ミセスハイドより 下



魔が差すというものがどういうものなのか、には分かる。それは過ちを犯した者にしか分からない。どうしてそんな気持ちになったのか、到底理解できないと思っていたが、今のには十分思い出すことが出来た。

三年前の暮れは、体の芯から凍てつかせるような寒い風が吹いていた。空気まで凍ったかのように透明で、サテライトの隅々まで見渡せるような星月夜だった。はその中を息を切らせて走っていた。
足元は一昨日の雪が踏み固められて、すっかり凍っている。足型に固まった氷で躓きかけたり、日当たりの良い路面で溶けた水が凍って、滑らかになったところで転びそうになったり、何度も上体を崩しながらは走った。
遊星のD・ホイールのパーツを盗んだ。それも大事なチップをだ。本当はエンジンごと根こそぎ盗み出してやりたかったが、の細い腕では持ち上げられなかった。抱えられたとしても、それと一緒に走って遠くまで逃げるなど、到底できそうにはなかった。だからチップを盗んで逃げた。
理由は今よりずっと子供染みていた。ただ、遊星の笑顔が見れないのが悔しくて、その腹いせに盗んだのだ。

あの頃のは、遊星の笑顔が一等好きだった。普段は到底笑いそうにもない無表情をしているが、ふっと口元を緩めたり、ジャックやクロウや鬼柳とはしゃいで、大口を開けて笑い合ったりする姿が大好きだった。が楽しいわけでも、に向かって笑いかけているわけでもないのに、どうしてか遊星の笑い顔を見ると、まで嬉しくなるような気がした。
口で笑わずとも、何か新しいものを見つけた時や、ご飯が美味しかった時、人から楽しい話を聞いている時にちらりと見せる柔らかい目尻も、には遊星が十分すぎるほどに笑っているように見えた。

けれどどうだろう。鬼柳という遊星の友人が死んでから、遊星の落ち込みようは目に見えて酷く、ようやく生きる目的を見出した自作のD・ホイールも、ジャックに裏切られる形で盗み出されてしまった。
笑顔というものは、一生の内に数が決まっているんじゃないかとは思った。どんなに一生懸命料理を作っても、パーツを集めても、楽しい話を仕入れてきても、遊星から笑顔は少しずつ消えていく。
ついに少しも笑わなくなった時、はついに遊星の笑顔が底をついたのだと思った。もういくら努力しても、きっと手にはいらないのだと、絶望的になったことを覚えている。

悲しい、と思う前に、悔しくてたまらなくなった。何もかもが悔しかった。ジャックがサテライトを出て行かなければ、きっと遊星はまだ笑えていただろう。鬼柳が死なずにまた戻ってきていれば、遊星だって誤解を解けたし、前のように男4人で目的を探せたかもしれない。
でも自分はどうだろう。には何が出来た?
思った途端に、遊星にとっての存在なんて、D・ホイールにも満たないのだと気づいてしまった。それが一番悔しくて仕方がなかった。自分を追い出した長屋の連中も、どうしたって男には敵わない自分自身も、遊星を笑顔にできないことも。もし自分が男だったら?そうしたら全部解決したんじゃないだろうか。のできなかったことを全部、見返せたんじゃないだろうか。
そんな悔しさが募って、遊星のD・ホイールのパーツを盗んだのだ。邪魔をしてやりたかった。そしてあの仏頂面が悔しがる顔でも何でも、見てみたかったのだ。


モールを出ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。空を見上げると、日暮れ時の物悲しさを漂わせる街並みに、一瞬怯みそうになる。は遊星の書類の入った鞄を肩に抱え直すと、帰路につく人間で賑わう雑踏の中に、ゆっくりと足を踏み入れた。


三年前のあの日、はこれっぽっちも自分の行為を後悔したりはしなかった。遊星への腹いせだと思いながら、実際はただの八つ当たりだった。それでも途中で引き返さなかったのは、そのパーツを追って遊星が自分を探しに来ると思ったからだ。チップのついでだって構わない。を探さなければ、チップは見つからないのだ。を追いかけてくれさえすれば、どっちだって構わなかった。そうして追いかけて捕まえて、怒って欲しかった。
寂しかったのだ。遊星に笑顔になって欲しかっただなんて嘘だ。が遊星の笑顔を見たかったのだ。その笑顔で助けられたあの時のように、「大丈夫だ」と言って欲しかった。そうすればサテライトでの生活も、何もかもが、上手くゆく気がしていた。
ただ、それだけだったのだ。


は、雑踏の中で足を止めた。酷く惨めな気分だった。あの頃の方が子供っぽいだなんて、どの口で言えただろう。なんにも変わっちゃいやしない。
遊星のため?お為ごかしの節約も、結局何の役に立ったというのだろう。遊星は少しだって自分に感謝などしていないだろう。
の目元に、急に熱いものがこみ上げてきた。思いっきり目を瞑る。往来の真ん中で目を抑えて立ち止まっていたら、傍から見たら具合が悪いと思うだろうが、生憎声をかける余裕のあるものなどここにはいないようだった。
にとってはそれは幸いだったが、声をかけて介抱しなければならない面倒を考えれば、善意よりも自己を選ぶ者の方が多いと知って、は笑いたくなった。

モールで半日を費やしたというのに、の手には何も握られていない。来る前と同じ、鞄を肩に掛けているだけだ。自分が特別悋気だと思ったことはない。本当は可愛い服だって買いたいし、美味しい物だって食べたかったのだ。
喫茶店で注文する時に、値段を見て少しでも、惜しいと思った自分が恥ずかしかった。たまに贅沢くらいしたっていいじゃないか。遊星に頼まれたわけなじゃないのだ。誰にだって、我慢しろと頼まれたわけじゃない。それにもう研究所に雇われた遊星は、お金に困ることなどないのだ。が我慢したところで、遊星にとっては何の意味もない。
それでももう、我慢はに染み付き過ぎていた。お金があったところで、心の貧しさだけは買うことが出来ない。昔のがどんなに頑張っても遊星が笑わなかったのも、今お茶を出そうが振り向きもしないのも、そんなの貧しさを、遊星は見抜いているからではないだろうか。にはそんなふうに思えて仕方がなかった。

どこに行こうかと思った。もう遊星を見返そうなどというわくわくした気持ちなど、これっぽっちも残ってはいなかった。
どこに行けばいいのだろう。行く場所はたくさんある。目的がないのなら、暫くは安アパートでも借りて住めばいい。WRGPまで貯めて使わずに残ってしまったお金が、今も職を見つけるまで暮らすには十分なほど残っている。
でも、にはそのどんな場所もガレージに比べれば地獄だと思った。遊星のいない場所で、果たして自分は目的を見つけて生きていけるのだろうかと思った。隣に遊星のいない未来を、思い描いていけるだろうか。

こんなことなら勉強をしておけば良かった。ほろっと、涙が溢れるのを感じた。自分がどうしようもなく矮小で、意思のない、人に頼らなければ生きていけないような無知な人間だと知らされたようで、惨めでたまらなくなった。



を見つけた時遊星は、変わらないやつだと笑いそうになった。砂利を踏みしめる音にぴくりと揺れた肩を見て、笑いが零れそうになるのを耐える。
はダイダロスブリッジの鉄柱に身を寄せて、蹲るように座っていた。離れた場所に停めたD・ホイールのライトから、逃れるように背を向けている。
やっぱりここか──と言おうとした口を噤んで、遊星はの名前を読んだ。負けん気の強いに「やっぱり」などと言おうものなら、へそを曲げてしまうに違いなかった。それは遊星には困る。そろそろカップラーメンだけではお腹の虫も泣き喚いているし、書類がなければパソコンもぬくぬくと眠りこけたままになるだろう。
丸くなったの腕から、大きな鞄が覗いているのを見て、俺がボケたのではなかったと遊星は心なしか安心した心持ちになった。今の内から物の置き場所を忘れるようでは、老後が心配だった。

もう一度名を呼ぶ。は遊星の声に身じろぎをするが、無視を決めたようだった。そのまま歩み寄って隣に座る。

夜だった。ネオドミノシティのネオンは、海を挟んで空を紫色に染め上げている。遊星は一度もを振り向かなかった。は隣で息を殺したまま、きっとコンクリートでも見つめているのだろう。
「お前が帰ってこなかった時、三年前のことを思い出した」
遊星がぽつりと呟くと、が身を強張らせた気配がして、「責めているわけじゃない」と遊星は付け足した。
思えばあの時から、この話をとしたことはなかった。あれ以来、全くだ。話す時かもしれない。もう、お互いに時効だろう。
「怒らないで聞いてくれよ」
の返事はない。肌にまとわりつく潮風を感じながら、それでも遊星は続けた。
「あの時俺はほっとしたんだ」

自分自身を“変わった”と気づくときはいつだろう。他人の事なら目に見えてすぐわかるというのに、一番近い己のことなど、見えているようで全く見えないものだ。遊星がそのことに気づいたのは、三年前、がD・ホイールのチップを盗んでからだった。
鬼柳が死んだと知らされてからというもの、ジャックもクロウも随分と疎遠になってしまった。その時遊星は、全員変わってしまったと、置いていかれたような気持ちになったのを覚えている。
サテライト制覇を狙っていた頃に比べれば、日々は味気ないもののようで、鬼柳に出会う前と変わりなく過ごしているように思えても、周りから見れば暗く沈んだ顔をしていたのだろう。
遊星は自分のことを元来無愛想で、上手く笑うことが出来ず、気の利いた言葉も告げられない性格だと理解していたが、そんな遊星を付き合う人間が皆当たり前のように受け止めていたのに、甘えている部分があったのだろう。
不満はないのだろうかと、思わなかったといえば嘘になる。思う度に遊星の胸のどこかに不安が浮かんできたが、皆が笑っている内はそれに寄りかかることで助けられていた。

そうしてある日突然、D・ホイールのパーツと一緒に、が姿を消した。遊星はその時ジャックのことを思い出した。
ジャックのやり方は許せたことではなかったが、昔から男の性格は承知している。切羽詰まってのあの手段だったのだろうが、遊星を怒りに染め上げなかったのは、ジャックが遊星よりずっと、生き方に対する明確な夢を持っていたからだった。
遊星はそれに共感した。ずっと一緒に行動し、鬼柳とともにサテライト統一を目指した仲なのだ。上を目指して、留まっていたくない気持ちは、遊星にも理解できた。
ジャックは生きるために前に進んだ。だが遊星は鬼柳のことも、ゼロリバースのことも、引きずったまま生きている。停滞したままの自分と、無意識に比べてしまっていたのかもしれない。
遊星はがいなくなった時、ジャックの時と同じように、そんな自分を責められたかのような気がした。

を追いかけて一日中探しまわり、ようやく見つけたのはこの橋の下だった。やはり体を丸めて蹲っていたの肩を掴み、顔を見た途端、遊星は今の俺ではダメなのだと思った。変われと、頬を叩かれたようだった。それがあったからこそ、遊星はジャックとケジメをつけようと思った。

「鬼柳が死に、ジャックがあんな手を使ってサテライトを離れてからというもの、一人一人の絆が消えて行くようで、俺は不安だったのかもしれない」
があの時パーツを盗んでくれなければ、遊星はずっとうだつのあがらないままだっただろうと、確信できる。目を覚ましてくれたのは、に違いなかったのだ。

遊星は息をつくと、ネオンを眺めていた目を閉じて、を振り向いた。蹲っていたは、遊星の顔をじっと見つめている。話している間、ずっと、そうしていたのかもしれない。
あの時と全く同じ顔をしている、と遊星は思った。三年前、パーツと一緒に消えたを追ってこの橋の下で見つけた時と、目の前で遊星を見つめるのは変わらない顔だ。罪悪感と、不安と、裏切られたような悲しさと、それでいて安心したような、色んな感情がかき回されてぐちゃぐちゃになった顔だ。
今まで言葉が足りなすぎたのかもしれないな、と遊星は思った。

は抱えていた鞄を、おずおずと遊星に差し出した。受け取っても、遊星は中身を確認しなかった。が全部話すだろう。それだけでよかった。
夜風の匂いを嗅ぎながら暫くぼんやりと待っていると、ごめんなさいとのか細い声が、波音と一緒に遊星の耳に流れた。
いくらお茶を出しても遊星は返事もしないし、料理を作ってもカップラーメンさえあればいいんじゃないかと思いもした。でも、それが全てじゃない。ただのきっかけだった。
「八つ当たりだったの。遊星なしじゃ何も出来ない自分が、嫌になって、勉強なんてろくにしたこと無いし、皆と違って、馬鹿で、」
もしが学問などというものにちょっとでも触れる機会があったなら、ここまで遊星に頼らずにいられただろうか。ベルトコンベアーの上のものを処理するだけのような単調な人生を、送らずに済めただろうか。旅立っていった皆と同じように、自分の足で道を決めていけただろうか。
の声は、喉が詰まったようにどんどんくぐもっていった。
「遊星が振り向かなくなった時、急にどうしたらいいか、わからなくなった」
D・ホイールのライトで、顔を上げたの表情が、闇の中にはっきりと映し出される。どうやら遊星が来るまで、ずっと泣いていたらしい。赤らんだ鼻に視線を注ぎながら、「気にすることはない」と遊星は笑った。はもう十五になるはずだが、内面は遊星が思うより子供だったようだ。
「そんなに嫌なら、これから勉強すればいい」
遊星の言葉に、は図りかねたように眉を寄せた。
「使い道に困っている金があるんじゃないのか?」
やっと遊星の言いたいことが分かったのか、ははっと目を見開いた。その頬がみるみる紅潮していくと、体を乗り出すようには遊星の腕を掴んだ。
「じゃ、じゃあ遊星、その間ずっといていいの…?」
「ああ」
「そ、その後は…?」
「ああ、卒業してもずっといて構わない」
「だ、だって遊星だっていつか結婚するかもしれない。お嫁さんも来るかもしれない」
そうしたらどんなに遊星がいいと言おうが、は出て行かなければならないだろう。腕を掴んで必死に尋ねるに、遊星は体を震わせて笑った。結婚も、お嫁さんとやらも、確かにそうかもしれない。いつかは貰わなければならないかもしれない。だが、それをが気にする必要はどこにもなかった。
「俺はこんなヤツだ。それはいつになるかわからない」
きっと長い年月がかかるだろう。遊星にも想像はつかない。それでも、の心配していたことは理解できた。
「悪かった。だが心配するな」
その間にお前の居場所が見つかるかもしれない。嫁ぎ先とかな。言いながらも、やんちゃがすぎてそれは保証できるか分からないと遊星は思った。
「それまでここにいればいい」
お前の気が済むまでな、と付け足せば、はどこか釈然としないような、ホッとしたような色を滲ませて、顔をくしゃくしゃにしながら体の力を抜いた。


はすっかりへたり込んでいる。遊星がガレージを追い出すとでも思ったのだろうか。まさかそこまで追い詰めていたとは思わず、些か申し訳ない気持ちがこみ上げる。それを隠すように、遊星はへ背中を差し出した。
「……なに?」
は分からないようだ。遊星は背中を揺らして促した。
「早く乗れ」
声にならない叫びが、から聞こえた。どうしたのかと振り返ると、顔を真赤にして慌てている。
「たったそこまでだ。立てないんだろ?」
「…こっ、子供扱いするな!」
散々悪態をつきながらも遊星の背中にちゃっかりとしがみつくに、まんま子供じゃないかと思い、遊星は今度こそ堪えきれなくなって破顔した。背負っていれば、から遊星の顔は見えない。笑うのには丁度良かった。

D・ホイールまでの短い道のりの間、ふと遊星の脳裏に、と二人で暮らす風景が浮かんだ。何十年というこれから先の情景だったが、遊星の心には少しも違和感はない。
潮風が鼻先をさらっていく。ゆったりと揺れる波音に合わせているのか、の腹の虫がぐーぐーと喚いているのが、見事に情緒を失っている。は背中でまだ赤くなった鼻をぐずぐずと言わせながら、必死に晩御飯の献立を並べていた。
「遊星、オムライスはどう?」
「それは昨日食べただろう」
「あれ、そうだったっけ…」
、ボケるにはまだ早いぞ」
「あれ…ちょっと待って、昨日何食べたっけ?!」
「さぁな」
すっかり忘れていたが、そういえば昼に散歩に出た時に、に買ってきたお焼きもあったのだった。が仲直りと考えて、腕によりをかけて夕飯を作れば、きっとお焼きまで手を伸ばせるほど胃袋に余裕を持てないかもしれない。
遊星はいいことを思いついたと、、と背中に声をかけた。
「明日の朝飯はあるぞ」
「夕飯もまだなのに、もう朝の話ぃ?」
呆れたと言いたげなの声は、口調に反して鼻声だ。それに笑いながら、子供と言うには随分と重たい体を抱え直して、風上へ顔を向けた。
シティのネオンをくぐって向かってくるそれは、今日で一番気持ちいい風だと、遊星は思った。




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夏企画リクエスト'10『遊星の笑顔が見たくて頑張る話』
(ほのぼの100題/032/かくれんぼ)
12/08/25 短編