03


 自称人嫌いの先生は、当然一人を好んで行動していて、普段から誰かと連れ立って歩いている様子はない。たまに嫌がる康一君を強引に連れ出していることを、康一君本人から聞いていて、少なくとも全く人と会いたくないというわけではないようだということが分かり、私はそれで露伴先生の印象が少し変わったのだった。
 それでも自分に非常に都合のいい時だけ好き勝手に呼び寄せるタイプの人間であることには、変わりはないのだけれど。
 就職まで遊び呆けるために、二年間熱心に講義を入れ続けた大学生の鏡の私は、三年目にはもう悠々自適の学生生活を送っていた。午前で講義が終わり、バイトも予定もない暇な平日の帰り道、校門前の街路で「約束があるんですよぉ」と困り果てた様子の康一君を見かけて声をかけた。康一君の側にはいかにもな外車が停まっていて、私が近づく前に走り去っていった。話を聞けば、露伴先生だったらしい。また取材と称した無理な約束を取り付けられたのだろう。
 困惑した様子だった康一君は、私に話す内に次第に苛立ってきたのか、
「もう知りませんよ!」
と今はいない露伴先生に拳を握りしめて決意を示していたので、私はそれを面白く感じた。
「私が行こうか?」
 提案は思考よりも先に口をついて出ていた。オカルト同好会で培われた、好奇心が騒いだのだ。
「いや、でも悪いですし……あの人、失礼なこと言うかもですし……というか確実に言いますから……」
「いいよいいよ、変なのは分かってるから」
「うーん、でもなぁ」
と言いつつも最後には頭を下げた康一君に、後日報告することを約束して先生の家まで向かった。
 康一君はずっと「気分を悪くしますよ」とか、「本当に変な人ですよ」とか、私を気遣って色々と忠告をしてくれたので、そんなことを言いながらもそれなりに信頼しているらしい康一君の方が、私には可笑しかった。付き合いは短いほうだけれど、私も人が知らない先生のこともそれなりに知っている。何より、人の記憶や思想を勝手に覗き見ても罪悪感を抱かないような人が、まともな性格をしているはずがないことは、十分承知していた。
 だから初めは好奇心だった。

「本当にこの道なんだろうな?」
「言っときますが、先生が調べた通りに道案内してますからね?」
「地図、逆に持ってないだろうな~~?」
「そこまで言うなら私が運転しますから、先生が案内してください」
「君この前後輩の車、擦ってたじゃあないか」
 一体いつ原稿を描いているのか、やたらめったら取材と称した外出の多い露伴先生は、実は相当暇人なのかもしれない。
 康一君の肩代わりをしてから、先生の取材を追いかけるようになった私も物好きではあったが、邪魔だ足手纏だと言われながらも、行動的な露伴先生について行くのはそれなりに刺激的で楽しかった。決してオカルト同好会が嫌いなわけではないが、超常現象を信じているという点で、先生といるのは気が楽だったからだ。
 そして先生には、全ての倫理観が欠落しているわけではないということも、それなりに分かってきた。やろうとすれば何でもできる能力を悪用するでもなく、漫画を書くためにしか利用しないのが、それを証明していた。あまりにもシンプルな使い方には、かなり拍子抜けした。自分のほうが余程劇画的だというのに、まるで図書館の資料を探すようなことばかりしている。発想がないわけではなく、それ以外に使いたいという欲望がないらしい。倫理観とは言ったが、どちらかというとただの漫画狂いなのかもしれなかった。
 私を煩わしそうに撒こうとする先生と、置いていかれても次こそはと食い下がる私とで攻防が続いたこともあったけれど、康一君が忙しくなるにつれ、先生は諦めたように私を連れることも多くなった。
 ある日の朝、アパートの電話が鳴り、先生から誘いが入った時に感じたものが、その年一番の達成感だったかもしれない。私は思わず小さくガッツポーズを取って、電話を切ってからもう一度拳を握った。
 そうして超常現象から民族伝承、妖怪からUMAの類まで、文献資料から聞き込み調査、現地取材と、極々たまに康一君を交えての、筋金入りのオカルト探求に熱を入れる日々が続いた。私のオカルト小旅行にも、先生自ら付き合ってくることさえあった。
 そうして私はいつしか、露伴先生に惹かれていっていた。
 それに気づいた時、約束を変わると言った時の康一君の言葉を思い出して、私は思わず笑ってしまった。気分を悪くするどころか、あんな人に惚れてしまった。これこそ一番のオカルトだと、思ってしまったからだった。

 どこが好きかと言われると、あまりよく分からない。でも、居心地が良かった。ふと顔を上げて私の姿を見つけた時、必ず悪巧みが見つかってしまったみたいに、ニヤリと笑う先生も好きだった。
 それと同時に、恋愛につきもののアンニュイな気持ちもこみ上げた。
「先生にいい人ができたら、もう誘うこともできなくなるなぁ」
 国道沿いの小さな蕎麦屋へ、腹拵えに入るなりそう呟いた私に、露伴先生は不快なものに出くわしたかのように顔を顰めた。
 重たい木製の椅子を引きずって腰を下ろすと、財布を同じく木製の重厚なテーブルに無造作に置く。
「ぼくに? まさか」
「いつかはできるじゃないですか」
 だって先生は大抵のものはなんでも手に入れられるんだから、と言えば「断じてない」という声が続いた。
「はい……?」
「面倒くさいだろ」
 吐き出すような、嫌気の差した表情を見れば、たまに忘れかける露伴先生の人嫌いが記憶から甦った。嬉しいような悲しいような、中途半端な気持ちに見舞われながら、呑気に蕎麦をすすっている先生を前に、私は結局落ち込んだ。やけになって大食いを決め込む。蕎麦と天丼を注文し、無心に咀嚼を繰り返す私を見て露伴先生は、
「その内ツケが来てデブるぜ」
と呆れながらにお茶を飲んでいた。女心の分らなそうな人だ、と改めて思った。そう思っても好きだったのだから、仕方がないのは私の方なのかもしれなかった。

 けれど、いつも見つめてしまうせいで、気づいてしまった。
 話をしていても時折、露伴先生は遠くを見つめるようにぼうっとすることがある。声をかけると、何事もなく小憎たらしい相槌を打ってくるから、顔を見なければ気づきにくいのだけれど、その時の目だけは、私には判別できた。
 露伴先生の意識を彼方へ飛ばす人。いつだったか康一君が話してくれた幽霊の女性。
 自身の体験を話し合っていた時だっただろうか。露伴先生を前にして、康一君から一度聞いたことがあるその話は、先生にとっても大切なことのようで、それ以来ついぞ話題になったことはない。でもそれ自体が、先生が遠くを見つめる理由を証明しているような気がした。
 オカルトとなればすぐに食いついて飛び出していく私に、近頃ではなんだかんだ言いながらも一々ついて来るのは、きっとそのせいなんだろうと、そう思った。
「それでその集落の跡なんですが」
 私はわざと話を続けながら、先生の視線の先を追ってみた。ポスターさえ貼られていない、少し埃で黒ずんだ壁が、そこにあるだけだ。私には、それだけしか見えない。それでも先生は、私の視線にも気づくことなく、ぼんやりとそこへ目を向け続けていた。私には見えない。誰にも、見えない。露伴先生には、見えているのだろうと思った。先生だけにしか見ることの出来ない人。先生の記憶に生きる、色鮮やかなひと。
 現世との間に薄っすらと膜を張った、そんな遠い目をする露伴先生を見ると、私は廃墟にひとり置き去りにされたかのような、仄暗い寂しさに襲われる。途方にくれて、言葉を詰まらせてしまう。どうしてそんな気持ちになるのか、深く考えたくはなかった。きっと、私の嫌いな私が、そこにはいる気がしたからだ。
 不意に音の連続が途切れたことに気づいたのだろう。露伴先生は私へ顔を向けて、「どうしたんだ?」と尋ねた。少しだけ、寝起きのような、今気づいたみたいな声。
「いいえ」と、声を出すだけで、私はそれ以上返すことが出来ず、いつも話を逸らすように笑うだけだった。
 もう一度、会いたいんですか?──
 一言だけを聞けば、それでこの迫るような暗い苦みや息苦しさから解放されるのに、たったそれだけのことが、どうしても、私には出来なかった。

「三度峠の洞穴って、知ってるか?」
 露伴先生がその話を持ち出したのは、立冬も間近という頃だった。
「君の先輩が纏めていたのを思い出してね」
 珍しく先生からの誘いだった。急に忙しくなったかは定かではないけれど、秋頃から先生の外出が少なくなっていた。取材には出掛けているようだけれど、時間の調整が難しいのか、私が聞かなければ康一君も連れず、一人で取材に行くことも多かった。その露伴先生が、久しぶりに人恋しくなったらしい。素直に、嬉しくてたまらなかった。
「昔からその洞穴で神隠しに遭う、という話を聞いて調べていたんだが、確かにその付近の村役人の雑書に載っていたんだ。君の探しているものに、もしかしたら近いんじゃないか?」
 ほんの親切心だよ、と先生はいつも通りの恩着せがましさを装って言ったようだけれど、私には少し照れているのが分かってしまった。私は一にも二にもなく頷いた。
 久々に乗る先生の車の匂いは嫌いじゃなかった。でも外車であるために、右側の助手席に座るのが落ち着かなかった。
 そもそも初めの頃は助手席といったら露伴先生の荷物置き場で、何人たりとも座ることを許されていなかった。私のオカルト旅行に付き合う内に、山道なども多くなり、地図を開いて道案内が必要になってきた。先生の背後からあっちだのこっちだの言って騒いでいたのも数度で、完全に迷子になって途方に暮れた時、先生はついに「後部座席からじゃ道案内されてもわからん」とさじを投げた様子で言ってのけた。こうして私は、便宜上の理由から案内役兼荷物持ちとして、先生から直々に右側の助手席へと座る許可を得たのだった。つまりここで言う助手席とは、いわば特別席なのだ。
 しかし、それとこれとはまた別の問題だった。後部座席よりずっと明るいし、座り心地もいいし、露伴先生も近くてこれ以上ないほど幸福なのだけれど、景色を見ていてもすぐに酔ってしまうのだ。だから私は露伴先生の車に乗る時はいつも、薄く窓を開けて、雑誌を読むことにしていた。間違って寝たりなどすると、「オイッ、ぼくを運転手か何かだと思ってないだろうな!」となじられるので、雑誌を捲りながらどうでもいい話を振りつつ、目的地に着くまでの時間を潰す。
 狭い車の中だから、普段より落ち着いたトーンで話す先生の声はいつもより低くて、駐車する時に、不意にその声が近づくと、胸の高鳴りを抑えるのは大変だった。

 午前中に杜王町を出て、二時間ほどかけて例の峠へ着いた。昔は隣の村へ行くのに同じような峠を三度越えなければならなかったから、この名前が俗称として付いたらしいと、車を走らせながら露伴先生が説明していた。今は他の峠は切り崩されて住宅地になっており、ここだけが境目のように残っていた。
 晴れた山道を軽いハイキングをしながら、迷わないように進み、目的の洞穴に付いたのは更に一時間後だった。荷物に付けた熊よけの鈴がガラガラと大きく鳴り響く。
 予想より小さい洞口は子供の背丈ほどで、一歩でも進むと奥は真っ暗だ。先生が自治体に問い合わせて、ここが調査済みの洞窟であることは分かっていた。奥は花崗岩で形成された200メートル未満の小規模な横穴の洞穴だ。聞いたところでは、人為的に掘削されたのではないかと言われているらしい。
 そうは知っていても、どこか恐ろしいものだ。昼を少し過ぎたばかりで明るい山中に、吸い込まれそうなほど黒い穴が突然ぽっかりと空いている光景は、本能的に不気味に感じてしまうだろう。先生はケイビングは手間も人手もいるから、するか分からないと言っていたので、今日は周りを探索する予定だった。
 私はリュックから懐中電灯を取り出して、入り口を覗き込むように近づいた。地面は少し湿り気を帯びていた。落ち葉に足が沈む。一歩踏みしめるたびに、鼓動が早くなった。登山用のウィンドブレーカーが、歩くとざりざりと擦れて煩わしかった。
 あの日のことを思い出した。小さい時迷い込んだあの空間。スーツの男性。溶けるように消えた姿。ひんやりとした空気の流れだけは、克明に覚えていた。あれは全部、夢だったのだろうか。今までも同好会のメンバーと洞穴の周りを探索したことはあったけれど、こんな思いには囚われたことはなかった。
 洞口の枝を避けて、少しだけ中に足を踏み入れ、奥の方を照らす。覗いた先は雨で雪崩込んだらしい土が続いていて、中に黒っぽい岩が転がっている。もったりとして土臭く、重たい空気だった。地面をなぞるように奥の方へライトを伸ばす。殆ど黒く見える岩の間に、白っぽいものを見つけて、私は目を凝らした。裸足の、人の足だった。それがすうっと不気味に闇の中に伸びている。
「先生」
 呼ぶのと同時に、同じものを見たらしい先生に、強い力で後ろに引っ張られた。洞窟内からつんざくような叫び声が鳴り響いて、足首をなにかに掴まれる感触がした。感触だけで、実際は何も纏わりついてはいない。勢いよく後ろへ退いたため、洞窟からは二三メートルほどの距離がある。地面に倒れたまま、二人で入り口を凝視した。そこには何者もいない。
……なんか、君……」
 後ろから私を抱え込んでいた先生は、私の体をぐっと押さえつけた。
「オイ、ふざけるなよ……段々にじり寄ってるじゃないか……洞窟に」
 私は首を捻って、先生を見上げた。何かを言おうとしたのだけれど、言葉にならなかった。だめだ、と思った。多分もうだめだ。足が引きずられる感覚がする。けれど目で見えるのは、自分の足でじりじりと地面を漕いでいる光景なのだ。洞窟へ目を向ければ、見えるはずのない最奥へ意識が飛ぶ。どうしてもそこに辿り着きたいという思いに囚われて離れなくなる。一部になりたい。ここに入れば、それが叶う。一部になりたい──
 先生の右手が、私を本にするのが見えた。上から私を覗き込んだ露伴先生が目を見開いた。先生が私に話しかけているのは分かるのに、音も聞こえるのに、意味が理解できない。何かを書き込む気配がして、私の時間は飛ぶように過ぎ去った。

 病院のベッドで、意識が浮上した。ベッド柵の脇には、見知らぬ男性が座っていた。さっきまで返事をしていたらしい私へ、
「君が触れたのは霊の道じゃなかった」
と、男性はよく分からないことを話した。それまでも何か語りかけていたような気がするけれど、思い出せなかった。見覚えのない男性が、どうして話しかけてくるのかということさえも、頭がぼんやりとして、何も気にならなかった。男性は深刻そうに話を続けている。
「世界を書き換えるような、超常的な何か……寸前の君の記憶を見た限り、あの地帯の神に近いような何かだと、思う。神隠しというのは、比喩ではなかったのかもしれない……」
 私の相槌が返ってこないことに気づいて、その人は中腰に立ち上がり、私の顔を窺った。そうして、理解したようにぷつりと言葉を切った。椅子へ座り直すと、無言の時間が続いた。ビニル床を鳴らしながら、看護師が処置台を押して通り過ぎると、男性がようやく口を開いた。
「君のご両親はあと1時間ほどで来るらしい」
「そうですか……ありがとうございます」
 病室には他にも三人ほど患者がいて、全員がカーテンを締め切っていた。隣へ目を向けた。耳が悪いのか、テレビの音が漏れている。安いイヤホン特有の荒い音質で、バラエティ番組のような騒がしい笑い声が、微かに届いた。
 隣のベッドへ気を奪われていた私の手へ、男性の手がそっと触れた。私の手を暫くの間じっと見つめていたかと思うと、頭を垂れて、囁くような小さな声で、独り言のように呟いた。
「もう君の本にはぼくは書かれていない……オカルトのことも、ぼくに関わることは全て……他にも、何かあるのかもしれない……間に合ったはずなのに、逃れられなかった」
 私は男性へ視線を落とした。緑色のヘアバンドは、その人によく似合っていると思った。
「責任を、取らなきゃあならないと……思ってる。できる限り、君を助ける」
 私より大きな男性の手が、ぎゅっと上から握りしめた。
「君を巻き込んだのは、ぼくだ」
 すまない。苦しげに絞り出されたその声を聞いて不思議と、言わなければならないことがあるような気がした。それが何なのか、自分でも思い出せない。けれどこの人は、誰かと私を取り違えているとはっきりと思った。
「あなたには、関係ないことですよ」
 振り払うように手を離して静かに呟くと、男性はもう何も言わなかった。
 呆然と病院の壁を見つめていると、父と母の焦った声が廊下から聞こえてきた。
 顔を向ければ、いつの間に立ち上がっていたのか、病室を出ていく男性の、小さな背が角に消えていった。

 同じような光景が、何度か起きた。私は何度もその人と話して、何度も初めて会ったように接した。その人はその度に少しだけ寂しそうに笑って、似た女性がいるのだと言った。


 背中に振動を感じて、私は固く握りしめた自分の両手に気づいた。はじめに子供の甲高い叫び声が、後ろから聞こえると、通勤前か待ち合わせ前の時間つぶしか、混んできた店内の雑多な音が体へ押し寄せるようになだれ込んできた。じわりじわりと、目の焦点が合う。右手の横で、まだ薄っすらと温かいコーヒーが、窓からの光を受けて微かに揺れている。
 長い旅から戻ってきたような、現実に取り残された感覚がするのに、岸辺さんと話してからあまり時間が経っていないようだった。岸辺さん──露伴先生の今までの言動が、頭をぐるぐると駆け巡った。
 なんだ、と思った。
 なんだ、酷いことをしていたのは私の方だ。いつも人を避けるようで、冷たい物言いをしていても、康一君から聞く露伴先生はどれも、人を捨てられないような、そんな人だった。露伴先生は、そういう人だったはずなのだ。
 あの日病室で、先生は私の記憶を読んだと言っていた。もし先生の目の前で私が記憶を失ってしまったのなら。それも、先生を好きだったという事実だけを知らせて、私だけが先生を忘れてしまったのなら。
 あの露伴先生が、捨てておくとは、私にはとても思えなかった。
 先生を縛り付けていたのは私だ。勝手に後悔をさせて、勝手に罪悪感を植え付けて、私の人生に付きあわせていた。付き合ってくれた。見守ってくれた。そばにいてくれた。変人で人嫌いだけれど、義理堅くて、涙もろくて、心の底から人を嫌うことが出来ない。
 岸辺露伴という人の分かりづらい人情を、私はもっと知らなければならなかった。それなのに、どれくらいの間、私は先生を裏切ってきたのだろう。
 罪の意識に押し潰されそうになって、額を抑えながら窓の外を見る。店を出たばかりの露伴先生が歩いていた。
 その後ろ姿を見て、胸が苦しくなった。私の知っている先生は、あんなに小さな背中をしていないはずだった。もっと堂々として、不用心で、歩幅も大きくて、間違ってもこんな晴れた日に、俯きがちに歩くような人じゃなかったのだ。

 伝票を探して、代金は先生が払っていたことを思い出し、慌てて店を飛び出した。先生は1ブロックほど先の、曲がり角に消えるところだった。できる限りの全速力で走りながら、角を曲がる。
「先生!」
 角からすぐの階段を降りきったところに、露伴先生はいた。呼びかけると、露伴先生はおずおずといった風に緩やかに私を振り返った。化かされたような、複雑な顔がそこにあった。階段を降りきってからもう一度、かすれる声で先生と呼びかける。
……?」と口の中で呟かれた名前に、もう一度先生の名前を呼んでから、私はまだ混濁したままの記憶の中で、一番最初に伝えなければならないことを口にした。
「違うんです」
 そう言うと、先生が怪訝そうに眉を寄せた。
「巻き込まれたなんて思ってません……! ほんとうは、ほんとうは私……っ」
 じっと私を見つめていた露伴先生の視線が、僅かに見開かれた。
 肝心なことが最後まで言えない。あの時病室で、心配する先生の手を振りほどいて心にもないことを言ったのを、ちゃんと謝らなければならないのに、ぼろぼろと涙がこぼれて私の邪魔をする。喉がギュッと締まって、もう声なんか一言も出なかった。あと一言。たった6つの音をなぞるだけのことができない。
「……君は、本当によく待たせるやつだよな」
 私の必死な表情から悟ったのか、露伴先生は、とても優しげに目元を緩ませた。急な言葉だったので、私は先生が何を言っているのか、意味を汲み取れなかった。
「約束しただろ? 帰りにラーメンと餃子を食べるって」
「え……?」
「もやしたっぷりの味噌ラーメンを食べるんだろ?」
 すぐには、思い出せなかった。あの洞穴へ行くとき、助手席に座りながら雑誌の特集を捲っていた私は、そんなことを意気込んで話していたような気がする。車酔いを忘れるための、雑談だったのかもしれない。言った私でさえすぐに忘れてしまうような、他愛もない、そんな会話だったのに。
 不意に私は、先生がラーメンを頑なに食べなかったわけを知って、抉られるような悲しみに襲われた。
 耐えきれず口元を手で覆う。声がくぐもっていた。喉が焼け付くように熱くなって、私はそれきり、声を失ったみたいに唇をあてどなく開閉するしかなかった。
 私の元へ歩み寄った露伴先生は、私が本当に全てを思い出したことを実感したのか、噛みしめるように深く、深く息を吐いた。そうして、うつむき加減に、一言一言を呟くように語った。
「ずっと、彼女が……杉本鈴美が、どんな気持ちで見える人間を待っていたのかを考えていた……でも、結局答えは出なかった。もう一度でいい、聞くことができていたら、と思っていた」
 顔がゆるやかに上がった。視線が寄せられる。いつもは冷たさすら感じる黒い目が、僅かな揺らぎとともに優しい安堵の光を浮かべていた。それは、私が見たことのない先生の瞳だった。
「でも、なんとなくだけど、わかった……」
 先生が言った。
「充分だ、もう、これで」
 なんで。浮かぶ疑問を胸の中だけには留められなかった。先生の長い月日を思えば、今そんなことを尋ねるのは愚かかもしれない。だとしても、私はどうしても聞かずにはいられなかった。私一人、悲しい過去の遺物として、捨て置いてもよかったのだ。私に合わせて恋人のふりをして、自分に嘘をついて待つくらいなら。こんな顔をして、先生が傷つくくらいなら。私のことなんて放っておけばよかったのだ。それなのに、露伴先生はまだここに立っている。三年前のあの日以来、こうして。自分のした約束を、守ろうとし続けている。
 なんで、と私は言った。
「私なんかを、待っていたんですか……」
 三年も前のつまらない約束なんて、忘れてしまえばよかった。私は死ぬわけじゃない。何もかもを忘れて、生きるだけだった。それなのに。
「思い出した時、ぼくが君を置いて誰かといたら、君は泣くだろ」
 もう泣いてるみたいだけどな、と言って、露伴先生は困ったような眉を歪めて、少しだけ意地悪く笑った。

 私は切なくて、切なくてたまらなかった。決して短くはない付き合いで、今はじめて、露伴先生のことを知ったと思ったからだ。そして、この人はどこまで約束を守るつもりなのだろう、と思った。
 先生の中には、確かに女性が存在していた。幽霊の女性はこうやって生きていた。先生の中の分かりづらい優しさを、どんなに苦しいときでも、その人がずっと支えていたのだ。彼女が育てたその優しさで、私は露伴先生を縛りつけていたことに、気づいてしまったのだった。過去を恐れるその人の善意を、利用していた。
 私は襲ってくる罪悪感と息苦しさに、踏ん切りをつけなければならないと思った。未練たらしく抱き続けている想いも、露伴先生から貰った三年間の覚悟だけで十分すぎるほどだった。
「ありがとうございます」
と、私は言った。
「もう、大丈夫です。もう、私への義理は考えないでください……だから」
 こんなに待たせてしまった。義理堅い人を、こんなに縛り付けてしまっていた。
 それでも、どうしても言いたくない言葉だった。
「だから、露伴先生の人生を、どうか」
 何度も何度も、ぼんやりと耽りながら思い出していた、本当に大事な人。私はその記憶を大切にする露伴先生の儚げな顔も、想いも、本当は嫌いではなかった。その感情ごと、先生が好きだったのだ。記憶のない時に、たとえ一度も触れないままだったとしても、私の気持ちを優先してくれた先生の温かい部分を、いつも感じることができた。だからこそ、義理なんかではなく、心から望み続けている目的を、今度こそ果たしてほしいと思ったのだ。
「それが君の望みかい?」
「はい」
 自分のか細い声に、胸が締め付けられるように苦しくなって、自分の意思とは別にまた涙が溢れてくる。ぼろぼろと溢れて、先生に見られてはいけないと思って拭っても、目を擦れば擦るほどに流れ落ちて、出そうになる嗚咽をぐっと堪えると、それ以上は言葉を紡げなくなってしまった。
「やっぱり泣いてるじゃあないか」
 今先生はどんな顔をしているのか分からない。けれどきっと、とても困った顔をしているのかもしれないと、私は思った。どこまで私に付き合うつもりなのだろう。どうして辛くはならないのだろう。どうして。
「どうして先生は泣かないんですか……」
「泣いたさ」
 露伴先生が、静かに息をついた。
「君からぼくだけが消えた時、十分に」
「だ、だって、先生、今までだって、そんなこと、絶対に……」
「ああ、二度と言うもんか、この……」
 クソッタレ、と小さな声が聞こえると、耳に吹きかけられた先生のあたたかな息と一緒に、私の体は先生の匂いにすっぽりと覆われた。感情を押し込めたような、苦しげな、それでいて安堵のこもった、息だけの声だった。
 涙が止まらないせいで、鼻が詰まって、ぐすぐすと何度もすすり上げる。厚手のコート越しだけれど、冷たい風を避けるような抱擁は、とても温かかった。露伴先生の体温を感じると、またこみ上げてくる。
「おい、君はどうやったら泣きやむんだよ」
「だって、だって……先生が、優しいんですもん……」
 露伴先生は少しだけ苛立ったようにため息をつくと、肩を抱く腕に力を込めた。
「いいかい、君がすっかりぼくのことを忘れている間、君の前でいい人を演じるのは、凄く疲れたんだぜ」
「ごめんなさい……」
「わからないやつだな」
 先生はそう言って、少しだけ体を離した。軽く眉を寄せた顔がゆっくりと近づいてくるのを、私は呆然と見守っていた。キスが鼻先に降りて、擦り合わせるようになぞられると、吐息が掠めたあと、唇に柔らかな感触が降りる。食むように二三回触れると、遠慮がちだった口付けが深くなっていった。
「せ、先生……っ」
 恥ずかしさに耐えきれず顔を背けると、少しだけ息を荒くした先生が、私から体を離した。
「言っただろ、君と話したいって……君のことを知りたいって」
 付き合い始めた頃、確かに露伴先生は喫茶店で、恥ずかしげもなく私にそう告げていた。記憶のない私に、記憶のない私を受け入れるために。
 露伴先生は口にするのをためらうように、ごくりと唾を飲み込むと、覚悟を決めた顔で私を見つめ直した。
「ぼくは君がほしいんだよ……たまらなく」
 私は迷いに迷って、心に決めた。羞恥をかなぐり捨てて、露伴先生に抱きつく。それ以外にこの気持をどう表現すればいいのか分からなかった。瞬きをするのも忘れて、しがみつくように露伴先生の背中に手を回した。伝えなければならないことは沢山あって、全てを言うには時間が足りなかった。けれどもしたった今、先生が黙ってくれている今この一瞬に、そのどれか一つを口にしなければならないのだとしたら、それはもう決まっていたのだ。この別人のような人に、今までの全部を謝る前に、そばに居てくれたことを感謝する前に、言わなければならなかったのだ。 私もです、と短い気持ちを。


「久々のデートと行くか」
 長いような短いような抱擁から身を離すなり、露伴先生がおもむろに言った。
 頷きながら三週間ぶりだと言うと、先生は首を振った。
「取材にいつも行ってただろ、僕の車で。君の支度に待たされて、途中でコンビニ寄ったり、写真撮ったりしてるうちに、結局帰るのがいつも日が暮れた後になってたじゃないか」
「あっあれ、デートだったんですか?!」
 驚くあまりに、素っ頓狂な声を上げてしまった私に反して、露伴先生は落ち着いた様子で私へ頷いた。
「ぼくにとっては、いつもそのつもりだった」
 穏やかな表情が、優しげに言葉を紡いだ。ぽかんと、口が開いたまま塞がらなかった。どうしたら、こんな先生が見れるようになるのだろうか。どんなに見つめていても、振り向いてくれなかったあの先生が──
 いつまで経っても目を丸くして微動だにしない私に、露伴先生は流石に限界が来たようで、苛立ちを含んだ声を上げながら背を向けた。
「恥ずかしいことは全部言ってやったんだ、今度は君が誠意を見せる番じゃあないのか」
 さっさと歩き出す先生の歩幅は、心なしかいつもより大きい。私の知る限り、露伴先生は絶対にこんな言葉をかけてくれる人じゃない。非情だとか思いやりに欠けるわけじゃなくて、心の中で思っていても、あまり口にしない性格だからだ。だから、露伴先生の抱えている羞恥の大きさは、私でも分かる。だからこそ、本当に置いて行かれかねない。
 でも、そうまでして、言葉にしてくれた。そうまでして、伝えようとしてくれた。待っていてくれた。
「先生!」
 私はどんどん遠ざかっていく背中を、駆け足で追いかけた。そうしなければならなかった。先生がどんなに先へ行ってしまおうと、たとえ車でどこかへ行ってしまっても、私は走ってでも追いかけなければならない。息を切らして、追いついて、それで露伴先生の手を取って歩きたいのだ。
 ようよう隣に並んで、そっと先生の手を掴むと、先生はその手を一度離して、それから私の手を覆うように握り直した。
「昼食は、ラーメンでいいだろ。例のもやしたっぷりの」
「はい! もちろんです」

 雨も雪も降る気配はないが、風が強まってきている。微かな春の匂いの混じった、埃っぽい風だ。
 先生も私も、「帰ろう」とは言わなかった。ラーメン屋が待っている。いつ行ったって変わりはしない。そんなの承知している。
 それでも、どうしても今日、行かなければならなかったのだ。
 正直に手をつないでいられる、今のうちに。



|終
15/06/30 短編