03



 けたたましい犬の吠え声がして顔を上げると、駅の角から白い毛の小型犬がこちらに向かって吠え立てている。
 マルコの犬は上体を上げて声の主を確認すると、お尻を地面に擦りながら、数センチ後ずさった。自分の半分のサイズしかない小型犬に、それも数メートル先から唸られて怯えるとは。根が穏やかな気質なのだろう。もしもの時のために、リードを短く手に持つ。
 アバッキオが安堵させるように犬の背に手を当てた。マルコの犬は緊張した面持ちで、近寄ってくる小型犬に目を向けている。
 老年の飼い主の女性は、「こらこら」と諌めながら、円周の外側をなぞって犬のリードを引っ張りながら歩いていく。ふさふさとした長めの毛をなびかせながら必死に吠えているのは、年若いポメラニアンだった。2メートルほど先に近づいた時に、「ごめんなさいね」と女性が大きく手を振った。
「ちょっと馬鹿なのよ、この犬」
 怯えて耳が後ろに下がりきっているマルコの犬に気づいて、女性は申し訳なさそうに愛犬を抱え上げた。飼い主の腕に収まると、ポメラニアンはさっきまでの攻撃性がすっかり鳴りを潜め、大人しく女性の肩に前足を乗せている。
「初めて会う顔ね。いつもこの道を?」
「いえ、知り合いの犬を預かったんです。主人を追って、来た道を戻ってきたみたいで……」
 私が説明をすると、女性は歩み寄りながら、「賢い犬ねぇ!」と感嘆の声を上げた。マルコの犬は、私とアバッキオの間に隠れるように身を遠ざける。落ち着きなくアバッキオのスラックスへ鼻を押し付け、女性の腕のポメラニアンを警戒する。女性はその様子に「ごめんねぇ、もう大丈夫よ」とあやすように言った。
「うちの子はいつもの道を外れたら、きっとすぐ迷子になっちゃうわ」
 そう言いながらも、笑う女性の目元は優しい。ポメラニアンは安心しきっていて、気性の荒さはどこへやら、唸るどころか目を細めながら女性の愛撫を受け入れている。
 犬を抱き上げたまま、短い会話をした。ポメラニアンの名前はブランシュで、フランス語で白を意味するのだとか、一日二回この道を散歩するのだとか、もらい犬で目が合った瞬間から家族になる運命だったのだとか、子煩悩の親そのものだ。
「犬好きはみんな、自分の犬は賢いって誇りにするけどね、この子は別にいいのよ」
 マルコの犬の頭を撫でながら、私たちの会話を黙って聞いていたアバッキオは、女性のやわらかな声に顔を上げた。
「だって、こんなに素直なんだもの」
 そう思わない? 女性が穏やかに犬の毛を弄んだ。静かなポメラニアンは、主人の腕の中で身じろぎをしながら、顔を小さな舌でぺろりと舐める。
 女性は話ができたことを満足したように、いつもの散歩道を歩いていった。数メートル先でまた愛犬を地面に降ろし、頭を撫でてからまた先を行く。その姿を見送って、私はマルコの犬の頭を撫でずにはいられなかった。アバッキオもまた、そうだったのかもしれない。
 人馴れしやすいマルコの犬は、もうすっかりアバッキオへの警戒を解いていて、急に立ち上がりでもしない限り驚いたりはしない。アバッキオは犬の顔を大きな両手のひらで包み込むように挟むと、マッサージでもするみたいに後ろ側へ毛並みを流していく。後ろへ引っ張られて引きつる犬の顔を、私は笑いながら見守った。どうやら気持ちいいらしく、尻尾が軽く振られてはへろへろと落ちる。指先が時折顎の下を摩り、そうかと思えば耳ごと手のひらで柔らかく覆われる。
 う、羨ましい……!──
 私は思わず歯を食いしばった。絶対に、絶対にこれだけは漏らしてはならない。確実にアバッキオから過去最高の冷めた視線を向けられてしまうだろう。まさか自ら犬を羨んでしまっているとは、気づかれたくはない。
 でも、アバッキオの両手で顔を覆われたらどんなだろうなぁ、と秒刻みで思考に入り込んでくる願望が、目の前で繰り広げられる微笑ましい光景のせいで、上手く振り払うことが出来ないのだ。想像するだけで恥ずかしいのだから、実際にされたらきっと失神でもしてしまうんじゃないだろうか。そんな日は絶対に来ないのだけれど! ほんと、全然、妄想だけだから、ちょっとだけ──アバッキオの手がマルコの犬を撫でる度、思考が現実から遠ざかっていく。私の目は犬と同じように、うっとりとしていることだろう。気づかれでもしたら、普通ならドン引きを通り越して、距離を置きたくなる気持ち悪さがあるだろう。理性を総動員して、別世界に連れて行かれそうになる思考を、必死で歯を食いしばって引き止める。
 犬を撫で回すアバッキオの指先は手慣れたもので、耳の後ろを掻くように人差し指で撫で、尻尾の生え際を毛先に手を差し入れて掻き、お腹を手のひらで撫で擦る。
 気づけば、また眉を寄せたアバッキオが私を睨みつけていた。驚いて、
「な、なに……?」
と聞くが、ため息をつかれるだけだった。結局、気を抜いた拍子に、また口から出ていたのかもしれない。ぼっと頭が沸騰したように熱くなった。真っ赤になって手を大袈裟に振る。
「マッサージ行きたいなぁって思っただけだから! 勘違いしないでよね!」
「いつもの行いのせいだろうが」
 そう言われてしまえば、返す言葉もない。マルコの犬が助けてくれるはずもなく、アバッキオの手技にすっかりご執心だ。


 時間が経っても、犬は駅を離れようとはしなかった。いつまでもここで来ない男を待っているわけにも行かないので、あの女性のように抱き上げて帰ることにする。
 中型犬と言っても、マルコの犬はそれなりに大きい。30キロ近くはありそうだ。しかしアバッキオはお腹に手を差し込んで、軽々と持ち上げた。腕まくりしたままのシャツから覗く筋肉が、少しだけ盛り上がる。犬は少し不安げにアバッキオの腕に収まっていた。
 駅から遠ざかる間も、犬は切なげに同じ方向を見続けていた。時折声をかけ、撫でてやりながら、数百メートル先まで歩く。様子を見て、アバッキオの匂いを嗅ぎ始めたのを確認してから地面に下ろすと、犬はもう駅のことを諦めたのか、凝り固まった体を解すように、身を震わせた。

 帰りは、私がリードを持つことになった。これから長くて一週間は散歩をしなければならないのだから、当然といえば当然なのだけれど、アパートを出た時のことを思い出すと緊張するものだ。
 私が物怖じしているのを、アバッキオは感じ取ったのだろうか。そうだな、と零してからとんでもないことを言ってのけた。
「帰れたら、ご褒美をやるぜ」
「……ええっ?!」
 まさか私が素っ頓狂な声を上げるとは思わなかったのか、アバッキオは驚いた様子で「あ?」と私を見返した。色々驚愕するところはあったけれど、それを後回しにしてしまうほどに、アバッキオの口から出た単語は、甘美な響きを持っていた。
 ご、ご褒美って、なに……? もしかしてその、なんか、あの……ちょっとえっちなやつ……?
「や、やだぁアバッキオ……!」
「あ~~~~?」
 想像して思わず赤くなる頬を抑えて、私達まだそんな関係じゃないのに、と思いながら身を捩らせる。あまりの刺激の強さに、心はかき乱され制御不能になってしまっている。アバッキオの「なんか勘違いしてねーか、おめー」という呟きが耳に入るものの、右から左へと抜けていった。
 アバッキオの反応を見ると、ふざけて言ったわけではないらしい。マルコの犬に触れすぎて、私を犬と混同しているのだろうか。思ってから、そういえばアバッキオの認識レベルで私は、元々犬と同等だったことを思い出してしまった。悲しみに暮れていたけれど、でも、こんなことが起こるなら別にいいかも!──思ったところで、アバッキオが強く否定するように私の桃色の思考を遮った。
「お前じゃなくてこいつのことだ……って聞いちゃいねーな」
 こいつ。その言葉に、頬を赤らめたまま足元を見る。マルコの犬が、リードを握る私を見上げて尻尾を振っている。サッと頭から波が引いて、焦りから汗がじんわりと浮き出した。
「き、聞いてます! ちょっと勘違いしただけで……勘違いっていうのも、そんなアバッキオが想像してるようなものじゃなくて」
「ちょっとじゃあなかっただろ……」
「ちょっとだって……!」
 口を開けば開くほど墓穴を掘っているような気がする。
「いいから行こう! 君用に部屋を片付けなきゃ!」
 マルコの犬へ語りかけて、私はアバッキオを置き去りにするようにして歩き始めた。アバッキオは特に追求することもなく、来た時と同じようにゆったりとした歩幅で、犬と私の後をついて歩いた。
 振り返ると、
「どうした?」
と声が返ってくる。
 デートみたいだなぁ。私は嬉しくなって、犬の爪が石畳を弾く軽い音と、アバッキオの革靴の軽快な音を、帰路の中に探しながら歩いた。


 裏庭へ戻って来た。久々に長く歩いたので、疲労感がある。
 ゆっくり休みたいところだけれど、夜は冷えるので、犬を裏庭には置いてはいられない。これからマルコの犬を招き入れるために、部屋をある程度整理しなければならなかった。汚れてもいいもの、壊れてもいいものだけにして、スペースを確保するのだ。
 部屋を片付ける間、逃げ出さないようにリードを柵へしっかり結びつける。
 アバッキオは約束通り、犬へマルコが用意していたおやつを与え、水を飲ませていた。
「付き合ってくれて、本当に助かった」
 ありがとう、と私が屈み込んだ背中へお礼を言うと、アバッキオは犬を撫でてやりながら、「大したことはしてねぇよ」と返した。素っ気ないが、そういうところが好きだった。
「お礼と言ってはなんだけど、コーヒーでもどう? 私結構上手いんだよ」
「ああ」
 悪いな、と言ってアバッキオは立ち上がった。犬のそばに多めに水を入れた皿を置くと、私の元へ歩み寄ってくる。
 目の前で立ち止まったので、何があったのかとアバッキオへ顔を向けた。密かに脈拍が上がるけれど、特になにかを期待しているわけじゃない。近くにいるだけで、そうなるものなのだ。どんなに私がふざけようと、アバッキオはいつも極々自然なことしかしない。理性的な性格なのだ。だから信頼できるし、住民から頼りにされている。
 目線の先は、空を見上げるのと同じような高さだった。日差しが眩しい。目を細めて目陰を差そうとすると、アバッキオの影がそっと動いた。

「ほらよ」
 頭のてっぺんに乗せられる、重圧。数秒遅れて、へ、と変な声が出た。咄嗟には反応できなかった。頭の中が空っぽになる。
「やるって言っただろ」
 真っ白の思考にするりと入り込んできたアバッキオの声に、ふと記憶が転がり込んできた。
 ご褒美。私はぽつりと呟いた。驚きで、それ以上言葉にならない。なにを考えてこんなことをしているのだろうか。動揺が胸の奥で騒ぎ立てているのだけれど、アバッキオの指のこそばゆさに、考えるのを中断してしまう。
 頭の感触に全神経を研ぎ澄ませる。現金なもので、ご褒美ならしっかり受け取らなければならないと、すぐに優先順位を明け渡した。急に黙りこくった私に、アバッキオが鼻で笑う気配がした。じわじわと、頬に熱が集まっていく。
 わしわし。そんな擬音が似合う。わしわし。アバッキオの頭の撫で方。犬の時と同じ指の動き。何か違う。私が想像していたものと、頭皮に感じる動きは、全然違うのだ。これじゃあまるで、マッサージだ。
 違う、と言いたい。ご褒美なのだから、注文をつけたい。上から下へ、優しく撫でて欲しいとか、髪に指を絡ませながら、ゆっくり梳いて欲しいとか、耳の上をかき上げるように撫ぜて欲しい、とか。これまでひっそりと繰り広げてきた妄想を駆使して、出来ることなら事細かに指定してみたい。それなのに、口はピクリとも動かない。私に触れるアバッキオの指の感覚を、じっと待ってしまうのだ。少しだって逃さないように、一瞬でも長く感じられるように。目を瞑って、にやける口元を引き締めて、恥ずかしさを追い出しながら。
 不満が吹き出しているのに、嬉しそうな顔をしてしまっているのは、自分でもわかっていた。
 髪を乱しながら乱暴に掻き回したその手は、私が思うよりずっと早く離れていった。
 それは本当に、一瞬のご褒美だった。
 足元の影がそっと離れていくのを、未練がましく見つめる。アバッキオの革靴が一歩下がると、私は引き止めるように喉を震わせていた。
「も……」
 舌を引きずって動かす。
「もうちょっと、だめ?」
 顔を真赤にしながら、おずおずとアバッキオを見上げた。こんな機会は滅多にない。もしかしたら、これが最後かもしれない。アバッキオが私の頭を撫でるなんて、きっとこれが最初で最後に決まっている。
「仕舞ぇだよ」
とアバッキオは言って、戸口へ踵を返した。
「あとちょっと! あと数秒!」
 恥ずかしさを誤魔化すために思いっきり口にすると、駄々をこねるように言う私を想定していたのだろう。アバッキオは足を止めることなく半身だけで軽く振り返り、
「馬鹿か」
と一言投げかけた。私は口を半開きにしたまま、動けなくなってしまった。ドアがバタリと閉まって、アバッキオが階段へ向かう姿が、窓越しに見えた。
 馬鹿か。アバッキオらしい台詞。貶す言葉。投げ捨てるような声。それなのに、私へ振り向いたのは、無愛想な男に似合わない、屈託のない笑い顔なのだ。
 なんにもされていないのに、心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。空気が薄い。思って、私が息を止めていたことに気づいた。細く息を吐いて、両手で頬を覆う。熱い。
 日差しと一緒に、アバッキオの笑った顔が私の頭をじりじりと焼く。声が耳の内側を巡る。聞いたことのない声。無邪気なくらい、信頼を含んだ声。アバッキオの心の距離。
 ずっと聞きたいと思っていたアバッキオの本当の声色を、私はこんなふざけた場面で、知ってしまったのだ。
 気持ちがまだ、追いついてこない。とにかくなにか言わなければ、引き止めなければと、アバッキオを追って中へ入る。
 私は階段を上り始めた背中へ慌てて呼びかけた。
「ま、またしてくれる……!?」
 心を落ち着かせるために上げたはずの声の、上擦った調子に、ますます頬が熱くなる。よりにもよって本心を口走ってしまうとは。それに、とても自分の声とは思えなかった。馬鹿。こんなところで弱々しくならなくていい。
 常に私に向けられる、ちょっと蔑んだ顔が見たかった。そうすればいつも通りに戻れるはずだった。
 手が上げられる。私の頭を撫でた、ちょっといかついあの手を上げて、アバッキオは振り返ることなく階段を上っていく。じゃれつく私の言動をあしらうように。多分少しだけ、笑いながら。

 階段が遠い。一段一段が急で、とてもあの長い脚には追いつけそうにない。
 落としたい、と思っているのに、こうやってまたなだらかに、私だけが落ちていくのだ。
 せめて忘れるものかと、さっきの笑顔と声を何度も思い浮かべて記憶に刷り込みながら、階段を上る。馬鹿か、と言った無邪気な笑い顔。少しだけ眉を寄せた、悪戯っぽい笑み。
 そうしてふと、足の力が抜けた。緩んだ目尻、やわらかな眉、頭を撫でるいたずらな指先。その一つ一つの情景に、どきどきと心臓だけが駆け足で走っていく。落としたいと思っていた。素っ気なくあしらわれる度に、それもまた楽しいと思っていた。でも、本当だろうか。
 微かな、期待のこもったほんの微かな予感が、階段に差し込むやわらかな光と一緒に私の胸の中を照らしていく。段差を踏みしめた足が、ゆるやかに止まった。
 本当に、私だけ?──
 浮かんだ思いに階上を見上げる。どきどきと胸が痛いほどに鳴っていた。折り返した段差の先で、先に行ったと思っていたアバッキオがいた。目を細めて私を見る、穏やかな顔と視線が合う。鼓動が跳ねて、整理していた思考も、どこかへかき消えていった。
 驚いた顔をした私に、階段の手すりにもたれ掛かっていたアバッキオは「冗談に決まってるだろうが」と言った。動揺が大きくて、一瞬なんのことなのかわからなかったけれど、すぐにさっきのことだと思い当たった。
「えっじゃあ、ご褒美って……あれじゃないの……?」
「んなわけねぇだろう」
 言われてみればそんな気もする。アバッキオらしくはないのかもしれない。けれど私は邪な期待にすっかり頭が沸騰していたので、らしいとからしくないとか、そんなことを考える余裕なんてなかったのだ。
 そう思ってから、回りの悪い頭が急に冴え渡った。後回しにしていた思考が、とんでもない事実を眼前に押し出した。そうだ。さっきまでアバッキオは、私をからかっていたのだ。あのアバッキオが──信じられない思いがして、私は目を丸くしたまま、言葉を失った。もうわからない。それが何を意味するのか、思考がまったく追いつかないのだ。
 あんぐりと口を開けたまま、アバッキオを見る。
「俺がコーヒーを淹れてやる」
「あ……うん」
「美味い豆が手に入った」
 わずかに口角を上げたアバッキオが、そう言って満足そうにまた階段を踏みしめていく。その背中を、今度こそ呆然と私は見送ってしまった。
 テンションの下がった私の様子を、アバッキオはきっとからかいが成功したのだと思っているのかもしれない。いつも変な絡み方をする私への、ちょっとした仕返しなのだとでも。
 違うのだ。アバッキオが思うような、コーヒーにがっかりして、口数が少なくなったわけじゃない。私は、どうしたらいいかわからない。破裂しそうなほどに、心臓が鼓動している。胸が苦しくて仕方がない。じわじわと追いついてくる思考に、その予感に、期待と驚きで息が上手く出来ないだけなのだ。
 思い違いかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。短い時間で何度も行ったり来たりする思いに、いつまでたっても答えは出せない。
 アバッキオ、私のこと、好き?──
 そう聞いたら、どうなるのだろうか。きっとまた、「馬鹿か」と返すのだろう。そして、そう言いながらもアバッキオは私を決して邪険にはしない。はっきりと、その様子がわかってしまう。
 逸りそうになる気持ちを、私は深呼吸をして落ち着かせた。まだ、勘違いかもしれないのだ。今はアバッキオの笑顔が見れただけでも上出来だ。
 それに私が誓ったのは、アバッキオをドキッとさせることだった。その目標は、もしかしたら私が思っているより無茶苦茶なものじゃないんじゃないだろうか。そんな希望が湧いてくる。助けられてばかりではなく、いつか、アバッキオの助けにだってなれるかもしれない。もしもの時に必要とされる存在に、なれるかもしれない。
 踊り場の明るい日の光に、心が浮き立つように明るくなった。アバッキオの頭を撫でる手は、これきりじゃないかもしれない。私の頑張り次第では、おあずけということになるのかもしれない。
 まいったなぁ、とにやにやしながら階段を上っていくと、到着の遅い私を待っていたアバッキオがそれを見て、気味悪そうに眉を寄せた。

 夜になって、マルコへ電話をした。奥さんとは義母のとりなしもあって、なんとか仲直りできたらしい。暫く挨拶へ行っていなかったから、ついでに2日程泊まって帰ってくると、呑気なことを私へ告げた。
 ホッとして、犬の名前を尋ねる。マルコの犬は、私が引っ越し前からずっと使い続けているソファーが気に入ったらしく、その上を広々と陣取って居眠りをしている。
 マルコは私の質問を不思議そうに聞き返して、自分が犬の名前を伝えるのを失念していたことがわかると、謝りながら笑ってから、陽気に舌を回した。
「レオン」
 私が繰り返すと、ソファーに伏せたまま寝ていた犬は、すっと顔を持ち上げる。それから軽く尻尾を振って、自分が呼ばれたのではないとわかると、つまらなそうに伏せへと戻る。その様子にくすりと笑いがこみ上げた。
 レオン。ラテン語で、ライオンを意味する名前だ。アパートの入り口のチャイムにも、同じ名前があった。私の上の階の、デリカシーに欠ける、威圧感たっぷりの住人。
 裏庭にいたのは、二匹のライオンだったのだ。
 最初から仲良くなれなかったのは、そういうことだったのかもしれない。後ずさって怯える犬と、かがみ込む犬好きの大男の姿が思い出される。
 私はおかしくなって、マルコが奥さんとの経緯を話しているのにも構わずに、笑い声を漏らした。



|終
theme of 100/072/ごほうび
19/03/02 短編