02



 ガラじゃあないと思ってみても、隙間から吹き上がってくるような、理由のない人恋しさに勝てないこともあるのだ。
 10年前に引退したサッカー選手の死亡のニュースに馬鹿みてぇに泣きたい気持ちになったり、いつもは空いてるピッツェリアが突如外国人観光客に陣取られてイラついてみたり、フラっと立ち寄った映画のラストがガキの泣き声でよく聞き取れなくてぼったくられた気になったり、普段は瞬間的に忘れるような感情を、今日に限ってアパルトメントの狭い部屋に持ち込んできてしまった。
 虚しくってたまらない。話でもすりゃあ気が紛れるが、困ったことに、フーゴもジョルノも雑談がド下手で、一々揚げ足を取っては話の腰を折るか結論を急かす。俺の話のオチを聞くどころか、自分達だけで完結させちまうのだ。あいつらとは一生ノリが合う気はしない。
 話がしてぇなぁと思う。俺のとりとめのない馬鹿話を、真面目な顔して聞いてくれていた奴らに、会いてぇなぁ、と思ってから、ふと気づく。いや、本当は知っていて、それでもわざと思い浮かべるのだ。そうしてから、まるでたった今気づいたように噛みしめる。そんな奴らは、もういなかった。

 迷いに迷ったが、携帯を見つめている内にの番号を押していた。コール音が5回位鳴ってから、上機嫌な明るい声が鼓膜を揺らして、俺は自分がホッとしたのが分かった。
「ミスタ、どうしたの?」
「いやどうしたって程でもねぇんだがよ……」
 単純に、声が聞きたかったと言やいいんだが、今日ばかりは口から出てこなかった。いつも適当なことはふざけた調子に合わせて言うことができるが、肝心なことは思うように言えなかった。


 通りがかった店の前でクマのぬいぐるみを見かけた時、女の顔が浮かんだ。アメリカ映画でしかあまり見かけたことのないでかいサイズのぬいぐるみの隣に、中ぐらいのクマが並んでおいてあった。それを見た瞬間に、自然とのことを思い出したのだ。顔は少しばかり不細工だが、毛がの髪の色に似ていた。あいつがクマだとかぬいぐるみが好きとは、聞いたことはない。だがなんとなく、喜ぶんじゃあないか、と思った。
 あいつは贈り物に嫌な思い出があるらしく、プレゼントを好まない。だからこれまで何かをあげたことはなかった。曲がりなりにも付き合っているのだ。ただ飲んで話をしてイチャつくのもそりゃいいが、そろそろ何か贈ってやりてぇなぁと思ったことは、一度きりじゃあない。だが、テレビドラマのシーンにすら顔を顰めて舌を出す女が、現実で喜んで受け取るとは思えなかった。
 数秒足を止めたものの、すぐに思い直してウィンドウの前を立ち去る。
 だがそのクマは、しつこく俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 付き合っちまうか、とふざけた言い方で誘ったあの言葉を、は遊び半分だと思っていただろうが、俺は本気だった。一生貰えねぇんじゃないかと思っていた携帯番号を握りしめて、女の心の距離を知った時、俺はもう我慢ならなかったのだ。
 一度だけ聞いたミラノの男の話は、女の行動の裏にいつも見え隠れしていた。俺は携帯にあいつの番号がないのを見る度に、その男のことを思い出さなければならなかった。離れても記憶にがんじがらめにされている女を、心底哀れだと思った。
 映画館で、幕が上がっても椅子に張り付いて延々としゃくりあげている女を見た時、俺はすぐに原因は男のことだろうと思った。どう見たって、感動の余韻の涙じゃあない。
 ポルナレフに付き合って入った映画は、女のために作られたストーリーで、俺にはあまり向かなかったが、分からなくはないと思った。女だとか、南部だの北部だの、移民がどうだとか、偏見にさらされる人間は周りにごまんといて、覆せないことの方が余程多いからだ。組織の連中は、そんな有象無象のより集まりだった。やつらと付き合う女も、大抵はそんな問題を抱えている。この女も、きっとそうなのだろうと思った。はたして、そのとおりだった。
 俺の誤算は、いつの間に惚れちまったのか分からないということだ。女に妙な懐かしさが込み上げて、また話がしたいと思った。仕事の合間にもふと女とした会話を思い出して、次は何を話そうかと考える日々を繰り返す内に、一年が経っていた。
 が選択する言動の裏に一度だけ聞いたミラノの男を感じる度、俺はそうはなりはしないと、思うようになった。確かに行儀の良い男じゃあねーし、ガラの悪い連中とつるんでるような、世間一般じゃあろくでなしの部類かもしれないが、少なくとも俺は、女を一人で映画館に立ち寄らせるような心境にはさせないし、コメディ映画を見て自分を重ねて泣き崩れるような思いもさせはしない。会ったこともない、女と別れた男と張り合うのは、端から見りゃ滑稽でも、女はその幻想を背負っているのだ。俺はそれに勝たなければならなかった。
 は電話番号を教えない代わりに、いつも必ず約束を守った。俺は今日こそは来ねぇかもしれないと弱気な気持ちを抱えながら時間を待って、待ち合わせ場所へ駆け寄ってくる姿を確認してようやく安堵する。この時間を彼女もまた楽しみにしているらしいということを、俺は毎回初めて知るように喜んだ。俺の顔を見ると、ホッとしたような表情を浮かべるも、同じ心境であればよかった。
 多分、俺と昔の男を並べながら、必死に俺の中にミラノがないことを探している、怖がりな女。その女が、なんということもなく、おもむろに番号を書いた紙を寄越してきたのだ。
 ピッツェリアで渡された可愛げのない白いただの紙には、ボールペンで書かれた女の細い字があった。緊張したんじゃあないか、と俺は思った。これを書くのに、は相当の勇気を出したんじゃあないか、と。
 俺と話す時のはいつも笑っていて、興味の幅も広かった。だがそれらを示す時、必ず口にするのをどこか不安そうにしているのが目についた。女が泣いたのを見たのは、あの映画館が最初で最後だ。だが実のところはずっと、女はあの劇場に座ったままなのかもしれなかった。まだ男を引きずったままなのだ。そんな女が、電話番号を寄越した。俺のような、ナンパで出会ったような男にだ。一歩歩み寄ろうとした。もっと話がしたい、と言った。少しばかり頬を染めて、はにかみながら。
 俺はもう、我慢できなかったのだ。


「ちょっと、ミスタ?」
 いつまでも無言でいる俺に、携帯から心配そうなの声がした。
「あ、いや……」
 やっぱり声に出せずに言い淀む。変に弱気になる日だ、と思った。今日は4がつく日でも何でもない。
「いいよ」
 唐突にが言った。後ろから誰かの話し声が聞こえる。人と一緒にいたのかもしれない。
「今から行くから、待ってて」
 大丈夫だ、と伝えようとしたのだが、俺は思考とは裏腹に、素直に「ああ」と言ってしまったのだった。

 待ちに待ったは、したたかに酔っていた。
 真っ赤になった顔で部屋に入り込むと、一直線に俺の元へ歩み寄って、胸に抱きついてくる。背中に回された腕が、酔っぱらいの無遠慮な力で俺を締めつけている。あまりそういうことをしない女だったので、俺は不覚にもどきりとしてしまった。頬の熱を冷まそうとしているのか、時折ふにゃふにゃとした声を出しながら、俺の胸に顔を擦り付ける感触がこそばゆくてたまらない。
 嬉しくなって暫く黙って抱き返してやっていたが、どうも予想と違う様子にむず痒くなってくる。さっきまで俺は、まともながこの部屋に来ると思っていたのだ。話をしようにもできるようには見えない。
 一応「おーい」とか「どうした?」とか呼びかけてはみるが、は人様の胸に顔を埋めたまま、黙り込んでいる。先程より深い息が、女の肩を上下させている。
「……何してんだァ?」
「匂い、嗅いでるの」
 膨らむような声だった。浮かれているのとも、ふざけているのとも違う。俺の胸に鼻を擦り付けながら、はお湯に浸かっているような声で、そう告げたのだった。
 俺はたまらず女の腰を抱き上げた。足はそのままベッドへ向かう。楽しそうに甲高い声を上げたは、狭い部屋を歩く間も、ベッドに倒れ込んでも、ケラケラと笑い声を上げている。いつ洗ったか忘れたシーツに、女が寝そべるのは久しぶりのことだった。
 俺が隣に乗り上げると、はまたぎゅっと抱きついてきた。腰を落として、女の腕に合わせて身を屈める。ミスタ、との明るい声に名前を呼ばれて、隣へ来るように引っ張られれば、俺は複雑な気持ちになった。こんな風に甘えられたのは、初めてだった。
 締めつけられるような胸の高鳴りを感じながら、仕方なく横になって腕を回した。は待ちわびたと言わんばかりに身を寄せて、また俺の胸に顔を埋める。女はスカートから伸びる足でぐいぐいと乱暴に俺の股を割ると、その間に自分の片足を差し込んで、満悦そうにしている。もう片方の裸足の指先が、俺の足の指先に絡められると、俺は少しばかり動揺して、鼓動が早くなった。
「随分積極的だなぁ」
とからかってみるのだが、は嬉しそうな声色で「うん」と言うだけで、安心しきった顔で俺に引っ付いている。その様子を見ていると、俺は何も言えなくなった。
 は呻きながらもぞもぞと体をベッドの上に移動させて、俺の頭を胸に抱き込むように引き寄せた。頭頂部に女の鼻息がかかる。すんすんと、鼻を鳴らす音がして、
「ちょっと臭い」
が言った。そして笑い声。つむじの辺りをまたすんすんと、女が匂いを嗅ぐ。何がおかしいのか、また笑う。俺が動こうとすると駄目だと言うので、渋々の腕の中に戻ると、満足したように頭に顔を寄せられる。酔っ払いが、と心の中で呟いたが、頬に当たる胸の感触は悪くなかった。
 しかし、これじゃあ話はできそうにはねぇなぁ。そんなことを思って、女の柔らかな背を撫でてやる。


 店の前を立ち去って、角を二つ三つ通り過ぎてから、俺は前触れもなく来た道を引き返した。クマのぬいぐるみが、どうやっても頭から離れない。早歩きだった足は、数メートル歩くと、いつしか小走りになり、気づいたときには走っていた。
 小さな雑貨屋のウィンドウの前にもう一度立ってクマを見れば、もう女の顔しか浮かばなかった。気に入るんじゃあないか。無言で悩む俺の胸に、その言葉が点滅するように浮かび上がる。
 は俺といると楽しいのだと言ったが、俺は嘘をつくんじゃあねーよと言ってやりたかった。雑誌を捲っていても、街中を歩いていても、「いいなぁ」と言いそうになる度に、口を噤んでいるのだろうことを俺は知っていたからだ。女の視線の中にはいつも真実が紛れ込んでいた。普段と変わらないように思えても、何気なく止まる視線の先には、の心が映し出されていた。それはガキのカップルであったり、ダサい格好をした女学生の集団であったり、手を引きながら歩く病院帰りの夫婦の姿であったり、或いはそのどれもが浮かべる、楽しげな顔だったり。
 綺麗な袋で包まれたクマを抱えて店を出た。明日にでも渡そうか、と浮足立って帰路につく。尻のポケットから携帯を取り出して、の番号を開くと、不意に指先が止まった。通話を押そうとしても、ブレーキが掛かったみてぇに動かない。根拠のない不安がにじり寄ってくる。
 俺は携帯を閉じて、買ったばかりの袋を見た。何かが足りなかった。これの他に何を買えばいいのか──思ったところで、さっと心が冷えた。さっきまで浮かんでいた女の顔は、俺の満足感と共にとうに薄らいでいることに、俺は気づいてしまったからだ。
 袋をぶら下げたまま、ぼんやりと歩いた。ミラノの男をぶん殴ってやりたかった。てめぇの顔は知らねーが、できることなら殴り倒してやりたい。俺は俺の満足感のために、危うく同じことをするところだった。もしこのまま渡していたら、俺はまた、あいつの嘘に頷かなきゃならなかった。
 歩きながらリボンを解いて、中身だけを取り出した。贈るのは俺だ、と思った。誰とも知らねぇやつが選んだ、好みでもねぇ色の袋に、何の都合で付いてるのかも分からねぇリボンをつけて、恐らくその中に入っているのはただの金だ。俺が走って戻ってまでウィンドウ越しに見た、茶色い毛のクマじゃあないのだ。
 女の笑い顔を思い浮かべて、俺はもう一度クマを見た。やらなければならないことは、沢山あった。


 俺の匂いを充分嗅ぎ終えたのか、心から愉悦した様子だったはずのをどうするべきか迷っていると、
「あの馬鹿インテリやろぉーー」
とあまりにも唐突に、酔いに揺られた甘い声が、不可解な単語をなぞった。
「あ? インテリ?」
「穴空いた服とおんなじ! あんたの目も節穴よ節穴ァ~~!」
「そりゃ……フーゴのことか? 何したんだよ」
 電話をした時の人の気配は、どうやらフーゴだったらしい、と俺は気づいた。行きつけの酒場へ誘って以来、も仕事帰りにたまに通うようになったから、そこでフーゴと鉢合わせでもしたのだろう。それにしても、珍しい組み合わせだった。
 フーゴのことは、仕事仲間とでも伝えていたような気がする。組織を乗っ取ったからといって、俺もそうすぐには幹部になれないもので、右も左も分からない俺がチームを受け持って、シマの管理を出来るかと聞かれりゃあ、誰だって無理だと答えるだろう。ディアボロが敷いた恐怖統制がまだ組織内で浸透しているにしても、裏切りはいつでもある。舐められた挙げ句嵌められて、豚箱行きなんてのは御免だ。暫くはジョルノの親衛隊という名のパシリをする傍ら、フーゴの元で事業を手伝いながら、キレやすい男に罵倒されつつ金の流れを覚える。実際店の経営もしていたので、仕事仲間というのも嘘ではなかった。それなりに、当たり障りなく仕事の話もしていた。
 それにしても、俺を交えて何度か話をしていたはずだが、あいつらの気が合うとは到底思えない。フーゴはどちらかというと、体裁に拘るタイプだからだ。
「ミスタは確かに何にも考えてないアホだけど、だから何だってのよぉ」
「……あ?」
 こいつらが何を話すのか興味が湧いて、黙って聞いていれば、聞き捨てならない言葉が耳を打った。
「アホって何だ。フーゴか? フーゴが言ったのか?」
 人様の女に、男の悪評を吹き込むようなたちの悪いやつだとは思いもしなかった。後で絞めなきゃあならねぇと決めたところで、ふと、そういやフーゴが進めていた商談を、数日前に俺が無茶苦茶にしたことを思い出して、一言でも謝ったかどうかの記憶を堀り返さなければならないことに気づいた。
 十中八九、多分俺は、謝っていない。
「おい、、フーゴのやつ、他になんか言ってたか? 飯にゴキブリ入れるとか、車になんか仕込むとか、ゲイクラブに俺を登録するとか……」
 フーゴに報告に来た下っ端の元を、俺は便所に行くと言って逃れてきたのだ。キレた奴は机なり椅子なり壊したかもしれないが、それは衝動的な怒りであって、あれから音信不通でいる俺は恐らく、奴の報復を受けるだろう。嫌な予感に色々と想像をしていると、が力を込めて俺の頭を腕に抱いた。額にがっつりと鎖骨が当たって痛いのだが、緩める気配はない。
 だから何だってのよぉ、と危うい呂律でが言った。いいじゃない。これがいいんじゃない。何が楽しいのか、そう言って頭を撫で付けるのだ。
「いいの、ミスタはこれでいいの」
「ああ~~~?」
 体を離そうとすると、顎と腕で抑え込まれるので、たまったもんじゃあない。
「あのなァ、お前酔っ払った勢いでコケにすんのも……」
 うるさい、と唇をバシッと手で塞がれる。熱い手のひらが俺の顔の半分を無遠慮に覆って、言うはずだった言葉はもごもごと意味を持たずに消えていった。
「いっつも人のことばっかり気にしてぇ、仲間割れしないように、言いづらい決断、ぜんぶ真っ先に言ってさぁ、あとで自分が責められればいいー、なんて思ってる」
 声の合間に、一呼吸あった。
「ばか」
 ヒヒヒ、とどこから出たかわからない妙な笑い声を上げると、は吐き出す大袈裟な息とともに、しおれるように静かになっていった。
 不意に、間抜けな声がした。
「ありがとう」
 耳を生暖かい息が撫ぜる。帽子に手を差し込んで髪を梳く女の指先は、こそばゆいほどに柔らかい。
 なんの礼だよ、と言おうとして、自分でも分からず口を閉ざす。
「……わかっちゃいねーよ」
 俺の前で無防備に寝るようならな。心の内で零して、の指を甘んじて受け入れる。さっきまで俺に甘えていたのは、これを言いたいがためだったのかと気づいてしまったからだ。
 俺は決して、いいやつなんかじゃあない。人は殴るわ殺すわ、気に入らなけりゃ考えるより先に手と足が出る。俺はいつも俺にとって、俺のために正しい選択をしているのであって、が言うような繊細な心の持ち主なんかじゃあ、決してないのだ。
 馬鹿なのはお前だ、と思った。碌な男に引っかかりゃしねぇ。DV男の次はチンピラだ。しかもギャングという肩書き付きの。
 俺は込み上げてきた可笑しさにくつくつと笑いを零して、しょうもない女の体を引き寄せた。俺の頭にある手を握り返して、抱え込むようにして腕に収める。
 ミスタ。がため息を付くように、色気を含んだ吐息で俺を呼んだ。擦り寄ってきた柔らかい背中を撫でてやる。

「……吐きそう」
「おうおう、何でも受け止めてやる……え?」
 焦って女の顔を見ると、真っ白になっている。そのくせ女の細い腕で、俺をぎゅうぎゅうと締めつけてくるのだ。
「バカ待てッ! 吐くな! 吐くなよ?! いいか、吐く前に、離せ、そしててめーで頑張ってくれ」
「ミスタ……ミスタ……助けて……うっぷ」
「だァァァかーら、離せってよォーー」
 もがこうと、女は離さない。俺だって本気で引き剥がせば簡単に除けられるというのに、結局は抱きついたままのを抱えてトイレまで走り、懇切丁寧に便器の蓋まで開けて、女の手を握りしめてやる始末だ。
 不思議なことに、心地よかった。いい気持ちがした。こうやって揉みくちゃだろうと必死で俺を認めようとする女があんまりにも滑稽で、大声で馬鹿にしながら、笑ってやりたくなったのだ。だが、笑みは浮かんでも、どんなに腹に力を入れようが、さっきまで出せていたはずの声は出てこない。喉の奥では、出よう出ようとする音の塊を感じているのに、どれだけ気張ろうが、出てきちゃくれないのだ。
「出なかった……気持ち悪いのに出ない……」
「指突っ込んでみろ指」
 は涙目になりながら、必死で嫌だ嫌だと首を振っている。
「っとにおめーは……」
 悪態をつこうとして、俺ははたと気づいた。
 言葉を知らないのだ。間抜けた女に向けてやる、心の片隅をくすぐられるような、この気持ちを表す言葉を。

 結局吐かなかったは、後から来た酔いに苦しみながら呻いている。ベッドを占領する女を寄せて隣に寝転び、背中を撫で擦ってやると、幾らかの息が落ち着いてくる。
 朝起きたら、酒癖の悪いこの女は、きっと今夜のことを忘れているのかもしれない。だが、それがなんだってんだ。
 俺はの声を聞いてしまったのだ。裸足になった女の、のぼせるほどにあたたかな声は、耳から離れそうにない。それどころか、一生忘れるような気がしない。
 大事にする──
 そう言ったの声を思い出して、俺は女の頭に顔を埋めた。柔らかな髪がこそばゆい。
「……大事にする」
 空気を押し出すだけの、音にならない呟きだった。の苦しげな息に巻き込まれるようにして消えたそれに、安堵したのは俺自身だった。そのことに気づいて、驚いた。

 話がしたかったのだ。
 俺のくだらないノリを邪険にせず、馬鹿だなんだと言いながら過ごすような何でもない時間を、俺は結構気に入っていた。いや、結構じゃあない。心から、楽しんでいた。
 映画館に座ったままの女を見た時、俺は哀れだと思った。だが違っていたのだ。懐かしいリストランテの丸テーブルに座ったままだったのは、俺の方だったのだ。今までずっとそれを求めていたことを、俺は深く考えもしなかった。
 脳裏を俺の命を掬い上げた物好きの顔と、さんざ馬鹿話を繰り広げた仲間の顔が浮かび上がって、その中に当たり前のように混じっていると未だに思い続けていた自分に苦笑をする。俺は全く気づいちゃいなかった。考えちゃいなかった。あれからもう、2年が経つのだとは。
 が短く呻き声を上げながら身動ぎをしたのを、俺は優しく抱き込んだ。
「大事にするさ」
 噛み締めるように呟くと、さっきまで探していた言葉の一つは、これだったのだと思った。
 別々に感じていた2年前のローマと丸テーブルが、記憶の中で一本の線に繋がっていく。ようやく俺は抜け出せたのかもしれない。気楽とは言えないが、どうしようもねぇ馬鹿共と過ごした一年足らずが、ようやく過去になったのかもしれない。
 俺が今日電話をしたのはで、クマを渡すために走り回ったのも、この女のためだ。俺の馬鹿話を笑って聞いて、アホがどうのと言いながらそのアホの頭を抱き込むような物好きと、俺は座っていたいのだ。

「ミスタ……?」
 真っ赤な顔をしたが、薄暗い照明の中で、俺を見つめていた。吐き気で俺の声なんか聞こえちゃいないと思っていたが、しっかり耳にしていたらしい。
「本気……?」
と呟いた女の生暖かい息が、首筋を柔らかくなぞった。
 付き合っちまうか、と俺が言った時、の顔は遊びの延長線なのだろうと、納得するような理解を浮かべていた。
 わかってねーな、と思う。俺もこいつも、分かっちゃいなかった。
「ああ……本気だ」
 は呆けた目をして俺を見つめていたが、目尻を緩めて、その中に少しだけ泣きそうな色を灯すと、俺の胸に顔を埋めて、小さく笑いを零した。



|終
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19/01/11 短編