02



 犬に再び口輪をつけようとすると、アバッキオが驚いた様子で「待て」と言った。
「なにやってんだ」
「マルコがつけて来たから、必要なのかと思って」
「人を噛むような犬なのか? こいつは」
 アバッキオの言葉に、犬を見下ろす。鼻先を上げて私を見つめる丸い目からは、牙を剥く姿は想像できない。アバッキオにも唸りもせず、お尻を下げて後ずさるような臆病な気質だ。
 私が首を振りながら、「違うと思うけど……わからない」と答えると、アバッキオは「それじゃあいらねぇよ」と言った。
「リードを短く持って、様子を見りゃいいんだ」
「警察に捕まったりしない?」
 ネアポリスでは、指定された犬とその雑種犬には、散歩の際にリードの長さや口輪の指定がある。なんとも犬にとっては生きづらい法律があるのだ。といっても守っている飼い主を見かけたことはないけれど、マルコの犬はシェパードの血が色濃く出ているので、だからマルコは口輪をさせていたのではないかと、私は思っていた。犬は好きでも、飼ったことがないと、そのあたりの事情はわからない。
「まさか、捕まらねぇよ」
 何に対してなのか、アバッキオは鼻で笑ってから、少し考える素振りを見せ、それから冷静な声色で、
「そのマルコってやつは、電車とバスを乗り継いできたんじゃあないか?」
と言った。瞬きをして、アバッキオを見返した。しゃがんでいても見上げなければならない。
 そっか──思って、口に出す。そういえば昨日の電話で、奥さんが車に乗って実家に帰ってしまったと言っていたような気がする。あまりにも話が急だったので、聞き流していたのだ。それならここまで来るのに、公共交通機関を使ってきたのが妥当だった。
 ひっそりと、感嘆の息を漏らす。私はアバッキオの意外な一面に、密かに驚きを感じていた。マルコのことも、これまでの話も詳しく教えていないのに、雑に伝えた事情から冷静に推測をしている。それもこんな、流してしまってもいいような、小さなことで。
 真面目な人。思うと、きゅっと胸が音を立てたような気がした。私が助けを求めたばかりに、些細なことをこんなにも真剣な顔をして考えてくれている。近寄りがたいし無愛想だし、デリカシーには欠けるけど、真面目で優しい人。アパートの住人を助けてくれるのは、お節介焼きなんかじゃなくて、きっと真面目だからなのだ。
「探偵みたい」
 素直な感動が、思わず口をついて出た。私の言葉に一瞬黙ったアバッキオは、庭の土を無意味に手で掬って落とすと、結局何も言わずに立ち上がり、戸口を開けた。意味深な間だった。
 犬が少しだけ後ずさって、アバッキオの挙動を見守っている。安心させるように頭を撫でてやると、犬は私を見上げて手のひらに鼻先を摩りつけた。
「行くぞ。帰ったら部屋の中も片付けなきゃならねぇんだろ?」
「う、うん」
 アバッキオは変わらずいつもの無表情だった。怒っているわけでも苛ついているわけでもない。私はさっきの沈黙と言うにも短い空気に、ちょっとだけ引っかかりを感じながらも、マルコの犬のリードを手に巻き付ける。
「それじゃ、行こうか」
 犬に話しかけながら立ち上がると、犬もまた理解したように戸口へ急く。アバッキオはどうやら、警戒する犬を気遣って先を歩くことにしたらしい。アパートの前の道で立って待つ長身を追って、私たちもささやかなエントランスを抜けた。

 広いネアポリスのこの小さなアパートで、アバッキオと奇跡に近い邂逅を経て、気づいたことがあった。
 アバッキオは時折、遠くを見るような目をする。不意に黙り込むのも、今回が初めてじゃない。私にはその理由が、わかりそうでいてわからなかった。心当たりがないわけじゃない。きっと4年前のあの頃の、アバッキオを取り巻いていた過去に関わることなのだろう、と思う。冷え切った路地の空気に消えていくような、あの寂しげな背中をした頃の。
 そうは感じても、私には何をすることも出来なかった。こうして助け合うことはあっても、別段友人だとかいうわけではないのだ。余計なことを聞いたら、詮索するような空気になってしまう。そうなったら、距離が縮まるどころか、遠ざかってしまうような気がする。
 私が凝りもせずにアバッキオへアピールを続けるのは、勿論傷心や自尊心を取り戻すためでもあるけれど、今更引っ込みがつかなくなってしまった、というのも大きい。ふざけたこの行為をしていないと、私の知らない数年に一体何があったのかを、不躾に聞いてしまいそうになるのだ。その戸惑いを無意識に隠そうとしていたのかもしれない。気まずい雰囲気を避けるように、わざとこんなことをしている。
 アバッキオはもしかしたら、そういう気持ちも感じ取っているのだろうか。現に私の好意を冗談だと思いながらも、決して強くやめさせようとはしない。
 何度目かの時、アバッキオはため息を零しながら、
「俺を落としたってしょうがねぇだろう」
と私へ気だるげに言った。私が本気じゃないのを知っているからこそ、その言葉の中には、どこか諭すような響きがあった。
「そうりゃあ、そう……」
 だけど。声が小さくなる。魅力がない。こんなに落ち込む言葉を言われたのは初めてだった。でもその時にはもう、傷心を癒すことだけが目的ではなかった。私は少しだけ、気づいていたのだ。私自身と、そしてアバッキオの変化に。
 アバッキオは私がどんなにふざけていても、それを面倒だとは思っていても、跳ね除けはしない。嫌がっては、いなかったのだ。私は嫌われてはいなかった。どちらかというと、受け入れられている。私はそれがこそばゆくて、たまらなく嬉しいと思っていることに、気づいてしまった。
 アバッキオはまだ、何かを抱えている。それがわかるだけでも、私は思うよりアバッキオに近いのかもしれない。彼の目が不意に遠くを見つめる時、その理由がわからなくても、待つことは出来る。アバッキオが戻ってくる瞬間の目の色を覚えながら、いつか少しでも理解できるようになる日を、待ち望んでいる。こんなにも人を知りたいと感じたのは、初めてのことだった。
 そうだ。いつの間にか好きになってしまっていたのは、私の方だったのだ。策士策に溺れる。私はとんだ馬鹿者だ。しかし、こんなことをしているうちは、アバッキオは到底振り向くとは思えない。アバッキオを落とそうと始めた行為で、ある程度の親しみは持てていても、その行為のせいで距離が縮まることはない。だというのに私と来たら、自分で自分の首を絞めていても、アバッキオと話をすると自分でも恥ずかしくなるくらいに嬉しくなって、「まあいっか」と思ってしまう。とんだ馬鹿者だ。
 急いても、仕方がないのかもしれない。4年の月日をかけてアバッキオが変わったように、呑気な顔をしながらでも、私は彼の一つ一つをゆっくりと知っていくしかないのだ。以前出来なかったことが、今なら出来る。何故なら私は、アバッキオを好きになってしまった。少なくとも同じ場所にいる今は、小さなことでも知りたい、と思う。助けになれたら、と願う。
 情けないことに、今のところ、助けられてばかりだけれど。

 アバッキオを外で待たせているということに、微かに色めいてアパートを出ると、途端、先程までの大人しさが嘘みたいに、マルコの犬は弾丸のように走り出そうとした。桃色の思考は霧散して、慌てて足を踏ん張る。リードを固く持つけれど、強い力で体が引きずられてしまった。
 見かねたアバッキオが近付こうと、犬は微塵も気にもしない。
「どうしよう! アバッキオっ」
 困りきって声を上げる。アパートを出て数秒だ。マルコは大丈夫だ、と無責任なことを言ったけれど、犬だって生き物なのだ。自分の意思がある。そう簡単に世話ができるわけがない。
 アバッキオを振り返ろうとした瞬間、肩を後ろから支えるように掴まれ、体が強張った。そちらに気を取られた隙に、私の手をアバッキオが握りしめた。そうやって手ごとリードを抑えられる。急速に駆け出した脈拍を耳の奥で聞きながら、目を見開いて握られた手から伸びる腕を辿る。
 私の顔のすぐ横を、アバッキオの長い前髪が揺れていた。近くで嗅がないと気づかないような、シャンプーの微かな香りが鼻を掠めて、顔が真っ赤になるのがわかった。足の爪先まで全身がお湯を被せられたように火照る。真夏に向けて次第に暑くなってきた6月の気温のせいなんかじゃない。ちょっと硬いワイシャツの感触。肩から背中にかけてしっかりと辿ることの出来るアバッキオの腕の体温に、どぎまぎとして息を潜めてしまう。
「貸せ、俺が代わる」
「うっ、うん……!」
 耳の近くで低い声がして、変な声を上げそうになった。なんとか踏ん張って我慢できたものの、体がガチガチに固まって動きが鈍い。軋むように足を動かして、支えられた腕の中から抜け出しつつ、アバッキオの手のひらへリードを渡す。犬に引っ張られ続けるリードを受け渡すには、アバッキオの手のひらに、リードを握った私の手のひらを擦り付けるように合わせなければならない。おかしなことをしているわけじゃないのに、自分の心をなだめるのは至難の業だった。
 だめだ。身を離してから、自分に言い聞かせる。アバッキオをドキドキさせるのに、私がドキドキしてどうする! そう叱咤するものの、耳の近くの音の震えはいつまでも抜けていかないし、咄嗟のこととはいえ、肩も手の甲からも、アバッキオの感触が離れていかない。
 そっと、触れられていた手の甲を、反対の手で包み込んだ。しっとりと汗ばんでいる。短距離を全力疾走した後のように心臓が胸を打ち鳴らしていて、落ち着かなかった。
 だめだ。私の心の声に重ねるように、アバッキオが声を上げた。そちらへ向くと、アバッキオの手からリードがピンと張っている。マルコの犬は首輪が締まって苦しいだろうに、お構いなしに先を進もうとしていた。
「この様子じゃあドッグランには連れて行けねぇぞ」
 さっきの動揺を必死で押し殺して、アバッキオの言葉を反芻した。何故急に走り出そうとしたのだろうか。石畳を削り取る勢いで足掻く犬の様子を見つめていると、ふと思い当たることがあった。その方向はマルコが来た道だったはずだ。
「もしかして、マルコを追ってるんじゃないかな……」
 思い返してみれば、裏庭にいる間も、犬は時折耳をそばだてる素振りをしていた。私に撫でろとせがみながら、耳をひくりと立てたり、顔を戸口へ向けていたような気がする。
 この犬はマルコの犬で、どんなに人懐こくても、主人のことしか考えていないのだ。そのいじらしさに、私は胸が打たれる思いがした。
 私を窺っていたアバッキオが、暫くして静かに言った。
「気が済むまで追わせてやるか?」
 低いが、やわらかな口調だった。語尾に残る優しげな色に、まだどきどきと高鳴る胸に拍車がかかりそうだ。赤らんだ頬を冷ますように手を当てて、私はアバッキオの問いかけに大きく頷いた。


 当初の予定は思わぬ方向へ動いていた。ある程度散歩をして発散させてからドッグランへ向かうはずだったのに、今では主人を追いかけてぐんぐん歩く犬の後を、大人二人が付き従っている。案の定マルコの犬は朝に来た道を戻っていたようで、バス停へ辿り着いてからは確信を失ったのか、リードを引く力は大人しくなった。けれど迷いながらも駅への道のりを進むところに、マルコの犬の潜在的な頭の良さを感じてしまう。
 地面の匂いを嗅ぎながら突き進む犬を、長い脚でゆったりとアバッキオは追っている。私はと言えば、多少大股にならざるを得ない。けれど、アパートの外をアバッキオと並んで歩いたのは初めてなので、新鮮な心地がした。嬉しさが勝って、早歩きも苦にならない。
「長くて一週間か?」
「うん、根拠はないみたいだけど……」
 苦笑いしながらアバッキオの横を歩く。一週間というのは、マルコの希望的観測だろう。どんな喧嘩をしたのかは知らないが、大抵はすぐ収まりがつくものだ、とも思う。特にバカンス前の喧嘩は、当人たちからすれば大問題かもしれないけれど、端から聞いていると他愛もなかったりするものなのだ。
 そう語ってアバッキオを見上げると、私を見て話を聞いていたらしい視線とかち合って、心臓が跳ね上がった。ひくりと喉が詰まって、変に笑いが引きつってしまう。
「で、でしょ?」
「そうかもしれねぇな」
 口数の多くないアバッキオは、相槌を打つとそれきり会話を続けることはなく、黙って犬の行く方向へ従っている。声のしない散歩が数分続いた。
 沈黙は嫌いじゃない。アバッキオほどじゃないけれど、私だってそこまで話をする方ではないと思っている。でもアバッキオといると、口を開きたいという耐え難い衝動が押し寄せて来てしまうのだ。これまでにそれを防げた試しはなく、アバッキオの中では私はすっかりおしゃべり好きの喧しい女になっていることだろう。
 だって悔しいことに、アバッキオが好きなのだ。ちょっとしたことでだって、ときめいてしまうのだ。知りたいとか、話したいとか、恋をしていて、その願望を止められるすべがあるなら教えてほしい。
 沈黙のお陰で、マルコの犬への心配も落ち着いてくると、自然と隣の人のことばかり考えてしまうようになる。アバッキオを盗み見る。本当はアパートを出る前からずっと、聞きたくてたまらなかったことがあった。通行人に気を遣いながら、犬が苦しまないよう加減をして歩くアバッキオを見ていると、もううずく胸が抑えられない。
 軽く唇を舐めてから、息を大きく吸い込んだ。
「……アバッキオは、犬を飼ったことあるの?」
 興味津々です、というオーラを出来るだけ押し殺して、何気ない会話を装いながら尋ねると、私を横目に見下ろしながら、アバッキオは気にする様子もなく「いや」と言った。
「ガキの頃、知り合いの犬を毎年預かってたんだ。夏休みにな」
「へ~!」
 にこにこしながら陽気な声を出してしまい、慌てて「慣れてると思った」と、取り繕うように感想を述べる。アバッキオにちょっと近づいた気がして、胸を踊らせていたなんてことは、全然、これっぽっちも気づかれてはいけないのだ。犬を世話していたことがあると知ったくらいではしゃいでいるなんてことは、微塵も感じさせてはいけない。だってアバッキオにとって私というのは、「魅力がない」女なのですから! 私から先に落ちてしまったなんてことは、絶対に知られたくない事実だ。
「おめーは一度もないのか?」
 私の葛藤をアバッキオが気づくはずもなく、ごくごく普通の会話が繋げられた。雲泥の差に落ち込みかける気持ちを振り払う。
「母が苦手で……小さい時、野良犬に付け回されて以来、だめなんだって」
「ああ……」
 よくいるな、とアバッキオが呟いた。野良犬が多いから、子供が後を付けられるのはよく聞く話だった。たまにいたずらをして噛まれる子供もいる。そういうのは自業自得だろうけれど、目の当たりにすると犬が怖くなるというのは当然のことなのかもしれない。
「そういやポンペイの遠足で、何人かそういうやつらがいたな」
「アバッキオも遠足、ポンペイだったんだ!」
 共有できる話題に頬を紅潮させながら私が振り返ると、アバッキオはああ、と相槌を打ながら、
「あそこはいつ行っても変わらねぇな」
と言って、何かを思い出したのか、なんともいえない表情をした。細められた目から、またどこか遠くを見つめているような雰囲気が漂っていた。私は笑顔を貼り付けたまま頷いて、静かに口を閉じた。続けそうになった言葉と歯がゆさを、ようようの思いで飲み込む。

 また、静かな散策が訪れた。透明であたたかな日差しが街路に降り立つと、街の匂いが風に巻き上がるようにして体を抜けていく。先頭を歩くマルコの犬。その後をゆったりと追うアバッキオ。それにちょっとだけ遅れながらも、横を歩く私。思いの外、穏やかな道中だった。鼻を掠めていくのは、乾いた空気に微かに漂うゴミの臭いと、バールから溢れる豆の匂い、どこかのリストランテのにんにくらしい香り、通りすがりの人たちの香水の匂い。その中に時々感じる、アバッキオのシャンプーの香り。
 知りたいなぁと思う。私はこの人のことを、もっと知りたい。他愛もない話をして、口を閉ざしてもお構いなしに、彼の心の声を聞いてみたい。でも、そんな日は来るのだろうか。アバッキオは結局の所、いつだって自分の力で選択をしているように思える。所詮、人の人生はその人間でしか変えられないのだ。そこに私のお節介にも等しい感情なんて、必要なのだろうか。もしもの時に、一番に助けになれたら──だなんて。
 自分の無力さにちょっとだけ切なくなって、足元を見つめた。マルコの犬は、着々と駅への道筋を突き進んでいる。


 小さな駅に着くと、犬は出入口をうろうろと歩き回り、階段の臭いを必死に嗅ぎ回っていたが、数分もすると鼻を鳴らして駅を見上げ、途方に暮れた顔をした。手前にある駅前広場へ戻って、マルコの姿を探すように座り込む。
 駅舎に掲げられた「ヴェスヴィアーナ」の青い看板が、屋根の影で暗い雰囲気を醸し出し、犬の状況を思うと一層哀愁を漂わせている。
「少し休むか」
 犬が座ったまま動かないのを確認すると、アバッキオは近くのベンチに腰を下ろして、ため息をついた。犬に合わせて40分近く歩いたかもしれない。マルコの犬はアバッキオを気にすることなく、熱心に駅の入口を見続けている。
 円形の広場には、ベンチが均等に置かれていて、木陰を作るように細い街路樹が植えられている。昼を過ぎて暑さの増した広場には、その影で休む人の姿がまばらに見えた。
 木陰に座ると、アバッキオのワイシャツの白さが一層際立った。無表情のせいで、アバッキオは涼しそうに見えるけれど、よく見ると首筋に薄っすらと汗を掻いている。なんとなく、恥ずかしくなって視線を逸らす。
 立ったままの私を怪訝に思ったのか、ベンチの横が僅かに空けられた。アバッキオが頭を傾けて隣を指す。私は促されるままに、少し緊張しながらアバッキオの数センチ横に腰掛けた。
 犬のリードを少し緩めて、アバッキオは腕まくりをした。日の下に曝け出された腕は、予想外に筋肉質でどきりとする。この腕が、私の背に触れていたのだ。不意にその時の光景が浮かぶと、頬が熱を持った。思わず目を見張って凝視してしまう。口元がむずむずして、にやけそうになる。
 犬の様子を眺めていたアバッキオは、窓から覗く構内のエディコラへ目を向けて、
「なんか買ってくるか」
と呟いた。独り言だったらしい。それから私へ、「お前もなにか要るか?」と尋ねてくる。頭を渦巻いている邪な感情が、裏庭の時のように口から飛び出してしまわないように、私は思いっきり顔面を引き締めて頷いた。
「炭酸水がいいなぁ」
 ズボンのポケットに差し込んでいた紙幣を出して言うと、アバッキオは受け取る代わりに犬のリードを私の手へ握らせた。
「しっかり掴んどけよ」
「うん」
 素直に返事をしてしまった後で、じんわりと笑いがこみ上げてきた。これじゃあどっちがマルコに犬の世話を頼まれたのだかわからない。
 突然くすくすと肩を震わせた私へ、アバッキオはまた良からぬことを思いついたのかと思ったのか、呆れた顔をする。しかしそれ以上は何も言わずに、駅舎へと向かっていった。頭のおかしい女だとでも思ったのかもしれない。
 通り過ぎざまに犬が耳を立てたけれど、裏庭の時ほど怖がってはいないようだった。ここまで犬に引っ張られてきた男を怖がるというのも、確かに変な話だけれども。

 マルコの犬と一緒に入り口を眺めながらぼんやり待っていると、少しして構内からアバッキオが紙袋を抱えて戻ってきた。すらりとして肩幅のある長身がこちらへ向かってくると、条件反射的に見とれてしまうのも無理はない。
 アバッキオは歩きながら紙袋へ手を差し込むと、ぼうっとしている私へ「ほらよ」とペットボトルを投げ渡した。わっと声を上げて、両手で危うくキャッチする。リードを引っ張らないように屈み込んだので、マルコの犬は私の声に少し驚いて振り向いたけれど、なにもないとわかると、すぐにまた前方へ目を向けた。
「それはおめーの分だ」
 ありがとうと返しながらも、アバッキオの言い方に引っかかりを感じて、首を傾げた。なにやら犬と同じ扱いで話されているような気がするのは、私の勘違いだろうか。
「私は犬じゃないからね!」
 一応という風に念を押すと、アバッキオは「思っちゃいねぇよ」と言ってから、ふと考え込む素振りを見せた。それからあろうことか、
「同じようなもんだろうが」
と言い直したのだ。
「う、嘘でしょ……?!」
 アバッキオは納得をしてしまったらしく、私の叫びに答えることはない。ベンチに座り直して、紙袋から自分のペットボトルを取り出している。
 嘘でしょ。もう一度口の中で呟く。その立ち位置だから、今まで適当にあしらわれていたのか。思い至って、私は顔を覆いながら小さく呻き声を上げた。アバッキオはそれにもまったくお構いなしに、今度はマルコの犬の横にしゃがみ込んでいる。
 女としての魅力どころか、人間ですらなかったとは、まさか恋をしていて気づく人間がいるのなら教えてほしい。今の私は、片思いのスタート地点が思いっきり下だということを、半年間知らずに過ごしていた哀れな女なのだ。
 これで二度目だった。アバッキオは真面目な男だけれど、デリカシーがない。間違っても私に、好意を持っていると勘違いされないための抑制ではなくて、極々自然に言ってのけているのだから、この人はきっとふられ上手なのではないかという疑いさえ湧き上がってくる。

 あまりの衝撃に、悲しみも怒りも沸かない。ただ呆然としてしまって、アバッキオへ目を向ける。エディコラで買ってきたのだろうか。マルコの用意した袋にはなかった、市販のクラッカーを小さく砕いて、犬の口元へ差し出していた。餌で釣る作戦らしい。マルコの犬はアバッキオの大きな手のひらに乗せられた破片の匂いを軽く嗅いでいたけれど、フンと鼻息を漏らすと、興味をなくしたようにそっぽを向いた。
 アバッキオはビスケットをベンチに置くと、袋から更にパックに入った小さなサラミを取り出して、同じように小さくしてから犬の前に差し出した。犬は先ほどより鼻をひくつかせて興味を示している。アバッキオは犬の眼前にもう一度サラミを掲げて、食べられることを示すように一口齧ってから、再度マルコの犬へ勧めた。犬はアバッキオの手のひらの小さなサラミを一度ペロリと舐め上げ、舌で掬い取るようにして口の中へ入れた。アバッキオの口角が、気づかないほど僅かに上げられたのを私は見逃さなかった。サラミの欠片は次々と犬の口の中へ消えていく。
 私もアバッキオの隣にしゃがんだ。初めに食べなかったクラッカーを今度は食べさせようとしているアバッキオを見ながら、もしかして、と思う。紙袋からはミネラルウォーターのペットボトルが覗いていて、マルコの持ってきた荷物の中には犬用の皿があった。もうこの時には既に、それが誰のための買い物であったのかを私は気づいていた。
 もしかして。ぽつりと呟いた。マルコの犬は裏庭での怯え方が嘘のように、サラミの油すら逃すまいと、アバッキオの手のひらをべろべろと舐めている。
「アバッキオって犬、好き?」
 犬を見つめていたラベンダーグレーの瞳が、私へゆるやかに寄せられる。自分の好みを聞かれるのが苦手なのか、アバッキオは少し口を閉ざして何とも言えない顔をしてから、短く「ああ」と答えた。
「それがどうした」
「ううん」
 なんでもない、と私は返した。そうなんだ。思って、頬がほてった。緩みそうになる唇を手で軽く押さえる。そうなんだ。後から後からあたたかい熱がこみ上げてきて、言葉にできない嬉しさに満たされる。
「……何にやけてやがる」
「に、にやけてないってば!」
 また私が良からぬことを考えているとでも思ったのか、アバッキオの引き気味の声に否定をしたけれど、これまでの言動から信じてもらえているとは思えない。冷めた表情で犬に水を与えている。「違うんだって!」と否定をしても、アバッキオは聞く耳を持たない。
 またやってしまったなぁと、思いながら炭酸水を飲んで心を落ち着かせる。
 アバッキオは犬にサラミを一つだけあげ終わると、パックの残りを私へ差し出した。
「おめーも食うか?」
「ありがとう!」
 言って手を伸ばし、一口大のその小さなサラミを口に放り込んでから、はっとする。こういうところなのかもしれない。一瞬、前の感情を忘れるような子供っぽさが、アバッキオに犬と言わしめたのかもしれない。ほど遠い。この人を振り向かせるのは、大変なことなのかもしれない。
 サラミを咀嚼しながら気落ちしつつ、ちらりとアバッキオを盗み見ると、犬のその様子を真面目に目で追っている。
 本当なんだなぁ──
 思った。アバッキオは犬が好きなのだ。そんな些細なことを知るだけで、嬉しくなる。私の中でアバッキオが、どんどん近づいていくような気がして、胸が弾んでしまう。こうやって、虚ろな目をした男の影が、ちょっとずつ私の中から消えていく。
 ミイラ取りがミイラになるとはこのことだ。
 アバッキオにあの時の言葉を撤回させるために始めた馬鹿げたアピールに、私の方がいつの間にか本気になっていて、アバッキオはこれっぽっちも振り向く素振りはない。指摘された通り、私のやり方が間違っているのだろう。報われる可能性は低い。
 それでも、幸せだと思えた。私の記憶の仄暗い影を、アバッキオはその姿で塗り替えてくれている。意識せずとも、私に勇気を与えてくれている。
 人は変われるし、なんだって出来る。アバッキオのそばにいると、人生が明るく見えてくるのだ。




19/02/24 短編