帰途はあまやかに

01


 帰る、という言葉ほど嫌いなものはなかった。いや、今でもそうだ。
 ナランチャは夕暮れ時になると、気分良く舐めていたジェラートも放り投げて、太陽へと一直線に走り寄りたくなってしまう。追いかけて追いかけて、永遠に日が沈まないよう走り続けたい気持ちになる。赤い道路を喰らいながら、後ろから這いずるようにじりじりと迫ってくる暗闇が、ナランチャは世界で一番嫌いだった。
 「帰る」という言葉は、その世界一嫌いな夕暮れ時を彷彿とさせて、どんな時に聞いても階段から突き落とされるように、機嫌が急降下した。大嫌いだった。
 それをブチャラティに漏らしたことがある。昼食に、ペスカトーレを食べている最中だった。すると最後まで聞き終えると、ブチャラティは静かに口をつけていたティーカップをソーサーに置いて、
「余程遊ぶのが楽しかったんだな」
と笑いながら言った。勿論、そうではなかった。

 日が暮れれば家に帰らなければならない。それはネアポリスだけではなく、世界中どこの国でも同じだ。朝からせっせと活動していた人間が、住処に帰る時間だ。しかしナランチャはその住処へ帰るよりならば、公園にでも横たわって明日まで、また友人たちが通りかかるのを待っていたかった。
 そう思ってもお腹は空いて胃がちくちくと傷んでくるし、薄暗い公園では誰ともしれない人影がナランチャに気づくことなく通り過ぎて、賑やかな昼間とは反対に音ばかりが不気味に響いて心細く、それに耐えられなくなってウロウロしている内に、いつの間にか家の戸口の前に立ってしまうのがいつもの決まりだった。
 決して遊び足りなかったわけではない。次の日に精一杯、友人へその日の借りを返してやるために、ナランチャも駆け足で家に帰って泥を落とし、満腹のままぐっすりとベッドの上で眠って体力を回復したかった。
 けれど玄関のドアを開けて家に入った途端、こちらには見向きもしない父親の背中が、薄暗いリビングから覗くのを見ると、胃に石を入れられたように体が重くなって、息を吸うのさえ苦しくなった。
「ただいま…」
 そう言っても一瞥するだけでナランチャを一言も労うことなく、話しかけない限り一切関わろうとしない父親は、まるで他人のようだった。母親が生存していた時に比べたら素朴な料理も、自分が食べるために作ったものを、毎日毎日律儀に帰ってくるナランチャへ、仕方なく分け与えているように思えた。
 そんな父親の態度を見ている内に、ナランチャは食卓に一人座るたび、夕食などではなく、餌にありついているような心持ちになった。父親が自分に皿を差し出すのは、いつの間にか家に住み着いていた野良猫に、餌をやっているのと同じようだと思えてならなかった。自分は家族の元へ帰っているのではなく、餌にたかるために家の戸を叩いているのではないか。父親にとって、自分は野良猫と変わりない存在なのではないか。そう思うようになっていった。
 肩身が狭かった。話しかけても面倒そうにあしらわれるので、家に帰ってからは口を開くこともない。学校で何をしたかや、友達と話して楽しかったこと、誰よりも上手く鉄棒ができたことも、家族にしか話せないというのに、話したくても父親はナランチャの声を億劫そうに聞き流した。
 生きるために最低限のことはしてくれたが、それだけだった。人らしい生活というものが、そこには存在していなかったのだ。
 だから次第に家に帰ることは少なくなったし、多少は心配してくれるのではないかと期待していた気持ちも、初めて家出をして一週間も粘ってから家のドアを開けた時、我が子に対して無関心な父親の顔を見た途端に消えてしまった。
 いっそ喜んでも、怒ってもくれなくてもいい。残念そうな、何で帰って来たのかという顔をしてくれた方が、余程良かった。父親のいつもと寸分も変わりない無表情を見てしまったら、ナランチャは本当に自分が父親にとって野良猫と同じだったのだと、気づかざるを得なかったからだ。
 夕暮れはその時の喪失感を運んでくるようで、気が落ち込んだ。未だにナランチャの心に濁りきって詰まっていた。

 ブチャラティはそんなナランチャの過去を知っている。どうして組織に入ろうとしたのかなど話さなくてもいいものを、ナランチャがチームに入ったばかりの頃、懺悔室に入る咎人のように、洗いざらい話したからだ。
「……そうか」
 話し終えた後にただ一言そう呟いて頷いたブチャラティは、それきり口を開こうとはしなかった。ナランチャが話している間も、一度も相槌を打たなかった。
 でも、それでよかった。他の大人が子供へ極当たり前にするように、ナランチャを励ましも頭を撫でて慰めもしなかったが、ナランチャにとってはそれで十分だった。ブチャラティはナランチャの話を聞いて頷いた。他の子供にとって当たり前であっても、父親も少年院の人間も、誰一人としてナランチャにはしてくれなかったことを、ブチャラティは他人の、それも出会ったばかりのナランチャにしてくれたのだった。
 そうか。その言葉がどれだけ心強かったか、今でも思い出せる。その一秒にも満たない音だけで、随分と心が軽くなり力がみなぎってくるのだと、その時に知った。
 ナランチャはブチャラティの生い立ちも、組織に入ったきっかけも知らないが、ありのまま受け入れることが、男なりの敬意なのだと分かっていた。ブチャラティはいつでも、ナランチャを一人前の男として見ようとしていた。道を逸れれば億劫がることなく、手加減なしに叱ってくれた。
 だからナランチャは、怖気づくことなく振る舞え、安心して自分を語ることもできたのだ。

「また次の日に会えると思っても、その日の別れを寂しいと思ってしまうのが人間かもしれないな」
 それでも夕暮れが嫌いだと言ったナランチャに、そう言ってはぐらかすように笑ったのは、ブチャラティが同情をしない男だからに違いなかった。
 生い立ちを話した時は、こちらから話さない限り詮索しないブチャラティの沈黙がとても心地良かったが、今度はくよくよさせないよう、ナランチャの心境を知っていながら敢えて、幼少時代を「楽しかったんだな」と言ったのかもしれない。ナランチャは男のその、意図して作った無神経さも好きだった。
 だがその時のナランチャは、否定をしたように思う。
「そういうんじゃないんだよ、ブチャラティ」
 家に帰るのが嫌で仕方がなかった、という気持ちを込めて言うと、ブチャラティは口元に浮かべていた笑みを引っ込めた。ナランチャが話を流すことはないと気づいたらしい。
 ブチャラティはティーカップの取っ手から指を離して、足を組んだ膝の上へ両手を置いた。そしてその指を交互に絡ませるとナランチャへ、
「じゃあ、これっぱかしもいい思い出はなかったのか?」
と問いかけた。
 思わずじっと考え込んだ。しかし幾ら記憶をかき回しても、頭にはもうべったりと、薄暗い夕焼けの光景がへばりついてしまっている。
 ナランチャは、ぎこちなく首を縦に下ろして上げた。持ち上げていたフォークからペスカトーレが滑り落ちていく。慌ててフォークを皿まで下げると、ブチャラティがそれを見ながらゆったりと言った。
「俺は好きだぜ」
 パスタに気を取られていたために、ナランチャには一瞬何のことか分からなかった。しかしブチャラティが続けたことで、夕暮れの話だと気づく。
「朝は慌ただしくて揃わなかったが、夜だけは絶対に家族全員で食事ができたからな」
 悪いことばかりじゃない、とブチャラティは言った。その時の光景を思い出しているのだろうか。男の顔には珍しく、郷愁が滲んでいた。
「母のラグーがとても好きだった。今でもその味を思い出せる」
 言ってから、ブチャラティは黙ってナランチャへナプキンを差し出した。話に聞き入っていた最中だったので、驚いて「えっ?」と目を丸めて尋ねると、「ついてるぞ」とナランチャの口を見ながらブチャラティが言った。
 ナランチャは何かを言おうとしていたのだが、口のパスタソースを拭うのですっかり忘れてしまった。

 ナランチャもトマトソースが他よりも甘い、母親のラグーは一等好きだった。ネアポリスの人間なら、誰でもそうなのかもしれない。母親のラグーの味を食べたいがために家に戻り、捕まるような構成員さえいるというのだから、それに比べて警察に追い回される心配の少ない下っ端など、その誘惑に勝てる筈もない。
 だが、その母はもうとっくにいない。幾らナランチャが母のラグーを食べたいと思っても、生きている内はどこを探そうと、あの味にたどり着くことはできないのだ。だからもし世の中のギャングが家に帰れる理由が母の味にあるとするのなら、ナランチャが家に帰るきっかけは、永遠に失われてしまったままだった。
 そしても多分、その内の一人だった。


の様子はどうだ?」
 入団したばかりの頃のことを思い出していたのは、もうすぐ夕方になるとげんなりしていた所に、集会所の近くで会ったブチャラティに、出会い頭にそう尋ねられたからだろう。
「もうすっかり元気だよ……というか、いつもと変わらない生意気な態度」
 ため息をつきながら肩を竦めると、ブチャラティは「ハハッ」と軽く笑った。
 三日前にが麻薬常習犯に襲われてからというもの、の御守りだけが仕事だったナランチャも、今回の殺傷事件と組織との関係性を隠蔽するために、ほうぼう駆けずり回る羽目になった。
 調べてみるとどうやら麻薬の売人といざこざを起こした末の殺害だったらしいが、麻薬の出処を探ればパッショーネへ辿り着く可能性が出てきた。他のシマの麻薬かも知れないが、先に手を打つに越したことはない。
 パッショーネは麻薬関連の罪を全て、ネアポリス周辺の他の組織へなすりつけているために、警察にも黙認されているところがあった。たとえ直接の関わりがなかったとしても、麻薬の関わる事件で少しでも組織に繋がりを見つけられるのはまずい。ただでさえ、急激に成長したパッショーネの裏に麻薬が関与しているのではないかと、捜査本部が動いていると聞く。組織にとって今、目をつけられるのだけは避けたかった。
「彼女は父親がギャングだとは知らなかった…俺達とは無縁の人間だ。不安に思っているんだろう」
「だけどさァ…」
 ナランチャが不満気に声を上げたが、ブチャラティはそれすら可笑しそうに遮った。
「変だな、お前らは好き合っていると聞いたけどな」
 くつくつという笑い声にナランチャの顔が怯んで、真っ赤になった。ブチャラティがその話でからかってくるとは思わなかったからだった。
「違うんだよブチャラティ、あれは…」
「分かってる。どうせミスタのやつだろう」
 意地が悪い、と思った。周りにおだてられてごっこ遊びのような付き合いをしていたのは、ブチャラティも知っていたはずだ。
 最初はしおらしかったも、最近ではめっきりナランチャへ突っかかるようになり、三日前のことはそれが原因で起こったような事件だった。あれからナランチャを馬鹿と貶すことはなくなったが、自分にだけ向けられる厳しい態度は変わりない。
 ナランチャがそう漏らすと、
「お前を一番信頼している証拠だな。面倒だろうがとにかく、今の内は構ってやってくれ」
とブチャラティは言った。
 を預かったことでポルポとの父の間に挟まれ、最も苦労しているだろうブチャラティに頼まれて、断れるはずがなかった。
「ああ、わかったよ…わかったけどさァ」
「あまり酷いようなら、話し合いをしてやる」
 ブチャラティの言う話し合いというのは、およそ学級会のようなものではない。白か黒かそれしかない、ギャングの話し合いだ。こんなつまらないことに座って話をつけるなんて、それこそにネタを与えてしまうようなものだった。
「いや、もう馬鹿にされることはないんだけど…」
 自分が何を言いたいのか、はっきりとしなかった。それきり黙ってしまったナランチャをブチャラティは暫く見つめていたが、後ろから走ってきたカブから「よォ、ブチャラティ」と通り過ぎざまに声をかけられると、そちらに軽く手を上げて時間に気づいたようだ。
「それじゃあ、よろしく頼むぞ」
とナランチャの肩を軽く叩いた後で、ブチャラティは白いスーツの裾を翻しながら、警備を担当しているカジノへと向かっていった。



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12/12/09 短編