踵の10センチ

01



 お洒落じゃなくちゃならない。高いヒールを履いて、ブロンドの髪をしていなければならない。ファッション誌やゴシップ誌を買って、政治の話には口を噤んで、それでいてちょっと近寄りがたいような、いい女を演じなければならない。
 南部を出て生きていくためには、そうすることが絶対で、このイタリアで女として生まれた以上必要なことだ。そう思っていた。馬鹿みたいだけれど、彼のために髪にブリーチをかけて、10センチのヒールを毎日欠かさず履いていたあの時の私は、本気でそう思っていた。
「その南部訛りをどうにかしろ」
 恥ずかしい、と彼は言った。少しでもお前がヘマをすると、南部女と付き合っていると、俺が馬鹿にされるのだ。彼はそう激昂した。
 彼とは2年付き合った。長い方だったと思う。ミラノで出会った、生粋のミラノっ子だった。私をネアポリス出身と知らずに声をかけてきたくせに、里が知れると途端に事あるごとに引き合いに出すようになって、その度に私は口を閉ざした。長い前髪を少しだけ下ろして、泣きそうな目元を隠して、必死で彼の罵倒を耐えた。顎をつんと上げて、上向きで気取った女を演じて、冷たい指先を握りしめたいのを最後まで我慢する。私にはなんでもないことだと、思わせるように。
 どうしてあれだけの期間を耐えられたのだろうか。ただ、北部かぶれだった私は、北の男と付き合えばこの先の人生は何が起ころうとスマートだと思っていた。きっとそれだけだったのだ。馬鹿でどうしようもない、田舎娘。それが昔の私。


「これ、おめーによォ……」
「へ……?」
 歯切れ悪く何かの紙袋を突き出してきたミスタに、不意に私は以前のことを重ねて思い出してしまった。自分のぼんやりとした声が、記憶と現実をぐるりと巡る。瞬きをして、些か荒々しく握られた拳を辿る。存在を主張するような派手な色合いの、やたらと大きい紙袋。ネアポリスに最近できた地元ブランド、カルピッサのショッパーだと分かる自分が憎らしい。
 ミスタは私へ一度ちらっと視線を寄越したっきり、腕を一直線に掲げたまま、落ち着かなくあちらこちらへ顔を彷徨わせている。今日は何の記念日というわけでもないし、お礼とか謝罪とか、そういうことも思い当たらない。なのにミスタはやけに生真面目な顔をして、そのブランドもののショッパーを私へ差し出している。私は意外なものを目にしたように、呆然とその様子を見守ってしまった。
 ミスタとは最近付き合い始めたチンピラ風の青年で、ミラノから帰ってきて悄然としていた私が初めて出会った、話の合う男性だった。知り合ったのは一年ほど前だっただろうか。映画館の隣の方から、やけに強烈な視線を感じて顔を向けると、私を唖然と見つめる男と目が合った。知り合いでもなんでもない。初対面の若い男。それがミスタだった。
 エンドロールが終わって幕が上がっても、号泣を止めるすべもなくティッシュで鼻をかみ続けている私は、確かにドン引きするほど滑稽だっただろう。それも女ひとりでアメリカの恋愛映画を見て、しかも悲壮に暮れるような泣き所があるわけでもない、痛快なラブコメときたものだ。男はつゆ知らず、たとえ内容が好みではなくても、女なら溜飲が下がるシーンだってあっただろう。少なくとも、悲恋でもラブロマンスでもないそのコメディ色の強い映画に泣いていたのは、その劇場で私だけだったのだ。クレジットも観終わってさて帰ろうとした時、照明がついても座席に張り付いたまま、延々と余韻に浸っている女がいたら、物珍しさに思わず凝視してしまう気持ちも分からなくはない。
 その時二つ隣の座席に座っていたミスタは、私と目が合うと肘掛け越しに少し身を乗り出すようにしてから、妙に真剣な顔で、「ちょっといいか?」と声をかけてきた。鼻をすすりながら、私は涙目で軽く頷いた。ティッシュを新しく取り出して鼻をかむと、ミスタはやはり呆気にとられた表情をした。
「不躾に聞くが……」
 一度口を噤んで、私の泣き腫らした目を見てからまた口を開く。
「この映画のどこをどう観たら、そんなに泣けるんだ?」
 この映画──ブロンドの髪をしたピンクが好きな、アメリカメディアで作られた「如何にも」なステレオタイプの女が、その容姿や身なり、言動で馬鹿にされながらも、弁護士としての夢に邁進していく、所謂サクセス・ストーリーだ。しかし、ミラノから戻ってきたばかりの私には、観るのが早すぎた映画だった。ふらりと吸い寄せられるように入ったけれど、案の定なにもかにもを自分と比較してしまう。私の努力の方向は、ずっと間違っていたのだ。私は何者かになったような気になって、媚を売ってきただけで、本当は何にもなれない、つまらない人間なのだ。そんな後悔ばかりがせき上げてきて、気づけば涙が止まらなくなっていた。
 私はそれを言葉にしようとして、ふと思いとどまった。そうしてから鼻にティッシュを当てて、ミスタに片手を振る。
「ごめんなさい、あなたには分からないことなの」
 私の傷心なんて、赤の他人に言うようなことじゃなかった。
「そりゃあ、俺はあんたにはなれないから分からねぇだろうけどよォ……」
 ミスタは自分から聞いておきながら、どうでも良さそうな口調で返したけれど、顔はやはり真剣だった。
「話くらい聞けるぜ? ま、俺は話す方が得意だけどな」
 泣いている女を見かけたからと言って、たとえナンパだとしても怪訝そうに話しかけておきながら、わざわざ話を聞こうだなんて面白いことをする男だと思った。ミスタはもう心に決めたといった風に、飲み終えた空の紙コップと小さな紙袋を手に劇場口を指して私を促す。詰まってぐずぐずになった鼻を押さえながら、いつの間にか私はミスタ自身に興味が湧いて、不思議とすんなりと頷いていたのだった。
 劇場前でタバコやジュースを手に、今見た映画の内容を語り合っている集団を抜けて、すぐ近くのバールへ立ち寄る。
「一人で恋愛映画を観に来るなんて、あなたも物好きね」
「連れがいたんだ、物好きのおっさんがな。可愛い女の子が頑張ってる映画が観たいとか、いい歳して気色悪ィこと言ってな……もう帰っちまったけど」
 突然、ミスタの手元の紙袋がガサリと鳴った。私が覗き込もうとすると、ミスタは咳払いをしながら「それでさっきの映画のことだがよ」と、満面の笑みで話を振った。

 これを波長が合う、というのだろうか。そうやって話してみると話が弾んだ。趣味は映画やサッカーくらいで共通するものが多いわけではないのに、議論好きの男の考え方は刺激的で面白かった。ミスタは自分の話題に私の意見や反応を求め、そして否定をし、肯定もした。私の話を遮ることもなく聞き、持論も展開する。私は落ち込んでいた気持ちも忘れて、夢中になってミスタと話をした。気づけば空になったコーヒーカップで数時間話し込んでいるほどだ。
 自然と、また会おうということになった。しかし携帯を取り出したミスタに、私はその時になって物怖じをしたのだ。別れたばかりの彼のことが脳裏を掠めた。どんな人間であったとしても、まだ誰ともそこまで親しくなりたいとは思えなかった。
 頑なに携帯番号を教えなかった私へ、ミスタは別段気にした様子もなかったのは幸いだった。次に会う日にちや時間だけを約束して別れる。一人で家までの夜道を歩く間に、心は冷静になった。きっと彼は来ないだろう、と私は思った。私もこれきりとわかっている口約束のために、時間を割くつもりはなかった。これきり。そう思った。
 約束の日は一週間後だった。すぐに忘れはするけど、不意に思い出すようなそんな期間。休日の用事を済ませて腕時計を確認した時に、ミスタとの時間がよぎった。あんなに笑ったのは数年ぶりだったのかもしれない。久々に交わした会話の熱が胸にせり上がってきて、少しだけ覗いてみようかという気になった。いなければいないで通り過ぎればいい。
 そうして何気なく約束の場所へ立ち寄ると、コーラを手にカウンターに凭れ掛かりながら、ぼんやりと誰かを待っているミスタが目に入ったのだ。
 その“誰か”とは紛れもなく、私だった。

 もっと話がしたいなぁ。そう思い始めた時、私はようやくミスタへ番号を教えることにしたのだった。私が番号を書いた紙を手渡すと、ミスタは驚いた顔を隠さなかった。何せ出会ってから一年近く経っていたのだ。今更だ。どちらかの予定が入ってしまえば、一度会わない日が来れば、縁が切れるのも早かったかもしれないのだから、その日まで仲が続いていたのだって奇跡のようなものだった。最近までの私達は、いつでも気軽に切ることのできる、そんな間柄だったのだ。
「もっと話ができたらと思って」
 口にしてみると照れくさいもので、私ははにかんでから、意味のない笑いを落とした。ミスタは出会ったあの日のように、軽く受け取ってくれるものだと思っていた。
 しかしミスタは手にした紙をまんじりと見つめていたかと思うと、コホンと一つ咳払いをして、
「それじゃあよ……付き合っちまうか?」
と、そんな一言を投げかけたのだった。どきりとした。私が驚いてミスタを盗み見ると、彼は別に私が心配したどの感情も浮かべてはいなかった。いつもどおりの、馬鹿話に花を咲かせているのと同じ顔をしている。私はそれに、どこかホッとしていた。
 ネアポリスに戻ってきて一年が経っても、別にときめく相手がいるわけではなかった。私がこうして気兼ねなく話ができるのは、未だにミスタだけだった。気を張らずに付き合っていられて、大抵のことは何でも話せた。ミスタだってなんとなく、そう言ってみたのだろう。いつまでも、異性を避けているわけにはいかない。私にとってもきっと、立ち直るチャンスなのだ。
 そんな風に思って、私は承諾したのだった。


 思い返すほどに、ミスタはいい男、だと思う。割り込み客を脅したり、カツアゲしている不良を蹴ったりだとか、お世辞にもあまり素行のいいとは言えないチンピラだけど、理由なく人を傷つけはしない。
 整った目鼻立ちをしていて、太い眉や引き締まった身体は男らしく、ミスタを前にした女性が華やいだ顔をして会話をするのをよく見かける。話も上手いし、話題も幅広い。黙って立ってたってモテるだろうに、本人の性格がまた女を喜ばせるのだ。多分、それなりの努力をしているのだと思う。これで身なりさえ整えれば、大抵の女は靡いてあげようかという気持ちになるだろう。けれど、そうはしないミスタの自分らしさが、私には羨ましくもあった。
 今目の前に差し出されたショッパーだって、流行りに敏感な女の子なら飛びつくほどに喜ぶだろう。一番にそれを選んだミスタの感性に惚れ惚れとするに違いない。昔の私だってそうだった。
 でも今の私は、そういう女の子になれなかった、出戻りの南部女だった。

 ミスタが掲げたままのショッパーから遠ざかるように一歩足を引いて、唇を舐める。
「ミスタ、悪いけど」
 こういう場面に遭遇すると、いつも昔の彼の言葉が追いかけてくる。目の前のプレゼントにどんな見栄が入っているのかと邪推をして、勝手に胸が軋んでしまうのだ。
 こういうのは貰えない、と言おうとすると、それを読んでいたようなタイミングで、ミスタが手で制した。
「いーから開けてみろよ」
「……今?」
「ああ」
「ここで?」
 ミスタは何度聞いても「ああ」と返すだけだ。驚いた。プレゼントを貰って、どうでもいい道端で、その場で開けろと言われたのは初めてだった。
 恐る恐る受け取って紙袋の中を見ると、リボンを巻いて包装された、いびつな箱が入っていた。持ち上げると予想より軽い。リボンも包装も、どこのメーカーのプリントもされていなかった。ミスタを窺うと、顎を動かして開けるように促す。
 包装紙はなかなか剥がれなかった。慣れない店員が包んだのか、セロハンテープの貼り場所が普通より多い。小さな店に行くと、たまにこういうことがある。
 仕方なく乱暴に開けようとすると、それを見ていたミスタが「ああっ」と声を上げた。なにかと思って尋ねれば、
「いや……別に」
と口をもごつかせて目を背けるので、はっきりとしない。時間はかかるけど、仕方なく丁寧に剥がした。ミスタはその様子を急かすでもなく、黙ってじっと見守っている。隣で手元を見つめるミスタのそわそわした雰囲気に、私は嫌な音を立てて近寄ってくる鼓動を、何度も押さえつけた。
 最後のテープを剥がし終えると、水色とピンクの少し子供っぽい箱が顔を出した。包装紙を丸めてミスタに持たせたショッパーへ入れてから、やっと出てきた箱の蓋を開ける。
 ミスタは私が中身を見た瞬間に、照れ臭そうに笑いを漏らしたり、片足の重心を入れ替えたり、帽子に指を差し込んで頭を掻いてみたりと、落ち着きなく様子を窺っていたようだったけれど、私が箱を両手で抱えたまま微動だにもしないことに気づいて、次第に表情を落ち込ませていった。
「や、やっぱ、ガキっぽすぎたか……?」

 今まで貰ったことのある贈り物は、どれもが「北部の男に相応しい」身なりをさせるための、ツールでしかなかった。ミラノの彼以外だってそうだ。自分を彼女に尽くすいい男だと思わせるための、少し気取ったプレゼント。女が確実に喜ぶだろう、喜ぶのが礼儀だと言わんばかりの、自信に満ち溢れた顔。何より、人の気持ちをそんなふうにしか受け取れなくなった、私自身の歪んでしまった心が嫌でたまらなかった。だからプレゼントなんて、なくて良かったのだ。ミスタには、そんな気持ちを感じたくはなかった。
 でも、私の手の中にあるのは、そんな虚栄心とは無縁のものだった。
「これ……」
 ようやく声を絞り出すと、自分の声が上擦っているのに気づいた。
「お前、そういうの好きなんじゃあねぇかな……と、思ってだな……」
 ミスタは鼻を掻く手で口元の笑いを隠しながら、しかしどこか不安そうに私の様子を窺っていた。
 私が手にするちょっと大きめの箱の中には、靴も服もショールも、財布や小物だって入っていなかった。南部でよく見かける髪によく似た、茶色い毛のクマのぬいぐるみが、そこには入っていた。

 付き合い始める前に、ミスタへ昔の彼の話をしたことがあった。出会った頃のたった1回だ。今の今まで、私は話したことはすっかり忘れていた。けれど、ミスタはそうじゃなかったのかもしれない。じゃなきゃ、こんなものを用意したりしない。
 クマが好きだなんて、一言も話したことはなかった。本当は可愛くて、子供っぽいものが好きだとは、一言だって、話したことはなかった。ミスタには何でも話せると思っていたくせに、私は心のどこかで、ブロンドにしていた昔の私を、引きずったままだったのだ。
 それをミスタは、どうして分かったんだろうか。分かってくれたのだろうか。
 ふと、剥がすのに苦労をした、セロハンテープだらけのちょっと汚い包装を思い出した。
「これ、もしかして」
 一つの予感に、胸がどきどきと音を立てた。箱を見つめたままだった私は、ひっそりと呟いてから、ようやくミスタへ顔を上げた。
「ミスタが包んだ……?」
 ミスタはどう答えるべきか迷ったのかもしれない。数秒の判然としない呻き声のあと、
「わかる?」
と、嘘がバレた子供みたいな顔をして、それから破顔した。

 箱の中に、ミスタの数日間が入っていた。
 きっと包装紙もどこかで買って、このぬいぐるみに合うサイズの箱も探し回ったのだ。その太い指で四苦八苦しながら、包んだこともない箱と格闘を繰り広げたのだろう。何枚も破って、ぐしゃぐしゃにして、セロハンテープでバランスを取って。一生懸命に包装してくれたに違いない。今時学生でもしないような、不格好なプレゼント。私のために考えてくれた時間。箱の中には、クマと一緒に、それらの日々が詰め込まれていた。
 胸の辺りで、知らない感情が膨らんで来るのがわかった。今までに感じたことのない熱くて大きな塊が、ぱんぱんに膨らんでいく。
「ブサイクなクマ」
 言ってから吹き出して、私はそれを言い表せない感情があるのに気づいた。口にしようとしても、どうしても適わない。私は観念して、その気持ちごと腕に抱きしめた。ふわふわした毛に顔を埋める。
──それじゃあよ……付き合っちまうか?
 付き合い始めた時。もしあの時、ミスタが真剣な眼差しをしていたら、私はきっと、逃げ出していた。楽しいと思えた時間を、捨てていただろう。私は怖かったのだ。いつまで経ってもミラノのあの日々が私の中にあって、進んで誰かの言いなりになるような私自身へ、いつか戻ってしまうのではないかと、恐れていたのだ。でももう、そんな必要はなかった。
 おさげが好きで、可愛いと思って買った服も笑われてすぐに着なくなって、いつもどこか野暮ったくて、ジェラートを道端に落として、お気に入りのスニーカーが汚れたのを何日も思い悩んだあの頃の私。ネアポリスの私。本当の私。
 ようやく戻ってきた。ようやく故郷に帰ってこれた。踵が地面についていても、たとえ裸足だったとしても、ミスタはそんな私を決して笑ったりしない。蔑んだりはしない。
 私は思わず、ミスタに背を向けた。駄々をこねるようにして、受け取らないと言っていたついさっきまでの自分を思い出して、今の顔を見られたくなかった。にやついてどうしようもない口元を見られるのは、恥ずかしかったのだ。体がむずむずとこそばゆい感覚に襲われる。しゃがみ込んでクマを抱きしめて、収まりを待つのだけれど、波は全く引いていかない。
「……何やってんだ?」
 私の背後で身を屈めて覗き込みながら、怪訝そうに聞いてくるミスタへ顔だけで振り返る。首に手を回してぎゅっと抱きつくと、ミスタは「うおっ」と大袈裟な驚き方をして、半歩よろめいてから、私を抱き返した。
「それで、気に入ってくださいましたでしょーか……?」
なんて、おずおずといった風に尋ねてくる。よっぽど悩んでくれたらしい。私って、なんて面倒な女なんだろう。でもミスタはそれを、決してなじったりしない。ヒールを履けとか、お洒落をしろとか、ミスタに合う格好をしろとか、そんなことは言わない。
 私はミスタの隣では、新聞を読んで誰も目に止めないような三面記事に突っ込みをしてもいいし、ナショナルジオグラフィックの特集を読み、コッリーナの英雄譚を語ってもいい。そのあとに、コアラの子供は母親の糞を食べるのだとか、風と共に去りぬのクラーク・ゲーブルは歯槽膿漏だったとか、そんなどうでもいい話をしても、ミスタは女の話はくだらないなどとは言わないのだ。
「大事にする」
「そーかそーか!」
 ほっとしたように満面の笑みを浮かべて私を抱き返すミスタに、不覚にも顔が赤くなった。胸がきゅうっと締めつけられて、鼓動が早まる。
 大事にする。もう一度心の中で呟く。でもそれだけじゃ駆け出した気持ちの収まりがつかなくて、抱きついた腕に力を込める。

 つま先立ちは、もうやめだ。家に帰ったら、未練がましく棚にしまっていたお気に入りのヒールを取り出そう、と思った。そうして、石畳じゃ歩きづらい踵の10センチを、ミラノに向かって投げつけてやるのだ。
 だってミスタは、私の身長に合わせて何度だって屈んでくれる。埃を被ったヒールは、私にはもう、必要のないものなのだ。



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19/01/09 短編