02



 耐えられない涼しさではないけれど、このままでは風邪を引くと思い始めた頃になって、バスはやって来た。急いで乗り込んで、乗車券を刻印機に通してしまえば、30分ほどで帰れるだろう。ほっとして硬いシートに腰を下ろすと、すぐにバスは発車した。強い揺れに座席に捕まって耐える。別に渋滞をしているわけでも、スクーターが行き交っているわけでもないのに、荒っぽい運転で車内は揺れに揺れている。つい痛めた足を使って踏ん張ってしまって、休まる暇がない。
 アバッキオがこの様子を見たら、なんて言うのだろうか。
「だから言っただろうが」
 そうして、呆れた顔でため息でもつくのだろうか。私は、迎えに来てもらえば良かったのだろうか。昨夜、私がもしアバッキオの気遣いに頷いていたなら、何かが変わったのだろうか。
 時間を持て余すと、考えなくてもいいことを神妙に考えてしまうものだ。とりとめのないことばかりが思いついたように記憶の中から跳ね上がってきて、それをつい感傷的に思い悩んでしまう。自分の失態や、愛しい気持ちや、後悔とか、感謝が、互い違いにやって来て、その度に一喜一憂する。
 アバッキオはほとんど見ず知らずと言ってもいい私へ、どうしてこんなに親切にしてくれるのか、不思議でならなかった。普段の素っ気ない彼には結びつかない。どこか他人と距離を置いていたいような素振りさえあるのに、結局私へ付き合ってしまっている。本当は関わり合いにはなりたくなかったのかもしれない。でも、そばに居てくれている。一定の距離感をもっていても、私の見える場所にいてくれていた。何にも分からなくても、何にも知らなくても、私にとってアバッキオは特別な存在だった。
 憂いでもあるかのように陰りのある顔をする理由が、ずっと気になっていた。それはいつもの彼に一瞬だけ浮かぶ表情で、私の疑問を何度も刺激した。何をしていても、ふとした瞬間にアバッキオの苦しげな眉が脳裏をよぎって、放ってはおけないという気持ちにさせた。
 彼もまた孤独なのだろうか──なんとなく私はそう思って、アバッキオを見ていた。私は心のどこかで、アバッキオの見せる物悲しい雰囲気に、親近感を抱いていたのかもしれない。でも違っていた。あの日、好きだと伝えた時、アバッキオは気持ちを抑えるように、苦しげに口を閉ざした。答えてはならないのだと、自分に言い聞かせるような、苦悶の表情を浮かべて。
 私はどうしたらこの人に近づけるのだろう。どうしたらこの人の心に触れることができるのだろう。アバッキオは簡単に、私の寂しさを解いてくれたというのに。
 この人を好きになった。なってしまった。父と同じように諦めた顔をして、ふとした瞬間に寂しそうに眉を曇らせるこの人を、私はどうしたって放っておけなくなってしまった。いつもそうだ。何かに突き動かされる。多分それは親切心でも感傷といった情でもなくて、私にとっても大切なものだからなのだ。アバッキオがそれを教えてくれた。父が大事だったと私に気づかせたように、私にあたたかい気持ちをくれたように。

「好きです」
 言った時、アバッキオはどうしてか真っ青な顔をしていた。まるで苦渋の決意をするように何度も何度も口元をもごつかせて、それから漸く「悪い」とぽつりと呟いた。
 迷惑だとか、私への嫌悪でもなく、ここにはないものへの恐れを抱いた表情に、静かに当惑した。
「私が……お嫌いですか?」
 耳の中で、どきどきと冷たい音が鳴っていた。少しばかり不安だった問いかけに、アバッキオは即座に「いや」と首を振った。
「違う……ただ……」
 その先は、いくら待っても続くことはなかった。アバッキオはその日エスプレッソを飲むことなく席を立って、去り際に私の前に立つと、含みのある眼差しで私を見つめた。視線が混じり合う。そこにあったのは、決して無感情な目ではなかった。私の気持ちに窮した瞳でもなかった。それだけでとろけるような、甘い感情が浮かんでいたのだ。
 何もせずに店を出ていこうとする背中に、私は不安に駆られた。今度こそ、本当に今度こそ来なくなったらどうしよう。アバッキオに会えなくなったら、私は彼のために用意した棚の一角に並んだワインが、一向に減ることがないのを、毎日眺めながら過ごさなければならないのだろうか。そうしたらどうしよう。私はそれに、耐えられるのだろうか。
 自分でも、こんなに途方に暮れるとは思わなかった。泣きそうな感情だけが胸の内を掻き回して、顔を歪ませる。この店には、大事な人がもう一人いる。それは、恐れもせずに不良達を追い払ってくれた人で、嫌な顔をしても毎日約束を守ってくれた人でもあって、素っ気なくても、私が寂しい時に言葉をかけてくれた人で。たった一皿の食事で、ずっとそばにいてくれた人。ぼーっとしているような、こんな私を多分、好きになってくれた人。
 誰だっていいわけじゃない。私はこの人がよかった。この人が来てくれると思うと、父のために続けているのではなく、初めてここを自分の店なのだと思えた。アバッキオがいなければ、もう無理なのだ。私は忍び寄ってくる孤独に、耐えられる気がしない。
 慌ててアバッキオの背中を追いかけた。二三歩足を踏み出して、緊張で冷え切った手で自分のエプロンをぎゅっと握りしめる。
「明日も来てくれますよね……?」
 アバッキオは足を止めると、肩口に少しだけ顔を傾けた。表情は見えなかった。けれど、
「……ああ」
と小さく、しかしはっきりと私の耳に届くくらいの声で告げて、夜のしっとりとした石畳に靴音を響かせながら、闇に紛れていった。

 アバッキオへ言ってはいけない言葉というのがあるのだ──
 あの日のことを何度も繰り返し思い浮かべて、私はようやくそのことに気づいた。彼は孤独なのではなかった。彼自身が自分をそういう風にさせていた。できるだけ人に関わらないように。できるだけ近づかないように。心に触れられるのを、恐れている。

 バス停を通り過ぎんばかりのスピードで走るバスを、急いでベルを鳴らして停めて、片足で軽く飛び跳ねながら降りた。太ももの辺りに引き攣るような疲れを感じていた。毎日足を庇っていた疲労が、今になって押し寄せたのだろう。民家の石壁に寄りかかって、息をつく。
 ここから5分位歩けば、バールに帰ることができる。急な外階段を登るのは難儀だけれど、バス停に立っているよりはよっぽど楽なことのように思えた。
 路面駐車の列を眺めながら、一歩一歩ゆっくり踏みしめる。石壁から、フェンスへ、フェンスからまた石壁へ。時折帰宅途中の住人と挨拶を交わして、家のある狭い路地に入る。肩から下げたショルダーバッグにしがみつくようにして、また少し休憩をする。いつもは5分の距離が、とてつもなく長い。長い距離を歩いていたせいで、足の痛みをはっきりと感じるようになっていた。
「オイ」
 後ろから声をかけられて、胸が高鳴った。焦がれて仕方がない声だった。革靴の音が近づいてくる。痛みの中に沈殿していた意識が、急激な速度で浮かび上がってくるのを感じる。現金なくらいに、頬が色づくのがわかった。とくとくと脈だけが先走る。
 後ろを振り返って、私は情けない笑顔を作った。さっきまでの悲しい気持ちが嘘みたいに、幸せの絶頂を告げている。
「アバッキオ……」
 嬉しさを隠しきれない、満面の笑みを浮かべているのは自分でもわかっていた。頬が抑えられないのだ。アバッキオはそんな私に一瞬の戸惑いを浮かべたけれど、すぐに呆れ混じりに軽く息を吐いた。
「予想はしてた。おめーのことだから、バスを使ってくるんじゃないかってな」
 どうだった、とアバッキオは短く尋ねた。目の前に立たれると、この人のことは見上げなければならないので少し苦しい。壁にそっと凭れて、骨に異常はなかったことを伝えると、アバッキオは「そうか」と返した。そうして、疲れ切った私をまんじりと見つめている。重病人の体で歩いている私の格好が、気になったようだった。
「でも長く歩いてたら、疲れてきたみたいで」
 軸足の太ももを叩いて、照れ隠しに笑った。さっきまでずっと考えていた人にいざ出会えると、自分の興奮だけが場違いみたいに感じて、何をしても恥ずかしさで体が火照る。
 ったく。アバッキオはそう呟くと、私に背を向けてしゃがみ込んだ。
「オラ、さっさと乗れ」
 長いコートの裾が石畳を引きずっているのもお構いなしに、後ろ手に私を促した。呆気にとられたあと、顔が唐辛子を口に含んだみたいに真っ赤になった。思考が飛んで、あわあわとアバッキオの後ろでたじろいだ。広い背中が、私に向けられている。私のためだけに、彼の背中が向けられているのだ。
 いつまで経っても動かないのにしびれを切らしたのか、アバッキオは尖った言い方で私を急かした。
「背負ってやるっつってんだよ」
 わからないはずがない。私はいざアバッキオの背中に乗ることを考えると、彼が急き立てるほど早くは体を預けられなかった。アバッキオはいいのだろうか。私は、私の好きでたまらない人に抱きつくことができる。住民に見つかるのがちょっと恥ずかしいだけで、何にも不満なんてないし、寧ろ嬉しさで動揺が落ち着いてくれないのだ。でも、アバッキオは? この人は大丈夫なのだろうか。こんなことをしたら、されたら、私はこの人を好きだという気持ちをどうしようもないほど暴走させてしまうだろう。きっと、抑えられなくなる。この人はそれを、受け入れてくれるのだろうか。
 不安と浮ついた気持ちでしどろもどろになりながら、言葉にならない声を上げていると、もたついている私に影が覆いかぶさった。体が傾いて、無理矢理に空中に放り出される感覚に、目を白黒とさせる。私の膝が視線の先に持ち上がっていて、裏にアバッキオの腕が差し込まれている。腰に回される、腕の感覚。腹部に添えられる、手の感触。
「掴まれ」
と言われて慌てて首に抱きつくと、いつも通りすがりに香るシャンプーの匂いがいっぱいに広がって、私の心臓は大きな音を立てた。息が苦しい。脈拍に呼吸が追いついていない気がする。
 恐る恐る視線を上げると、数センチ上にあったアバッキオの目がちらりと私を見て、すぐに逸らされた。目を見開いたまま、私はアバッキオの首筋に視線を戻す。私を抱え直す時に漏れる微かなアバッキオの声が、耳元すぐ近くに聞こえて、私はおかしなことに、泣きそうになった。がっしりとした腕は、思ってもみなかった逞しさで私を抱えあげている。この人は男の人なのだ。わかっていたつもりのことを、心から認識させられる。
 アバッキオは無言で歩き始めた。彼の体の振動が直に伝わって、身を固くしながらしがみついた。アバッキオの胸に添えた私の手は、きっと血流を失って冷たくなっている。腰を抱くこの人の手が身じろぎをする度に、私は羞恥も忘れてアバッキオの胸に顔を埋めたくなった。もうどうにもできない。昨日私が引いた線を、まさかこの人が越えてくるとは思わなかった。
 何を考えてるんだろう、この人。一体、どうしたいんだろう。不可解なのに、嬉しくて仕方がない。
「もう二度と言いません……だから、」
 好きです。私は囁くように言った。息と一緒に漏れるように。アバッキオの胸に少しでも届くように。ひっそりと。
「俺を信じるな」
 馬鹿みたいだと思った。この人の言うことは矛盾している。全部、矛盾している。信じていなかったら、こんな不安な体勢で、黙って抱き上げられているわけがなかった。体を預けるわけがないのだ。
 いつも見上げているアバッキオの顔は、近くで見るのではまた違っていた。何を考えているのかわからない表情は、やはりどこか憂いを帯びていたけれど、苛立ってはいなかった。
 視線を感じたアバッキオが、ちらりと私を見た。どきりとして、今度は私が目を逸した。


 私を抱えていても、大股のアバッキオはすぐに家までの距離を歩ききった。階段を登って、玄関口の前で降ろされる。名残惜しくて、地面に足をつける間際、私はアバッキオの首にギュッとしがみついて身を離した。アバッキオはほんの少し動きを止めたけれど、何事もなかったかのように屈んでいた姿勢を戻した。
 ありがとうございます、と私が言うと、アバッキオは軽く返事をして「じゃあな」と言った。それきりで、すぐに階段を降りていこうとする。
 用事があるのだろうか、と思ったけれど、そんなはずはなかった。それなら私を心配して、様子を見に来るはずなんてなかった。
 思わずコートの裾を掴んだ。引っ張られる感覚に、アバッキオはその元を辿って私の手に目を遣ると、無言で私へ顔を向ける。裾をつまんだまま、私は鍵を回して家のドアを開いた。その間も、アバッキオは立ち去ることなく私の背後に立っていた。
 そのまま、家の中に引き入れる。アバッキオは少し迷ったようだったけれど、何も言わずに黙ってドアをくぐった。
「お茶でも淹れます」
 気まずい空気だった。今にでも帰ってしまうんじゃないかという気がして、私はまだアバッキオの服を掴んだままでいる。自分のしたことにいたたまれなくなって、背を向けて返事を待つ。
 耳を澄ませるけれど、アバッキオは何を考えているのか、いつまで経っても声が返ってこない。
 おずおずと肩越しにアバッキオの方を振り返った。男の腰ベルトが視界に入り、さっきまで私を抱き上げていた腕を辿る。視線を彷徨わせながらもぎこちなく見上げていくと、すっと影が下りて、唇をゆっくりと食まれる感触がした。

 薄く瞑っていた目を開いて、アバッキオを見る。困惑しきった男の目があった。
「碌なもんじゃねぇぞ」
 至近距離で、そう囁く。
「責任なんざ取れねぇ」
 私はこの人の内側の矛盾に、衝撃を受けた。突き放すような言葉と裏腹に、私に触れた唇は優しかった。低い声に反して、私を見つめる顔には、父と同じ色が存在していた。
 胸が痛くなった。それと同時に、この人を離してはならないのだと思った。私を突き動かすこの衝動は、私の一生治すことのできない性なのかもしれなかった。
 眉を寄せて深刻に告げるその人に、なんて言えばいいのだろう。どんな言葉を選べば、この人はこんな顔をしないで済むのだろう。何も知らなくても、とにかく何かを言わなければならなかった。この人の望む言葉に、100%沿っていなくたっていい。彼が私にかけてくれたような、優しさのこもった感情が必要だった。
「この歳で、そんなこと考えて付き合う人なんて、いませんよ」
 私はどうしてこうも口下手なのだろう。でも、愛おしさを隠しはしなかった。伝わってほしいという気持ちも、苦しさに寄り添いたいという気持ちも、全部。
 アバッキオはまた難しい顔のまま口を閉ざすと、たっぷり時間を置いてから、
「茶でも貰おう」
と、決意したように言った。

 好き、という言葉は、この人を傷つけるらしい。私のちっぽけな胸にしまっておくには難しいこの想いは、口にして安堵してしまいたいのに、アバッキオを想えば想うほど、その衝動を引き止めなければならなくなる。
 家の小さなソファーは、私を挟んで父と母が並んで座れるように、私が生まれた時に買ったものだという。大柄なアバッキオと並んで座っても窮屈にはならない大きさで、どちらかというと、ちょっとスペースが余る。私はその余った幅を、少し憎らしく思った。
 羞恥心を一生懸命心の隅に押しやって、ソファーの距離を詰める。もぞもぞと隣で動く私を、紅茶を口に含みながら、何事かとアバッキオは様子をうかがっていたけれど、私が肩にそっともたれかかると、少しだけ体を強張らせる気配がした。でも、振り払われることはなかった。思い切って、アバッキオの膝の上へ手を乗せる。思わず出そうになる「好き」とか「幸せ」という言葉を飲み込んで、手のひらに込める。
 アバッキオはティーカップを置いて、私の手を上から包み込むように握った。大きな手だった。自分の手を生まれて初めて小さいと感じるほど、包容力のある大きな手だった。
 私は、いつまで我慢できるのだろう。この人を傷つける「好き」という一言を、溢れ返りそうな胸に精一杯押し戻していられるのだろう。今にでも、ふとした拍子に呟いてしまいそうだというのに。
 もしコーヒーのあの言葉が、溢れるコーヒーへの愛を表すのなら、私のこれはどう表せばいいのだろうか。決して表には出せない、夜のような暗闇の中に、静かに熱を持つこの気持ちを。

 いつから見つめ合っていたのだろうか。幸せの中に切ない気持ちが混ぜ合わさって、私は目を細める。アバッキオはいつもの彼とは違って、目を逸らしはしなかった。
 ソファーの背もたれにアバッキオが手をついて、体が僅かに沈むように傾く。腰を捻ったアバッキオは、ゆっくりと私へ顔を近づけた。覆い被さるような影が、巨躯が、焦れったいくらいの速度で。
 待ち焦がれた唇は、さっきより少しかさついていた。私がお茶を淹れる間に、何度か舐めたのかもしれなかった。
 私が口をそっと開けると、アバッキオは意図を測るように僅かに舌で入り口をなぞった。ぬめりを帯びた熱が、柔らかな空間へ割入るようにして差し込まれる。ささやかな水音が漏れて、私の心臓はこれ以上追いつけないほどに鼓動を早めた。体が痺れて、上手く動かない。生ぬるい吐息が頬や鼻を掠める度に、アバッキオの温度に、動きに、新たな一面を見つけたように驚きを感じる。
 アバッキオは熱情を孕んだ目をしていた。普段密やかな怒りと虚無を抱えて、それ以外の感情を抑えようとする人の、静かな欲求の存在に私は驚いた。甘やかな衝撃だった。
 荒くなった息を整えていると、アバッキオが苦しげに呟いた。
「おめーは間違ってる」
 まるで最後の忠告とでも言いたげだった。自分から離れて行かないくせに、私の意思で離れさせようとする。傷つきたいとでもいうように、いつでも自分を嫌わせようとする。染み付いた思考なのだろうか。厄介な人だった。本当に、面倒で厄介な人。
 けれどこの人は、私が寂しい時にそばにいてくれた。静かにただそこにいてくれた。コーヒーの話をしてくれて、泣きたい時に、つまみ程度でも料理を作ってくれた。話を聞くと言ってくれた。暴漢を追い払って、面倒そうにしながらも、毎日店に顔を出してくれた。今日は来ないと言ったのに、迎えに来てくれた。それ以外のことはなくても、そんなことをしてくれる人は、この人以外にいない。たとえばネアポリス中を探して、私の望むことを全部してくれる人がいたとして、その人は今ここにいない。今、私と一緒にいてくれはしないのだ。
 このどうしようもないほど悲しい目をする人が、私の手を温めて、抱えあげてくれる。戸惑いながら私を好いてくれている、たった一人の人なのだ。

「間違ってません」
 私は情けなく笑いながら何度も繰り返した。だったらなんだというのだろう。たとえ間違っていたって私の人生だ。誰を好きになるかは、私が決める。そばにいたい人は、私が決めたいのだ。
 アバッキオは眉を寄せて黙りこくって、そう零した私の声を聞いた。私は喘ぐように続く言葉を出すべきか迷った。好き。そう言いかけた私を、アバッキオは遮るように抱き寄せた。唐突な抱擁には、力がこもっていた。
 俺は。アバッキオのため息のような声が、掠れて今にも消えそうな程小さな振動が、私の鼓膜を優しく揺らした。
「お前が……」
 背中に回された腕が、力を強めた。腰に大きな手が食い込む。それ以上の言葉はアバッキオの口からは続かなかった。
「私もですよ」と言いたいのに、私の唇は震えて上手く声に出せなかった。アバッキオの腕だけで、十分すぎるほどに伝わってきたからだ。
 私はソファーに乗り上げて、少し高いアバッキオの肩へ手を添えて、唇を押し付けた。何度も何度も、子供にするように、愛おしさを隠さないように、一つ一つ大事にキスを落とす。アバッキオは姿勢を変え、私の後頭部を支えながら噛み付くように激しい口付けを絡ませた。それなのに、私が嫌がらないのを何度も確認するように舌の動きを緩める。責任がないなんて嘘っぱちだ。酷い人は、こんな風にキスをしない。それをこの人は、わかっていない。
 私はアバッキオの胸を押し返して、唾液を飲み込んだ。呼吸が整わなくて、声が切れ切れになる。でも今伝えなければならなかった。アバッキオは息を荒げたまま、熱を孕んだ難しい顔をして、呆然と私を見ている。
「世の中に一人くらい、あなたのそばに、いてもいいと思う人間が、いていいと思うんです」
 一人くらい。私は大きく息を吸い込んで、声がかき消えないように喉を震わせた。
「あなたが私にしてくれたように、私もそばにいたいんです」

「ハッ」と、短い笑いの音が落ちた。アバッキオは助けを求めるような、苦しげな笑いを無理矢理に零して、意外なくらい無骨な右手で私の頬を包むと、無言のまま親指で唇を拭った。指の腹に、アバッキオの唇と同じ色が肌に溶け込むように伸びていた。アバッキオはそれを見るでもなく、頬に添えている右手に柔らかく擦りつけながら、私に静かに視線を寄せたままでいる。
 薄く。気づかないほど本当に薄っすらと、アバッキオの目尻が緩んだ。あたたかな空気の流れが、私の額をそっと掠める。
「おめーにゃ、似合わねぇなぁ」
 そう呟いたアバッキオのまなじりに、声色に、私は胸の中でくすぶる想いを、飛び出さないように抱え込むしかなかった。この人は、自分がこんなに優しい目をすることを知っているのだろうか。こんなに甘ったるい声を出せることに、気づいているのだろうか。今、こんなにも私が泣きそうなのも、全部。
 私はいびつに笑うしかなかった。アバッキオと同じようなぎこちない笑い顔で、絡み合って解けないこの困った感情を、表すしかなかった。
 アバッキオはそんな私の様子に、鼻を鳴らすように軽く笑うと、それ以上は何も言わず、また私の頭に手を回してそっと胸に抱き寄せた。開いた服のちょうど素肌に、ちょっぴり冷えた私の鼻がぶつかって、アバッキオが微かに身じろぐ。コロンをつけていない素のアバッキオの匂いがして、キスをするよりずっと、私の体は火照るように熱くなった。落ち着きかけていた呼吸が、また早まる気がする。
 おずおずと背中へ手を回してから、耐えきれずに腕に力を入れる。服をギュッと掴む。皺になるかもしれないと思ったけれど、アバッキオの服のことなんて、今は考えていられなかった。甘い気持ちと足りない思いが、カプチーノのように重なり合って、次第に一つの感情に溶けていく。
 アバッキオは私の頭に頬を寄せて、のんびりと髪を梳いている。込み上げる多幸感の行き先がなくて、膨れ上がった私の胸はきゅうきゅうと柔らかな悲鳴を上げた。安堵しているのに、脈が駆け足で体中を叩く。頬は熱でもあるかのように熱くなる。
 黙って私を抱え込んでいるこの腕を持つ人が、この瞬間に何を考えているのか知りたくてたまらなかった。エスプレッソを飲む時とも、青年達を追い払った時とも、アラビアータを食べる時とも、この部屋に入った時とも、違う顔をしているのだろうか。一体どんな目をして、私を抱いているのだろう。一度だけ、ほんの数秒だけでもいいから顔を上げてみたいと思った。でも、穏やかな手や、この肌の温度が、もし気まぐれで離れてしまったら。そう思うと、どうしても見上げる勇気は出てこない。狭い空間の中で、吐き出す自分の息とアバッキオの体温に熱を上げながら、結局私は、少しだけ息苦しいアバッキオの胸に包まれることを選んだ。
 耳を澄ませると、暗くてあたたかい腕の中では、やわらかな鼓動がとくとくと闇を駆けている。特別でもなんでもない音。一人の人間の音。他の誰とも、何一つとして変わらないふつうの人が、私の気持ちを覆うように抱きしめている。

 この人は一体何に苦しんでいるのだろうか。今の私にはまだ、わからない。
 でも、ずっと停滞したままの人間なんていない。いつかきっと歩き出す。歩き出さなければならないのだ。ゆっくりでも、僅かでも、一歩ずつ。私達が歩み寄れたように。アバッキオだって、そういう日がきっと来る。悩んでも苦しんでも、自分を貶めようとしても、自分の優しさから逃げ出せずにいるのだから。
 そしてその時になったら、私だって変わっているだろう。一緒に歩いて、できれば一緒に苦しんで、そうしてようやく、溜め込んだ想いを口にするのだ。
 アバッキオが屈託なく笑えた時、私もきっとなっている。アバッキオがくれる、薄い紫色の似合う女に、きっと。



|終
theme of 100/047/お客さん
18/12/28 短編