人の子ふたり

01



「やめて、やめてってば!」
 パシン、と乾いた音がして、衣服乱れた女性が部屋を飛び出し、よく磨かれたヒールをぐらつかせながら廊下を駆けていった。すれ違いざまに、ウッディ系のほんのりと甘い香りが揺らいで、いい匂いだと場違いなことを思う。突き当りの部屋からは、大抵似た香りの女性が飛び出してくる。
 綺麗なブロンドの靡く背中を見送りながら、奥の開かれっぱなしのドアへ歩み寄り、そっと中を窺った。
 もう夜の9時になるといった頃だった。日が落ちてから女性と連れ立って帰ってきた隣人に辟易として、暫く近くのバールで時間を潰していたのだけれど、そうするまでもなかったのかもしれないと、私はぼんやりと思った。越してきた時から変えていないのだろう、切れかけの照明が、頼りなく質素な部屋を照らしている。
 男はベッドに寄りかかり、脱力したように部屋の中央に足を投げ出していた。床には女性の忘れたネグリジェやストッキングが放り出されているのが見えた。余程慌てていたのだろう。持って帰る途中で抱えていたのを落としたのか、ベッドからドアまでの直線に点々と散乱している。
 先程の声から女に捨てられたらしい男は、気にした様子もなく、その上に腰を下ろしていた。スボンを履いたままの男の尻の下から、紫のレースのショーツがくしゃくしゃに丸まったまま、紐のような状態で顔を出している。壁掛けのアンティーク時計は、午前を指したまま動いていない。
 不意に男の口元から紫煙が上がった。ゆるりと男の顔面を横切って、窓辺へ煙が流れていく。事に及ぼうというのに窓を全開にしていたらしい。
「またやったんですか……」
 躊躇ったものの、室内の惨状に思わず小さくため息が出た。私の呟きに、アバッキオは無表情に視線だけをこちらへ動かした。じりじりと灰の迫るフィルターを指に挟んだまま、無言でこちらを睨みつけている。
 私は足の重心を変えながらドアを二度ノックし、仕方なく「お邪魔します」と慇懃に住人へ許可を取った。
「勝手に入ってくるんじゃねぇよ」
 苛立ちを含んではいたけれど、静かな口調で男は私を嗜めた。一度煙草を吸ってから、取り込み中だっただろうが、と薄い白煙を吐き出しながら呟く。
「……もう終わってましたよ」
 行為のこともだが、関係もだろう。思ったことを胸に含みながら小さく零した声は、男の耳に届いてしまっていたらしい。アバッキオは暗い眉の下から鋭い目をこちらへ向けた。くゆる煙越しの眼光に怯みかけそうになるのを、ドア枠を掴んでぐっと堪える。
 たとえ傷心に浸っている最中だったとしても、男の言う通りにはしていられない理由が、私にはあった。女を連れ込んでは痴態を広げているアバッキオは、他の住人からも訝しげに見られ、避けられているような状態だ。元来が無口で、何を考えているのかもわからない男が、安いアパートで荒れた生活を送っていれば、誰も近寄らなくなるのが当然だろう。部屋の狭いアパートだけれど、子供がいる世帯だって勿論ある。知人からの頼みで男にここのアパートを紹介した以上、私には男の行動を見守る責任があった。
「ここの壁、かなり薄いんです。私が蹴っても空くと思うくらい……お願いですから、そんなに……」
 言葉に詰まった。唇を軽く舐めて、羞恥心を紛らわす。
「……セックスがしたいなら、他でやってくれませんか?」
 恋人との逢瀬を楽しむくらいならいいだろう。しかしここは売春宿ではないのだ。そういう気持ちを込めて諌める。他人の生活に口を出すのは、もの凄く勇気のいることだ。それもこの隣人の場合、知りたくもない性生活に関与しなければならない。私だって出来ることなら絶対に、こんなことには関わりたくはなかった。
 アバッキオは少し身を屈めながら腕を伸ばして、床に投げ捨ててあった灰皿を手繰り寄せ、長くなった灰を落とした。黄みがかった白熱球のおぼろげな明かりの中で、再び咥えられた煙草の火がじりじりと男の指へ迫る。ため息とともに白い煙が再び吐き出されると、窓へゆるりと漂っていった。
「宛てでもあるのか?」
 煙と一緒に吐いた気だるげな調子が、数秒して耳を震わせた。
「……はい?」
「条件を出すってことは、代価案があるってことだ……知り合いの女でも紹介してくれるのか?」
 唖然として返す言葉も浮かばず、私は男を凝視した。埃を被った吊り下げ式の照明は、男の顔に影を作り、一帯の空気を一層暗く見せた。その中に沈んでいたのは、感情の見えない目だった。怒りや悲しみさえもない。
「あんたが代わりになってくれるんなら別だがな……」
 最大の侮辱だ。私へ関わるなと言う代わりなのだろう。しかし嘲るはずの男の声には、やはり覇気はなかった。どこか空虚な言葉尻は、煙に混じって窓の外へ消えていくような響きがある。男の言葉が本心でないことは明らかだった。動揺が胸をさざなみのごとく流れていく。脅しに対しての恐怖はこれっぽっちも浮かびはしなかった。私の胸には不可解な言動を改めようとはしない男への、理解し難い思考に対する疑問だけが残った。
 つんざくような音の震えがアパートを覆った。どこかの部屋の赤ん坊が夜泣きを始めたらしい。それに呼応するように、外から犬の遠吠えが響く。向かえのアパートの部屋の明かりがパッとついて、夜が俄かに騒がしくなった。
 男は顔に影を落としたままだった。何も言わず戸口へ佇む私をチラリと見たきり、アバッキオは追い返すこともせず、ぼんやりとフィルター寸前の煙草をくゆらせている。


 女性の甲高い声。啜り泣くような声。くぐもった声。繰り広げられるそれら痴態の様相は、音だけで大体がわかってしまう。あの男が使っている安いベッドが軋むか、部屋には大きすぎるソファーか、或いは床か、シャワールームか。一体どれだけ連れ込めば気が済むのか、気づけばまた壁越しに女の声がしているのだ。そして、その殆どが中途半端に終わりを告げている。
 女性のため息や罵倒、戸惑いの声、無言で響く頬を打つ音がこう何度も続くと、私は怒りさえも忘れて、哀れみのため息を漏らすしかなかった。薄い壁越しに突如として聞こえた嬌声に息を潜めるのは、最初の一週間でやめてしまった。男はどれだけ愛想を尽かされようと、凝りもせずにまた女性を連れ込んでくる。気味の悪い隣人だった。

 どこか安いアパートを紹介してやってくれ、と私へ声をかけてきたのは、昔からの馴染みのバールの店主だった。老舗というよりも、ただ続いてしまったと言う方が正しいとさえ思える古びたバールだが、店主には人情味があった。貧富を問わず、誰の話でも辛抱強く聞き、本気で困っているようなら知り合いへ口利きもする。コーヒー一杯を飲むのさえ苦労していた時、くしゃくしゃになったリラ紙幣をポケットから取り出すと、受け取る代わりにチョコレートの包み紙を私の手のひらに握らせるような人だ。私も随分とお世話になった。
 繁忙期を終え、仕事の忙しさも一段落ついてから久々に店の戸をくぐると、よく磨かれたカウンターには香ばしい匂いを漂わせるエスプレッソが置いてあり、それを囲うようにして、やつれた銀髪の男が背を丸めて座っていた。お世辞にも、とても金がありそうには見えない。
 店主は今時珍しくソスペーゾの風習を好んでいた昔気質の人間だったので、きっとこの男にもタダでコーヒーをおすそ分けしていたところだったのだろう。
 私の顔を見るなり「安い部屋を知らないか?」と尋ねた店主へ、何も考えずにアパートの部屋が空いていると言ったのは、この店へ来ると自分の中にも良心があったことを思い出すからなのかもしれない。たとえ純粋な優しさが目を覆っていたのだとしても、銀髪の男の胡乱な空気を、当時の私はもう少し良く感じ取るべきだった。
 やつれた男は、快く仲介を請け負った私を一瞥したあと、体を重たげに立ち上がらせて歩み寄り、
「よろしく頼む」
と一言呟いた。舌を引きずったような、低くもったりとした掠れた声が記憶に残った。それに加えて、思いもよらない長身がぬっと目の前に現れたのである。一瞬圧倒されたものの、目の下にある隈に気づいて、何か苦労でもしたのだろうと、その時の私は男の暗い雰囲気に同情さえ浮かべていた。
 今思ってみれば、アバッキオの声には他人事のような響きがあった。何かに流されるまま、運良く居場所を見つけただけのような、静観している雰囲気が男にはあったのだ。
 その印象の通り、男は部屋を得ても変わり映えはなかった。決して自分から他人と歩み寄ろうとはしない。
 お礼は言われたものの、隣同士であっても私ともそれきりだった。苦情以外にしたアバッキオとのまともな会話は、大家に連絡をして部屋を紹介したあの時期だけだったのかもしれない。アバッキオは多数の女性を連れ込むものの、人を寄せ付けはしなかった。
 理解しがたい人種だった。あれからアバッキオはバールに立ち寄っていないのか、時折店主から様子を尋ねられても、まさか親切心で紹介した部屋を、頻繁に連れ込み宿にしているなどとは言えない。出来るだけ遠巻きにしていたいとは思うものの、なけなしの良心が働いて、関わらなければいいものを気にかけてしまう。しかし何か訳ありな様子がまた、これ以上男に関わることを足踏みさせた。
 これまで挨拶程度しかしていなかったとしても、男の素行を観察する限り、まっとうな生き方を選んでいるとは到底思えない。しかしあの時店主は、男のことを大丈夫だと言った。身元は保証するから安心しろと笑って、私へ部屋の取次を頼んだのだ。正直なところ、どこまでその言葉を信頼していいのか考えあぐねてしまう。
 仕事はしているようだった。アバッキオは朝から夕方までどこかへ出かけているようであったし、その時間もほとんど定時だ。しかし近頃になって急にいい身なりをするようになったのが、どうにも怪しかった。定職に就けたのかもしれないと想像はしてみても、男の表情はバールのカウンターで見かけたあの時のままだ。格段に生活の質が上がっているというのに、このアパートを出ることもなく、いつ見かけても眉の下に陰気を漂わせている。男の周りはいつか映画で見たミラノの冬の曇り空のように、いつも重たく暗い影が垂れ込めていた。人を不安にさせるには、それだけで充分だった。
 唯一救いだったのは、男は別段暴力を振るうとか、性犯罪に手を染めているとか、そういったわけではなさそうなことだ。ただ異常なほどに、女に振られているだけだった。だとしても、その不特定多数の女性をどこから引っ掛けてくるのかを考えると、薄ら寒い思いがしてくる。
 嫌な役目を背負ってしまった。廊下で暗い顔とすれ違うたび、女性が立ち去る音がするたびに、何度もそう思った。
 バールの店主がいくら保証しようとも、私にはアバッキオという隣人が、不気味でならなかった。


「もう二時間も歩いたよ」
 そんな声が聞こえたのは、もう昼になろうという頃だ。休日を睡眠に当てていたので、外から聞こえた一際大きなその声で目が覚めた。
 通りはそろそろプランツォで家に帰る人で賑わってくる。学校へ子供を迎えに出るのだろう母親らしき数人の会話が、何度か階段の方から聞こえては遠ざかっていった。
 二時間だよ。ベッドから起き上がり、窓からぶら下げたプランターに水をやろうと窓を開けた時、立ち話にしてはやけに大きな声が、また耳を打った。二階の部屋から通りを見下ろすと、斜め向かえの道路脇で、老齢の男性が声を張り上げていた。10メートルは離れているが、一字一句漏らさずよく聞こえてくる。特に怒っているといったわけではなく、どちらかというと弱りきった様子だった。
 もしかすると耳が悪いのかもしれない。相手も耳が遠ければ、暫くは見知らぬ老人たちの報告会をラジオにして、昼を過ごすことになりそうだ。そう思って、何気なく話し相手へ目を向けて、私はジョウロを階下に落としかけた。水滴がいくらかこぼれ落ちたけれど、幸い通行人はなく、ほっと胸を撫で下ろす。
 アバッキオだった。老人の前に立っていたのは、アバッキオだったのだ。伸びきった銀髪を昇りきった正午の日の光に反射させ、老人の大声にも負けず立っている。
 朝と晩以外に、男の姿を見かけるのは珍しかった。いつもと変わらない姿なので、どこかに出かける途中だったのだろう。アバッキオはどこか必死な老人とは反対に、体の向きが相手から斜めに逸れている。遠目でも、早く立ち去りたいという男の感情が見てとれた。顔つきも厳しく、眉間に皺が寄ると、元々暗い顔がより一層険悪になる。大丈夫だろうか、と不安になった。
 私が心配するその間も老人は、アバッキオが静かなので、止まることなく話を続けている。他県の訛りはあるがよく通る声なので、老人の置かれた状況と必死な理由が私にも理解できた。
 要約すると、どうやらこういうことらしい。
 ペーザロから孫の顔を見に来たのだが、娘が引っ越したばかりで住所がどの場所だかわからない。携帯を忘れてきてしまったので娘に連絡のしようもなく、ここら辺だと思って人に聞いても、見当違いなところを教えられて、誰に聞いても別の場所へ行かされる。そうして歩き回っていたら、二時間が経ってしまっていた。もう足腰も痛くて、とてもじゃないが歩けない。だからせめてタクシーを呼んでくれないか。
 そんな内容のことを、愚痴や弱音、そして娘や孫の惚気を交えながら、約20分ほどかけて老人は語った。タクシーの単語が出てくるまで途轍もなく長い時間がかかったので、その間に私はパンを焼いたりコーヒーを淹れたりして、腹ごしらえを済ませてしまったほどだ。男は頼りにならなそうだったので、いつでも出て行けるようにしておきたかった。バターを塗ったパンを咥え、火傷しないように水増ししたコーヒーを啜り、軽く着替えをしながら、何度も窓の外の様子を窺う。
 意外なことに、アバッキオは20分という長話を辛抱強く聞いていた。脱線に脱線を重ねる話を、初めは軌道に戻そうとしていたが、老人の難聴ではアバッキオの声は拾われることはなく、やがて結論が出るまで口を挟むことはなくなった。
 斜めに向けられていた体はいつの間にか老人の方へ向き直っていて、とても今から立ち去るようには見えない。1日の中で一番暑い時間だ。日照りは男の黒服ではさぞ暑いだろう。それでも男は、時折汗を抑えているのか額に手を当てるだけで、立ち去ることはなかった。歯を磨きながら外を覗き込んでいた私は、こうして私が準備する必要はないのではないか、とその時になって思った。
 タクシー。その単語が出たあと、アバッキオは何やら老人の耳元に口を寄せて話していたようだった。声は聞こえないが、表情から少なくとも苛々していることがわかる。軽い身振り手振りが続くと、「ああ、これかな」と言って、老人は小さな紙をポケットから取り出した。その声も大きい。
 出てきたのは、折りたたまれた封筒だった。それがアバッキオの手に渡ると、男は少し思案した顔つきになった。じっとそれを見守っていると、アバッキオはふと合点がいったように顔を上げた。そして老人に何か話しているが、やはり聞こえていない。
「一本間違えてるんだ」
 私は突然聞こえた大声に、また歯ブラシを落としかけた。両手で抑えて、二人の方を見る。老人ではなく、アバッキオの声だった。こんな風に声を張り上げる男を初めて見た。何せ掠れた声の印象しかなかったのだ。張りのあるはっきりとした音も出せるのだと、暫く驚愕して歯を磨いていたことを忘れていたほどだ。
「はあ?」
「だから、一本、道を間違えてるんだよ、あんたは」
「ごめんなぁ、耳が遠くて……」
「隣の道を、まっすぐ行きゃあ、着くぜ」
 アバッキオは方角を指さして説明していたが、この辺りの地理に疎い老人は理解できていないようだった。埒があかないと分かると、アバッキオは話すのをやめ、頭を抑えた。諦めたようにため息をつく。そうして老人の前に背を向けて屈み込む。乗れといったように、肩越しに自分の背中を叩くと、老人は流石にアバッキオの意図することがわかったようで、「いやいや悪いよ」と手を振っていたが、頑として動かないアバッキオに負けて、最後にはおずおずと広い背中へ体を預けた。
 アバッキオは人一人の体重をものともしていないようだった。軽々と立ち上がると、聞こえていないのを知りながら何か一言声をかけ、老人を背負って、角へ消えていった。


 その光景は、幾日経っても私の頭から離れていかなかった。
 あれは男のたった一つの面に過ぎないということは、わかっている。私がはっきりと思い浮かべられるのは、人付き合いもせず、無愛想で、非協力的で、女にだらしがなく、苦情を聞き入れない図太い性格をしている男の姿だ。けれど、男は老人を見捨てなかった。それも本当のことだったのだ。
 誰であったとしても、難聴で会話も成り立たず、一方的に話し続ける老人は面倒な存在だろう。アバッキオも他の大多数の人間と同じように、老人に適当な道案内をして誤魔化してもよかったのだ。それをせずに足が痛い腰が痛いと嘆く老人の話を最後まで聞き、送り届けまでするようなところも、間違いなく男の姿だった。常識のない、不気味で迷惑な男だけれど、普通の人間よりも優しさを持ち合わせていた。今まで私は、それを知りもしなかった。
 男の青白い顔を思い出す。骨格はしっかりしているが、どこか不健康そうな、ほっそりとした頬がやけに鮮明に思い浮かんだ。
 キッチンに立つと考え込んでしまう。横手に窓があるから、尚更だった。夜の暗い窓に、映るはずのないあの日の光景ちらつくのだ。
 フライパンに卵を流し込む。おかしな気持ちだった。不気味に見えていたはずの男を、少し知らなければならないような気がしたのだ。もう少し歩み寄るべきなのかもしれない。そう思った。男を無関心だと思っていたけれど、その実、私自身にも跳ね返ってくる言葉だった。

 部屋を出て、左隣のドアの前に立つ。中から物音はしなかった。アバッキオはいつも私より一、二時間ほど遅く帰ってくる。今夜も恐らく同じくらいの時間だろう。思って、ドアノブに手を伸ばす。
 あまり音を立てないように、取っ手にビニール袋を吊り下げると、心臓が静かに脈を速めた。タッパ3個分の重みが、ノブから下へ伸びる。
 ささやかなチェーナのお裾分けだった。私の食べたいものだけを詰め込んだ、簡易な手料理だ。鶏肉と野菜の炒め煮やポテトサラダ、レンズ豆と小麦のスープといった、大したことのないメニューだけれど、見栄えは悪くないだろう。
 手を離して、ドアノブにかかる重みを確かめる。ボロいアパートのドアノブでも、流石にこれくらいの重量には耐えてくれるようだった。
 アバッキオの部屋のある廊下の突き当たりには窓があり、月明かりが差し込む一番明るい場所だ。住民の誰かに見られでもしたら、噂が立ってしまう。周囲を見回して人目がないのを確認してから、私はそっと自分の部屋に戻った。
 キッチンにふらふらとした足取りで辿り着いて、シンクに手をついた。覚えず、緊張していたらしい。アバッキオは食べるだろうか、と思った。
 壁が薄いので、キッチンを使っている音は判別できる。男は引っ越してきてから、一度も料理をしてはいないようだった。全てを外食で済ませているとしたら、相当の食費がかかる。だからこのアパートから出ていかないのかもしれない。或いは、一日一食で済ませているのだろうか。以前より血色は良くなっても、バールで見た時のままのやつれた印象の顔が浮かぶ。食べても食べなくても構わないけれど、どうせならやはり口にしてほしいと思った。
 自分のした行動に半ば呆然としていたが、はっとして引き出しを漁った。ペンと紙を取り出し、急いで一言を書き添えて、また隣の部屋の前へ向かう。廊下に私以外の人影はなく、時折聞こえる生活音も他のドアの内側からだ。
 手の中の紙切れを今一度読み返す。
 良かったらどうぞ──
 淡白なその一言でも、あるのとないのではまた別だろう。ビニールを開いて紙を差し込むと、私はなるべく足音を立てないように自室へ引き返した。

 食事を終えた頃になって、階段の方から足音が聞こえた。ゆったりとした大きな歩幅の、重たい革靴の音が床を打つ。聞き覚えのあるそれに耳を澄ませると、足音はこの階を進み、私の部屋の前を通り過ぎた。
 アバッキオだ。アバッキオが帰ってきた。俄かに胸が騒ぎ出す。今夜は女性の話し声はしないので、どうやら一人のようだった。
 男が部屋の前へ辿り着くと、急に体がこわばって、私は戸口を見張る犬のように息を呑んで男の気配を探った。数秒間の静寂のあと、がさりとビニールを持ち上げる音が鳴った。中に何が入っているのか、見ているのだろう。暫くして鍵を回す小さな金属音がして、男の革靴の音が変わる。ソファーかベッドに鍵が投げ捨てられるような気配。それから、またビニールを開く音がした。
 それにしても、酷いアパートがあったものだと思う。隣接した部屋の音は、殆どが聞こえてしまうので、私のような女が住むにはそれ相応の覚悟が要る。大して盗むものもないのに、入りやすさから空き巣の被害だって多い。それでも安い賃料には変えられずここに住み続けてはいるのだけれど、初めて越してきた時は、とんでもないところへ住んでしまったものだと嘆いたものだ。アパートにつきものの、自称ミュージシャンがいないだけ、ここはまだマシなのかもしれない。
 右隣の住人は私が食事を取っている最中に一度帰ってきたものの、電話をしながらまたどこかへ出かけて行った。上の階は足音がしないので、今の時間帯だとテレビを見ている頃だろう。前に階段で鉢合わせた時に、テレビの音がうるさくないかと気にしていたので、どんな番組を見るのかも知っているのだ。下の階は夜遅くに戻るなり、シャワーを浴びてすぐに就寝しているようだった。今日は赤子の泣き声もなく、上階の方で、子供の笑い声が微かに聞こえる程度だ。だからアバッキオの物音は、たとえ意識しなくとも耳に入ってくる。
 しかしビニールからタッパを出したあとの動向は、音だけでは判別することはできなかった。男が誰とも知れない人間から差し入れられた食事を、果たして口にするのだろうか。そんな不安はあったけれど、直接渡したところで、男が受け取るとは到底思えなかった。特に、口うるさい私のような隣人から突然料理を手渡されても、訝しく思うだけだろう。
 想像を巡らせるだけ無駄なことだった。私は男と、まともに話をしたことがない。たまたま男の意外な一面を見かけただけで、何も知らないことには変わりなかった。
 何故か少し気落ちして、いつもならば絶対に思い出しもしない仕事のことを無理矢理に浮かべ、私は少し早くベッドに入った。左隣からは度々物音がするものの、何をしているのかはやはり分からなかった。

 翌朝、男が出かける物音がして、慌てて飛び起きる。男の唯一の長所は、目覚まし代わりになるところだ。遅れて私も仕事へ向かう準備をする。
 昨日のことは、あまり考えないに越したことはなかった。一種の気の迷いだと思えばいい。自分をそう宥めていないと、そわそわとして落ち着かなかった。
 支度をして部屋を出る。何気なく、と言い聞かせながら、誰に対するわけでもない言い訳を思い浮かべて男の部屋のドアを窺うと、ドアノブにビニール袋がぶら下げられていた。昨日と同じ、半透明のビニール袋。少し涼しい朝の空気の中で、時が止まったように感じた。
 浅く息をしながら、ゆっくりとドアの前に歩み寄り、ビニールを覗き込む。私が触れると、ビニール袋はゆらゆらと左右に揺らめいた。軽いタッパがあった。綺麗に洗われた、何も入っていないタッパだ。
 おそるおそるドアノブから持ち手を引き抜いて、また覗き見る。何も入っていない。何度見ても、空っぽのタッパ以外は、そこには入っていなかった。
「はは……」
 私は気が抜けたように笑いを零した。一人笑いなんて滅多にしたことがない。ましてや、声を出してまで笑ってしまうなんてことは。
 自室に戻って、小さなテーブルの上に袋を置いた。お礼もなく、美味しかったかどうかも分からない。でも、男は食べたのだ。洗われたピカピカの容器が、全部を物語っている。
 嬉しかった。これだけのことを、こんなに喜んでいるのを、私自身が一番驚いていた。私の押し付けがましいお節介が、認められたような気がしたのだ。私は、男と同じだった。人と関わっていなかったのは、私も同じだったのだ。予期していなかった喜びに触れて、そんなことを、唐突に気づかされる。
 今夜は何にしようか。不安に思って悶々としていたことなんてまるでなかったかのように、自然とそう考えていたことに苦笑する。迷惑ならば、二度とタッパは返ってこないだろう。もしくは断りの一筆でも添えられるに違いない。男を知らない以上、どう思うかなんて考えても仕方のないことだった。

 その日の夜も、私は人目を盗んでドアノブに料理を吊り下げた。するとやはり翌朝には、空になったタッパがまた、綺麗に洗われてノブに引っ掛けられていた。朝の透明な光を細やかに反射するビニール袋を見つけると、こそばゆい気持ちでいっぱいに満たされた。意味もなく、両手で頬を覆う。
 毎日必ず同じ文言で添え書きを入れた。アバッキオから返事が来ることはなかったし、廊下ですれ違っても言葉を交わすことはなかった。時折女性を連れ込んでは相も変わらず振られていて、寂しく煙草でもふかしているのだろう。それでもやはり翌日には、タッパは男の部屋の前にあった。
 アパートに帰るのが楽しくなった。味気なかった日常が、一食の料理を分け与えることだけで、急に華やかな日々に思えるようになっていたのだ。
 もう気まぐれというだけではなくなっていた。はじめから男への親切心から始めたことではなかったけれど、気遣う気持ちがあったのは確かだ。でも今はどうだろう。私は、私自身が楽しくて差し入れ続けている。人との無言の関わりに、喜びを感じている。それも、関わり合いになりたくないと思っていた隣人に対してだ。それが一層、充実感を助長させた。

 一週間ほど経つと、左隣からは微かなテレビの音がするようになった。珍しいことだった。
 私は、男の部屋にテレビがあったことを今まで知らなかった。恐らく私の知る限りでは、一度も点けられたことがない。更に驚くことには、このところ女性の足音もしなくなっていた。
日課が変わっていった。バールで時間を潰した帰りに、廊下に女性の落し物が転がっていて、それを男の部屋に送り届けるといった作業が、いつの間にか料理の差し入れのためにドアの前に立つようになっていた。不気味だった男は、少なくとも家庭料理は食べるし、容器を洗って返す几帳面さも持ち合わせている。それを知ってしまうと、以前よりぐっと、男の距離が身近になったように感じた。
 毎日作っていても、男は必ず全てを平らげてタッパを返してくるので、どんな味が好みなのか、何が苦手なのかは知りようもなく、私はどうにかして男の好みを知ることはできないだろうかとすら、思うようになっていた。

 そんなことを、気づけば私たちは数週間繰り返していた。



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19/03/21 短編