02


 を初めから嫌っていたわけではない。今でも、嫌いではない。
 がナランチャをリストランテの従業員と勘違いして、遠慮がちながらも「いつもここにいるの…?」と不安げな目で引き止めてきた時も、まったく悪い気はしなかったのだ。
 一体どこでこじれてしまったのかはわからない。しかし出会って最初の頃のは、ナランチャにはとても放っておくことはできないように見えた。
 緊張を和らげるために、フーゴ達が頼んだドルチェを手当たり次第皿に乗せて部屋に持って行ってやると、は宝石でも目の前にしたかのように顔を輝かせた。自分が買ったものではないため、手間もかからなければ財布の心配もなかったので、予想以上に喜ぶに、ナランチャは恥ずかしさを覚えてしまったほどだ。
「あなたも食べて」
 何度目かの時、部屋の小さなテーブルにドルチェを乗せたトレーを置いて、さっさと椅子に腰掛けたナランチャに、が中の一つを摘んで差し出してきたことがある。背もたれを前にして、足を広げて行儀悪くもたれ掛かったまま、ナランチャは驚いてゆっくりと瞬きをした。
 いつもなら一も二もなく飛びついていただろうが、その時は任務中だという気持ちがあったせいか、返事をするのに時間がかかった。
「いや、俺は……」
 いいよ、と言おうと思った。それなのに、の指につままれたつややかなジャンドゥーヤを見た途端、ナランチャは言葉を呑み込んでしまった。ごくりと喉が鳴る。次に出たのは、「本当か?」という間抜けな声だった。
「ええ、一人じゃ食べきれないもの」
 そう言うの横にあるドルチェは、ナランチャならば1分も経たずにぺろりと平らげてしまう位の、ささやかな量に見えた。女の胃袋は出来が違うのだろうと思った。
「それじゃあ」
「あっ」
 ほとんど無意識だった。本能といったほうがいいかもしれない。ナランチャはが差し出してきたジャンドゥーヤを、の指に顔を寄せて、馬鹿正直にそのまま舌で受け取ってしまったのだった。
 ナランチャが「うまいなぁ!」と言って顔を上げた時、は顔をうつ伏せていた。ナランチャの唇が触れたのだろう指を引っ込めて、首筋を桃色に染めていた。
 勘のいい男ならすぐにでも気づいただろう。ところがナランチャは、何となく様子がおかしいぞ、と思っただけだった。
「どうしたんだ?」
 は何も言わなかった。その代わり食べきれないと言ったドルチェを、おもむろに飲み込むように食べ始めたので、驚きながらも味を覚えたナランチャは、の口に消えるドルチェの数々を惜しく感じてじっと見つめていたのだが、はそんな視線を気にすることなく、数分と経たずに全て口の中に収めてしまった。
 下に降りてから女は分からないなぁ、と呑気に首を傾げていると、フーゴが「何のことですか?」と尋ねて来た。事情を話すと納得したようで、小学生に諭すように丁寧に説明されてようやく、自分がしたことの意味を理解したのだった。流石のナランチャでも、一から十までは教えられずともはっとして、思い出して照れ臭くなった。

 もしこれが恋人だったというのなら、ミスタなら焦れったい逢瀬だとでも言ったのだろう。実際に、ナランチャとの様子を見たミスタが面白がって煽るようなことをしたが、そんなことをしなくたって別に良かった。
「ナランチャ……あの、もう少し紅茶を飲んで行かない?」
 簡単な世間話をして、様子を確認してから部屋を出て行こうとするのを、そう言って必ず引き止められるのは嫌いじゃなかった。人を頼りにすることはあったが、こうして頼られることは初めてだったので、の恥ずかしそうな笑顔を見るたびにこみ上げる、こそばゆい気持ちが心地良かったのだ。
「しょぉーがないなァー」
 毎度のようにそう言って、ドアノブにかけていた手を離す瞬間、あたたかい嘘もあるものなのだと思ったのを覚えている。

 ナランチャは自分でも気の利かない性格だと分かっていたが、自分がされて嬉しいことを全部にやってやったように思う。
 だからナランチャは、が押し込めていた不安を話すのを、ベッドの端に並んで腰掛けながら黙って最後まで聞いたし、相槌も打たず静かに寄り添って、それから一言「そっか…」と呟いた。それ以外慰めるようなことは、一切言わないようにしていた。ブチャラティがそうしてくれたように、自分が今まで嬉しいと思ってきたことを、してきたつもりだった。
 母も失い、父も自分を騙していた──と寂しそうに話すが、どこか自分と重なるように思えていたのかもしれない。
 たとえがこれまで父親に裏切られていたとしても、それでも愛されている。それはナランチャとは天と地ほどもある差だった。だが母親のラグーが食べたくても二度と食べることの出来ない自分とは、その点では同じなのだと思った。帰る場所があっても、ラグーを理由にして帰ることは出来ない。もう、絶対に。

 がナランチャを薄々ギャングなのではと思い始めた頃には、ナランチャはすっかり彼女のために何かしてやろうという気になっていた。だからこそ、から言われる前にメンバーの前に連れて、自分から正体を明かしたのだ。
「ごめんよ」
と謝ると、少し落胆を浮かべていたも、「いいの、仕方がないもの」と言って、それから頻繁にリストランテに顔を出すようになった。
「ナランチャ目当てか~?」とミスタにからかわれても、悪い気はしなかった。だから、言われるままにしてしまったのだった。ももしかしたらそうなのかもしれないと思っていた。ナランチャがギャングと知ってからは、やはり以前のようには話しかけてくることはなくなったが、特に避けている様子もなく、時折感じる視線に安堵し始めていた。
 そんな時に突然、「馬鹿は嫌い」だと言われたのだから、その時のショックと言ったらない。それからのツンとした喧嘩腰の態度も、出会ったばかりの頃とはあまりにもかけ離れていて、は無闇に人を貶すような人間ではないと思っていただけに、ナランチャこそ落胆を覚えるようになってしまっていた。

 嫌いではない。それだけは言い切れる。
 ばか──
 だからこそ三日前、そう言いながら自分の胸にすがりついた、の細い肩を突き放すことは出来なかった。すぐ後に「ごめん」とか細く呟いた濡れたような声も、ナランチャにが女だということを認識させて、背中のあたりをむず痒くさせた。
 だが、あまりにもころころ変わるの態度に、もうどう接したらいいのかが全くわからなくなっていた。
 守ってやりたいと思えば辛辣な態度で攻撃され、こちらから突き放せば寂しそうに頼られる。わがままに付き合っていると思えばいいが、を放っておけないために、ナランチャは困惑するばかりだった。
 ギャングだということをに隠していた父親を、裏切り者だとは言った。その父親と、誤解していると知っていても、自分をギャングだと初めから告げなかったナランチャは、もしかするとにとっては同じなのかもしれない。どんなにナランチャが尽くそうと、は憎んでいるのだろうか。
 難しいことは、あまり考えたくはなかった。こんがらかるだけだ。出来ることなら距離を置きたいのだが、それでも、ブチャラティから「よろしく頼む」と言われてしまったからには、“御守り”の仕事はまだまだ続くだろう。
「あーあ、やんなってきたなァ」
 赤々とした空が路地向こうに広がっていた。二階の窓から乗り出した主婦が、頭上に吊るしてある洗濯物を慌てて取っている。
 路地に沿った長細い空が次第に暗くなり、足元もあと少しで影に覆われていくのかと思うと、何もかも面倒な気分になる。世界の明るさを奪っていく夕焼けには、そんな力がある。
 鼻をスン、と鳴らした。昼間とは違う、温度が削がれていく冷たくて憂鬱な匂いだった。

「……ナランチャ?」
 不意に声に呼び止められて、ナランチャは俯いていた顔を上げた。だった。たった今まで頭を悩ませていた人物がジェラートを持ってそこに立っていたので、思わずぎくりとしてしまった。
 は橙色のオープンパンプスを鳴らしながら、ナランチャへと歩み寄ってくる。知れず、いたたまれない気持ちになって、に背を向けた。
「今帰り?」
「あ、ああ……」
 何で俺に構うんだ?嫌いじゃないのかよ?──と言おうとした口を閉じた。思っていることをそのまま言葉にしてしまいそうだった。
 下手なことを言う前に顔を見ずに立ち去ろうとしたのだが、ナランチャが歩いても、後ろからパンプスの音はついてくる。僅かに苛立ちを感じた。何で追いかけてくるんだと思い始めたところで、がまた、背中を丸めて歩くナランチャに「ねえ、」と声をかけた。
「家、こっちなの?」
「ちげーよ、リストランテに寄るんだよ」
「ウチの?」
「あー」
 返事をしてから、ふと思った。の今の住居は、チームの集会所になっているリストランテの二階だ。
 ナランチャの歩幅が狭くなった。が追いかけてきているのではなく、目的地が同じだっただけだ。そう、気づいたからだった。
 自意識過剰のような気がして、ナランチャは無言のまま口を尖らせた。
「ねえ、」
 さっきより近くに聞こえた声に横へ目を遣る。気がつくとは、ナランチャの隣に立っていた。ぎょっとして「うわっ」と飛び退いてしまうと、が眉を寄せて「何やってんの?」と呆れた様子でジェラートを舐めた。
 どぎまぎする。何を考えているのか、まったくわからない。小学校にいた時でさえ、女の子というのはいたずらの対象でしかなかったというのに、年頃の女の相手など、一体どうすればいいのか、ナランチャに気の利いたことなどできるはずもない。
 ブチャラティも無茶言うよなぁ、と胸中で零しながら、ナランチャはジェラートを舐めながらこちらを怪訝そうに見つめるに、「何だよ?」と返して反っていた姿勢を戻した。
「何で先に行くのよ」
「はあぁ?」
 ナランチャはポケットに手を突っ込んで、首を傾げる。するとは風も吹いていないというのに、髪をやたらと撫で付けながら、ナランチャから視線を逸らして、言いにくそうに「だから、」と呟いた。
「行き先が同じじゃない?」
「…………」
 まだ先が続くのかと思い、ナランチャはジェラート片手に落ち着かなく髪を触るを、じっと見つめて待っていた。路地にも段々と赤い日が差して、街の色が変わってきている。その日に照らされながら、のまなじりにかかる髪が一本だけ掬い残されているのが何となく気になって、目を見た。
「あっ……」
 う。横目に窺ったのだろう。ばちっと視線が合った途端に漏らしたの声は、言葉にはなっていなかった。何を言いたいのか聞き返す前に、の目の色に既視感を覚える。そういえば三日前も、あんな目をしていなかっただろうか。
 奇妙な感覚に襲われながらも、ナランチャは痺れを切らして、促すようにに両手を広げた。
「あのさァーー、待ってるといい加減日が暮れちまうんだけど、一体何なんだよ?」
 言った途端の顔は、夕日に紛れても分かるほど、カッと燃えるように赤くなった。馬鹿、という音が路地に漏れた。
「行き先が一緒なのよ! これだけ言えば分かるじゃない、普通……!」
 それでも一向に首を傾けたままのナランチャに、は肩を落として呟いた。「一緒に帰らない?」とが言う。呆れ果てて脱力したせいか、それとも情けないと思ったのか、耳に届いたそれは泣きそうな声色に聞こえた。

「……え?」
 一緒に帰らない。聞き間違いでなければ、そんな声が聞こえたような気がして、ナランチャは何度か反芻した。間違いではない。は確かにそう言った。
 そういえば考え付きもしなかった。一緒に帰る、なんてことは。
「もしかして、何かまずいことでもあった……?」
「えっ、いや全然!」
 素に戻ってぽろっと笑顔を零すと、何故かは嬉しそうに笑った。それが珍しくて凝視してしまう。しかし視線に気づいたは、すぐに顔を背けてしまった。
 その代わりなのか、手元のジェラートを考えこむように見つめていたかと思うと、は不意に、ナランチャの前に腕を伸ばして、
「一口食べる?」
と尋ねてきた。
「い……」
 思わず、ジャンドゥーヤを指ごと食べてしまった時と同じように、また「いいの?」と言いそうになった。
 食べやすい位置へ差し出された生クリームの乗ったジェラートは、強い夕日に照らされてオレンジ色に輝き、更に上にとろりとジャムがかけられているようで、一層美味しそうに見える。欲望に正直な喉が鳴る。
 がっついたら、カッコ悪いよな──と思って、何とか声を押しとどめた。今度こそ断ろうとしたのだが、ナランチャの身長に合うように必死に腕を伸ばすを見ていたら、そんな気持ちも弱まっていった。
 それよりも、格好をつけようとしていた自分に気づいて、ナランチャは驚いた。その方が余程衝撃的だったのだ。今まで俺は格好をつけていたのだろうか。そう思うと不可思議な感情がこみ上げてくる。
 今だってこんな赤ら顔に、震えた腕に、何をカッコつける必要があるのだろう。
「いいの?」
とナランチャは言っていた。そしてかぶりつく前に、一度だけ念を押す。
「帰ってからジェラート食われたって、泣かないよな~?」
 てっきり、お得意の「馬鹿」が来るのだと思っていた。しかし腕の下から響いたのは、軽快な笑い声だった。
「そんなにドルチェが好きなのね」
 そう言って、こちらまで可笑しさを貰ってしまいそうなほど、楽しそうには笑うのだった。

 街は数分で薄暗くなった。ぽつりぽつりと会話をしていても、妙な高揚感のせいか話題もすぐになくなって、路地を三回曲がる頃には、黄昏時の中に足音だけが響いていた。
 一人の足音ではない。自分の他に、もう一人。薄っすらとした冷たい路地を、同じ場所へ向かう足音が地面を打っている。その足音を、ナランチャは心に刻むように聞いた。
 嫌いじゃない、とナランチャは思った。この夕暮れは嫌いじゃない。寒々しい気持ちが、いつの間にかどこかへ吹っ飛んでしまっている。
 何故かは分からなかった。でも、あれほど苦手だと思っていたとの帰り道は、それ程悪くはなかった。
 これっぱかしもいい思い出はなかったのか?──
 ブチャラティの声が、ナランチャの頭に浮かんできた。生憎、ナランチャの父や友人に対する失望が強すぎて、まだ“いい”と言える思い出が出てこない。でも、どこかでこんな風景を見たような気がした。ずぼらな主婦が取り忘れた頭上でたなびく洗濯物をくぐりながら、誰かと一緒に、薄暗い夕焼けの路地を歩いて帰ったような気がする。それは、ナランチャの気のせいなのかもしれない。そうであって欲しいという、望みなのかもしれない。
、お前ラグー好き?」
 二つのまったく違う足音を聞きながら、ナランチャはへ尋ねた。脈絡はなかったのだが、隣からはすぐ、「ええ」という明るい答えが返って来た。
「だから何度も教わったの。お陰で母の味は完璧よ」
「なぁんだ」
 ナランチャは笑ってしまった。なぁんだ。もう一度呟いて、大きく足を振り上げる。小さな石ころが跳ねて、どこかへ転がっていった。
「何? どういうこと?」
「そういうのもありなのかよ!って思ってさァ」
 は、意味がわからないという風に眉を寄せている。

 確かに、悪いことばかりじゃないのかもしれないと、ナランチャは思った。全部、本当は持ち歩いている。もう二度と母の味を食べられなくても、ナランチャだって持ち歩いている。ブチャラティと同じように、他より甘いトマトソースの味を、舌が覚えている。夕暮れを誰かと歩いて帰ったかもしれない記憶も、きっとちゃんと持っているのだ。家に帰るのが、苦痛ではなかった気持ちと一緒に。
「ちょっと、何で笑ってるのよ!」
「あっ、おい! 叩いたな! 叩くのはやめろよな、叩くのはよォー」
 味見したばかりのジェラートが、口の中で甘みを残している。舌でそれを舐めとるようにへ言い返すと、愉快な感情がこみ上げてくる。もしかしたらこれから先、ジェラートを食べるたびにこの気持を思い出すのだろうか。

 すっかり日が暮れた路地には、ぽつぽつと窓から灯りが漏れ始めている。二人分の足音が、それをくぐるようにしてリストランテへ騒がしく向かっている。そうして、角を曲がってすぐの灯りのついたリストランテではきっと、ティーセットを前にして、だらけきった仲間が待っているのだ。
 悪くねェ──とナランチャは思った。
 ひとつずつ好きになっていくのかもしれないと、足音に考えを浮かべる。こうして一歩ずつ歩くたびに、色んなことを好きになっていくのかもしれない。
 そしてその横にがいても、決して、悪くはない気がするのだ。



|終
theme of 100/021/夕暮れ
12/12/10 短編