決意するように自宅を出て、急ぎ足で家並みをくぐり抜けた時だった。とある家の軒先から、薄い桃色の花弁をつけた枝が一本飛び出しているのが目に入り、思わず足を止めた。細い枝を追ってよくよく見ると、どうやら家屋に寄り添うように生えている木から伸びていたらしく、中々の枝ぶりだった。数年やそこらの木ではない。知っているのと少し違うが、桜だろうか、と俺にしては珍しく感心したようにその花を見上げる。
砂利の擦れる音がして視線をずらすと、生垣を挟んだ向こうから、五六十代の麦わら帽を被った親父が、俺を見つけてにこりと笑った。
「ようやっとそこまで花が開いたが、連日雨の予報があるから、もしかしたら今日が見納めかもしれないな」
「そうですか…しかしずいぶん綺麗ですね。桜、ですか?」
枝を手にとって引き寄せてみる。親父がからりと笑った。
「いや、林檎だよ」
「すみません花には全く詳しくないもので」
幾分細い花弁をさらりと風がすくう。手を離すと木全体が心地良さげになびいた。
「良かったら一枝持って行くといい」
「えっ、いやそこまでは」
「どうせ散るころには取り払っちまうよ。そこに物置を建てようと思ってたんだ」
手入れも大変だしな。と言いながら歩み寄ってきた親父は、剪定バサミでぱちんと枝を切り取ると、俺の手にそっと握らせた。揺らすと花弁が落ちてしまいそうで、持つ手に少し力が入った。
「袋か何かいるか?」
戻りかけた親父が振り返る。俺は暫く考えて、ひとつ頷いた。



りんご 上



日も大分落ちた赤紫色の空をバックに、景色が線路に沿って淡々と流れていく。ざわめきも笑い声も泣き声もない、静かな車両だった。都心とは違う、望郷の念に駆られる穏やかな窓辺だ。天井に備え付けられた小さな扇風機が、首を曲げたまま静かに季節を待っている。錆た窓の桟を軋ませて思いっきり窓を開けると、涼やかな春の風が車内を満たした。
大きく揺れた席の上で、丁寧に紙袋に入れられた桃色の花が香りを漂わせている。親父は毎日この花を見て変化を楽しんできたのだろう。何であれ、一週間という短い時間は、時に全くの変化をもたらすものなのかもしれない。カタンカタンと、線路を鳴らす電車に合わせてなびく花弁に、ふと自分の影が重なった。

*

プロリーグもファイナルを終え、あとは引退するだけだった。前々から決めていたことだったから、不思議と心は凪いでいた。事務所には数年も前から相談していたし、説得の末承諾も受けていた。それでもファイナルを終えてすぐの、優勝で歓喜していた事務所内に、はっとした冷たい空気が流れると、俺のプロとしての生命はまだ終っていないのだと感じさせられた。当然のように引き止められもしたが、随分前から決めていたことを改めて話すと、意志の強さを読み取ったのか、俺を呼ぶ声に諦めが混じった。
しかしそう簡単に花形を手放してはくれないらしく、二日経った今でも一度たりとも止むことなく、自宅と携帯電話の着信音が鳴り響いている。夕暮れの薄明かりの中を蛍火のようなランプが絶えず点灯して、僅かに部屋を照らしていた。
事務所へ登録したはいいものの、滅多に使わないままに、自宅の隅で埃を被せていた電話へ近寄る。
「悪いとは思うが…」
今さら考えを改める気はない。それ位ならば、初めから口には出さなかったのだ。
悔いるように一旦目を瞑って、俺は迷うことなくプラグを抜いた。間の抜けた短い断末魔が響くと、それきり着信を知らせるものが一切途絶えた。

プロを辞めて何をするか、実のところ一切考えていなかった。そんなことを言ったら絶対に開放してはくれないだろうから、事務所には思うところあってとだけ伝えていた。そういう曖昧な理由が着信に表れていたのかもしれなかった。組まれた会見でも、俺は事務所と違わぬ理由を述べて立ち去ったので、大分バッシングを受けたものだが、理由らしい理由などなかったのだから、それ以上思いつきもしない。仕方のないことだ。

それに俺が去ったところで、金づるのための後継者ならば幾らでもいた。少々後ろめたいのは、兄さん達のことだった。プロデュエリストという今や政治にも財政にも轟く大きな勢力から、万丈目の名を背負う俺が手をひくということは万丈目グループの痛手となるだろう。何より、長年を掛けて重ねてきた兄さんたちの信頼を、一気に崩すことにもなりかねなかった。俺にとっての一番の痛手は、それなのかもしれない。
けれど、デュエル界に君臨するという目的ならば、もう十分すぎるほどに果たした。ここでやめたところで万丈目の名を失墜させることにはならないだろう。寧ろ短命の方が、余程伝説まがいに語られるものだ。
そう考えるあたり、たとえ兄さん達になじられたところで、そう易々と変わる意志でもないようだった。

──何故やめるんだ
様々な声がリフレインする。同様の質問を幾度も投げかけられた。その度に俺もオウムのように一つ言葉で返答していたが、自分自身、得体のしれない焦燥感があったのは確かだ。プロを引退したところで、デュエルから全く離れるつもりはないのだが、俺自身の見通しが無いことにも変わりはない。ただ、このままでいいのかという、曖昧な不安だけが数年胸につっかえていた。理由というのなら、それが一番の理由だったのだろう。

思えば愚かなことをしていたのだろうが、愚かと思うにはまだ、状況を頭の中で整理出来ていなかった。その時点ではっきりと言えたことは、この後のスケジュールはほぼ真っ白だ、ということだけだった。まだ続くであろう会見も、完全な事務所の引きはらいも、予定でしかない。明確な日程は分かっていなかった。

しかしひとつだけ、用事と呼べるものがあった。それは更に遡ること、ひと月ほど前のことだった。


──こんにちは、万丈目サンダー。
数年ぶりと言うにはあまりにも聞き慣れ過ぎた幼さの残る声。一瞬唖然とした。
──…翔、貴様……何の用だ
──相変わらずっスね、その態度
翔とはテレビの中継越し、稀にデュエル場、または取材を共にすることがあった。互いに顔を見過ぎて久しぶりとも言い難い雰囲気だった。
──今度同窓会でも開こうと思うんスけど
──…それはまた急な話だな
──卒業してから、みんなで集まったことない気がして…だから一応サンダーも誘ってみたんスけど、やっぱり煩くなりそうだしいいや
じゃあまたプロリーグで、という憎たらしいほど明るい声に、俺は慌てて待ったをかけた。するとノイズの混ざった笑い声がケタケタと響く。
──冗談っスよ!
──貴様も相変わらず厭味な奴だな…
全く変わらないというのもおかしな話だ。顔だけ見れば、皺のひとつやふたつ認めることができるというのに、声も態度も関係も、アカデミア時代から何も変わっていない。翔だけでなく、十代も、天上院君も、三沢もみんな、もしかすれば自分でさえもそうなのだろうか。そして、も。
ひとたび興味が向けば、知りたい気持ちが大きく膨らんでいった。今までそうまでして会いたいなどと思わなかったというのに。
──それじゃあ万丈目君も、っと。一ヶ月後、ファイナル終わった後、忘れちゃ駄目っスよ!
メモを取って一方的に電話を切られる。誰が来るのだとか、場所も時間も詳しい話を放り出して、翔との通信は途絶えた。携帯は液晶に通話終了の文字を残して静まり返っている。
しかし、懐かしい心地がした。万丈目君。そう呼ばれたのは、ずっと昔のことだ。
「そうか…」
受話器を置いて、携帯の音量を切って、あとは車通りの音を残して漂う静寂の中に、俺の呟きがひとつ落ちる。
に、会えるのか。
ソファに腰を落とせば、体の節々が和らいだ。疲れが一気に押し寄せてきたようだった。
「はっきりと、思い出せんな…」
ぼんやりとした輪郭は浮かぶが、やわらかな髪や丸みを帯びた顔、爪の形、笑い声など、まとまりのない情報ばかりが思い出されて、はっきりとした全体像はぼやけたままだった。
それもそのはずだ。最後に会ってもう何年になるのだろうか。きっと、数えるにも億劫な年数だ。


特に珍しいところのない、平均的な女だった。だがどうしてかアカデミア時代を思い起こすたびに、その景色一つ一つには、必ずの姿があった。
高等部からの入学で、アカデミアで接したのはやはり天上院君との繋がりだったかもしれない。接点はもはや曖昧で思い出せなかったが、他と関わりを持たない俺が、三年という学園生活で最も多く言葉を交わした女性であったように感じられる。いや確かに、“”と呼ぶ程度には近しい存在だったのだろう。
よく相談を受けた。俺が、ではなくがだ。どうやら話を聞くのが上手いようで、仲のいい者はいらんことまで零してしまって、後でハッと気づくという具合だったようだ。俺でさえも例に洩れずその一人であったことは、情けなくも否定はできない。
相談といっても多くはそのつもりがなく、ただつらつらと思うことを吐き出してすっきりしてしまうようなものだったが、それでも否定せず欲しい相槌を打つの雰囲気は、話している者を心から安心させた。
「万丈目君」
時折廊下ですれ違えば、挨拶なしに、一言名を呼んで引き留める。
「ちょっと顔色悪いんじゃない?」
「そうか?俺はもともと血色のいい方ではないが…」
そうして何とはなしに顔に触れた自分の手を眺めていると、
「暇ならお茶でも飲む?」
どんなに苛々していても、その一言に不思議とまぁいいかという気になり、気づけば心の内を吐露する茶会になっているのだから、困ったものだった。それでも不安も悩みも理由のない苛立ちも、話した後に嫌な感じがしないのが、の聞き上手たる所以なのかもしれなった。今思えば相談を聞きながら、俺たちも気づかぬ内に奴の悩みの一片を受け、無意識にの相談役にもなっていたのだから、とことんよくできた茶会であった。

携帯がけたたましく鳴り響いて、一時の記憶のまどろみから引き戻された。広いリビングに機械音が延々と木霊する。きっとまた引退についての電話だろう。幾ら鳴ろうとも、答えるべき言葉を持っていない俺に、その受話ボタンを押す気にはなれなかった。
規則的に鳴り続ける音を聞きながら、薬缶に火を通す。ドリップの用意をして、自分好みにブレンドした浅煎りの豆が空気に触れる匂いを嗅ぐ。
考えていてもどうにもならないのだと思った。どうしようもなくぽっかりと空洞の空いた生活には、きっかけがなければ進むことはできないのだと感じていた。しかしやり場のないこの焦燥感は何だろう。
「ん?」
着信音が変わった。今の俺にとって恐らく危害のない人間だろう。思って開くと、丸藤翔の名前が点滅していた。
「何だ」
「何だじゃないっスよ!いつ来るんスか!」
電話を取った途端聞こえた、耳をつんざきかねない翔の叫びに、そういえば今日は同窓会だったかと、失念していたことに気付いた。
「貴様時間も告げずに切っただろう。とやかく言われる筋合いはないぞ」
「じゃあ折り返し電話くれればいいじゃないっスか、もう!」
電話を肩にはさみ、自分の格好を確認する。暫く休日間違いなしの日々を満喫していた部屋着姿では、会話をしながら会場まで向かえそうにもなかった。自室まで赴いて、すぐそばにかけてあったスーツを手に取り、器用にズボンの着脱を済ませる。翔がとにかく早く来いと、しきりに電話口に繰り返した。
「ああ分かっている。すぐ着くのだからそう焦らんでもいいではないか」
「違うんス!サンダー信者がうるさいんスよー…僕は別に遅れても構わないって言ってるのに」
後ろから万丈目さん、万丈目さん、とお世辞にも可愛いとはいえない、暑苦しく野太い男の声が聞こえる。一月前から同級生との落ち着いた再会を期待を含ませて予想していたが、やはりあの個性の塊と言われた学年に静かな時は望めそうにもないと、一瞬で思い知らされた。
「……遅れても構わないか」
「僕だけなら別段構わないんスけ…」
「サンダー来てください!飲み明かしましょう!俺たちのキング!」
「あ、あぁ…」
半ば携帯を奪うようにして叫んでいるのだろう。僅かに受話器から耳を離して、勢いのままに返事をしてしまった。歓声とともに翔の「うるさいっスーッ!」という怒鳴り声が聞こえ、次いで急いた様子で「じゃあ宜しく頼むっスよ!」とまた一月前と同じく一方的に通信を切られる。通話時間が表示された液晶を眺めながら、そういえばこんな奴だったと、また珍しくもない同級生の素顔を再認識して、変わり映えのない黒のスーツに腕を通した。
身支度を整え終えて少し落ち着くと、また忘れかけていた様々な顔が思い浮かぶ。アカデミア時代の、あの懐かしい面々が頭を滑って行く。今頃奴はどうしているだろうか。一人ひとりを思い浮かべながら、きっと昔の俺では口にもしなかったことを思った。これが、年の功というやつなのかもしれない。
リビングに戻り、淹れかけだったドリップコーヒーを手に取って、すっかり冷めてしまったのを仕方なく口に含む。ふと、テーブルの上のバスケットが視界に入った。赤々としたリンゴだった。
やはり浮かんだのはのことだった。何故こんなにもを思い出すのか。レッド寮のメンバーと違って、ずっと会っていなかったせいもあるのだろう。ぼんやりとそんなことを思いながら、線の霞んだおぼろげな記憶の輪郭をなぞる。

そういえば、は紅茶と同じくらいリンゴを好んで出した。茶会となれば持ってきて、実が削げるくらい無茶苦茶な剥き方で皿の上に乗せ、必ず紅茶の横に添えるのだ。
「ちゃんと冷やしてあるからどうぞ」
「ああ、すまない…んぐっ…?」
初めて食べたのリンゴは、お世辞にもあまり美味いとはいえない。水気が抜けて柔らかくなったリンゴの果実。到底自分の口には合わないと、それでも出された分だけ律儀に食べていたあの頃が酷く懐かしい。
「あれ、ちょっと置きすぎちゃったかも…ま、まあいいからあと3個くらいは食べてって!」
「誰が食べるかそんなもの!」
「あ、じゃあ焼く?蜂蜜かけたり、チョコレートとかも…パンケーキなんてどう?!」
「俺を処分屋にするな…」
「それじゃあ、無くなるまで毎日作ってくるからね!」
「俺の話を聞いてるのか貴様は!」
思い出というものは美化されて、穢れを知らない足下の空洞に咲く結晶のように、時を経て輝きを増していくものだ。今まで随分と大切にしまいこんでいたようだが、記憶の洞穴にしまいこんでいた思い出が、リンゴという小さなピッケルで、いとも簡単に掘り出されてしまったようだった。


着いた時にはすでに、ホテルの広間は熱気で沸いていた。これほど賑やかな同窓会というのも珍しいのではないかと、入り口で呆れたように賑わう様子を眺めていると、待っていましたと言わんばかりになだれ込む見慣れた顔の集団。
「万丈目さん!待ってました!」
「以前と変わらないその威厳…!」
「いや前より更に男らしく…!」
「サンダー、俺毎日テレビ見てるよ!」
「やめちまうって本当か?!」
怒涛のように投げかけられる言葉の雨嵐。どれも心配やら称賛やら、心から嬉しいことを言ってくれているはずなのだが、いかんせん声が重なって全く聞き取れない。
「おいおい…いい歳した大人が取り巻きもないだろう…」
「丁度昔話に花を咲かせていたところだったから、きっとアカデミア時代に立ち返っているんだろう」
甘い穏やかな声に振り向けば、昔から今日まで世話になり続けた人が立っていた。
「師匠!」
「君も師匠は無いんじゃないか…?」
苦笑いを零した吹雪師匠は、俺の背に手を添えると、入り口の向こう側を指差した。
「翔君たちはあっちで集まっているみたいだよ。万丈目君も行くといい」
「そうですか、ありがとうございます」
「十代君も来ているみたいだしね」
「十代の奴が…?」
驚いて目を凝らす。反対側の壁に沿って、一人一人の顔を確認していくと、確かにそれらしき後ろ姿を見つけた。未だにレッド寮の制服を着ていたらどうしようかとも思ったが、そこまでの馬鹿ではなかったらしい。十代らしいカジュアルな格好で、一席に盛り上がりを見せていた。
ホテルマンから受け取ったグラスを持って、人波を縫って歩く。見失わないように奥の席をに目をやり、ひたすら進んでいると、誰かに呼びとめられる声がした。騒然とした中を見渡して、後ろを振り返る。
「万丈目君!」
ふわりと、記憶が遡った気がした。
「やっぱり、万丈目君」
アカデミアの弧を描いた廊下が目の前にすっと広がっていく。ざわめく生徒の声と廊下を打つ駆け足、窓の外は常緑の木々が一面に広がり、その向こうに微かな水平線に溶け込むような青空。教室側の壁に窓の影が規則的に映って、それを踏み越す影がまた幾多。
「………?」
変わらないと言えば失礼だ。しかし目の前に立つのは、あの輝いていた苦しく楽しい青春の日々を蘇らせる、懐かしい笑顔を浮かべただった。

ゆったりとしたクラシックの音色をバックに、俺は立ち話も何だからと、を壁際の椅子に誘導した。は「いいの?」と十代たちの方を伺う。構わないと俺は首を振って隣へ腰掛けた。
「万丈目君は変わらないね」
「何がだ?」
はさも可笑しそうにくすくす笑うと、聞いたよ、と一言零すと赤紫の揺れるグラスに口をつけた。
「ああ…もうそんなに広まってるのか」
「ファンが多いもの」
ちらりと動いた視線を追えば先程の男達の姿。俺は思わず肩をすくめた。
「会見もビシィっと、やめる!って言うだけ言って帰っちゃったんだって?万丈目君らしいなぁ」
「あれは…」
「昔から中途半端なことは嫌いで、十代に負けた時もアカデミアを出て行ったじゃない。びっくりしたよ」
理由がなかっただけだと言おうとしたが、の顔を見ているうちに何となく、それを話すのが躊躇われた。いつの間に視線を外していたのだろう。小さく笑いを零していたが静かになったので様子を見ると、両手で包んだグラスを膝におろして、あのね、と正面を向いたまま呟くように話し始めた。
「卒業してからの話なんて、そんな楽しいものじゃないけど、ちょっとだけ聞いてくれる?」
「ああ、随分会っていなかったからな」
そう言って促せば、はほっとしたように目尻を緩ませた。
「あの頃ね、私はずっと悩み続けてた。みんな自分の道を決めて進んでいくのに、どうしたらいいのか卒業しても分からなくて…結局流されるままデュエル関連の仕事についたけど、でも、それってデュエルがやりたかったんじゃなくて、その道に進まなきゃ、アカデミアにいた3年が無駄になるんじゃないかって、そういう不安があったからだって、最近になってね、気づいたの」
そんなことを、は一言一言噛み締めるように、ゆっくり話した。息を吸い込んで、そうして俺を振り向く。相槌も何もせず、黙ってを見つめて聞いていた俺に、気恥ずかしそうにはにかんだ。
「だから、今からやり直し」
グラスを煽って一息つく様子に、「そうか…」とようやく相槌らしい相槌を打つと、がはにかんだ顔のまま、
「万丈目くんは次の道、決めたの?」
と尋ねた。
その言葉に、“”だ、と強く感じた。自分の気持を吐露するのも、相手の気持ちを和らげるためでもあることを、この時に思い出した。実のところ、が心中を明かすのを相談として聞いているつもりでいたが、気づけば俺は心配されていたのだろう。以前なら気づくこともなかったであろうが、やはり俺も、年は重ねてきただけではなかったようだった。
「いや…」
分ったところで言葉が濁る。隠すようなことも、言いにくいこともないのだが、どう言葉に表せば良いのか、自分でも感情を持て余しているようだった。氷が溶けて、のグラスからカラリとグラスの透明な音色が響いた。
「今、お店開いてるの」
小さな喫茶店なんだけどね。言いながらは、更に氷の音を響かせるようにくるくるとグラスを回す。
「もしよかったら、お茶飲みに来て」
頷こうとした時、遠くから「万丈目ー!」と、特有の発音が俺を呼んだ。それが誰であるか100人いたとしてもすぐに分かる、特徴的な発音とボリュームの大きさ。は笑顔で俺の背を軽く押した。
「十代君、きっと滅多に来ないよ」
その視線を真っ直ぐうけて、俺は十代に呆れたため息を付きながら、中途半端に終わった会話を切り上げる。「後でまた」と言えば、はただにこりと笑った。
ざわめくレッド寮のテーブルへ足を向ける。大きく数歩踏み出した時だった。
「あ、そうだ」
椅子から立ち上がったが、焦ったように俺を引き止めたので、上げた足を戻して、半身壁を振り返った。
「約束、覚えてる…?」
「約束…?」
何だっただろうか。なにせ、かれこれ20年の時が経っているのだ。思い出そうにも、時間がなかった。は一瞬止まってしまった俺を見て、何でもないと首を振った。
「万丈目君、無理しないでね」
そう言ってグラスを掲げたは、歩み寄って名刺を渡すと、グラスを置いて人混みに紛れるように去っていった。



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(ほのぼの100題/016/思い出)
11/07/14 短編