02



 休みの日は足が棒になるまで歩き回り、二ヶ月をかけて、ようやくすべての家を回り終えた。兄が迷惑を掛けた先の住所を調べるだけでも大変だったけれど、これで開放されたのだ。もう関わることはない。もう二度と、こんな苦労はしなくてもいい。
 アバッキオはずっと根気強く私に付き添っていてくれた。道に迷っても、罵倒されても、物を投げられても、時間のかかるこの依頼を、決して投げ出すことはなかった。
 終わってからまとめて謝礼をしようと思っていたけれど、流石に良心が痛んで日当を払うことを申し出ると、
「金はやつが払うと約束した。だから付き合ってる。ビジネスとして成り立っちゃいるだろ」
と言って受け入れなかった。
「それなら、あとでミスタに渡しておくから」
 そう言うと、アバッキオは強情だとでも思ったのか、軽く息を吐いて、「そうしな」と呟くように返した。
 アバッキオは私が物を投げつけられれば、すぐに駆け寄って遠ざけたし、あまりにもひどい罵倒には一緒に頭を下げてくれ、殴りかかろうと飛び出してくるような時には、相手を押さえつけて話を聞かせてから、二度と関わらないことを約束した。
 何件も渡り歩く間、逃げ出すこともせず、愚痴も言わず、それどころか身を挺してかばってくれたのだ。まさにボディガードそのものだった。たとえお金を払ったとしても、それでも実際の報酬は足りないほどだ。アバッキオがしてくれたことは、私にとってはボディガード以上のものだった。
 
 最後の帰り道、アバッキオは寄り道をしたいと私へ告げた。いつもゆっくりとついて歩くその足が、私を通り越してずんずんと先へ進んでいく。珍しいことだったので、小走りに追いかけながら、驚いて長身を見上げた。
「構わねぇか?」
「もちろん」
 断る理由もなく、私は晴れ晴れとした気持ちで勢いよく頷く。少しでも彼の望みを聞ける機会があるのなら、そうしておきたかった。
 アバッキオは返事を確認すると、少しだけ、気づかないほどほんの微かに口元を緩めた。見間違いかと私が呆然としていると、おもむろに腕が攫われる。やわらかな、しかし男らしい力で掴まれた腕に、動揺が走った。驚きで変な声が出そうになって、慌てて飲み込む。
 彼の歩幅で住宅街を抜けていく。触れられた肌の感触に、複雑に胸が騒いだ。アバッキオは私を見ることはない。この手はなんだろうか。初めて触れられたアバッキオの手は熱く、私まで火照っていくような気さえする。
 聞いたほうがいいのだろうか。声を上げたほうが良かっただろうか。思ったけれど、私はそうしないことを選んだ。心臓の音を抑える。浅く深呼吸をする。望みを聞きたくても、返せないものもあった。
 アバッキオの手は、いつまでも熱かった。

 彼の寄り道先は、駅近くにあるリストランテだった。
 間口の狭い小さな店だけれど、老舗として何度か話題を聞いたことがある。地産地消、仕入れはすべて南部の食材で、常連の顔を必ず一致させるような店主が、長年こじんまりと続けているのだという。
 今日はここにしたいとアバッキオは言ったけれど、正直なところ、アバッキオはあまり好まなそうな店だった。私のような寂しがり屋が、好んで然るようなところだ。
 ガラス戸の前で、アバッキオの手は驚くほど簡単に離れた。それでも残る腕の感触を振り払うように、店の中へ入る。
 出されたのは、アラビアータと炭酸水だった。拍子抜けしたのを隠しもしなかった私へ、アバッキオは意地悪そうに笑って、「まだ頼んである」と言った。私はしてやられたと思って、口をすぼめてなにか言い返そうとしたのだけれど、子供のような言い訳しか頭には浮かんでこなかったので、からかわれるだけに終わった。アバッキオは少し、嬉しそうだった。
「毎回奢ってたんじゃ、破産するぜ」
 とくとくと注がれるワインを前にして、アバッキオはお祝いに奢ってやるというようなことを言った。もう何品も大分食べきってからこういうことを言うのだから、やはりさぞモテるのだろうと、私は噎せながら思った。
 咳き込んだ私へ、アバッキオは「オイオイ大丈夫か」と、身を乗り出す。
「もうこれ以上、返せない」
 私が言うと、アバッキオは驚いた顔をした。
「私、返せるものがないよ」
 お金には変えられないものだ。感情というのは、決して代価はない。困ったことになった。彼は一体私をどこを気に入って、こんなことまでしてくれるというのだろうか。
 私は彼に返せるものはなかった。本当に、なんにも。
「あんたはギャング映画の観すぎじゃあねぇのか……借りを返さないと殺されるとでも思ってんのか?」
 アバッキオは、私がこんなに情けない顔をして困り果てるとは思わなかったのだろう。戸惑いながら、彼らしくもなく、言葉を選んでいる。
「たまに奢れや。コーヒーでも、ピッツァでもよ」
 それでいいだろ、とぎこちなく口角を上げながらも、やんわりと目を細めたアバッキオに、私は染み渡るような安心感を感じたのだった。ほんの少しの、罪悪感と一緒に。


 次の休みは5日後に巡ってきた。ミスタの元へ、報告とお礼を言いに行かなければならなかった。
 翌日には連絡を入れ、週末に先日のバールで待ち合わせをすることにした。相変わらず閑散としたテラスは、話をするには丁度いい。デリケートな話をするのに、周りを気を遣う必要がなくてよかった。
 ばれない程度にお洒落をして、微かに香水をつける。通り過ぎるときになんとなく香る程度の、ささやかな香り。ずっと前にミスタが、すれ違った女性から漂ったこの香りを、いい匂いだと呟いたのを、一生懸命になって探した、たまにしかつけない香り。
 私は休みが待ち遠しくて仕方がなかった。ミスタに連絡を入れてからというもの、気を抜くと常に夢想にふけりそうになった。ミスタは全然、そんなことはないのはわかっているのだけれど。

「おう、本当に苦労したなぁ」
 ケーキをつつきながら相槌を打つ2ヶ月ぶりのミスタは、焦がれていたからか、惚れ惚れするほど格好良かった。笑ったときに下がる目尻が好きで、つい見惚れかけてしまう。何もかもが嬉しかった。目の前にいることも、二人きりでケーキを食べていることも、私の電話に快く出てくれたことも、自分ごとのように話を聞いてくれることも。
「頼りになっただろ、やつは」
「うん、すごく助かった」
 ミスタの目に狂いはなかった。ミスタが信頼しているのだ、根っから誠実なのだろう。アバッキオが付き添ってくれた日々を思い出した。不安と恐怖ばかりだった毎日が、次第に苦痛ではなくなっていった。彼は優しくて、頼もしかった。
 不意に最後の日の腕の感触が脳裏をよぎって、瞬きをして振り払う。胸を僅かな痛みが走る。
 私は笑顔で「ミスタのおかげだよ」とお礼を言って、ミスタの口に消えていくケーキを見送った。ミスタは満足そうにイチゴを手でつまんだ。
「いいやつだったろ」
「うん」
「顔も悪かねぇしよォ」
「うん」
「わかりづれぇ物言いだが、話下手じゃあない」
 何を言いたいのかわからず、私はミスタを見つめ返した。
 、とミスタが名前を呼んだ。いつも通りの、何の感傷もない声だった。明るいミスタの声。普段どおりの声。私が好きでたまらない声。
「これからはあいつを頼ンな」
 音も、コーヒーの香りも、全部が消えたように思えた。
「ミスタ、わたし……」
 呼吸をするのを、忘れそうになった。息を止めてミスタを見ていたことに、苦しくなってから気づく。彼の言葉が聞き間違いではないかと、耳を澄ますのに必死だった。
 けれどミスタは間違いなく、
「俺じゃあなくてよ」
と続けたのだった。

 終わりが来たのだ。私はすぐにそれを理解した。形容し難いこのアンバランスな関係が、一体いつまで続くのか、不安になることは何度もあった。ミスタも私ももう大人だった。15歳の少年でも少女でもなかった。どこへ行くこともなくどこかへ行きたいと、当て所なく夜道をふらついて明け方まで語り合うような、理由のないセンチメンタルを抱える年齢では、なくなってしまったのだ。
 潰されそうな胸の痛みを抑えて、私は抱き続けてきた想いを言葉にするべきか迷った。喉が引きつって、次の言葉が出てこない。心が、決まらない。
 ミスタ。自分のかすれた声が、心の答えを急かした。
「何度も、助けられた……」
 続きを待つミスタの顔を見て、焦って口に出したのは、一番伝えたいものではなかった。それでも、言いたい言葉でもあった。嘘じゃない。けれど、満たされはしなかった。
「気にするこたねーよ」
 ミスタは一瞬口を閉じたあと、小さく笑って、お礼を言われ慣れないのか、落ち着かなく首筋を掻いている。
 背筋を冷たい風が吹き抜けていった。
 私はミスタに何かをしてあげられたのだろうか。助けられるばかりだった。追いかけることもしなかった。きっと辛い時期だってあっただろうに。私はどうして、それに気づかなかったのだろうか。少女のままでいようと思ってしまったのだろう。
「おめーは俺だよ」
 なんの脈絡もなく、ミスタがぽつりと言った。
「分身みてーなもんだ。俺が出来ねぇことを代わりにやってる……泣いたり、落ち込んだりよ」
 私は思わず、奥歯を噛み締めた。今、泣いてはいけなかった。
「お前を助けるたびに、つまらねぇ自分に胸を張れた」
 悪かなかった、と言う。頼られるのは結構楽しかった、と。

 最後だというのに、好き、が言えない。好きだった、が言葉になってくれない。言えるような空気ではなかった。ミスタはもう、私との決別を心に決めている。
 ありがとう、と返す以外に私にどんな選択肢があったのだろう。
「おう」
 やんわりと笑ったあと、ミスタはふと真面目な顔をして、
「いいな、これからはあいつを頼れ」
と繰り返した。初めて私を救ったあの日のように、黒い瞳を真っ直ぐに向けて。
 ミスタの背はゆらゆらと去っていく。あの飄々とした性格を表すような軽い足取りも、少し丸まった背も、私を抱きとめてくれた胸も、腕も、好きだった。全部が、好きだった。
 空気は今日も乾いている。喉が痛むのはきっと、そのせいなのだ。そう思わないとこの場で泣き崩れてしまいそうで、私はどうにかして踏ん張って、ミスタの背を見送った。坂の向こうに消えるまで、ずっと。
 私は、分身だった。ミスタは弱い自分を、切り離していった。きっともう戻らない。彼は人生を組織へ捧げることを選んだのだ。そういうことだった。


 ミスタと別れてからの数日間を、私はよく覚えていない。
 起きて、仕事に行って、食べて、寝て、そしてまた起きた。ちゃんと生きられていられた。またコツコツとお金を貯めよう。そうしてちょっと高いリストランテのコース料理を食べるのだ。そう思った瞬間に、私は気づいてしまった。私は外食なんて、本当は全然興味がないのだ、ということに。
 美味しい店を調べるのも、雑誌をめくって準備をしてきたのも、全部ミスタのためだった。彼と食べるから、美味しかったのだ。でももう、どんなに理由をつけても会うことはできない。同じ街に住んでいても、声をかけることもできない。すれ違うことだって稀だろう。私に残されたのは、興味もないのに知りすぎてしまった、話題のリストランテの数々だった。
 気分転換に入ったスーパーは、あまりにも広々として、孤独が増したような気分になった。入口近くに置かれたテレビからは、真昼間の路上で構成員同士の抗争があったという、不穏なニュースが流れている。ざらついた液晶の画面には、石畳に無数の血の跡が見て取れた。
 自動ドアを出ると、私はもう耐えられなくなって、わんわんと泣いた。子供のように声を上げながら、泣きじゃくって歩いた。大丈夫か、何があったのかと、親切な人に何回か声をかけられたような気がするけれど、泣いているせいで頭が破裂しそうなほど力が入っているから、声は届きはしなかった。
 楽じゃない。組織は全然楽じゃない。あの夜の街灯の下で、楽しく生きたいのだと言った彼は、本当に笑って生きられているのだろうか。望んだ場所で生きられているのだろうか。ベンチで虫に刺されながらも夢中で語り合った、かつて逃げたかった居場所は、彼の中にあるのだろうか。
 私は何もできなかった。私ばかりが助けられて、自分は死と向かいあわせの道を歩いている。会わなかった3年間、私はもっと何かできたに違いない。家族のことで余裕がなかったのだとしても、少しくらいは助けになれたかもしれない。どうして私は、知人でいようと思ったのだろう。怖がらずにそのラインを超えれば、何かできたかもしれないのに──どうしようもないことが、何度も私の胸を刺した。
 わかりづらい優しさなんていらなかった。分身だなんて言われたくはなかった。迷惑だと、なじってくれたほうが余程良かったのだ。

 車のエンジン音が近づいて、タイヤが砂利を細かく弾く。背後で扉の閉まる音がすると、一人分の足音がこちらへ歩み寄ってきた。
「……オイ、アンタ」
 私の肩を掴む手と、呼び止める低い声には覚えがあった。彼はどこまで面倒事を押し付けられれば気が済むのだろう。
 そっぽを向きながら鼻をすする私へ、アバッキオはハンカチを押し付けると、想像以上のひどい状況だったのか、小さくため息を付いた。
「ミスタに頼まれて来てみりゃあ……」
 さらに胸の痛みが増した。引っ込み始めていた涙が、またぽろぽろと流れてくる。
 ミスタは私の淡い憧れの感情をきっと薄々気づいていたに違いなかった。知っていて他の人を、アバッキオを差し向けた。とびきり顔のいい、守ってくれそうな、強くて優しい人を。
 その事実が、私を更に悲しくさせた。


 アバッキオは泣き止まない私を無理やり車に押し込むと、
「どこへ行きたい」
と尋ねた。
「海へ行きたい」
 私は舌を縺れさせながら、小さくそう告げた。広くも狭くもない、ポルティチの浜辺。最後に行ったのは3年前だ。
「あいつのことは忘れな」
 涙を止めない私へ、ハンドルを握りながら、アバッキオは静かに言った。車の中で、その声は鈍く響いた。少しだけ窓を開ける。
「アンタの世界にゃ、もういねぇよ」
 そんなことはわかっていた。そう簡単には忘れることができないから、辛いのだ。
 見返りもなしに私を助けた男は、ミスタしか知らなかった。
 それなのに仕方なく付き合ってくれていたはずだったアバッキオが、今度は隣にいた。
 それが命の危険もない状況で、今になってもここにいる。ただのつまらない泣き言のためだけに、自ら時間を割いている。全部が終わった後だというのに。
 いくらミスタだって、そんなことまでには付き合わない。愚痴を聞かされると予感すると、何かしらの理由をつけて、逃げたがったものだ。
 アバッキオのこの行為を、私はどう受け取ればいいかわからなかった。彼の行動の裏にある感情に気づけないほど、私は鈍感にはなれなかった。鈍感なふりをしているだけで、精一杯だ。
 アバッキオもそれに気づいているのかもしれない。急かすようなことも、性急に迫るようなことも、思わせぶりな態度も取らなかった。あくまで、ミスタから任されたからだという主張を曲げなかった。アバッキオという人間をよく知らなければ、そうなのかもしれないと、納得もできただろう。でも彼も私も、リストランテの時間を共有した私達は、それ以上に近づきすぎたのだ。
 海岸沿いの道を、アバッキオはゆっくりと車を走らせた。海風は少なく、空はからりと晴れている。
 アバッキオは砂浜をさらう今日の波のように、ただ静かに手を差し伸べ、寄り添うだけだった。しかしそれ以上優しく、情熱的で、根気のいるアプローチを私は知らない。
 それでもまだ私は、彼ではない人の影を探していた。その人じゃないとだめだった。

 二人で靴を脱いで、砂浜に足を踏み入れた。水辺では水着姿の近隣住民が、楽しそうに肌を焼いている。木陰の下で、私は立ち止まった。
「家を出た日も、ここへ来たの」
 隣の人は、私の声をどんなふうに聞いているのだろうか。悲しい顔をしていなければいい。ただ諦めてくれればいい。
「兄が邪魔をしに来るからって、ミスタにお願いして引っ越すのを手伝ってもらった……その途中でここに立ち寄ったの。ちょうど、この場所に立って海を眺めた」
 あの日のミスタは、真っ青のニット帽を被っていた。暑い日のことだったから、その青色がとても涼しげに思えた。鮮明に思い出せる。切り取った一瞬一瞬を今でもはっきりと。
 私の声は震えていた。あの時から、私の中にはミスタがいた。それなのにいつも隣にはいない。助けてほしい時だけ、傍らにいてくれた。今まではそれだけでよかった。でもそれも、昨日で終わったのだ。もうどんな理由をつけても、彼を頼ることはできない。どんなに会いたいと思っても。どんなことにでも平気そうに笑う、笑顔が見たいのだと思っても。
「ミスタと個人的に出掛けたのは、ここが初めてで……デートみたいだって、思って」
 夜のベンチや決まったリストランテでご馳走する以外に、ミスタとどこかへ行けるのだとは思っていなくて、私は内心浮かれていた。ありふれた言い回しなのかもしれないけれど、この瞬間がずっと続けばいいのに、と心から願った。実際のところ、それはほんの数分の、永遠だったのだけれど。
 昨日の夜、ミスタが電話を変えたのを私は知った。それでも繋がらない番号を、私はきっと消去できずに持ち続ける。いつかかかってくるんじゃないかって、馬鹿みたいな期待を捨てきれずにいる。
 でも、別れ際に俺を頼るなと言ったミスタの声は、さっき言われたばかりのように、何度でもはっきりと頭を巡った。ミスタとは二度と会えない。諦めきれない期待とは裏腹に、私はそれが真実であることもちゃんとわかっていた。
 私は最後まで彼への想いを口にできないまま、6年越しの恋を終わらせようとしている。
「きれいな……海だったなぁ」
 喉が詰まって涙声の私の言葉を遮ることもなく、アバッキオは隣に佇んで、黙って聞いていた。私のそばにいても仕方がないのだと、わかってくれるといい。私はどうしても、ミスタがいいのだ。ミスタと聞いた白波の弾ける音が、忘れられないのだ。アバッキオがどんなに優しくて、いい男だったとしても、思い出を差し替えることだけはできない。
 変わりのない景色だった。透き通るような日差しも、ビー玉をかざしたように光る海も、潮の匂いも、何も変わらない。ただ、あの日の青だけがない。
 抑えても止まらない胸の痛みを抱えながら、空色の景色の中に懸命に目を凝らした。かつての思い出が少しでも重なるように、私は彼方へ行ってしまった、あの日の青を探し続けた。


 アバッキオとは、次第に距離を離していった。私は元々積極的に連絡を取る方ではないし、初めはミスタに頼まれたという口実で、私のその後を気にかけて電話で様子を聞いてきたアバッキオも、私が着信に出ないようになると、ぷっつりと音沙汰はなくなった。
 変に気遣われるより、気が楽になった。罪悪感と向き合わなくても済む。抱えるものは少ない方が良かった。
 
 いつでも最後の別れの日が頭から離れなかった。ミスタに似た面影を探して、ミスタと少しでも似た男性に声を掛けられると、陳腐な口説き文句だったとしてもふらりと揺れる。
 喉につかえる気持ちの苦しさに、耐えられなかった。誰かに吐き出してしまいたかった。ミスタに言えなかったことを、代わりになる誰かに。
 エノテカバールを渡り歩く私は目の当てようもなかった。ミスタの面影を探すことができれば、もう誰でも良かった。楽になってしまいたかった。そういうところまで、私は来ていた。

「君は空から落ちてきてしまったのかい?」
 隣へ腰掛けた男性は、暗い照明のバールには似つかわしくない口説き文句で私を誘った。黒髪の年上の人だった。
「……天使に見える?」
 無視をすることもできたのに思わず答えてしまったのは、はにかんだ彼の口元が、ミスタにそっくりだったからかもしれなかった。
 この人に好きだと言えば、私は恋を終わらせることが出来るのだろうか。出会ったばかりの今日言えば、頭のおかしい重たい女だと思って、彼は逃げていくだろう。頭の隅を、打算的な思考が駆け抜けていった。
 数時間、語らい合う。口元を見ていれば、ミスタと話しているような気分になれた。しかしそうであればあるほど、虚しさが胸を埋め尽くした。彼がミスタの代わりであることを認識する度に、私はミスタに振られたという事実を思い出さなければならなかったからだ。
「君がもしよければ、また食事をしないか?」
 熱心に口元を見つめる私に、脈があると思ったのかもしれない。男性は約束を取り付けると、喜ばしそうに家まで私を見送った。
 アパートの近くの広場で別れを告げて、男性が角に消えるまで背中を見送る。彼は何度も振り返っては私へ手を振った。ミスタとは違っていた。ミスタはああやって何度もこちらを振り返ったりはしない。いつも真っ直ぐに歩いていく。そんな姿が好きで、それでいて寂しくもあった。
 彼はよくよく見ると、何もかも違っていた。歩く姿も、歩幅も背中の形も、手の太さも声も。当然だった。彼は別人で、ミスタじゃない。
 とぼとぼとアパートまでの道を歩く。広場の出口に人影があった。車止めに寄りかかって、こちらの様子をじっと伺っている。男のようだった。影になって顔は見えないが、大きな体つきをしている。身が強張った。しかし何かあっても、アパートに駆け込んでしまえばよかった。
 足早に通り過ぎようとすると、すれ違いざまに声がかかる。
「……何やってやがる」
 苛ついた声色に立ち止まる。振り返って目を凝らした。そんなことをしなくても、声だけでも十分にわかっていた。
 できることなら、こんな姿は見られたくない。気づかないふりをして、立ち去ってしまいたい。体を縮こまらせながら、私は男に逃げるように背を向けて、早足で歩き出した。
 しかしアバッキオは逃がすつもりはないようだった。私の腕を強く引いて引き止めると、「逃がしゃしねぇよ」と唸るように呟いた。
「何の用、ですか? 見張っているつもり……ですか」
 わざと敬語で話す私の拒絶に、アバッキオは眉を寄せ、睨むように目を眇めた。
「金を返しに来た。何を考えてるのか知らねぇが、あんなに渡されても困るんだよ……電話は繋がらねぇし、いくら待っても帰ってこない……住人に聞けばあんたは毎日この時間に帰ってくるそうじゃあねぇか」
 アバッキオは諌めるように言いながら、私へ詰め寄った。下がっても下がっても、一歩ずつ間合いを詰めてくる。
「あの男はあんたの惚れた男か?」
「わたし……」
 答えられずに、口ごもる。責めるようなアバッキオの物言いが、夜の暗がりのせいで怖かった。彼が怒っている理由がわからないほど、私は良心を捨ててはいなかった。
 正直な気持ちがぽろりと溢れた。限界だった。抱えてはいられなかった。
「私、忘れられなくて」
「あんたはわかっちゃいねぇな」
 うつむく私の顎をそっと掴むと、アバッキオは無理矢理に上に向けた。よろけて半歩後ろへ下がると、壁に背中が擦れる。地を這うような低い声が、ゆっくりと、言い聞かせるように私の鼓膜を揺らした。
「あいつはもうあんたの世界にゃ二度と現れない」
 視線を彷徨わせて覚悟をしてアバッキオを見返すと、ギラギラとした目が、私を射抜いていた。
 顎に触れていた手が顔の横の壁へ置かれたと思うと、焦らすような速度で肘を曲げ、じりじりと距離を縮めて追い詰めてくる。私は動けなかった。未だに右手は掴まれたままで、アバッキオの手は燃えるように熱い。逃げたいのに、足は恐怖で地面に張り付いて一歩も動けない。
 鼻が触れ合いそうな近さで止まると、アバッキオは囁くように私へ言った。
「半端に引きずるくらいなら、忘れちまいな」
 容赦のないキスが待っていた。壁に押し付けられた体は、少しも身動きが取れない。自由な片腕で胸を押し返しても、厚い胸板はびくともしなかった。アバッキオが息を吸い込むたびに、同じように胸が上下するだけだ。逃げても顔を背けても、齧り付くようなアバッキオの唇は、逃がしはしまいとでも言うようにどこまでも追いかけてきた。荒い鼻呼吸と唾液の交わる水音が肌や鼓膜を揺らしては、ぐちゃぐちゃになった頭の中へ入り込んで、気を遠くさせた。
 ミスタ以外は嫌だ──そう思っていたはずなのに、深く荒々しいアバッキオの口づけを受け続けていても、嫌悪感だけはわかなかった。それどころか、いつの間にかもう少しでも長く続いてほしいとさえ思っている。
「ハッ」
と、大きく息を吐きだしながら、アバッキオが笑った。ねっとりと離れた唇に、うっすらと目を開ける。アバッキオは自分の胸元を見下ろして、唾液の伝う口を拭い、それから荒い呼吸のまま何も言わずに私を見つめる。
 私はアバッキオの視線を追った。彼の胸元には、見紛うこともない私自身の手が、アバッキオの服を掴んでいた。それが何の感情を表しているのか、自分自身のことなのに、呆然とした頭ではすぐには思い至らない。縋るような手。私の手。
 気が動転したままの私へ、アバッキオは焦れったいくらい緩慢にまた顔を寄せた。生暖かい息を敏感な唇へ吹きかけ、とびきり低い声が甘やかに私に囁いた。
「ニセモノよか、ずっといいだろ」
 その時私は、一体どんな目をしていたのだろうか。蕩けた思考では、もう何もわからなかった。ただアバッキオは私の顔を覗き込むと、それはとても嬉しそうに、薄っすらと歯を見せて笑った。吊り上がった口角に自然と高鳴った胸の音に気づいて、私は顔を真っ赤に染めて目をつむった。あんまりだ。私の6年が、あんまりにも可哀想だ。わしづかみだった。
 こんなに簡単に塗り替えられたくない。そう思っているのに、わしづかみにされていた。心はとうに、アバッキオにとらわれていた。泣きたいときにそばに佇んで、苦しいときに駆けつけるような、好意を隠そうともしないこの人に、すでに落ちてしまっていたのだ。
 あつい。頬は燃えるように赤らみ、吸われた唇はしっとりと濡れたまま先程の感触を忘れず、囁かれた耳は低い声を反芻し、壁に縫い付けられ続けている手は、男の熱に染まっている。どこもかしこも熱くて溶けてしまいそうだ。
 私は声を出せないまま、かつての景色を思い浮かべた。潮騒の音と照り返す浜辺の熱と、空の高さ、匂い。忘れたくない。忘れてしまいたくない。目元へ熱が溜まったかと思うと、どっと涙が溢れ出した。その理由さえ知りたくはなかった。ミスタが良かった。ずっと好きだった。好きでいたかったのだ。
 突然はらはらと泣き出した私をアバッキオはやんわりと抱き込むと、そっと喉を震わせる。
「……黙って俺にしときな」
 私の肩をぐっと引き寄せると、私の体はアバッキオで一色になった。鼻腔に香るのは、爽やかで落ち着く香水のラストノート、微かな汗の匂い。私の知らない匂い。胸が高鳴って、さざなみがゆっくりとさらって行く。ひっそりと、気づかれないような弱さで、私はアバッキオの服の裾を掴んだ。アバッキオが腕に、力を込める。

 波の音が遠い。
 もうどこを探しても、私の中に、あの青はいないのだ。



|終
theme of 100/031/海
19/08/31 短編