐように声を上げた。
「ここずっとぱったり来なかったから、どうしてるかと思ってたよ」
 仕事が忙しかったんだろうと言う店主に、私は曖昧に笑った。
 岸辺さんとお付き合いするようになってから、色んな場所へ出掛けたけれど、そのためにここへ来る時間が犠牲になったとは口が裂けても言えなかった。常連同士、もちろん顔も知られていて、気恥ずかしさからもとても話す気にはなれない。それに今の状況では、恋人なのだとはとても言う気になれなかった。
 あまりお腹は空いていなかったので、コーヒーを注文する。店主は定食を頼まないのを気にもせず、サーバーからカップへ並々と注いでいる。その様子を眺めているとおかみさんが、
「彼氏でもできたんじゃないかって、ちょうど噂してたところ」
と笑いながら言った。他にお客さんがいない時、岸辺さんを交えて四人で世間話などしたことは一度ではないのだけれど、話に上がらないところを見ると、二人の中で私と岸辺さんの組み合わせは想定外のようだった。ちくりと胸が傷んで、気分転換に来たのに、ますます沈んでいきそうになるのを、何とか留めた。
「バッカ、彼氏がいたらこんな時化た店には来ないよ」
 店主の声と共に、カウンターからコーヒーが差し出された。砂糖二本にミルク一つが、ソーサーに添えられている。おかみさんは店主の言葉に「あらそう」なんて納得をしていて、私は自分のこの数年間が情けなくなった。熱々のコーヒーに砂糖を入れながら、必死に自分を元気づけていると、
「そういえば、気になってた彼はどうなったの?」
と、おかみさんが尋ねてきた。何のことか分からずに首を傾げる。
「学生の時に言ってたじゃない。上手く行ったの?」
 店主が「おい、やめないか」と言って諌めたけれど、おかみさんはそれを煩わしそうに、手でシッシッと軽くあしらった。
「……いましたっけ?」
 恋愛事から逃げてきたのに、ここでもまた恋愛に戻るなんて、と苦笑しつつ考えながら、コーヒーを啜る。立ち上る湯気で、鼻先が僅かに湿ったのを軽く擦る。学生時代、気になっていた人もいたような気がするけれど、あまりよく覚えていない。
「無神経に聞くもんじゃないよ」
「やだねぇ、深刻にしてるのはあんたの方じゃないの」
 おかみさんは案外恋愛話が好きなようで、それを糧にして心ときめかせているところがある。誰に話すわけでも批評するわけでもなく、単にそんな話に自分の身を投じて浸りたいという、乙女な感情を持て余しているようだ。一種の女の病気とも言える。店主はそんなおかみさんを、いつも呆れた様子で見守っていた。
「何年か前までずぅっとその人の話してたじゃない。ぱたっとしなくなったから、縁がなかったのかしらなんて思ってたけど、もう時効だし、聞いてもいいでしょう?」
 しかし、そこまで言われても私には何も思い当たることがなかった。自分のことなのに、まるで他人の話を聞いているような感覚さえあった。
「別の方の間違いとか……じゃないですか?」
「何言ってんの、あれだけ話しておいて」
「おい、お前、無闇に詮索するもんじゃないよ」
「いえ、大丈夫です」
と言って、私は笑いながら首を振った。おかみさんの話に間違いがあるとは思えなくても、お客さんは多いのだから、取り違えてしまうこともたまにはあるだろう。どう考えても、誰かと勘違いしているとしか思えなかった。
「それが覚えてないんですよ……それ、本当に私でしたか?」
 おかみさんは「からかわないでよぉ」とカラカラと笑った後、ゆっくりと笑みを沈めて、台を拭きながら考え込むように無言になった。
「あなた一度、事故に遭ったとかで、入院してたって言ってたじゃない」
「……え?」
「やだ、それも覚えてないの?」
 私は目を見開いたまま、ぼんやりと頷いた。
「学校が休みの日に、山道でって、聞いたけど……あなたの口からだよ?」
「そう……なんですか」
 他人事のように、相槌を打つしかなかった。今度こそ本当に、おかみさんは深刻な眼差しになった。カウンターをぐるりと回り込んで、私の隣の丸椅子に軽く腰掛けると、これが冗談ではないことを示すように、私の手を取って言った。
「検査は勿論したと思うけど……ご家族からは、何も聞いてないの?」
「それ、何年前のことですか?」
「確か大学生だったから、二三年前、だったと思うけど……」
 それを聞いてもまるで思い当たる節がないので、私はおかみさんに握られた手にもじもじとしながら、「はあ」と間抜けな声を出すしかなかった。

 悩ましいことが増えてしまった。
 大学時代の恋なんていうのは、人違いでも片付けられるけれど、事故に遭ったのを覚えていないのは流石に不気味だ。気になりつつも二日ほど過ごしたけれど、どうにもおかみさんの言葉を思い出して落ち着かない。
 一週間が過ぎたけれど、岸部さんからも連絡がなかった。私もなんだかすっかり意固地になってしまって、とてもじゃないけれど自分からは会おうなんて気にはなれない。岸辺さんのことを思うだけで、心がざわめいて落ち込んでしまう。何にも手につかなくなるのだ。ため息を付いていると、知らないうちに時間があっという間に過ぎている。それくらいなら、考えないほうが良かった。決算が近づいて仕事もそろそろ慌ただしくなり始め、心なしか余裕もなくなってきている。
 考えた末、やっぱり家族に連絡を取ってみることにした。実家はS市から離れた県内にあって、近いからいつでも帰れるという気持ちのせいか、年に一度しか帰省しない親不孝を年々重ねて行っている。姉弟も多いから、こまめに連絡することもなく、たまに母の方から仕送りの電話が来るくらいだ。思えば父と最後に話したのは、去年の盆になるのかもしれない。暮れも年始も忙しいことを理由にして、結局帰ることがなかった。大学時代からこれなのだから、相当呆れた娘だ。
 引っ越しの時に実家からくすねてきた古い黒電話の受話器を取って、ダイヤルを回す。久々に鳴らす実家のコール音は、最近買い替えたのか以前と違って音楽が流れるようになったらしい。変なこだわりだなぁと呑気なことを思いながら、家族が出るのを待っていると、「はい、です」と嗄れ声が耳を打った。
「あのう」
 一瞬誰か分からず咄嗟に声のトーンを上げ、「です」と弱々しい語尾で呟いた。間違って掛けてしまったかと思いながら、相手の返答を待っていると、
「なんだお前か」
と馴れ馴れしくも明るい口調が返ってきた。よくよく聞けば父の声だった。どうやら実家の方は急に気温が落ちた日があって、薄着で出掛けた父が見事に風邪を引いたらしい。拗らせたせいで喉の調子が悪いと、少し咳き込みながら父が言った。
「それでどうしたんだ、お前から掛けてくるのは珍しいな。帰ってくるか? 帰ってこないなら金はやらんぞ」
「いやお金じゃないんだけど……」
 すっかり生活費の無心だと思っている父に、事情を説明する。電話代も馬鹿にならないので、早く早く! などと急かしながら求めると、父は呆れたとため息を付いて答えた。
「大学の三年生の時だよ」
「へ……?」
 山道で倒れていたのは、本当のことだったらしい。通りすがりの人が助けてくれたんだ、と父が言った。医者に見せてもどこも外傷はなかったが、記憶もその日のことはすっぽり忘れていて、何があったのか未だにさっぱりわからないという。当時は母と一緒にかなり心配してくれていたようだった。
「気が気じゃなかったんだぞ」と恨めしそうに続けた父に、全く記憶に無いけれど、素直に謝るしかなかった。
「まあ様子を見てもそれ以外忘れてないようだったし、何も生活に支障はなかったから、奇跡的に怪我がないまま、事故にでも遭ったのか、どこかから滑り落ちたのかなんて言って終わったんだが……どうした急に」
「私すっかり事故のこと忘れてて、人に言われても思い出せなくて」
 父はうーんと唸り、夕方だったし怖い思いでもしたんだろうなぁと言った。
「ストレスが掛かると人間は忘れるように出来てるらしい。この前テレビでやってたぞ」
 はあ、と私は気の抜けた声を出した。そんなものかなぁと不安を滲ませれば、父は柔らかい声を出した。
「心配な時は帰ってこい。病院に行きたいなら、父さんか母さんが付いて行ってやるから」
 私は急に照れくさくなって、「いやあ」とか「へへへ」などと意味のないことを口にしながら頭を掻いた。それから幾つかとりとめのない話をし、帰省の話題になって、仕事のスケジュールが分かったらまた連絡すると言い、受話器を置く。
 幻を見ているかのような感覚がした。自分だけ夢の中に取り残されたような、多少の喪失感が伴った。ぼんやりと電話の前に座ったまま、父親から聞いた話を反芻する。その日の記憶以外何も忘れていない、と父は言った。そうだろうと思う。しかし私が頷いたところで、入院したことすら忘れているのだから、当てにはならないだろう。もしかすると、もっと他にも忘れていることがあるのかもしれない。私が気づかないような何かを。

 それから数日後の夜に、私は岸辺さんへ電話をした。気づけばあれから三週間近くが経っていた。考えまいとしても、つい顔を浮かべてしまう私にとっては、あっという間の日々だった。
「はい」と電話口に出た岸辺さんの短い声に、場違いにも好きだなぁと感じて、私は少し泣きそうになった。
「お話したいことがあるんです」
 そう言うと、岸辺さんは少しの沈黙の後、分かった、と一言呟いた。
 父から聞いて、今の私には自分の知らない自分がいるということを知った時、どうしてか今なら岸辺さんと話ができると思った。いや、話さなければならないと、思ったのかもしれない。そうしてその後の結末も、私は知っていた。
 恋が終わるなら冬より春、それがだめなら夜より朝の方がいい。私はそう思って、朝のファミレスを指定した。どんな話をしても、雑音で紛れると思ったからだ。
 私は約束の時間より1時間も前に席について、これからのことをぼんやりと考えた。前の日はご飯を食べるのにも苦労するくらい考え込んだのに、いざその日が来てみると、これっぽっちも浮かばなかった。結局最後まで、片想いだったんだなぁと、ぽつりと思った。
 店内は暖房が効いていて、他の客は皆羽織ものをすっかりと脱いで、薄着で新聞を読んだり読書をしたり、書類を書いていたりと、思い思いの朝を過ごしている。コートも脱がずにいたのに気づいて、椅子の端に畳んで置いた。そうしてから、やっぱりカーディガンだけを着直す。肌寒かった。指先を握ると、凍るように冷たいのに今更気づいた。緊張しているのだ。朝起きてからここに来るまでの間、意識するのはやめようと思っていたのだけれど、自分の心は誤魔化すことができなかった。私は岸辺さんが、私と同じ気持ちでいてくれたらいいのに──と未だに思っていて、期待をしていて、そうじゃないことを知るのが、怖くてたまらないのだ。
 せめて岸辺さんの事情を聞きたかった。このおままごとみたいな、本当か嘘かも定かじゃない捻れた恋愛を、どうにかして終わらせたかった。私がそう願ったところで、岸辺さんはきっとまた、置いていかれたような顔ではぐらかして、何も話してはくれないのだろうけれど。

 岸辺さんは、約束の20分程前に店のドアを開けた。人もまばらな店内を見渡して私を見つけると、少し驚いた顔をした。
「いつからいたんだ?」
「30分くらい前……かなぁ」
 笑いながら頭をかくと、岸辺さんは硬い表情のまま「そうか」と言った。
 ドリンクバーを頼んで飲み物を持ってくると、無言のまま二人でカップを口に運んだ。私はエスプレッソで、岸辺さんはブレンドコーヒーだった。どちらも砂糖もミルクも入れなかった。
「私、記憶を失っている日があって」
 カップをソーサーに戻して、おもむろに私は口を開いた。陶器の擦れる高い音が、何故か私を安心させた。目を張って私を見返した岸辺さんに、眉を下げた。つい先日、そのことを知らされたのだと、私は説明した。
「岸辺さんに会わない間、もしかしたらその日以外にも忘れていることがあるんじゃないかって、アルバムを捲ったり、友人に聞いてみたりしたんです」
「ああ……」
 突然記憶がないと言われて岸辺さんは返答に貧窮しているのか、少し言葉をつまらせて、「それで?」と続きを促した。呼び出して脈略もなく話を始める私に、嫌な顔をする様子はなかった。
「結局、何も分かりませんでした」
 私はカップの取っ手を掴んだまま、思案するように親指で何度もその部分を擦った。
「もしかしたら、私にとって大事なことがあったのかもしれません……でも、それでもいいと思ったんです」
 私の指の振動で、コーヒーが微かにゆらゆらと揺れている。
「私はこの通り元気に過ごせているし、両親もなんだかんだ言って心配してくれていて、仕事も今のところ問題はなくて……記憶がないって聞いた時は不安に思いましたけど、思えばなんだかんだ上手く行っていて、それで全部、何があっても私自身のことは大丈夫だって気づいたんです……」
 私はカップから手を離して、テーブルの上に置いた。
「それから、岸辺さんのことを思いました」
 そうして手を、ぎゅっと握りしめる。
「前に言ってましたよね……私に似ている人がいるって」
 岸辺さんの目が、ふと軽く見開かれた。
 もしかして、と思っていた。そうじゃなければいいとも、思っていた。でも、名前も呼ばせないことを知った時、岸辺さんは照れているのではなく、彼の胸の中にある特別なものを守っているのだと気付いてしまった。出会った頃と違って、岸辺さんの近くにいたからだろうか。ちょっとした仕草も、言葉のニュアンスも、全部知っていた。だからだろうか。勘ではなく、確信が私にはあった。
「岸辺さんが好きなのは、私じゃ、ないんじゃないですか……? もしそうなら、私」
 私。私は自分でも馬鹿馬鹿しいことを言おうとしていることは、ちゃんと理解していた。だけどこう言わなければ、どうすればいいというのだろう。不意に悲しそうに目元を曇らせる人を、なじればいいのだろうか。弄ぶなと頬を叩けばいいのだろうか。私の話を、取り残されたような顔をして聞く、岸辺さんの頬を。
「力になりますから……岸辺さん、何か辛いことが、あるんじゃないですか?」
 驚愕に口を開いた岸辺さんは、目を細めると、諦めたように視線を落とした。
「わからない……けど、」
 そうかもな、と岸辺さんが呟いた。
「君じゃあ、ないのかもな……」
 そう零した目の前の人に、私はどう言えばいいのか見当がつかなくなった。たった今私を振った人は、まるで途方に暮れているようだったからだ。
「君を巻き込んだのはぼくだ」
 すまない。そう言った岸辺さんは、ためらうように私を見つめていたけれど、私が言葉を探して竦んでいる内に、ふと寂しげな顔をして、席を立った。伝票を持っていく仕草が別れを克明にしているようで、終わってしまった──そんな思いが突き上げてきて、私は目を伏せかけた。
 脳裏を何かが掠める。
「え……?」
 私は動揺して、ゆるりと体が揺らぐのがわかった。背を丸めて歩く岸辺さんの姿が、切り取られたみたいに目に焼き付く。胸の周りがもやついて、息苦しさが纏わりついた。心臓から這い上がってくる鼓動が、鼓膜に嫌な音を響かせた。私はこの姿を、前にどこかで見たような気がしたのだ。


 暗闇に、ぼうっと仄かな明かりが灯るような感覚を覚えると、しんと沈んだ音のない世界に、私の存在が消え入りそうなほどにぼんやりと浮き上がる。意識は白濁としていて、ああまたこの景色だと思った瞬間に、凍てつく寒さが上り詰めてくる。前にも何度か見た光景だけれど、自由にならないことは分かっていた。体は貧血を起こしたような気だるさで重く、指一本さえ動かすことが出来ない。
 視界は暗かった。遠くで木の葉が細やかな音を立ててざわめいている。
 呼吸を繰り返す間に、きまってあたたかな感触が耳を覆った。

 これは、夢だ。いつも見る悲しい夢だ。記憶の、夢だった。

 当時大学3年生だった私は、同じゼミの友人を通じて知り合った広瀬綾那さんの、極々平凡な弟さんの存在を知った。幸運にも今年度の新入生であるという弟さんの話を聞いて好奇心を抱いた私は、是非サークル見学に来てほしいと伝えるよう、頼みこんだのだった。
 ダメ元だったにも関わらず、その彼が顔を見せに来た時は、全員で飛びつくように歓迎したものだ。実はサークルとはハッタリで、部員も予算も少ない同好会だったからだ。死んでも逃すまいと、汚い畳の上をぐいぐいと押し進めて上座へ招待し、煎餅やらコミックやら缶コーヒーやらで彼へ祭壇を作ると、康一君は困り果てたように「あのう」と言った。萎縮しきった声だった。
「ここ、何のサークルなんでしょう……?」
 どうやら広瀬さんに、私は一番大事なことを伝え忘れていたらしい。部を夢見て部長を名乗る先輩が、「オカルト同好会だ!」と胸を張り、康一君は呆気にとられた顔になった。慌てて周りが、活動内容が如何に健全で和気あいあいとしているかを説明すると、康一君は人の良さそうな顔を掻きながら、他に入りたい部活があるのだと困ったように言った。

 幽霊部員でもいいから、たまに顔を出すだけでいいから、と先輩たちの必死な勧誘が花開いたのかは分からないけれど、無事名前を連ねてくれた彼が後日連れてきたのは、畳敷きの雑然とした部室には似合わない、都会風の男性だった。
「お茶飲んでダベってるだけのお茶会サークルだろ?」
「でも、話のネタになるかもしれないじゃないですか」
 入り口で言い合っていたかと思うと、私達の視線に気づいた康一君は、何故か照れくさそうに頭を掻いて、
「こちらは、漫画家の岸辺露伴先生です……ハイ」
と言った。当然のように、部室は騒然となった。
「お互いに、なにか面白い話でもあればと思って、ぼくが無理を言って連れてきちゃったんですけど……」
 康一君が説明をする間、私達は慌てて正座に座り直して、愛想笑を浮かべながら、漫画家先生がどうかご興味をもってくださいますようにと固唾をのんで見守っていた。そのずらりと並ぶ顔を見て、不気味な威圧感を感じたのだろう先生は、頬を引きつらせた。
「くだらないね」
と言って帰ろうとしたのを、全員で「ワーッ」と叫びながら引き止める。
「とっておきを!」
 私は叫んで言っていた。
「とっておきをお見せしますよ!」
 露伴先生はちょっとだけ興味を示したように立ち止まって、暫く考える素振りを見せ、苦笑いしながら戸口の框に腰を下ろしている康一くんを見やり、それから「本当だろうな?」と疑わしげに振り返ったのだった。
 それはやっぱりハッタリだったのだけれど、偶然、民俗学を専攻している先輩が自費で制作した伝承研究本が気に入ったらしく、私達は辛くもこの漫画家先生をどうにかして同好会に留めることができたのだった。予想以上にかなり癖のある性格ではあったものの、なんだかんだ言いつつも、誘えばオカルト遠征に付き合ってくれることもあり、暫くする内に、同好会内では先生のことを半ば外部部員の如く扱うようになっていた。

 出会ったばかりのこの頃、露伴先生は霊の通り道を探していた。霊の通り道とは所謂霊道で、現世と霊界を結ぶ空間のことだ。本気とは思えなかったが、漫画の題材でも探しているのか、半ば趣味の範囲で散策に出ている。そんな雰囲気だった。
 ある時、カフェで見つけた露伴先生に質問を投げかけると、先生にしては珍しくまともな返答が来たことがあった。
「ちょっと興味が湧いただけさ。この杜王町の周辺に、どれくらいあるものなのか」
「どれくらいってことは、幾つかは知ってるんですか?」
「さあ」
 ぶっきら棒にあしらう先生に些か不満を抱いた私は、「いいじゃないですかぁ」と大きな声を上げる。露伴先生は地図を開いたまま、煩そうに体を反らした。
「教えてくださいよ! どこですか? 何か見ましたか?」
「やだね」
 先生は私から遠ざかるように体を横に傾けたまま、厭味ったらしい口調で跳ね除ける。私は「ふぅん」と言いながらくつくつと笑って、「いいんですよ」と繰り返した。たっぷりの優しさを込めて頷く。その様子に、先生は顔を上げた。言い方が気に触ったらしく、口を曲げて不快を顕にしている。
「ホラ、元々信じてないだろ、君ィ」
「いいんですって、ほんと」
 ニタニタと笑みを貼り付け続ける私に、露伴先生は「無礼で想像力のない貧相な凡人」などと名付けて、その日二度と口を開かなかった。そこまで気分を損ねると思わなかった私は、大慌てで謝り通し、何とか先生の口から嫌味が出るまでに信用を回復させたのだった。
 私にとってこのことは、多少なりとも意外だった。露伴先生は私にからかわれたことだけに、嫌悪を示したのではないように感じたからだ。
 オカルト同好会は先生が指摘する通り、名前だけの存在で、どちらかと言えば超常現象的な空想を持ち寄っては創作して楽しみ合う、オカルトジャンル愛好会のようなもので、本気で目に見えない超常的存在があるとは、誰も信じてはいない。オカルトを題材に非現実感を楽しみたい。そんな奇々怪々に魅入られた物好きの集まりなのである。だからあんな漫画を描く露伴先生も、そういう一人なのだと、私は思っていたのだ。
 しかし、その考えも程なくして変わった。

 同好会メンバーで嫌がる露伴先生を無理矢理に拉致し、風呂なしの家賃二万の狭苦しい先輩のアパートで飲み会を敢行したのは、梅雨の終わりが近い頃だったと思う。杜王町の先生の自宅へ向かう途中、丁度良く買い物帰りらしき姿を見かけて、先輩たちは一大事だとか事件だとか何とも適当な理由を口走りながら、部員でぎゅうぎゅうのボックスカーに先生を押し込み、誘拐犯も呆気にとられるほど見事華麗な手際で、カビ臭い会場へ漫画家先生を招待することに成功したのだった。
 車の中でも散々文句を言っていた先生だったが、連れられた目的が飲み会で、しかも窮屈な部屋に七八人がすし詰め状態でやるのだと知ると、
「オイお前ら、遊んでる暇があったら学生らしく勉強しろッ!」
と苛立ち紛れに説教をぶつけて帰ろうとするので面白かったけれど、説得するのに苦労をした。
 持ち寄った酒瓶やらビール缶やらチューハイやらが空になる時分には、全員が騒ぎ疲れ果て、すっかり眠りの中に入り込んでいた。試験やレポート提出やらで、徹夜組も多かったせいもあるのだろう。眠気に耐えられず、途中で帰った部員も何人かいた。
 私はアルコールに弱くあまり呑んでいなかったため、少しばかり目が覚めていた。部屋は寝息で溢れていて、つまみの匂いや人の熱気が温度を上げている。空気を入れ替えたほうがいいかもしれない。
 そういえば、露伴先生はどうしただろうか。ふとそう思って、壁に寄りかかったまま薄目に周りを眺める。夕方から始めた宴会なので、まだ日は変わっていなかったけれど、外はとうに真っ暗になっている。窓近くの街灯から、薄っすらと光が入り込むだけだ。
 はたして露伴先生は、ちゃぶ台を挟んで目の前にいた。台の上に顔を伏せて寝こけている角刈りの先輩を、覗き込むようにして跪いている。先生の右手はゆっくりと、何かを捲っていた。先輩の短い頭髪に触れるではなく、その真上の空中を先生の指先が滑るように往復した。
 異様な光景に、私は酔いも冷めて見入っていた。私に背を向ける格好だったため、その表情は窺いしれない。ただおぼろげな暗闇に、先生の白い手がぼうっと浮かび上がっては、体の影に隠れていく。仄かな街灯の光を頼りに、目を凝らしてあっと驚いた。先生の手元。何度も行き来する指先は、先輩の皮膚を捲っているように見えたからだ。何層にも重なるそれに言葉を失って、夢ではないかと目を張ったり、擦ったり、目頭を押さえてもう一度見てみたけれど、同じことだった。とても現実には思えず、目を瞑る。動揺したまま大きく深呼吸をして先生を見ると、気配に気づいたのか、くるりと私を振り返った。その時の顔と言ったら──
 私が気絶したと言えば、おおよそは分かるだろう。

 露伴先生には、不思議な力があるらしい──と言うと、危ない新興宗教のように思えるかもしれないが、どうもかなりやりたい放題できる力を持っていることは確かだ。
 先輩の部屋を出て、アパートの錆びた手すりに掴まりながら、露伴先生と互いの話をした。矢に射抜かれた感覚がしてから、突然この力に目覚めたのだという先生の突拍子のない話を聞いても、私は前のようにからかいはしなかった。
「君が意識を失っている間に、記憶を読ませてもらったよ」と先生が言った。悪びれのない言い方だった。
「君こそ探してたんじゃないか、件の道」
 件の道、とは霊道のことだ。
 梅雨の名残が夜風を湿らせている。どこか重たい空気を吸って、「夢じゃなかったんですね」と私は間延びした声で呟いた。

 霊的な体験をしたことがある、と言うと、大抵の人は顔を引き攣らせる。私が偶発的に出会ったそれを信じる者はなく、そんな話を持ち出す私自体が異質だと遠ざけるその空気を、物悲しいだけで憎らしいと思ったことはない。私にとっても、曖昧な記憶になっていたことは確かだったからだ。
 それは、小学校4年生くらいの出来事だったように思う。母方の祖父の家が電車数本を乗り継いだ田舎にあって、私は学校が長期休暇に入ると、度々そこに遊びに行っていた。何度も通っていたから両親の付き添いはなく、姉弟はしつけに厳しい祖父のことを怖がってあまり好んで行きたいとは言わなかった。だから私は休みになると一人で出掛けるのが常だった。
 2時間ほど電車を乗り継ぎ、駅員もいない小さな駅を出れば、畦道の先に雑木林があって、そこを抜けたところに雑貨屋がある。駄菓子や日用品なども売っている、田舎特有の店だ。私は祖父の家に遊びに行くと、いつもそこに一目散に行きたがったので、祖父はその日も店の前に軽トラを停めて待っているはずだった。
 舗装されていない狭い雑木道は、木漏れ日が砂利の上を流れて綺麗だったので、私は晴れた日はそれを見ながらのんびりと歩くのが常だった。急に肌寒くなったと思って気づけば、一本道だった雑木林の先は、獣道へと続くように段々と細く枝葉に覆われるようになっているのが見えた。不思議に思って後ろを振り返ると、まだ来た通りの畦道があった。祖父が待つ雑貨屋にはまっすぐの道しかないと信じていた私は、戸惑いながらも、特にそれ以上考えることはなく突き進んでいった。
 暫く経つと、どこかに迷い込んだのか、知らない洞穴の前に出た。全く知らない場所だった。そこまで広くはない雑木林だったはずだけど、左手にずっと歩くと誰それさんの私有地の山に入ると、いつか祖父が話していたことを思い出した。少し不安になって引き返そうとすると、洞穴の中からひんやりとした風が頬に当たった。この頃からあまり深く考えない性格だったので、好奇心が勝り、思わず中に入ろうとすると、背後から声がかけられた。男性の声だった。
「君、どいてくれないか」
 振り向くと、スーツを着た父と同じくらいの年の男性が立っていて、仕切りに左手首の腕時計を気にしている。
「急いでるんだ、遅れてしまう」
 大人の見知らぬ男性に突然声をかけられて驚いた私は、苛立ちの混じりの焦った声に慌てて道を譲ると、男性はこちらを見もせずにどうも、と一言呟いて通り過ぎて行く。僅かに放心しながら洞穴に入っていく様子を見守っていたはずだったのだが、その男性の背中は、暗がりの先で霧のように不意にたち消えてしまった。
 私は呆然と声もなく立ち竦んでいた。次第に恐怖が私の首筋をひやりと撫ぜる。後ずさるのさえ怖かった。後ろにまた、別の男性が立っていたらと思うと、居ても立ってもいられなくなった。がくがくと震えていた足をようやく動かすと、一目散にその場を駆け去り、どこをどうやって走ったのかもわからないまま、いつの間にか転がるようにして雑木林を抜けて、祖父の待つ店の前に出たのだった。

 私がオカルト同好会にいるのは、その夢か幻かわからない子供の頃の記憶にとらわれて、そんなものが本当にあるのかを、自分自身に証明してみたかったからなのかもしれない。
「本当かどうかなんてぼくにはどうでもいい。リアリティがあるかどうかさ」
 露伴先生はそう言い切った。
「少なくとも真偽に迷っている君は、本物に見えるよ」
 夜に立ち話をするには、まだ少々肌寒かった。怪奇そのものの先生は一通りの話を聞き終えると、どうせだから全員分読みたいと言って再び部屋に戻って行った。その背中を呆れながら見送って、手すりのざらついた錆の感触をなぞり、こっそりと頬を抓った。
 その日の信じがたい夜の、しっとりとしたアスファルトの匂いは、確かに私の本物の記憶になった。




18/12/04 短編