あの青はもういない

01



 風向きはいいとは言えなかった。
「頼みたいことは、借金の返済の付き添いなんです」
 高台にある眺めのいいバールのテラスは、郊外ともあって閑散としている。アバッキオと二人きり、差し向かいに腰掛けて話す声は、張り上げなくてもよく響いた。雑音のない静かな午前の住宅街は、遠くにテレビの音が微かに聞こえるのみだ。
 男は私の言葉に、暫く思案げに沈黙をした。やはりミスタからは、何も聞いていないようだった。数分前まで温かかったコーヒーカップは、半分以上の中身を残して、すっかり冷めきっている。話がつくまでは、口にするのは憚られた。
 テラスからは真っ直ぐに海を眺望できた。眼前に木や建物といった遮蔽物はなく、些か強い海風が絶えず吹き上げてくる。アバッキオの前髪が顔面を揺らいでは鼻柱へ張り付くと、その度に彼は鬱陶しそうにかき集めて耳にかけていた。格好に似合わず随分男らしい動作をする人だと、私は興味のなかったその人の些細な部分を、意外に思った。
「ってぇと、つまり」
 自分が想像しているものと合っているかを確かめるように、アバッキオは言葉を切って、私へ視線を送った。私は頷いて、言いにくい気持ちを誤魔化すように唇を舐めた。
「ボディガードです」
 ため息が落ちた。アバッキオは風に攫われる髪を僅かに掻き上げながら、テーブルに肘をついた。そうして少し冷めたカプチーノを飲み干すと、横目に私を一瞥する。何度も何度も顔に張り付く髪の毛を払いながら、私はアバッキオの言葉を待った。身が強ばる。断られやしないかと、緊張で手に汗が滲む。頬に力が入る。
 大きめの口が、静かに言った。行くぞ。肘をついた男の手は、まだこめかみで髪を抑えている。うつむき加減のアバッキオの目が、上目に私へ寄せられる。
「どこから向かえばいい」
 嫌味も悪態の一つもつかず、真面目な顔をしてアバッキオはそう言った。


 以前に一度だけ目にしたことのあるその男は、確かギャングではなかっただろうか。
 待ち合わせたバールにミスタが連れてきたその男を見た時、私は既視感にはっきりと過去を思い出せた。
 確か記憶が正しければ、ミスタが拘置所を出てから暫くして一緒に歩いていた男だ。話をしたことはないが、背も高くさぞモテるだろうという顔立ちをしているのに、暗い雰囲気でミスタの背後に佇んでいたのでよく覚えていた。
 その男がどうしてこの場にいるのだろうか、とテーブルの向かい側に座ったミスタへ目を向けると、
「こいつはアバッキオだ」
と短い紹介がされ、続いてアバッキオへ私の名を告げる。彼も用件を聞かされていないようで、ミスタの唐突な紹介に眉をひそめている。嫌な予感しかしなかった。
、悪いが外せない用事があってよォ、こいつは信頼できるから、こいつに手伝ってもらってくれ」
「……あ?」
 アバッキオと紹介された男は、眉間のシワを深く刻み込んで、隣の座席で呑気に笑うミスタを睨めつけた。何かを言おうとして口を開き、けれど堪えたのか、代わりに口を歪めながら苛立ちを含んだ視線を向けて、ミスタをじっとりと伺っている。
 私はその様子を眺めながらも、すぐには思考が追いつかず、ミスタの声を数秒かけてゆっくりと反芻させた。聞き間違いではなかった。ミスタは確かに言った。話したこともないこの初対面に等しい、無愛想な男を頼るように、と。
 冗談だよね?──と返しかけて、私は無愛想な彼と同じように思わずぐっと我慢した。今回のことを無理を言ってミスタに頼んだのは私で、強く言い返すことはできなかった。その代わりに、唇を軽く噛んでから、決意して尋ねる。
「でも、彼は組織の人でしょ……?」
 二人は驚いたように目を見張って、私を見返した。そんな反応が返ってくるとは思わず、私の方が身構える。以前見かけたことを話すと、ミスタはまさか私が覚えていると思わなかったのか、バツが悪そうに頭を掻いて、「記憶力いいなお前」と呟いた。
「足抜けしたんだよ、大分前にな」
 黙ったままのアバッキオの代わりに、ミスタが笑いながら言った。
「もうカタギだ、安心しろって」
 アバッキオを仰ぎ見た。視線を感じ取った仏頂面が、同じように静かに私へ向けられる。無理じゃないか、と思った。ただでさえ困っているときだからこそ、ミスタを頼ったのだ。目の前の彼は初対面では、とても安心できるような雰囲気をしてはいない。キレやすそうで、怖い。寧ろたった今でさえ、不安ばかりが込み上げてくる。
 それでも私は覚悟を決めて、ミスタの言う言葉を信じることにした。
 わかった。そう返した声は、無理やり自分を納得させたせいで、一抹の不満が滲んでいた。

 おもむろにミスタが椅子を立ち上がって、手招きをした。太い手が私を呼ぶのにつられて、ドキドキしながら身を乗り出す。テーブルを挟んで私へ顔を寄せるミスタに、急に縮まった距離に、心臓が音を立てて飛び跳ねた。耳元にミスタの端正な顔が近づく。
「いいやつだぜ」
 安堵させるように、朗らかにミスタは言った。微かに息が吹きかかって、顔がのぼせるように熱くなった。少しでも隠すように、眉に力を入れ、口を引き結ぶ。
「こんな顔だけどな」
 アバッキオをちらりと見て、笑いを含んだ様子で声を潜めて私へ語ると、黙って聞いていたアバッキオは、無言でミスタの尻を蹴り上げた。


 ミスタとは3年前を最後に会っていなかった。彼がどこかの組織の一員となってから、急に縁遠くなってしまったからだ。
 昔はよく顔を合わせたし、特別仲がいいというわけではなかったけれど、その分互いの内面を吐露しあえた。どういう関係なのかは、一言では説明できない。ぴったりと当てはまる言葉は、いくら探しても見つからなかった。
 同い年の彼とは、15の時に夜道で出会った。私と同じように行く宛もなく通りを彷徨っては、囚われた今の場所から一瞬でも抜け出せるような、逃避的な刺激を求めていた。多感な時期だったからかもしれない。いつもどこかへ行きたかった。家に居場所はなくて、私達は互いにそんな望みを胸に隠していた。
 人通りの少ない寂れた公園の、葉が生い茂るベンチの前で、ミスタと私は何時間でも話すことができた。闇に紛れるように、路面に照る仄かな光のように、声を押し殺してひっそりと笑い、夜明け前には別れを告げた。夜だけの付き合いの知人程度の仲だと思えば、思春期の誰にも打ち明けがたい家庭事情や感情をすんなりと口にできたし、約束を取り付けないからこそ気が楽だった。性格も生き方も全く違う私達が話し合えたのは、そこに望んでいた非現実があったからなのかもしれなかった。
 私達は、決して仲がいいわけではなかった。遊びに行ったことも、趣味を語らったこともない。ただ、夜だけの理解者だったのだ。
「あんまよォ、難しいことは考えずに、楽しく生きてーよな」
 そう笑ったあと、必ず私へこう言うのだ。
「おめーもそうしろって」
 家族のことで悩みすぎる私を、彼なりに気遣っていてくれたのが、私には嬉しかった。たとえそれがわかりづらい、不器用さを伴っていたとしても。
 ミスタはいつでも楽観的で、優しく、頼りになった。暗い街灯にぼんやりと照らされる彼のニット帽や、シャツを辿って仰ぎ見た横顔が、私には特別だった。

 そんなミスタと久々に顔を合わせて、頼み事をするというのも気が引けるのだけれど、私にはこういった手合いを相談できる相手は、彼しかいなかった。しかしそのミスタは、別の男を頼れと言う。名前も知ったばかりの、仏頂面をした男を。
 しかし男も、心境は私と同じか、それ以上なのかもしれなかった。
「わざわざ男に付き添いを頼むってことは、返済先は血の気が多い輩でも多いのか」
 詳細を話さないまま出ていったミスタを見送ったあと、アバッキオがこう尋ねるのも、ごくごく自然のことだろう。断りもせず席に座っているからには、責任感の強い性格なのだろうか。あるいは、断る理由を探しているのかもしれない。
 知り合ったばかりの他人に家庭の事情を話すのは気が引けたけれど、面倒ごとを手伝ってもらう手前、隠してはおけなかった。
「血の気の多いのは私の兄の方で……」
 説明してから、話しが違うと断られる可能性もある。ミスタは彼に詳しく話をしていないようだったし、彼が断るに足る理由となるだけ、煩わしいことが私には待ち受けていた。
「一件じゃないんです」
 私は不安げな顔を隠そうともせず、アバッキオを見上げた。彼は片眉を上げて、私の言葉に含まれる事情を、読み取ろうとしていた。
「兄貴が脅しとった借金を、あんたが肩代わりしようってのか?」
 お金はあります、と私は言った。全てを終えた後でも、アバッキオに支払える額も、ちゃんと手元に残る。
「面倒かもしれませんが、お願いします」
 私が必死だった。一人で回ることはできないと、わかっていたからだ。兄は恨みを買いすぎていた。女ひとりでは、何が起こるかわからなかった。
 返事を聞く前に既に私が引き止めようとしているのを、アバッキオは「早とちりするな」と諌めた。
「最後まで付き合うし、事情を知りたかっただけだ……途中で見捨てやしねぇよ、信じられねぇとは思うが」
「信じます」
 唾を飲み込んでアバッキオに頷いた。男は私の即答に、意外そうに眉を上げた。信じるしかなかった。今頼れるのは、彼しかいない。一人ではとても、歩くことはできない。
 ミスタは面倒事を投げ出すような人間ではなかった。いつも助けてくれていた。そのミスタを、私は信用したのだった。


 何事もなく1日は過ぎ、2日目も過ぎた。
 強盗の幇助なんてつまらない罪で刑務所へ入った兄から聞いて、返金先のリストは作っていた。これが済んだら縁を切るのだと、そうも告げていた。
 仕事の兼ね合いもあって、長期的に付き合ってもらうことになることはアバッキオへ説明していたけれど、彼はそれを理由に断ることもしなかった。時間通りに待ち合わせ場所へ訪れ、口数も少なく私の後ろをついて歩く。真面目なだけなのか、それとも裏になにかあるのか、私にはまだわからなかった。
 アバッキオは訪問先でも戸口へは近づかず、ただの付き添いであることを示すかのように、後方で黙って返済が終わるのを待っている。しかし、長身でガタイもよく、厳しい顔つきをしているので、大抵の人は兄に迷惑をかけられたにもかかわらず、私へ嫌がらせをするようなことはなかった。アバッキオは思いの外、そこにいるだけで抑止力になった。その点だけは、大いに頼りになった。
 家族のことで謝罪して歩く私の精神的苦痛は、日に日に蓄積していった。借り手も、問題だったのだ。
 兄が半ば強奪のようにお金を借りた先は様々で、ほとんどが学生時代の友人の家族や、母や私の知り合いだった。もう恥ずかしくてまともな人付き合いはできはしない。謝罪をする度に、悲しみと悔しさで脂汗がにじみ出た。
 長い説教を立ちながら聞き、終わらない苦情を浴びせられ、知りたくもない兄の素行に、胃に重石を入れられたように膝を付きたくなる。それでも私が立っていられたのは、兄に関する苦労はこれで終わりで、全てに決着がついたら、ミスタと会えるからだ。いつもそうやって乗り越えてきた。一緒にいるのは得体のしれない男だけれど、今回だって大丈夫だと思えた。

「大丈夫か?」
 3日目の休日になると、それまで依頼の初めと終わり、そして軽食を取る以外で言葉を交わさなかったアバッキオが口を開いた。相変わらず感情の読めない言い方だったけれど、私は向けられた気遣いの声に、自分でも驚くほどの安心感を覚えた。ここずっと、責める言葉しか聞いてこなかったからだろう。疲れ切っていた。恨みや悲しみ怒りの感情ばかりが私に放たれて、世界にはそれしかないのだという思いにとらわれてしまっていた。
 ありがとうございます、と私が日差しに目を細めながら見上げると、逆光の彼はやはり静かに私を見つめ返した。
 アバッキオは、少なくとも味方なのだ。たった一言が、私をそんなふうに安堵させた。
「今回だけの辛抱ですから」
「……ああ」
 そばに立っているだけだったとしても、アバッキオも苦痛だったに違いなかった。負の感情には、そういう効果がある。
 アバッキオの印象が変わったのを感じた。一言が、彼の無数の人間性を表しているように思えたのだ。初対面という剥がれ難いヴェールが、ようやく取り払われ、男の実像が微かに見えてくる。
 知らなければならない。ふと、そんなことを思った。

 依頼が終わるごとに、私はチェーナを奢ることにした。ミスタ以外には初めてのことだったので、誘うのに少し緊張したものの、アバッキオはこれも頼みのうちの一つとでも思ったのか、怪訝な顔ひとつせずについてきてくれた。
「兄のことでミスタに助けてもらったときは、いつもここに来て奢ることにしてたんです」
 嬉しそうな声が出てしまって、私はほんのりと頬を染めた。咳払いをして誤魔化す。ちらりと彼を窺ったけれど、気づいてはいないようだった。
 胸を撫で下ろしながら何を食べるか尋ねると、アバッキオは初めて驚いた様子で口を開いた。
「俺にそんなこたしなくていい」
 眉間にほんのりとシワが寄る。怒っていなくとも、もう癖がついているのかもしれなかった。
 こんな面倒なことに付き合わせて、タダというわけにはいかない。ミスタにお金を払ったことはなかったけれど、彼は赤の他人だ。チェーナ以外にも謝礼をしなければならない。
 私が「お願いですから、付き合ってください」と執拗なまでに頼み込むと、アバッキオは大きく息を吐いて、メニューを手にとった。
 そうして彼はろくに中身を読むことなく、店で一番安いアラビアータを注文し、
「毎回奢る気か?」
とため息交じりに尋ねる。
「はい、それが楽しみなんです」
 笑いながら答えてから、手を上げてアバッキオへつける副菜を注文すると、彼は呆気にとられたように、「破産しても知らねぇぞ」と呟いた。
 不可解なものを見るような眼差しが可笑しくて、私は堪えきれずに笑ってしまった。やっぱりリストランテへ来たのは間違いじゃなかった、と私は思った。知らない表情を見ることができたのだ。全くの他人というわけではなくなった。ほっとすると同時に、こんな怖い人と。そう思ったら、ますます笑いがこみ上げてくる。
 アバッキオはやはり、訝しそうに顔を顰めている。

 チェーナも3度目になると、アバッキオと向い合せで食事を摂ることに、抵抗がなくなっていった。
 彼は相変わらずアラビアータを注文し、ワインを飲まずに炭酸水で最後まで居座ることをやめはしなかった。副菜をつけても、いつの間にか私の皿へ乗っている。仕方なく、私もアバッキオと同じメニューを頼むようになった。
「いつやめるんだ?」
 アバッキオはリストランテへ行くことがわかると、必ずそう聞いて来るようになった。この茶番をあまり快くは思っていないらしかった。
「やめません」
 アバッキオと少しでも親交を深めるために始めたことではあったけれど、私といえばミスタの代わりなのだから同じことをしていたいという純粋ならざる気持ちもあって、意固地になっていた。
 切り捨てるように返すと、二人の間はしんと静まり返って、皿にフォークの擦れる音だけが残った。
 食べにくい雰囲気だ。アラビアータの辛さも最早あまり感じない。

 怒らせただろうか、と思った頃になって静寂を割ったのは、アバッキオだった。普段どおりの声だった。
「一つ聞きたいんだが……」
 皿から顔を上げた私へ、答えたくなきゃ構わねぇよ、とフォークでパスタを弄びながら、アバッキオが言った。男が落ち着かない様子を見せるのは、珍しいことだった。
「迷惑じゃあねぇのか? 言っちゃ悪いが……こんな家族がいてよ……あんたは兄貴のせいで孤立しちまうかもしれない」
 アバッキオがこんな踏み込んだ話をするとは、思ってもいなかった。それと同時に、アバッキオという人間にとってこの依頼が、無関心な出来事ではなかったことを、私は驚きとともに知ったのだった。彼の実像は、明らかに私の中で形を成していった。
 同じような経験をしたことがあるのだろうか。ふと、そう思った。そうじゃなければ、こんなことは尋ねないはずだった。
「そりゃ……迷惑ですよ」
 突然のことに私も緊張をして、皿の上でパスタを行ったり来たりと弄り回す。
 兄のせいで我慢してきたことが沢山あって、取り返しもつかないことばかりで、家族の苦労はもうこりごりだった。ここからいなくなってほしいとも思った。でも死んでほしいわけじゃない。
「幸せになってほしいんです……家族しか、兄のことをこんなふうに思ってあげられない」
 だから今、最後の苦労をしているのだ。そう言うと、アバッキオは難しい顔をして黙り込んだ。眉の下にできた影が、男を暗く見せた。
「大丈夫ですか……?」
 ミスタの知り合いで、それも組織の人間だったのだ。何かわけありなのだろう。まだ何も知らない人間に語るときの言葉を、選ぶことはできない。彼を不要に傷つけはしなかっただろうか。
 心配になって尋ねると、アバッキオは「悪かったな」と言って、話の終わりを促すように、アラビアータを頬張った。
 その日の彼は、それ以上何も言わなかった。


 週に2回のアバッキオとの日々は、いつの間にかプランツォとチェーナで出来ていた。
 少しでも早く終わるように、通りすがりのピッツェリアでマルゲリータを買って、歩きながら食べる。道沿いのバールでエスプレッソを一口で煽り、揃って店を出たら、それでもう食事は終わりだった。それだけの食事があるだけで、勇気が出た。それはアバッキオが私のやり方に口を挟まず、合わせてくれていたからなのだろう。
 引き締まるようなエスプレッソの香りを携え店を出て、アバッキオを見上げると、力強く頷いてくれる顔がそこにはあったのだ。返金先の門戸を叩いて冷たい視線を耐え忍ぶためのすべてを、味方であることを、アバッキオは必ず示してくれたのだった。

 わかってきたこともあった。彼はまるで世話焼きだった。チェーナに散々文句を言っても、アバッキオが帰ったことはついぞない。きっと私がその時間が待ち遠しいというように、浮かれて歩いているのを知っていたからに違いなかった。ミスタと一緒の時は、もっと落ち着きがなかったのだろうけれど。
 時折、質問をしてくるようにもなった。この時もそうだった。おい、という声に彼が何かを尋ねようとしていることを、私は察するようになった。
 もう他人というわけではないのかもしれない。私は何でもない顔を取り繕いながらも、この瞬間だけはどこかこそばゆい気持ちになる。
「普段も外で食べるのか?」
 空いている席に腰掛けて、注文するのはアラビアータとわかっているのにメニューを開く私へ、アバッキオが尋ねる。まさか。私は笑って答えた。
「こんなことがないと外食ってなかなかしないじゃないですか。だからミスタに付き合ってもらった時はいつも、本当は少し、帰り道を楽しみにしてた」
 ちょっとした食事で80ユーロはする外食は、特別なときでもない限りなかなかできない。副菜をつければ小綺麗なホテルに泊まれるような食費が一瞬で飛んでいく。だけど、楽しかった。辛いことがあっても、リストランテが待っていると思うと、兄の罵倒にも、周りの目にも耐えられた。
「おめーは良かったのか」
「なにがですか?」
「あいつと来たかったんだろ」
 ミスタのことだと気づいて、私は自分でもわからず笑ってしまった。それからため息をつく。アバッキオにも悟られてしまうほど、私はわかりやすかっただろうか。テラスで真っ赤になったことを思い出して、私はそうかもしれないと思った。
「昔は……」
 期待したこともあった。そんな時期だってもちろんあった。
「ミスタはね、誰にでもああなんです」
 諦めたような苦笑交じりの声色は、自分で聞いても情けないくらいの響きだった。アラビアータと炭酸水を頼んで、私はメニューを閉じた。
「女には波風立てたくないみたい……誰にでもおんなじ」
 優しさも、距離感も、特別というものはない。気分でフラフラしている遊び人。でも、情があった。
「兄は癇癪持ちで、情緒不安定というか、不安になるとすぐに手が出る人で……要するにいつまで経っても子供なんです。離婚して父がいなくなってから、更にそうなってしまって……」
 何がいけなかったのだろうか。心の傷をどうやって癒やせば良かったのだろうか。もうそうなってしまったことは、あとから悔やんでもどうしようもなかった。兄は学校にも行かず家を空けるようになり、いつしか暴力を振るうようになった。
 私が夜の街路を出歩くようになったのは、その頃だった。ミスタの家庭もお世辞にもいい環境とは言えず、私達は居場所がなかった。そこから逃れるために夜の道をふらつく、たったそれだけのことに気が合った。
「今度兄貴が手を出してきたら、俺に電話しな」
 ミスタの目は本気だった。
 私は使いはしないだろうと思っていたその連絡先をポケットに入れ、暫く思い出すことはなかった。
「どうして警察を呼ばなかったのか、わからないんです」
 真昼間から酒気を帯びた兄が、家のガラスを叩き割って入ってきた時、私が咄嗟に思い出したのはミスタの声だった。彼が来るだなんて夢にも思わなかった。誰か助けを呼んでくれるだろうと思ったのだ。震える手で携帯電話を抱えて、ジャケットから電話番号の書かれたメモを取り出す。コール音が数回鳴って、聞き慣れた声が耳を覆った。
「ミスタ、助けて、助けを呼んで、お願い」
 何を喋ったのか、もう覚えていない。いつの間にか電話を切っていた。錯乱した頭では、ミスタの声すら忘れてしまっていた。
 玄関は兄が乗り入れた車がぶつかって、エンストを起こしていた。表からは出られなかった。裏口にはバールを手に持った兄がいて正気ではないことは、確認するまでもなくわかった。家の中を泣きながら逃げ回った。兄は初め私へは目も向けず、手当たり次第に部屋の中を壊して歩いていた。
 まるで小さい頃に観たホラー映画だ。こんなことが自分の身に起こるとは、子供の私は思いもしないだろう。部屋のドアを締めて鍵をかける。母が仕事へ出ている時間で良かったと、思い返す度に思う。あらかた壊し尽くした泥酔した兄は、わめきながらいよいよ部屋のドアをバールで叩き始めた。ドアノブが反対側から叩かれる振動でどんどん緩んでいくのを、固唾を呑んで見守る。私の部屋の窓は小さく、桟が錆びて開かなかった。越したばかりのときにすぐ、変えていればよかったと後悔をしても遅かった。こんなに絶望的な気持ちになったのはあの時が初めてだ。震えながら花瓶を握りしめて、兄からどうやって逃げるべきかを考えた。
 ドアを壊して蹴破ると、兄はまず私の部屋を同じように壊して回った。泣きたくなって、涙が次々と溢れ出した。何をしたらこんな酷い仕打ちをうけることになるのか、考えても答えなんて出るわけがなかった。怒りと悔しさと悲しみが綯い交ぜになって、私は兄へ向かって花瓶を投げつけた。短気な兄が、それを許すはずがなかった。
「ミスタが来たんです」
 突然私が笑って言うと、アバッキオは困惑したように眉を寄せた。
「助けを呼んでって言ったのに、なんで彼が来るのか……」
 ミスタを貶すような言い方をしても、緩む唇は抑えられなかった。アバッキオに話すことを、恥ずかしいという気持ちは消えていた。知られてしまったら、簡単に口にすることができた。アバッキオはこんなことを他人に言いふらす人間でもないように思えた。
 裏口から重たい靴底の足音が聞こえたと思うと、私の腕を掴んでいた兄が後ろに倒れ、私もその衝撃で一緒に床に倒れ込んだ。慌てて見上げるとミスタがいて、視線が一瞬だけ寄せられる。それもすぐに逸れた。
 掴まれたままの左腕が自由になった瞬間に、兄がうめき声を上げた。ミスタが兄の腕を蹴り上げていたのだった。なおも殴りかかろうとする兄へ馬乗りになると、ミスタは容赦なく兄の顔面を打つ。私は呆然とその様子を見守るしかなかった。思考が追いつかなかったのだ。
 数度目かの時、兄が小さな声で悪かった、と言った。目が覚めたように、はっと現実に戻る感覚がした。ミスタは、
「そいつはよォ、殴られてるから言ってるんだろうがよォ」
と兄の胸ぐらを掴んだまま、もう一度拳を振り下ろそうとしている。私は思わず兄の上に覆いかぶさって、泣きながらミスタを止めた。馬鹿みたいだと思った。私は、兄のことが嫌いではなかった。こういうのが、兄を助長させているのだ。思っても、殴られるところを見たくはなかった。
 ミスタは腕を下ろして、慰めるように私を抱き寄せた。さっきまで兄を殴っていたとは思えない、優しい腕だった。

 あとから警察がやってきた。ミスタが通報してくれていたらしいのだけれど、それから30分は経っている。近所の住民が叫び声と衝突した玄関の車を見て通報してから20分。ミスタが来なければ、私は左頬が腫れ上がるだけではきっと済まなかっただろう。
 ミスタは手の皮がめくれ上がっていた。救急車に座って、二人で手当を受ける。
「家を出ろ」
 ずれたニット帽を被り直そうともせず、ミスタが静かに言った。返事ができなかった。
 私が助けを呼んだせいで、ミスタは怪我をして、警察の事情聴取にも赴かなければならない。彼の家族に知られたら、彼は今夜どんな夜を過ごすことになるのだろう。そうまでして駆けつけてくれたというのに、私は結局兄を庇ってしまった。馬鹿みたいだ。思った。どうしようもない。ミスタに、なんて言えばいいのだろうか。
 皮が剥けて赤くなったミスタの拳を取って、私が傷口に触れようとすると、ミスタはやんわりとそれを遮った。
「家を出ろよ」
 黒い瞳が、まっすぐに私を見つめた。わからせるように、ミスタは同じ言葉を繰り返した。


「繋がっていられるだけでいいんです」
 こんな恋愛小説のようなことを、私は本気で思っている。笑顔が見れて、たまに声を聞けるだけで良かった。
 私は家を出て、夜の街路を歩かなくなった。ミスタに助けられたのだと、行動で知らせたかったからだ。その代償に、夜の会合は思い出の中だけに消えた。私は馬鹿だった。
 それにしても、長々とこんな話を聞かされたアバッキオは、さぞ嫌気が差しているだろう。知人に向けられた惚気ほど、反応に困るものはない。無口な男ならなおさらだ。
 私は流石に申し訳なくなって、「すみません」と姿勢を正した。思い返すほどにアバッキオを直視できなかった。
「ワインでも飲みますか?」
 半笑いでメニューを出した私の眼前を、男の手がすっと伸び、私からメニューを攫っていった。元の位置へ収めてから、炭酸水の入ったグラスを煽る。これで十分だとでも言うように。
「敬語はいらねぇよ」
 息を呑んで見守る私へ、アバッキオはいつもと変わらない口調でそう告げた。
「あいつに話すように話しゃいい……無駄な気を遣っても疲れるだろ」
 私は息を吐き出すようにはにかんだ。それから喉を震わせて笑って、でも恥ずかしくて、「はい」と答えたあと、戸惑いながらも、「ありがとう」とアバッキオへ告げた。
 いいやつだよ。囁かれたミスタの声を思い出して、耳をそっと抑える。本当だった。ミスタを信じてよかった。あとでお礼を言わなきゃいけない。そう思うと、余計に嬉しさが込み上げた。
 アバッキオはそんな私の様子を、やはりからかうこともなく、ただ黙って見つめていた。



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19/08/30 短編