埋み火

01



 ヴェネツィアには、こんなことわざがあるらしい。
 夜のように黒く、心のように熱く、花のように純粋で、恋のように甘い──
 詩的なそのフレーズを最初に聞いたのは、私がまだ小さい頃、初めてエスプレッソを飲んだ時、カップの底に残った砂糖をスプーンで掻き出す私を見て笑った、父の口からだった。メートル法を普及させたことで有名なナポレオン時代の外交官、タレーラン=ペリゴールという人物が、コーヒーを愛するあまり、そう表現したのだという。それがきっと、ヴェネツィアに伝わったのだ、と。
「そりゃあ違ぇよ」
 長年漠然と抱いてきた父の推測を否定したのは、唐突な声だった。私がレジ越しに古くからの常連客へそんな四方山話を聞かせていた時、いつもカウンターで砂糖も入れずにエスプレッソを飲み干していく男性が、静かに口を挟んだのだった。真っ白な髪の、長身の男だった。
 常連のおばさんと、驚いて男へ目を向ける。彼もこのバールに足繁く通ってくれていたので、顔は覚えていたけれど、挨拶をしてもこちらを一瞥するだけの無愛想な人で、こうして話しかけられる日が来るとは、そうなる瞬間まで、私は夢にも思っていなかった。
 口を開けたままなんと返すべきかも分からず呆然とする私達を見て、男はしまったといったように顔を顰めると、目を食べかけのパニーニへ戻した。男にとっても、思わず声に出てしまったのかもしれなかった。
「いや、悪い……邪魔をするつもりじゃあなかった。続けてくれ」
 私は、どうやらこの男性をひどく後悔させてしまったらしいことにようやく気づいて、慌てて声を上げた。
「いえ、面白そうだから、聞かせてください」
 こちらを窺った男性は、一寸考え込むように黙り込んでいたが、一緒に話していたおばさんも、「すっきりしたいわぁ」と人懐っこい口調で促すと、パニーニをお皿に戻してゆっくりと話し始めた。
 男性が言うには、この言葉の発祥はタレーラン=ペリゴールではなく、それより一昔前、アラブの諺がコーヒーと共に伝わってきたのだという。酒を歌った言葉は数え切れないほどあるが、酒の飲めないアラブでは、コーヒーがその代りとなった。だから詩の一文一文に熱が込もっていて、印象に残りやすい。更に当時アラブで独占していたそれがトルコへ伝わり、多くの技術と食文化と共に、ヴェネツィアに届けられた。イスラム教との宗教抗争も激しかったから、イスラム圏の飲料を正当化するために、言葉がより根強く残ったのだろう……
 そういう風に、男は訥々と語った。なるほど説得力があると思ったが、それよりも、低い声で語られた口調そのものの方が、私の耳には心地よく残った。私にこの話をしてくれた人は、人生で二人目だったのだ。
「まあこれも、お喋り好きな男から聞いた受け売りだが……」
 信憑性はないと言いつつも、男性自身は割合、その話を受け入れているようだった。
 だから私はこの人にエスプレッソを差し出す時、いつもこの言葉を思い浮かべる。心のように熱く、カップに沈む砂糖のように、甘い感情と一緒に。


 目の前を自転車が過ぎ去って、ふと意識が引き戻された。ぼうっとしたまま、考え込んでいたらしい。
 待てども待てども一向に来ないバスを待ちながら、近くの店のシャッターを下ろす音を聞いていたら、いつの間にか物思いに耽ってしまっていた。痛めた左足を庇うように立っていたから、重心を乗せた方の足腰がだるく痺れている。病院の帰りだった。
 数日前、ワインを入れた箱を足の甲に落としてしまい、腫れはしなかったものの中々痛みが引かないから、骨でも折れているのではないかと思って、店を休みにして行ってきたのだ。検査をしても特に異常はなく、湿布を貼っていれば治るだろうと伝えられ、先生との面会は待たされた時間と比べて、あっさりと終わった。
 痛みはあるが歩ける。タクシーに乗るほどでもないかと思って、片足を引きずるようにして閉店寸前だったタバッキに向かい、店主に無理を言ってバスの乗車券を買ったあと、ようようこのバス停に辿り着いた。それから10分は経っている。中心から外れた路線とはいえ、そろそろ一本くらいは来てもいい頃だ。運転手はどこかのバールに寄り道でもしているのだろうか。
 病院へ行った方がいいと勧めたのは、アバッキオだった。昨夜のことだ。狭い店内でさえ時折びっこを引く私を見て、
「骨にヒビでも入っているかもしれねぇぞ」
と忠告をしたのだ。これまで一度も大怪我をしたことがなかった私は、話半分に聞き流そうと笑っていたが、彼はテーブルに腕を乗せて凭れただるい格好ではあったけれど、真面目な顔をしていた。アバッキオは冗談を言う人間ではなかった、とはたと気づき、私は考え込んだ末に重い腰を上げたのだった。
「迎えに行くか?」
と言ったアバッキオにどきりとしたけれど、すぐに複雑な思いが込み上げてきて、私は「大丈夫」と一言返した。硬くて素っ気ない調子になった。アバッキオは無言で私を見ていたものの、私がカップを乾拭きし始めると、「そうか」と呟いて、残りのワインを飲み干した。曖昧だった関係に一つの境界線を引いたのは、思えば私からだった。
「明日は来ねぇぞ」
 帰り際に、アバッキオはそう告げて私に確認をとった。私はこくりと頷いて、遅れて「はい」と返事をした。
 本当は来てほしい、とは口が裂けても言えなかった。本当はいつでも一緒にいたいのだとは。約束なんかしなくても、この店がなくても、いつでも会って、ただ話がしたいのだとは、この寂しげな背中をする人には、言えるはずがなかった。

 コーヒーの話。私にとって忘れられないアバッキオとの会話から、一体どれくらいの日々を過ごしたのだろうか。もしかすると、半年にも満たないのかもしれない。顔だけを知っているただの客から、彼は私の中で随分と様変わりをした。今となって、この人と私の関係を、なんと形容したらいいのだろう。私に答えをくれる人は、誰もいない。
「好きです」
 一週間前、私は彼にそう言った。確かにアバッキオに向かって、消え入りそうなほど小さな声で、彼を好きになってしまったこの気持ちを口にしたはずだった。
 アバッキオは何にも答えなかった。否定をすることも、しかし受け入れることもなく、何にも言わなかった。
 悪く思われていないことは確かだった。でも、それ以上はなかった。アバッキオはいつも、中途半端な優しさを向けて、私の気持ちを引き止め続けている。一番どうしようもないのは、苦しくて仕方がないのに、ずっとそのままでいたいとさえ思ってしまう、私なのかもしれなかった。

 さっきまで差していた日も、傾き始めると落ちるまでは早く、遠くの空に紫色の残照が流れていくばかりになっている。いつの間にかついていた街灯が、狭い路地を朧げに照らしていた。周りの商店は入れ替わりに看板を出したバールを除いて、ぞろぞろと店仕舞に入っている。ぽつりと残る一軒の灯りが、ざらついた闇に浮かんでいるけれど、まだ人の入る気配はない。
 病院を出た時はもうすぐ5時といったところだった。もう少し経てば、肌寒さが迫ってくるだろう。そうなると、この心細さがまた増してきてしまう気がする。落ち着かず、耳を澄ませてバスの音を探していると、石畳を鳴らす革靴の音がこちらに近づいてくる。その迷いのない足音にアバッキオの顔が浮かんで、「迎えに行くか」と尋ねた声を思い出す。
 思わず顔を上げて、元に戻した。つま先で石畳の隙間をなぞって、それから笑ってしまった。短い笑いはすぐに口元に吸い込まれて、口角を落としながら消えていく。アバッキオのはずがなかった。何を期待してるんだろう、私──
 断ったのは自分なのに、一日あの人の足音を聞かなかっただけで、無性に悲しくて仕方がなかった。一日。たったの一日だけで。


 元々アバッキオは、決まった日もなくふらりと立ち寄っては、気分でエスプレッソだけか、軽食も取るかを決めているような客だった。こうして毎日店に通うようになったのは、私がそうしてくれるように頼み込んだからだ。私にとっては通い始めの客で、決して何か頼み事ができるような、気軽な間柄ではなかった。
「はい、今日はアラビアータ」
 熱々のペンネの皿を出すと、ほんのちょっぴり嬉しそうな顔をするアバッキオが好きだった。何を出してもそうだった。特別好物でもなさそうだけれど、出来たての湯気の立つ料理を見ると、僅かに顔が和らぐ。アバッキオ自身も、もしかしたらそれには気づいていないのかもしれない。だからこれは、私だけの特別な瞬間だった。
「いつも悪いな」
「それは私の台詞です」
 トレーを下げて、他の客がいないのを確認してから、向かえ側の椅子に腰を下ろす。私が座るのを確認してから、アバッキオはフォークを手にとってペンネを食べ始めた。
「最近は来ないか?」
「ええ……」
 歯切れの悪い声が出た。不安な様子を受け取ったのか、アバッキオは「心配するこたねぇよ」と慰めるように言う。私はそれにますます眉を下げるしかなかった。

 4ヶ月ほど前、この辺りでは見かけない青年達が店を荒し回るという事件が頻発していた。古くからの住宅地が並ぶ区画で、住民向けの個人商店ばかりだったから、観光客も少なく狙いやすかったのだろう。それは一人で切り盛りしている私の店も、例外ではなかった。
 朝から昼まで開店をして、一度店を閉めてから酒屋にワインなどの常連客の銘柄を買い出しに行き、日が暮れてから再度店を開ける。決して忙しい店ではないけれど、生活はそれなりに保てている、こじんまりとしたバールだ。
「なああんた、この店一人でやってんのか?」
 その青年が話しかけてきたのは、もうすぐ店仕舞をしようかという頃だった。ドアを開けて、店内を物色するように眺め回してから後ろ手に閉めると、入口近くへ並べていたペットボトルやコーラ、チョコレートなんかをしげしげと見て、のんびりとレジへ歩み寄ってきた。そうしてカウンターへだらしなく凭れ掛かりながら、冒頭の一言を尋ねたのだ。
 軽薄な笑みを浮かべながら、ちらりと戸口を窺ったので、それを目で追えば、ドアの外には他にも3、4人の同じくらいの歳と見える青年達の姿が暗がりに立っていた。
「ちょっと何か食わしてくれよ」
 店内に客は二人しかいなかった。棚や柱の影に隠れていて、青年には見えなかったのかもしれない。店を荒らされた騒ぎは誰もが耳にしていたし、抵抗して酷い殴り方をされたことも聞いていた。人数で勝るチンピラを相手に、ことを荒立てようとは思わないだろう。
 私は「これきりならいいでしょう」と言って、青年をカウンターに立たせたが、彼は外の仲間も全員入れろと言う。いよいよ剣呑になってきた、と思った。彼らを入れれば酒を出せと言われるだろうし、酒を出せばいつまで居座るかわからない。二人の客も見つかったとしても、通報する恐れのある内は帰してはくれないだろう。
 渋る気持ちを抑えながらどう返すべきか迷っていると、青年はカウンターから乗り出すようにして私へ身を寄せると、
「支払いはするからさぁ」
と笑いを含んだねっとりとした口調で囁いて、キャッシャーに置いていた私の指を悪戯になぞった。ぞっとして慌てて手を引く。指先に虫でもくっついているかのように、いつまでもなぞられた嫌悪感が張り付いていた。私の様子に、青年はおもちゃを見つけたようにケタケタと笑っていた。ここまではっきりとした悪寒を感じたのは、人生で初めてのことだった。私はそうされてようやく、自分が彼らに暴行を受けるかもしれない可能性を感じたのだ。のんびりとご飯など奢っている場合じゃなかった。
 唐突に、舌打ちが耳に届いた。青年と一緒に、その方向へ目を向ける。そうして、驚いたことが起こった。
 店の一番奥の窓際に座っていた客の一人が、カランと音を立てて皿にフォークを置いた。食事中だった男性は椅子を鳴らして立ち上がると、何も言わずに青年へ近寄り、表へ蹴り出したのだ。それが、アバッキオだった。コーヒーの話をして以降も、彼とは会話というものはなかったので、静かな男からは想像もつかない行動だった。
「何すんだてめぇ……!」
 通りに屯していた他の青年達は唖然とその様子を見守っていた。路上に倒れ込んだ青年の一人が叫ぶと、男は重ねるようにして、
「黙ってられねぇなら、一人ずつブチのめして、全員警察に突き出すぞッ!」
と怒鳴りつけた。その剣幕は、いつも静かにエスプレッソを飲んで去っていく彼とは、まるで別人のようだった。
 食事を邪魔された怒りなのだろうか。それとも彼らの悪行への苛立ちなのだろうか。そのどちらかは分からないけれど、駆け去っていった青年達を舌打ちをしながらしばらく睨みつけていたその人は、彼らの背が路地に消えるのを見届けると、後ろを振り返って、呆然と立ち竦む私と、椅子の上で腰を抜かしたように動けないでいるもう一人の客に気づいた。それを目にして、自分が明らかにこの場で浮いてしまった空気を読みとったらしい。一度口を引き結んでから、居心地悪そうに私へ向かって、「悪い、支払いを」と呟いた。
「待ってください」
 気づけば私は叫ぶように引き止めていた。
「暫く、来てくれませんか」
 その人はいつも相変わらず無口で、エスプレッソを飲んですぐに帰ったり、たまに軽食を取ったりしても会話をすることはなかった。来店時に挨拶程度、交わすようになったそれだけの仲だ。私の提案は、常識的とは言えなかった。
「食事を奢りますから……! ご迷惑だと分かっていますが、騒ぎが収まるまでしばらくの間だけでいいんです……!」
 当然のことだと思う。アバッキオは唐突な依頼に顔を顰めて、「何で俺が……」と否定をしたけれど、いつまた彼らが報復にでも戻って来はしないかと、何度も路地へ目をやる私に、自分にも責任の一端があることを感じたのかもしれない。
「……ワインも出るなら」
と一言呟いて、言ってしまったことを悔やむように口を曲げた。
 それからずっとだ。忘れたっていいし、店を替えたっていい。一日くらいすっぽかすことだって、仕方がないだろう。けれど彼は自分の言葉通り、毎日欠かさずこの店のドアを開けた。
 アバッキオの好きな白ワインの銘柄を、彼だけのために酒屋から買い付けて店に置くと、私は自分でもよくわからない気持ちが湧き上がって、顔を手で覆ってしまいたくなる。店のドアを開けて、思いっきり叫んでしまいたくなる。昔から思いつきで行動するたちだったので、その時はこの不可解な想いを深くは考えなかった。でも、ずっと気づかないでいられるわけがなかったのだ。

 あの時私が言い淀んだのは、あのチンピラが怖いからではない。最初の内は店の外をうろついていた彼らは、飽きでもしたのか、或いは他のやりやすい商店を見つけでもしたのか、もうひと月以上来ていない。
 もう大丈夫なのだと、言い出せないのだ。アバッキオに「何もなかったか?」と聞かれる度に罪悪感が込み上げるのに、彼の食べる姿を見ると、少し猫背気味の背中がドアから出ていく様子を見届けると、また明日だけでもという気持ちになってしまうのだ。
 そうしてもやついた気持ちのまま日々を送る内に、感じたことがあった。言い出せない理由は、もう一つあった。
 アバッキオも多分、気づいている。もうあの青年達がここへ来ないということを、分かっている。分かっていてこの店へ通っているのだ。それは、タダ飯を食べるためじゃなくて、口実なのだと思う。ここへ通うための。この席に座るための。
 自惚れじゃなくて多分、きっと、私のために、この人は通っている。

 アバッキオは長い前髪を耳に掛けると、あとは髪のことなど気にせず、目の前のアラビアータを頬張っている。荒い口調をするけれど、決して汚い食べ方はしない。一口が大きく、皿に盛り付けたペンネは見る見るうちに減っていく。見かけによらず男らしい食べ方をする人だと知った時から、私はこの人のことを知らない自分を、歯がゆく思うようになった。どんなつまらないことでも、些細なことを、もっと知りたくてたまらなかった。何をよく食べるのか、どんな服を好むのか、いきつけのピッツェリアや休日の過ごし方、そして、好きな人はいるのか、とか。
 食べる様子をぼうっと見つめていると、咀嚼している彼とふと目が合って、私は思わず顔を伏せる。そうしてから、今の挙動は不自然だったことに気づいた。恥ずかしくなって、じわじわと顔面いっぱいに熱が集まる。誤魔化さなければ、と微笑を浮かべながらもう一度アバッキオへ向くと、彼は咳払いをして皿に目を戻した。こそばゆい感覚が巻き付くように体を痺れさせた。頬に手を当てて熱を冷ます。アバッキオは素っ気ないのかもしれない。でもそういうところも、私は嫌いじゃなかった。
 だって私はこの人がどんな顔をしてアラビアータを食べるのか、知ってしまっている。どんな風に笑って、そのあとほんの少しだけ苛立った顔をするのも。そして多分、この人の恋の仕方も。
 でも重要なことは何一つとして知らなかった。訛りで生まれは分かるけれど、彼の家族のことも、今何をしているのかも、彼の不器用な優しさ以外は何にも。


 20分が経った。幾度も乗用車は通り過ぎるけれど、バスが来る気配はない。この通りの日は完全に落ちて、昼の空気はとうに暗がりの中で冷え冷えとした寒さに変わっている。10月のこの時期は、昼夜の気温の変化を感じやすい。カーディガンでも持ってくるべきだった。もう少し待って来なければ、近くのバールで電話を借りて、タクシーを呼ぼう。何より、家の近くの夜道は、まだ怖い。
 日照時間だけ営業して、この時期だけ夜は止めればいい、とアバッキオは勧めたけれど、店のやり方はなるべく変えたいとは思わなかった。父から店を貰い受けた時、私はそういう風に決めたのだった。


 私の頼みを渋々承諾して、店に半ば用心棒として通い始めた頃、アバッキオがこのバールのことを尋ねてきたことがあった。自分が巻き込まれた店のことなのだから、しっかり知っておきたいだろうと思って、私も聞かれれば全てのことに答えるつもりだった。
「大事な店なのか?」
 この店のことを知るのに、彼はそんな言葉を選んだ。食事を終えたアバッキオは、目を伏せてワイングラスの縁を見つめながら、手持ち無沙汰にゆるゆるとなぞっている。
 私は予想を外れた質問に、返答に困ってしまった。分からなかった。考えたこともなかったのだ。私はこの店を、どう受け止めているのだろう。改めて聞かれると、自分のことなのに、明確な言葉に表すことはできなかった。

 父が病を患って引退すると言った時、私は高校を卒業したばかりだった。母は店を畳んで郊外に家を移すことを望んでいた。私は就職先が決まっていたし、父は弱りきっていたから、小さなぶどう畑でも眺めながら自然の中で父と余生を過ごしたいと思っていたのかもしれない。母はここでは珍しいキャリアウーマンだったから貯蓄もあって、土地を買い付けるのに困りはしない。幸い、知人が破格の値で売り出している小さな敷地があった。あとは父が頷けばいいだけだった。
 しかし父は母と私の予想を裏腹に、店を売りに出さなかった。もう既に常連には無料で最後の一杯を振る舞ったし、不動産屋にも話をつけていた。けれど父は、看板を下ろさなかった。生きている内は、せめて店構えは見ていたのだと、静かながらも、しがみつくような言い方をした。今までに一度も見たことのない顔をした、父がそこにはいた。

 私は決まった会社に勤め、母も結局土地を買った。階下がバールの小さな二階建ての家よりも、新しく引っ越した家の方が父の療養には適していたからだ。
 仕事の合間を縫って、母から頼まれた用事を片付けに久々に旧家に帰った日、私は思いもよらずバールの窓ガラスに目が吸いつけられた。朝になると父が店の前を箒で掃き、顔が映るほどに毎日磨いていた店名のプリントを施したガラスは、たったの数ヶ月で埃に覆われ、蜘蛛がところどころに巣を張っていて、以前の面影はまるでなかった。寂れた裏路地の、無遠慮にチラシが貼り重ねられた汚い商店のように、そこに生きた面影はなかったのだ。
 売りに出そうと勧めた時の、嫌だと言った父の顔が重なった。生きている内、と言った。それじゃあいつかは。そうだ、死んでしまう。カレンダーの日付を一日一日消していくように、私の父は目に見える速度で、死んでしまうのだ。
 埃まみれの窓ガラスに、蒼白な自分の顔が見えた気がした。今まで考えないようにしていたことが、不意に悲しみとして襲いかかってきた。これまで気にかけもしなかったことが、急に切羽詰ったように頭の中をかき回した。カウンターに座って父と食べたジェラートや、マシーンからカップにこぼれ落ちるエスプレッソの音、フィルターに豆を計る時の乾いた香ばしい匂い、パニーニを出す時の父の武骨な手と、テーブルを微かに叩くお皿の音。店の薄暗い照明。エスプレッソを飲んでは足早に去っていく、常連の靴の音。床の傷や、顔のように見える染み。そんな何とも思わなかった今までの私の生活が、体中を駆け回った。その時にはもう、居ても立ってもいられなくなっていた。
 気づけば私は、母のことも仕事のことも忘れて、窓ガラスを一心不乱に拭いていた。少し掠れた店の文字の合間に、ようやく見えたネアポリスの突き抜けるような青い空と自分の顔を捉えた瞬間に、どこかほっとした。これでいいと思った。
 仕事を辞めると父に告げると、切なげに目を細めて、父は私を抱き寄せた。
「ありがとう」
と父が言った。そして、すまない、とも。父の腕はあたたかくて力強かった。父と抱き合ったのは、いつ振りなのか思い出せなかった。どうしてか鼻の奥がつんとして、息を大袈裟に吸い込みながらまた、これでいい、と私は思った。

 大事な店。アバッキオの言葉は私の頭をぐるぐると周回したあと、不思議なくらいすっきりと私の胸に落ち着いた。
「そうなのかもしれません」
 私は、はっとしたようにアバッキオへ返した。
「あ?」
 判然としない私の言い様に、アバッキオはそっと眉を寄せて、ワイングラスから私へ視線を向けた。
「大事なのかもしれません」
 アバッキオは無言で私の言葉の裏にある感情を読み取ろうとしていたようだけれど、それも敵わないとなると諦めたように、「はっきりしねぇな」と呟いた。
 昔から、自分の気持を深く考えたことはなかった。難しく考えると、つまらないことでも不幸の種に思えてくるからだ。できる限り感情を優先した。だけど、目の前の人に言われてようやく気づいた。私はこの店を残したいのだと思っていた。父と、ここの住人ばかりの常連が集うこの店を、守りたいのかもしれないと思っていた。
 でも、違ったのだ。私が守りたかったのは父だった。父に死んでは欲しくなかった。この店にずっといてほしかった。私が辛い時に何も言わずにエスプレッソを出して、母と一緒に慰めてくれるそんな父が、好きでたまらなかった。ただ、それだけだったのだ。
 その父ももう、意識はない。寝たきりとなって、腕へ辿って落とされる点滴の雫を見つめるだけの日々だ。それでも生きている。絶対だと思っていた父の瞳に混じった、あの時の懇願するような皺を忘れることはできない。それを目にした時に胸に走った衝撃も全て、私を理由もなく突き動かしていて、そして今、私は自分がどうしようもないくらい孤独なことにも、気づいてしまった。
 店を持つ私とは違って、介護を終えた母は父に対する悲しみで暫く立ち直れないだろう。どこか旅に出ようかと、言っていたこともあった。私もいつまでも両親を頼りにしてはいられなかった。でも、それならこの先私は、唐突に襲いかかる寂しさをどうやって紛らわせていくのだろう。この店に立つ度に感じる違和感を、どう拭っていけばいいのだろう。私はもうすぐ、一人になってしまう。
「……おい、どうした」
 少し戸惑いを含んだアバッキオの声で我に返ると、ぼたりと手の甲に水滴が落ちた。目に一杯の涙を溜めていたのを、この時になって私は気づいた。自分が泣いていたのだ、と思うと、何故か一層悲しくなって、どこから湧き出てくるかもわからない強烈な熱が、顔に持ち上がってくる。目の奥からは次から次へと涙が溢れてきた。
「何でも、ありません……」
「いや、何でもねぇって顔じゃあねぇだろうが……」
 その通りだ。世間話をしていたはずが、どうして食事中に目の前で女に泣かれなければならないのか、彼は困惑も極まっているだろう。私は腰に下げていた布巾を顔に当てて、できるだけ笑いながら言った。
「きっと……お腹が空いたんです」
 自分が口にしたアホっぽい言い訳が間抜けでたまらないのに、目頭から流れ落ちてくる涙は一向に止まりそうにない。泣きながら笑っているくらいなら、泣き止んでしまえばいいのに、自分の意思ではどうすることもできなかった。
 アバッキオがため息をつく気配がした。頭をかく音。しかし苛立っている様子はない。降りてきたのは、彼の雰囲気には似つかわしくない言葉だった。
「飯でも作ってやろうか?」
 鼻が詰まって返事をしづらかったので、大袈裟に頷く。本気でも冗談でも良かった。気にかけてくれているらしい言葉に答えを返すので必死だった。
 アバッキオはその様子に何を思ったのだろうか。静かにもう一言を私へ投げかけた。
「……話も聞いた方がいいか?」
 胸がぎゅっと詰まる感覚がした。きっとこれは、いや恐らく先程のも、本当の言葉だと思ったからだ。
 私は俯いたまま笑って頷いたはずなのだけれど、突然掛けられた優しさに息をするのも苦しくなって、蹲るようにして嗚咽を抑えた。
 あたたかい気持ちが全身に広がって、それをこの人にも分け与えたいと思った。



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18/12/27 短編