りんご 下



カラリと車両のドアが開く。かっちりしたほつれ一つ無い制服に身を包んだ車掌が、まばらな乗客の間を真っ直ぐに歩いて来る。俺の視線に気づいて、人好きのする穏やかな笑みでお辞儀をされた。頷くように返すと、満足したようにもう一度微笑んで通りすぎて行った。
伸びた背筋が次の車両に消えて行く音を聞きながら、微かに揺られた前髪につられるように、そっと窓の向こうへ視線を戻す。すっかり空は紫色で、雲の合間から漏れる光が青く染み渡り、山間をひっそりと照らしていた。
あの時の俺は、間抜けにもほどがあった。は話してもいない俺の気持ちを察して、俺は話したの気持ちなど、これっぽっちも分かっちゃいなかったのだ。
身動ぎをした拍子に内ポケットがかさりと音を立てたので、手を差し込む。一枚のクラシック調の名刺が、風にゆらゆらと揺れた。

ひと通り騒いだ後に、奴の影を探したが、終電の関係で大分前に帰ってしまったことを知った。翌日の朝に思い出して、渡された名刺を初めてまじまじと眺めた。きっと喫茶店も西洋風のレトロな雰囲気で整えたのだろう。好みのデザインだった。住所を探せば、アカデミアへの定期船が出る港町のすぐ側にあるようだった。
名刺を渡された別れ際が、フラッシュバックする。じゃあ、と手を振られた。またね、でもさよなら、でもなく「無理しないでね、じゃあ」と。思い返せばそれは、もしかすると今生を覚悟したような、そんな別れ方のようにも感じられた。

*

また話の続きをするつもりで席を立ったのに、果たせずに終わったからか、起きがけにものことを思い出した。約束、とは、何だったのであろうか。謝って電話で聞けば済む話であるし、20年前の約束だ。忘れたままにしていても時効であることは分かっているのだが、それを思い出さずして聞くのは禁忌のように思えた。あの時のの雰囲気が、そう語っている気がしたのだ。

2、3日経ってから翔と、珍しく十代が訪れた。インターホンを鳴らして図々しくも、来てやったぞという態度で人の家に入ってくるような輩は、生涯こいつらしかいないだろう。
「久しぶりだなぁ、万丈目」
「この前会ったばかりだろう」
少しは大人になったと思っていたが、こういう抜けたところは治る気配を見せない。綺麗に整えた客間に通すのも癪だったので、リビングへ投げるように押し込めた。まさか邸内探検などはしないと思うが、どうにも昔の癖で警戒してしまう。
数度しか来たことがないくせに、まるで知り尽くしたように歩を進め、遠慮なしに椅子へ腰掛けた翔が、改めてきょろきょろと辺りを見回した。
「相変わらず広い家っスね」
「お前の家もなかなかだと思ったが…」
戸口では、十代が興味なさそうに額縁の中身を眺めていたが、ふと振り返ってなぁ、と俺を呼んだ。
「随分静かだけど、お前ひとりで住んでんのか?」
ああ。来客用のカップを戸棚から出しながら答える。
「前までは使用人を雇っていたが、今は一人だ」
「サンダー、料理作れるんスかねぇ…」
翔がしみじみと頬杖を付いたのに、十代が笑いながら歩み寄って、勢い良く椅子に腰を下ろした。
「どうせコンビニ弁当とかだろ?」
「お前と一緒にするな!」
即座に心外だと言わんばかりに反論すれば、何がそんなにおかしいのか、やはり愉快そうに十代が笑った。
「やっぱ万丈目は変わんねぇなぁ!」
コーヒーを淹れる手が止まった。十代と誰かの声が重なった気がした。
──万丈目君は変わらないね
そうだ、だ。
「アニキこそ全く変わってないっスよ」
「この歳だしさ、そのアニキってのやめようぜ、翔」
「僕も思ってるんスけど、癖で出ちゃうんスよ〜」
十代たちの声がどこか遠くに聞こえる。
と再会したとき、心の内に本当にアカデミアの風景が広がったのを、今でも思い出せる。遠い昔のように感じていたあの時代が、目の前に現れたような、懐かしさという興奮が込み上げてくる、そんな感覚だ。顔を出す前は輪郭すらぼんやりとしか思い浮かべられなかったはずなのに、名前を呼ばれ、振り向き、あの笑顔を見た途端、鮮明に20年前の景色が頭に広がった。あの頃に比べれば確かにも年を取った。けれど、名前でも顔でもなく、俺はあいつを笑顔で覚えていたのかもしれない。

お湯を入れてカップを温めてから、コーヒーを注いだ。背後からは相変わらず止まりそうもない、二人の会話が続いている。
「なんかよ、みんな年取ったらガラっと変わるもんだと思ってたけど、そういうものでもないんだなぁ」
「そうっスね。でも女の子はみんな綺麗になってたっスね」
思い返して若干うっとりした風に話す翔は、十代の言うとおり、あの頃から全く変わったとは言えない。三人分の湯気のたつカップを手に取り、お茶請けなどいらんだろうと、二人の目の前に置こうとした時だった。
さんも、前より落ち着いた雰囲気だったなぁ」
テーブルの上に差し出したソーサーが、不意打ちに手から落ちそうになった。
「ん、そうか?」
「そうっスよ、綺麗になってたじゃないッスか」
少し揺らいで零しそうになったが、平静を保って飲めとばかりにカップを押し出し、俺も自分のカップへ口をつけた。
「それなのにまだ独身らしいっスから、きっと働きずくめだったんだろうなぁ」
などと言いたい放題喋った挙句、ずるずるとコーヒーを啜って、息を吐く。翔がやると幾つになっても子どもっぽい仕草のように見えた。そのまま俺を見て、にやりと含み笑いをする。
もともとあまり会話には入らないたちだったので黙って聞いていたが、こう意味深な表情をされていては、大人しく黙ってもいられない。からかいにかけては人一倍長けていた男の笑みであるから、空寒さを感じざるを得なかった。
「…何だ」
眉間に思いっきりシワを寄せて横目に睨んでやると、途端狙ったとしか思えないタイミングで十代へ向き直り、ねぇアニキ、と明るい声で笑いかけた。
さんって、万丈目君のこと好きだったっスよねぇ?」
含んだコーヒーを危うく吐き出しかけた。
「あー、そういえばそうだったかもなぁ」
俺あんまそういうの覚えてないなぁと呟く十代は、高校生にもなって結婚の意味すら分からない時期があったような人間なのだから、言われずとも誰も驚かない。
「サンダーとよく喫茶店に行ったり、お菓子作ってあげてたりしてたじゃないッスか」
「ああ、お菓子!そういや結構頻繁に作ってたよな」
「流石アニキ、そういうことだけは覚えてるんスね…」
なはは、と頭をかく十代を、次いで翔を睨みつけて、ソーサーを持ち上げたまま、コーヒーを煽った。俺の様子を見た翔が、焦っていると満悦の笑みをたたえて笑う。自分でも肩が震えるのがわかった。
「あ、サンダーが怒りかけてるー」
「お、おい翔、あんまからかうと飯奢ってもらえなくなるぜ」
「誰が奢るか馬鹿者!」
十代のあまりにも馬鹿馬鹿しい仲裁にいよいよ我慢できなくなり、キレて側にあったものを掴んで投げつける。十代の手に、長くリビングの置物とされていた、赤々としたリンゴが収まった。
「昔から文学少女って感じで、繊細な雰囲気だったなぁ」
リンゴから連想した俺の思いが伝わってしまったのか、あるいは偶然だろうが、翔がぽつりと呟いて、そこでの話は途切れた。


数日経っても、の話題が頭から抜けなかった。占めていた、という方が正しいかもしれない。俺の心配をするだけして、約束を忘れた俺にどこか寂しそうに別れたのだから、気にならないほうがおかしかった。翔たちの言葉も頭をめぐる。
──さんって、万丈目君のこと好きだったっスよねぇ?
くだらないと思った。言われずともそんな筈はないのだ。あいつらは俺との茶会がどんなものであったのか、全く知らない。あれには色気なんてひとつもない、穏やかでのんびりした空間が広がっていただけだ。それは数十年たった今だからこそ思うことなのだろうか。しかし聞き上手のを前に、ぼろぼろといらんことまで吐き出す俺は、きっとその当時も安心しきっていたのだろう。
それにが俺を好いていたとして、俺は天上院君のことも何度も話題に上げていたのだ。それを笑顔で、心から頷いて聞いていたのはだ。はたしてあの年の女性が、己の一番繊細な感情を押し殺してまで、見返りのない行為で相手に尽くすほどの器量を持てるだろうか。
ソファに凭れるように腰掛け、憮然として、浮かんだ翔と十代の顔を掻き消した。俺には到底そんな事は、いやあの頃の俺自身、考えられないことだった。しかし代わりに、翔が放った言葉がまた、不意に頭に浮かんで反響した。
──昔から文学少女って感じで、繊細な雰囲気だったなぁ
繊細がどうとかいうのはどうでも良かった。俺の知るはそんなに柔な女じゃない。そうではなく、妙に文学少女という響きが頭に残った。文学少女…文学…
「文学……?」
そういえば、何か本を勧められたことがあったような気がする。約束とは、それだろうか。にしても、それ以外には思いつきもしない。だが思うより早く、足は街へ向かっていた。


偶然というのは運命なのかもしれない。それか、忘れてしまう程ずっと昔の伏線を、今回収しているのだろう。俺は人智の届かない力で仕組まれたのを知ったような、そんな心持を隠せなかった。
どんな専門書でも置いていそうな広いフロアの一角で、俺が握り締めているのは、たった一冊の本だった。途方も無い本棚の中から、一列一列の背表紙をなぞり、書名を流し読みし、その中でたった一冊手に取ったのが、この本だった。
『林檎の樹』と印刷された背表紙を親指でなぞり、薄っぺらいページをパラパラと無造作に捲る。
──『────』って知ってる?
遠く霞んだ、の声が聞こえた気がした。会ったばかりで記憶を混同しているのかもしれない。リンゴとを重ねているだけなのかもしれない。それでも、数ある林檎のタイトルからこの本を無意識に手に取ったのは、偶然で、運命で、が落とした伏線のように思えた。

この世には、途方も無い書籍が溢れかえっている。それは小説の主人公たちの歴史であって、作者の歴史の一片でもある。一冊一冊を繋ぎ合わせれば、きっと作者の人生が垣間見えてくるのだろう。そして読み手でさえも、読後に抱いた感情に、自分自身を気付かされざるを得ない。

*

日もすっかり暮れて、少々肌寒くなった。走り続ける電車は、止まっている時よりずっと、冷たい風を吹かせ続ける。
やはり俺は馬鹿だったのだと、思わずにはいられない。“そんな筈がない”わけがなかったのだ。3年もあんなに近くにいて、誰にも話さない心の底を打ち明けて、互いに殆ど何も知らないことのない関係で、絶対などということはあるだろうか。事あるごとに菓子を作ってきて、ただの相談役に、友人に、そんな手間暇かけた物を食べさせるだろうか。俺が一口でも食べた後に、必ず幸せそうなほっとした笑みを浮かべたのを覚えている。
20年前を我が身と思って重ねて見ていたが、こうしてかつての自分を切り離して考えてみれば、俺は盲目にもほどがあった。

自室で一夜の内に読み終えてしまったゴールズワジーの本は、俺の数時間では到底理解しきれないほど、長く深い感情を押し込めている。はそれを何度読み返したのだろう。
──『林檎の樹』って知ってる?
──何かの曲か?本か?
──本だよ
──ゴールズワジーか…
身分違いの男女が出会って恋をする。しかし男は他の令嬢と恋をし、何も告げぬままに結婚をする。純粋な少女はそれを知り、悲しみにくれた末に自殺。男はそれを彼女と逢引した懐かしい林檎の元で知り、何も知らぬ無邪気な妻にそっと口付けを落とす。
恋愛小説のありがちな内容である。しかしもしかするとはそれに、自分の身を重ねていたのではないか。毎日毎日飽きるほど、好きなリンゴの皮を剥きながら、我が身とその少女に何かを見ていたのかもしれない。吊り合わない女と迎えにこない男。そんな人物に何を思ってきたのだろう。俺の知るは、天上院君の話を本当に楽しそうに聞く、そんな姿だけだ。
読み終えた後の様々な感情が交錯した静寂に、既視感を覚えさせる情景が、走馬灯のように回り巡った。3年の、長くて短い宝玉の日々だ。その中でとりわけ意識が向いたのは、やはりの記憶だった。くるくる巡る景色。暗くてぼんやりしたひとつの場面に無意識に手を伸ばし、そのまま引き寄せていた。

「林檎の樹ってね、ギリシア神話では理想郷を表していて、その象徴たる文の引用が冒頭に書かれているの」
ブルーの制服に身を包んだが、池を眺めながらそっとと呟く。頭の上の花飾りが、温かな風になびいてゆらゆらと揺れていた。
「確か恋愛文学だったな」
が頷く。背後のブルー寮からは、卒業式らしい明るめのタイトルが微かに聞こえた。囃し立てる声と拍手喝采。沸き立つ場内は、卒業パーティも佳境ということを知らせていた。
「そろそろ戻ろうか」
「ん?ああ、そうだな」
言ってグラスを飲み干したが歩き出し、地面に吸いつくように足を止めると、ゆったりと振り返った。万丈目君。池を見ていた視線を移す。
「もし読んで良かったら、一緒に林檎の木、見に行こう」
震えた声。うっすらと悲しげな笑みを浮かべて、会場へ颯爽と去っていく後ろ姿。あれは、の精一杯の告白だったのだろう。
まさかそんな遠回しな告白などあるはずもなかろうと、直ぐ様打ち消したのはどこの誰であったか、考えるまでもない。気づくのは遅すぎた。幾度も幾度も読み返し、本に秘めてきたの想いさえも、薄れてしまったかもしれない、それくらいの年月だ。

窓の外では、音が消えて新たな音が生まれている。日々違う音。それなのに変わらない、と思った。昔通った、アカデミアへ出る港への道も、それに外の景色だけではない。俺を包む空気があの頃と少しも変わらず、どこか胸を締め付ける寂しさを覚えさせる。電車を乗り継いで向かう先も果たして、変わりはないだろうか。俺の思い出の、鮮やかなままに。
風の冷たさに窓を閉めて、忘れかけていた甘さが広がった。隣に置いた林檎の花の香が、ふわりと室内を漂う。この花にとっての一週間は、きっと、俺の20年とそう変わりはないのだろう。思ってから唐突に、心の軽さに気づいた。落ち着きをなくさせていた焦燥感を、今という今まで、全く忘れていたことに。
「なんだったんだ…」
疑問を口にはしたが、思い至るには時間はかからなかった。


名刺に書かれた住所を辿って緑に囲まれた町並みを歩いて行くと、街道沿いに家々に隠れるようにひっそり、趣ある看板が立てられているのを見つけた。店の中を覗くがとうに閉めてしまったらしく、人の気配はない。扉の奥に微かに漏れる光が見えたので、がいることは分かった。裏の玄関口に回って、インターホンを押す。壊れかけなのか、間抜けた音が響くと、明るい返事に駆け足で床を踏み鳴らす音と共に、直ぐにドアが開かれた。
暖色の光が奥から俺を照らす。ドアに突っ立ったの目が、動揺したように揺れた。
「来てやったぞ」
言えばいつもの笑いを零して、
「開けるから、店に回って」
と来た道を差した。

ぱっと明かりが灯る。照明を落とした、温かみのある店内が広がった。
「本当に来てくれたんだ」
「ああ」
適当にカウンターに腰を下ろすと、もカウンターに回って、ガスに火をつけた。青い光を、洒落た取っ手の薬缶が覆う。
以前なら先に口火を切って雰囲気を和ませていたは、カップも茶葉も用意し終えると、ただ黙って薬缶を見つめていた。音楽も何もない、静寂な店内が何となく好ましく感じられた。
俺に気を遣ってか、庭を一望できるテラスが開けられていた。立ち上がって外へ出てみる。見せるために丁寧に手入れしてきたと分かるその空間は、作られたというより、自然なままに花が咲いているように見えた。虫の声の交じる、夜の涼しさが心地いい。
の歩み寄る気配がした。微かな風に茶葉の香りが交じる。昔から変わらない、の好きな紅茶を受け取って、手すりに寄りかかりながらまた草の音を聞く。
「林檎の木は、植えていないのか?」
ぽつりと、空気に滲ませるように呟く。暫く、から答えはなかった。読んだんだ。後ろからようやく聞こえた声は、緩やかな風にさえ掻き消えそうだった。
「実は約束のこと、すっかり忘れていた」
庭を見つめたまま、景色の中に、互いを探しているようだった。ううん。
「だって20年も前のことだもん」
言いながらが椅子を引いて、軽く腰をおろした。
「思えば」
はっきりとは覚えていない、鮮やかでありつつ、霞んだ記憶の中だけれど。思えば、
「一度きりの約束だったな」
は頷きも、否定もしなかった。変わりに口を開く。
「あの本を読むとね、未だに学生時代を思い出すの。そういえば毎日飽きもせずにリンゴばっかり食べてたなぁ、とか」
あの冒頭に、縋っていたのかもしれない。そう言ったは、今度ばかりは俺のために話しているのでないと感じた。横目に、寂しさと懐かしさを含ませたを伺う。同窓会の時も、カップを包む手にも、翔の言う通り、所帯を表す輝きはなかった。
仕事にかまけるばかりに、浮いた話のひとつも作れなかった自分が言うことでもないだろうが、機会などいくらでもあっただろうに、この歳になるまで結局、誰の隣にも身を置かなかったの気は知れない。けれど、それで良かったと思える感情が、俺の手の届く場所にあった。
「ごめん、私ばっかり話しちゃって。それで、万丈目くんのご相談は?」
努めて明るい声。必死で雰囲気を変えようとしているのが、手に取るように分かった。紅茶を口に含んで、どう言ったものかと暫し考える。は同窓会の俺の様子を覚えていたから、名刺を渡してここへ誘ったのだろうが、生憎今現在の俺は、あの時のように抱え込んでいるものは何もなかった。
テラスに腰掛けたを置き去りに、カップを持ってカウンターに戻る。座ったまま振り返ったに聞こえるように、少し声を張り上げた。
「この前は、お前に一方的に近況ばかり聞かされて飽き飽きしたからな。俺も一応教えに来た」
「相変わらず万丈目君は決断が早いね。それで?」
俺につられたはまた、カウンターに回る。それを見届けてから、まだ飲みきらない紅茶を出来るだけ端へ移した。
「プロはやめても、俺にはデュエルしかない」
きっぱりと言い切れば、やっぱり万丈目君だと、はさも可笑しそうに笑った。その振動でさらさら流れる髪と、の顔と、柔らかな肩をそっと見て、それと。俺は付け足した。
「やりたいことを見つけたぞ」
道中ずっと抱えてきた林檎の枝を、そっとへ差し出す。

何分の間だったのだろう。いや、数十秒にも満たなかったかもしれない。が過ごした20年に比べれば、とてつもなく短い時間だったが、俺には途方もなく長い時間のような気がした。
テラス側から入り込んだ清涼な風が、花弁を僅かに押し上げた。香りが溢れる。も何の花か分かったのだろう。目を見開いて、恐る恐る受け取ろうと乗り出した体を、俺は堪え切れずに思いっきり引き寄せた。カウンター越しにの体がぶつかって、何かが倒れる大きな音がした。
俺が犯したアカデミアでの仕打ちも、20年の空白も、どうかこのたった一枝の言葉で受け取ってくれやしないだろうか。卒業式の日に寂しげに俺に告げた、林檎の木の、あの言葉を。
「ま、万丈目君、」

冒頭の一文をなぞる。囁くつもりはなかったが、緊張していたのか、意図せず声が掠れて、空気を押し上げただけのような声になってしまった。それでもは、驚いて俺を見つめる。そっと顔を寄せた。戸惑い、一度迷うように彷徨う。は避けなかった。触れ合う。柔らかな感触に包まれたそれは、想像していたよりずっと、甘やかな味がした。
の目尻から、ぽろりと水晶がひとつ転がって、俺の指を濡らした。掬い上げて、軽く抱擁する。
「お茶でも飲むか?」
どうしようもなく愛しさがこみ上げてきて、俺は今まで幾度も救われてきた言葉を投げかけた。涙で赤く染まった目尻が、俺の知るを滲ませる。
「うん」
林檎の香りと一緒にを抱きながら、手に落ちた雫にそっと触れてみる。目の前ではただただ微笑むばかりの女だが、時を埋めるにはきっと、その一滴では足りないのだろうと、ぼんやりと思った。



|終
(ほのぼの100題/024/やくそく)
11/07/15 短編