裏庭のしっぽたち

01



 6月から、バカンスラッシュが始まる。
 この時期が近づくとテレビはもっぱらその話題でもちきりで、交通事故件数も数倍に跳ね上がる。夫婦喧嘩もまた然り。奥様方は、旦那が運転中に喧嘩をしませんようにと、ふざけた注意勧告が至極真面目に流れるくらいだ。
 とうとうこの時期がやって来たと、季節を感じながらニュースを眺めていた折に、人づてに夏はスイスに行くらしいと聞いていた知人から、連絡があった。友人に招かれた食卓で知り合った、サルデーニャ出身の気さくな会計士だ。
 一年ほど音沙汰なかったが、どうしたのだろうと思えば、数日間か一週間、犬を預かってほしいのだという。なんでも旅行中は奥さんの実家へ預けるはずだったのだが、大喧嘩をして奥さんだけが実家に帰ってしまい、旅行どころではなくなってしまったらしい。説得をして連れ戻すにしても、その間の犬の世話ができるはずもない。
 そういうわけで、私を犬好きらしいという噂を聞きつけたマルコは、私の電話での返答も聞かず、翌日の昼にはリードと口輪、おもちゃと餌袋などの世話用品を手に、私のアパートのインターホンを鳴らしたのだった。
 私といえば、年から年中ネアポリスに留まっていて、バカンスなどとは無縁の人間だ。生活には気楽な公務員ではあるが、差し詰めどこへ行こうという気もない。せいぜいカンパニア州を周回するくらいなものだ。マルコはそういうことを、覚えていたのだろう。

「いやぁ参ったよ」
 私が降りてくるまで、路上で犬と一緒にしゃがみ込んでいたマルコは、ドアが開くと開口一番に弱りきった声を出した。
「電車か飛行機か迷って、結局飛行機のチケットを取ったんだ」
 こんなことなら電車にしておくべきだった、と零すマルコの足元で、まんまるの目をした中型の雑種犬が、口輪を壁に擦り付けながら鼻を鳴らしている。私を見て尻尾を振り、飼い主を見上げてまた私へ尻尾を振る。マルコが言うには、シェパードとシェルティーが混じっているらしい。人懐こそうな、可愛い犬だ。
 昨晩のうちに大家に一日だけ庭に犬を置くことを頼んで許可を取っていたので、柵で囲われた共同の狭い裏庭へマルコと一匹を通す。一階に一部屋しかない狭いアパートの住人は全員で7人で、珍しいことに誰もペットを飼っていない。だからこれも、昨晩に出来る限り事情を話して了承を得た。あとは一人だけだ。
 口輪を取ってやると、犬はベロベロと私の手を舐め回した。ざらついた舌が無遠慮に手の甲を舐め上げ、そうかと思えば鼻先でつつき、頭を撫でさせる。
「大丈夫そうだなぁ」
と、マルコは安心したように言った。人見知りはしないけれど、たまに反りが合わない人間もいるのだと言う。
「昨日も言ったけど、私犬を飼ったことないよ?」
「可愛がってくれさえすれば、人の子供とおんなじさ」
「いや子供もいないんだけど……」
「ぼくだっていない」
 もう頭の中は奥さんとバカンスのことでいっぱいなのか、私の言葉には聞く耳を持たない。
 マルコがおもちゃを私に見せると、犬はサッと立ち上がり、千切れんばかりに尻尾を振った。窮屈な口輪とリードでの散歩の後には、いつもこうして遊んでもらっているのだろう。しかしその期待を裏腹に、3メートルほどしかない庭を駆け回ろうとする犬を抑えながら、マルコは散歩や食事、排泄の管理の仕方などを細かに伝えると、あとは携帯に連絡するように言って、慌ただしくアパートを去っていった。余程、奥さんと酷い喧嘩をしたのかもしれない。飼い主を追いかけようとして扉に阻まれた雑種犬は、地面に座って、健気にドアをカリカリと足で掻いている。なんとも庇護欲を掻き立てる姿だ。
 どうしようか、と思った。困ったことが一つあった。マルコは色々と説明してくれたけれど、焦るあまりに、犬の名前は教えてはくれなかったのだ。
 夫婦喧嘩に巻き込まれた哀れな雑種犬の隣にしゃがんで、その頭を撫でながら、知らない人間に突然預けられ置いていかれる気持ちとはどんなものだろうと思い、寂しげに鼻を鳴らす名前もわからない犬と一緒になって、私も途方に暮れる。

 犬が突然立ち上がったかと思うと、ワン、と突き抜けるような鳴き声を上げた。マルコが戻ってきたのかと思って顔を上げると、ドアのガラスからアバッキオがこちらを覗き込んでいた。どきりとして、意味もなく髪を耳にかけてから手を上げる。彼は私の部屋の上階の住人だ。ワイシャツにスラックスという出で立ちだけれど、この時間にいるのだから、今日は休みの日なのだろう。
 アバッキオがドアを開けようとするので、急いでリードを掴んで、犬が間違って隙間から逃げ出して、主人を追いかけないようにする。
「何だ? 犬を飼い始めたのか?」
「アバッキオ~~」
 後ろ手にドアを閉めた男の名前を縋り付くように呼ぶと、アバッキオは面倒事を感じ取ったのか、一瞬眉をひくりとさせた。
「数日預かることになったんだけど、私犬どころか動物を飼ったことないし、名前もわからないの……!」
 経緯を矢継ぎ早に説明して、如何に今自分が困り果てているかを伝えれば、アバッキオはため息を付きながら「仕方ねぇな」と犬に向かってしゃがみ込んだ。私はなんとか助っ人を得られたことにほっとして、隣に座る。
 アバッキオは無駄なことを喋らない無口な男だ。滅多なことで口角を上げたりもしない無愛想さと、大柄でがっしりとした体つきも相まって、近寄りがたい印象を受けるのだけれど、意外と面倒見がよく、頼りになることをアパートの住人は知っている。小さなアパートには、不測の事態には助け合うような連帯感があり、ここに越してきた時からアバッキオは協力的だった。今も面倒そうにしながらも、ため息一つで休日を潰し、私に付き合ってくれようとしている。
 だからそんなアバッキオに、犬だってすぐに懐くだろうと私は思っていた。
 しかし、裏庭に新しく現れた大男を警戒するように見つめていた犬は、低い姿勢になってもアバッキオに中々寄り付かない。少し怯えた目をして、お尻を下げながら後ずさるのだ。マルコの言っていた「反りが合わない」とはこのことなのかもしれなかった。
「大丈夫だよ~、見た目怖いけど、優しくて頼りになるお兄さんだよ~」
「んなこと言ったってわかりゃあしねーよ」
 私の猫なで声を一蹴すると、アバッキオは少しでも警戒心を解こうと横向きになって、犬が動くのを辛抱強く待っていた。犬は恐る恐る鼻を近づけては引っ込め、一歩近づいては下がりを繰り返すばかりで、暫くすると鼻を鳴らして私の足元に回り込んで座ってしまった。撫でろという催促も欠かさない。
 なんでだろう、と首を傾げながら、私は犬の頭を柔らかく撫でた。
「アバッキオ、変な臭いするんじゃないの? 服洗ってる?」
「言う相手が間違ってんだよ」
「わ、私……」
 心外だといわんばかりの、アバッキオの棘のある声に反応するように、急に脳裏をある考えがよぎった。思いついたことに顔が熱くなり、思わず頬に手を当てて、私はアバッキオの首筋と胸元へ視線を向けた。ますます頬に熱が集まって、ちょっとにやけながら顔を上げると、アバッキオのやけに冷めきった目が、一応といった風に私の言葉を待っていた。完璧に思考を読まれている。
 ここまで来たら変に濁すべきではないと決意して、思い切って喉を震わせた。熱い頬を手で包んだまま、ひと思いに言い切る。
「その、嗅いであげよっか……! 匂い」
「いらねぇよ」
 間髪を入れない冷たい声に振り払われ、「だよね!」と顔を覆いながら叫ぶ。羞恥心がありながらも言わずにはいられなかった自分の欲深さに、心の中でボディーブローをかます。
「でもちょっとさ……どきどきした?」
 膝を抱きながら、高い位置にあるアバッキオの顔をちらりと盗み見ると、少しも変わりのない真顔があって、その口が薄っすらと開かれると、私の頭上にそれは深く長い溜め息が吐き出された。
「おめーのアプローチは間違ってんだよ」
 アバッキオはもう慣れきっていて、子供の戯言をあしらうように、常に平静を保っている。脈なしもいいところだった。
 くぅん、と甘えるように鼻を鳴らして、犬が私の腿へ前足を乗せた。撫でていた手が離れたことを不服そうにして、それから主人が戻ってこないかとドアを見つめ、アバッキオを警戒し、また私へ前足で催促をする。ここの誰よりも忙しい犬だ。しかし悔しいことに、私より遥かに素直で、アプローチが上手いのは確かだった。
「なんだ? 預かったのはこれだけか?」
「うん……」
 アバッキオは私の決死のアピールなどなかったかのように、マルコの持ってきた袋を漁って、良案がないかと策を練っているのだろう。ここまで普通にされると、私の空回りばかりが際立って、恥ずかしさは発散する場もなく延々と留まり続けている。これじゃあ、私はただの変態じゃないか。いや、どう言い訳をしても、そうなのだけれども……
 よしよしと犬の首の後ろを撫で付けてやりながら、さっきの言動をやり直せないかと後悔に苛まれる。数分前に戻れるならやり直したい。もうちょっと普通にできたはずだ。もっと普通の会話ができたはずなのに。アバッキオは絶対に私を頭のおかしい女だと思っているだろう。思い返せばまったくその通りなので、後悔も積み重なるばかりなのだ。でも、絶対にこの男にだって責任はある。
 最初はこんな感じじゃなかったはずだった。まともな関係だったはずなのだ。それなのに、どうしてこんなに捻くれた間柄になってしまったのか……性懲りもなく考えてしまう。


 アバッキオとは従兄弟を通じて知り合った。4年前のことだ。
 どうにもしょうもない従兄弟で、スリや詐欺といった前科を重ねに重ねても反省の色はなく、同じことを繰り返しては彼の父親は何度拘置所に迎えに行ったことかわからない。片親ということ以外は別段何の変哲もない家庭だというのに、悪い友達にそそのかされてから、ずっとチンピラまがいのことをして歩いて、たった一人の親を泣かせるような不孝者だ。
 高校も数年で行かなくなり、どこをほっつき歩いているのかと思えば、ギャングに入ったと言って、ついには父親から勘当をされる始末だ。父親が彼の将来のためにと、一リラも使うことなく貯めてきたお金を、組織に入るために盗み出したのが原因だった。親と子供の関係だ。非行に走るのに何も理由がないということはないにしても、彼にはもうその世界が染み付いていて、見境がなくなっていた。父親を殴って家を出ると、従兄弟は仲間や知人の家を渡り歩くようになった。
 その大馬鹿者の従兄弟が、当時私が住んでいたアパートへ一緒に連れてきたのが、アバッキオだった。酒場で起きた乱闘騒ぎの最中に出会って、無理矢理に連れてきたらしい。当時の男は今よりもっと無口で、やつれきっていた。
 夜の夜更けに人のアパートへ押しかけ、殴られて腫れ上がった顔を抑えながら、こいつと一緒に窃盗をやるのだと息巻いていた従兄弟だけを追い出し、私は何やら事情ありげな男を小さなテーブルに寄せて、椅子に座らせる。肩ほどまで中途半端に伸びた男の白い髪が、重たげに顔の横で揺れていた。男が座ると、ダイニングが急に暗くなったように感じた。上背のある男には、窮屈な部屋だった。
 男は口の端から血を流していた。何かが擦れて、皮膚の皮が捲れているのが見て取れた。額や頬には強打されたような鬱血の跡があり、従兄弟と同じように馬鹿なことでもしたのか、それとも巻き込まれたのかは分からないけれど、乱闘と言うからには相当の騒ぎになっていただろうに、男は一言も痛いとは言わなかった。
 私は一人暮らしで使うことはあまりないと思っていた救急セットを持ち出して、椅子を近づけて、男の前に腰掛けた。男は私が何をしようとしても抵抗はしなかった。声も発しなかった。虚ろな目をしながら、黙って私の挙動を眺めるばかりだった。
「きっと染みますよ」
 そう言いながら、私は脱脂綿を消毒液で濡らして、男の傷口に当てた。男は少しだけ頬の筋肉を引きつらせて、私の応急処置を受け入れていた。近くで見る男の肌は、水分不足のせいかかさついて青白い。何も食べていないのかもしれないと思った。
 顔の赤くなった部分を氷水で冷やしてから、湿布を貼り終えると、私は自分のために作っていたかぼちゃのスープを温めて、大きめのカップに注いでから男の前に出した。しかし無言でカップから揺らぐ湯気を見つめるだけで、微動だにもしない。辛抱強く待つつもりで、私も目の前に座ってスープを飲み始める。そうして二三口ほど、ゆっくりとスープを飲んでいると、男はようやくカップを傾けたのだった。
 控えめに喉が上下して、男の胃袋にスープが収まる。
 悪いな。と、男が呟いた。私がアバッキオの声を聞いたのは、その夜が最初だった。低い、静かな声だった。どこか悲しげで、いつ人と最後の会話をしたのかもわからないような、掠れた声だった。
「アバッキオ……でしたっけ」
 従兄弟の呼んでいた名前を思い出して口にすると、男は肯定するように私を見返した。
「泊まるところがないなら、今晩はここをお貸しします。ソファーは狭いですが、一晩くらいなら大丈夫ですよね?」
 アバッキオは、背後にあるソファーを確認することもなく、ぼんやりと頷いた。何もかもがなすがままで、男には意思がないようだった。だから従兄弟に連れてこられるがまま、ここへやって来たのだろうと、私はその時になってようやく気づいたのだった。
 男はカップを手にしたまま、時間が止まったようにぼんやりと虚空を見つめている。私は少し、心配になった。
 アバッキオの顔を見た時から、ずっと嫌な予感が胸を渦巻いていた。小さな染みが広がっていくように、少しずつその仄暗い不安が心の内側を覆い尽くしていく。

 昔、同じような顔を見たことがあった。バールで何度か話したきりの中年の男性の中に、その顔色があった。
 日暮れ頃に、カウンターの隣の席に座ったその男性と、店主を交えて私は他愛もない会話をしていたはずだった。子供が幾つになるだとか、妻が家を買いたがっているだとか、EUに加盟したらどうなるのだとか、ワインの価格が高騰してるだとか、そんなありふれた内容を談笑して別れたはずだった。
 男性は、その夜に近くの公園で首を吊った。バールの帰り道に、そのまま死んだのだという。私のアパートからも、その公園は近かった。鮮明に脳裏に思い浮かべられるほど、馴染みのある場所だった。
 男性の死を聞いた時、背筋をひんやりとした冷たさが這い上がって、私は理由のない罪悪感と、虚無感に襲われた。私はその男性と話していたのだ。死ぬ直前。たったの数時間前に。恐らく私が、最後の会話の相手だった。
 私はその夜の男性が髭を生やしていたのか、メガネを掛けていたのか、どういう髪型で剥げていたのか、目の色は何色だったのかを、ひとつも覚えていない。本当に、なんにも覚えていないのだ。けれど、どんな顔をしていたのかは、はっきりと思い出せた。やけに明るい表情が途切れるように、不自然に混ざる空虚な顔色を、はっきりと。

 何の関わりもないその出来事を、不意に思い出してしまうような顔を、その夜のアバッキオはしていたのだった。
 従兄弟に関わったのだ。きっと、ギャングに誘われるだろうと思った。この虚ろな目をする男のことだから、その選択もまた、他人に任せるのだろう。死ねと言われたら、死ぬのだろうか。銃を突きつけられたら、目を瞑るのだろうか。私は、男ならそうしかねないと思った。少なくとも、そう思わせる雰囲気が、アバッキオの中にあった。
 ソファーに男を座らせて、シーツを渡す時に、何があったとしても、ギャングに入るべきではない、と私は諭したはずだった。後戻りはできなくなる。アバッキオは口を挟むことなく、黙って聞いていた。けれど結局、最後に選んだのはアバッキオで、私のように男の人生を何も知りもしない見ず知らずの他人の言葉は、彼の胸には届きはしなかった。
 私にできたのは、男が間違ってもアパートで死にはしないように、一晩中自分の部屋から耳をそばだてて様子を見守ることだけだった。少しでも物音がすると、首を吊ったのではないか、包丁で胸を突いたのではないかと、気が気ではなかった。
 空が白んでくる頃に、微かな物音がした。一晩中ソファーに凭れていたのだろうアバッキオは、もしかしたら眠れないまま、出ていく頃合いを見計らっていたのかもしれない。シーツをソファーに置きっぱなしにして、男は何も言わずにアパートを出ていった。寝ずの番をして痛む頭を抑えながら、私は心の底からほっとした。男は死ななかった。少なくとも、その日には。
 私は男が部屋を出ていく気配がわかっても、追いかけることも声をかけることもしなかった。自分の寝室の窓から、アパートの玄関を出た男の姿を見送る。昇り始めた日が屋根を照らしていたけれど、街路はまだ真っ暗で、鈍色の石畳は地下のように鬱蒼としていた。
 そのままどこかへ行くのだろうと思っていた男は、黒い影を揺らしながら、道の中ほどで立ち止まった。アバッキオはゆるやかに振り返って、私の部屋の窓を見上げた。目が合った。思わず、私は窓越しに手を振る。笑いもせず、声も出さず、ただ手を振った。アバッキオは少しだけそれを見つめていたようだったけれど、私へ手を振り返すことはなく、暫くすると路地の影の中を、背を向けて去っていった。
 アバッキオの姿を見たのは、それきりだった。
 従兄弟は相変わらずで、ケチな詐欺をしながら生活をし、凝りもせずにアパートへ金の無心に来るのを追い返しながら、アバッキオのことを尋ねてはいたけれど、すぐに行方は知れなくなった。どうしているだろうか、と時折男の空っぽの目を思い出すうちに、気づけば3年の月日が流れていた。

 偶然は、その驚きの割にいつも偶然とは思えない頻度でやってくる。私がこのアパートに住んで数ヶ月が過ぎた半年前、ふらりとアパートに引っ越してきたのが、アバッキオだったのだ。
「アバッキオ……?」
 私は男の名前をずっと覚えていた。たった一晩とはいえ、自分が関わってしまった一人の人間の暗い人生の一瞬を、何度も思い返していたからだ。髪が伸びきっていて印象が変わっていたけれど、大柄な男の独特の雰囲気は、確かにアバッキオだと思って声をかけた。
 アバッキオは、私のことを覚えていなかった。それもそうだろうと思った。あの夜の男の様子では、従兄弟のことすら覚えているのか、或いは乱闘騒ぎすらも覚えているか定かじゃない。
 でも、それでいいと思った。相変わらず無口で無愛想で、威圧感も相当なものだけれど、夜の暗がりではなく、明るい日が差すアパートの踊り場で見上げた男の顔は、あの日とまったく違っていたからだ。

 五階まであるアパートの丁度真ん中に私は住んでいて、その下の二階に引っ越してきたはずだったアバッキオが、知らぬ間に四階の住人になっていたのは、私が実家に帰っていた数日の間のことだった。
 四階にいたのは老夫婦で、それまで随分元気だったのが、一度腰を打ってからというもの、階段の上り下りが辛くなってきたと零していたのだ。古いアパートなのでエレベーターはなく、急で狭い階段が最上階まで続く。手ぶらでもきついのに、買い物を抱えての上り下りは、老体には響くだろう。
 何がどうしてそうなったのか詳しい経緯は知らないけれど、部屋を入れ替えてもいいと言ったのは、アバッキオからだったらしい。
 入居したてとはいえ、アバッキオの荷物は驚くほど少なく、老夫婦の二階差の引っ越しを、男と大家で殆ど一日で終えた。家具を二階に下ろした後は、そこから老夫婦の細々としたものを二三日ほどかけて整理し運び、その間アバッキオの居場所は二階にも四階にもなかったことだろう。
 アパートの住人は、誰もが越してきたばかりのアバッキオへ敬意を払い、信頼を示した。私も例外ではなかった。
 アバッキオはいつの間にか変わっていて、私があの夜心配した仄暗い影はなかった。いつもどこか悲しげな顔をしてはいるけれど、以前のアバッキオとは何もかもが違っていた。もしかすると、これが本来の男の姿なのかもしれないと、私は思った。

 実家から戻ってくるなり、引っ越しのために、一夜だけ部屋を貸すことになった。老夫婦のベッドが二階にあるので、二人はもうそこへ寝ることにしたけれど、まだ四階には食器や洋服、宝石といったものが、置きっぱなしにされている。幾ら夫婦がいいと言っても、アバッキオは間違いがあってはならないから、どこかホテルを借りると譲らなかった。それなら、他の住人の部屋に泊まればいい。誰かがそう言った。
 一階の住人は夜は仕事で留守がちで、五階の住人は移住したばかりで言葉がわからない。大家がアバッキオを郊外の自分の家に連れて行くと言ったので、一晩寝るだけだし、私の部屋には間違っても盗むようなものはないから大丈夫だと私が勧めると、全員納得したように部屋に戻っていった。
 前のアパートより幾分狭くなった部屋の中にアバッキオを招き入れて、アパートの功労者にホットココアを注ぎ入れる。
 少し大きめのカップを差し出しながら、椅子へ座るよう促すと、
「また世話になっちまったな」
と、あの夜のことをアバッキオは言った。私は男が忘れていなかったことに驚いたあと、少しだけ嬉しく思った。私のあの一晩は、きっと、無駄ではなかったのかもしれないと思えたからだ。
 バールで話したあの男性が死ぬところを、私は見ていない。だけれど、よく通る公園の風景は、最後に見た男性の表情と何度も重なった。夜の闇の中、冷たい木の枝にぶら下がる男の影が、風でゆらりゆらりと揺れるその光景が頭に浮かんでは、私の心をいつも不意に冷たくさせる。
 あの男性と同じ顔をしていたアバッキオも、もしかしたらいつかそうなってしまうんじゃないかと不安だった。生きていればいいと思っていた。
「死んでいなくてよかった……」
 ホットココアを飲み込んで、私は息をついた。アバッキオに、思わず呟いてしまう。死んでいなくてよかった。本当に、そう思った。

 翌朝、夜勤から帰ってきた一階の住人が、ドアのチャイムを鳴らした。
 玄関に近いソファーで寝ていたアバッキオが、スウェット姿のままドアを開けると、五十を過ぎた頃かという、小柄な女性が立っている。ヴェネランダという、このアパートで一番のお喋り好きの看護師だ。老夫婦を心配して様子を尋ねたら、アバッキオが私の部屋に泊まっていると言うので、自室に帰る前に労いに来たのだろう。
 遅れてやって来た私が、壁のようなアバッキオの身体の隙間から挨拶をすると、ヴェネランダはふっくらとした頬を紅潮させて、
「お似合いじゃない!」
と愉快げに言った。
「ええっ」
 急なことにどきりとして、背後からアバッキオを見上げる。アバッキオといえば、窮屈な戸口で腰を軽く回し、否定も肯定もせずに黙って私を見返してくる。このアパートの人間関係がまだ分からないから、気を遣っているつもりなのだろう。
「歳も近いし、なかなかじゃない!」
「え、ええ……っ?!」
 夜勤明けのテンションか、ヴェネランダは私とアバッキオを気に留めることもなく、興奮した様子で続けている。
 言葉に詰まる。あの夜のことが記憶を占めていて、今までそんな風にアバッキオを見たことがなかった私は、不覚にもこの手の話が好きな住人へ、どう返せばいいのか浮かばなくなってしまった。
「あ、やだ、その……」
 寝起きの頭でしどろもどろになりながら考えて、浮かんだ言葉を慌ててひっつかんだ。
「えっと、あっ! じゃあ、付き合っちゃう?!」
 よくよく考えもせず、勢いだけで私の口から飛び出てきたのは、こんな言葉だった。「いいじゃなぁ~い!」とヴェネランダの黄色い声が飛ぶ。彼女は楽しそうに、アバッキオの腕をばしばしと叩いた。
「今度みんなでワインでも飲みましょ! 誰かの部屋でもいいし、狭い庭でもいいし、屋上でもいいわ。引っ越しの英雄と愛の祝いに乾杯よ!」
 ヴェネランダは一方的に約束を取り付けると、小さな体を揺らして、たいそう面白そうに笑いながら、階段を降りて行った。嵐のような労いのあとには、怖いくらいの静けさが残った。
「あれ……」
 呆然とその後姿を見送って、私は自分が何を言ったのかを反芻する。理解したいような、思い出したくないような、そんなことを口走ったような気がする。
 恐る恐る、アバッキオへ向けて顔を上げる。紫がかったグレーの目が、ものも言わず私を見下ろしていた。
「……何言ってんだあんた」
 無表情。そう、まったくの無感情。声も瞳もすべて、それだった。なんと、焦っていたのは私だけで、冷静沈着なこの男は、慌てふためく私の様子をなんにもせず見届けていただけだったのだ。それだというのに、アバッキオの心はこれっぽっちも動くことなく「何を言ってんだ」と、言ってのけたのだった。
 恨めしく思ったって、バチは当たらないだろう。何もなければ「すみません」の一言でもかけようとしていた私の罪悪感は、アバッキオの冷めた声に彼方へ吹っ飛んでしまっていた。確かめなければならないことがあった。それは私の個人的な感情で、つまり、プライドだ。
「教えてほしいんだけど……」
 ドアを閉めるのも忘れて、アバッキオを戸口に立たせたまま、私は半ば本気の目をして問いかけた。
「ちっともその気ない?」
「ああ……」
「ほんのちょっともこれっぽっちも?!」
「……ああ」
「かすか~~にでも、ドキッともしなかった……?!」
 アバッキオはいい加減疲れたといった風に口を閉ざして、軽く頷く。
 よろめいて、壁に背中を預けた。口を開けたまま、抜けそうになる魂を必死で手繰り寄せる。アバッキオから小さく零された、「あんたこの前会ったばかりだろ」という声も聞こえないほどに、私はショックを受けていた。
 もしかして、という予感があった。これまでの人生で、そう。上手くいかない恋愛に、もしかしたら、とちょっとは思っていたのだ。
「私ってもしかして……魅力ない?」
 僅かに考える素振りを見せてから、アバッキオはなんと、
「ああ」
と言ってのけたのだった。
 この一言が、私を地の底まで突き落とした。今まで恋愛といえばフラレにフラレっぱなしだった私の心は、それはもう、立ち直れそうにないほどに落ち込んだのだ。
 その時から、こんな調子だ。私は、なんとかアバッキオを振り向かさんとしている。
私の知らない数年の間に心を取り戻していた男は、デリカシーだけはどこかに落としてきてしまったらしい。アバッキオに私の尊厳の責任をとってもらわないことには、一生恋愛ができるとは思えない。


 絶対にアバッキオをドキッとさせてみせるのだ!──
 私は決意した。この未だに無愛想な男はきっと、恋する気持ちだって、忘れてきてしまっているに違いない。それならばこの私が、取り戻してあげようじゃあないか!
 そんな意気込みは虚しく、他の住人はおろか、さんざ冷やかしたヴェネランダですら、アバッキオの態度を見て「これは見込みなしね」と軽く笑う始末だ。傷の上に更に塩を塗るようなことばかりが起きる。
 アバッキオは人の気も知らず、私が無心に撫でる犬の首元を覗き見ている。
「首輪にもなんもついてねーな……飼い主は名前を呼ばなかったのか?」
「なんにも」
 不貞腐れながら出した声は、あまりにも子供っぽく、誤魔化すように咳払いをする。
「夜にでも、マルコに電話してみる。多分、今はそれどころじゃないだろうから……」
「そうだな」
 同意をして、アバッキオは思いついたように「そういや」と言った。
「近くに最近ドッグランが出来たらしい」
「ネアポリスで? 珍しいね」
「この時期になると捨て犬だらけになるからな。対策のつもりなんだろう」
 バカンス時期は、北部から南部への旅行者が多くなる。長いバカンスの期間を、犬を連れるわけにも行かず、旅行の途中で捨てていく人間が後を絶たない。だから9月になる頃には、南部の道端にはちらほらと野良犬の姿が見られるようになる。ここネアポリスでも、それは例外じゃないのだ。
「行ってみるか?」
 アバッキオが言うと、私が頷くのとほとんど同時に、足元の犬がワン、と短く鳴いた。



--|
19/01/29 短編