異常に脈打つ鼓動に迫られながら、ぼんやりと前にも同じ感覚を味わったことを思いだした。今の私の思考は現実逃避に近い。過去の記憶に同調するのも早い。
それは、私が変わる瞬間だった。



冬に恋 下



寒い冬のことだ。サテライトの身も芯から凍らせてしまうような冬に、配給車が数台止まっていた。崩れ落ちそうな廃屋の間に挟まれて、人が長々と列をなして並んでいる。その日の配給はいつもと違う。列から外れる人々が持つのは温かそうな毛布だ。冷え込みが激しいその年の冬はサテライトで倒れる患者が多く、医師の手が回らなくなったのを見かねて、治安維持局がようやく重い腰を上げたのだ。
毛布の配給と聞いてすぐに走ってきたにもかかわらず、列に並んだときにはすでに毛布の数が無くなりかけていた。そして例に漏れず、運のない私は配給からものの見事に漏れてしまった。

瓦礫の中に埋もれるようにしてひっそりと建つ住処は、大して何も守ってはくれない。以前の強風で窓ガラスには穴が空いてしまっていたし、崩壊寸前の小屋の建てつけがいいわけがない。幾ら治しても雨漏りはするし、少し雪が積もれば屋根が大きく軋んだ。そんな住処でその年の寒さを凌げるわけがない。そして痛いことに、つい先日毛布は盗まれてしまっていた。
──どうしてこうも運がないのか。
毛布がありさえすればと思う気持ちは抑えられない。仕方がなくありったけの新聞紙や段ボールなど暖の取れそうなものをかき集めてみたけれど、それだけで夜は越せそうになかった。日が暮れるまでに少し歩きまわって探す必要がある。知人も皆が皆同じ状況だろうから、すぐに頼るわけにはいかなかった。

それにしたって寒い。日が出ていてもこの寒さなのだから、今夜は滅法冷え込むだろう。配給のために朝から走り回って少し疲れていたからかもしれない。近くの石段にため息をつくように座り込むと、そのまま立てなくなってしまった。
動いている時はいい。でも冷たい石段に体を押し当てて黙って座っていると、徐々に体が震えてくる。廃屋で陰った日暮れ時の路地前は、底冷えするような風がひゅうひゅうと吹き付ける。
もう帰ろうと思っても、震えた体では力が入らなかった。配給に焦って、十分に食事を摂らなかったのがいけなかったのかもしれない。何にせよ、吹きっ晒しの風に凍える体を預けたまま、私はその場を離れることができなかった。
そんなときだ。不意に不躾な視線を感じたのは。

「こんなところで夕涼みか?」
会いたくない人間に会った。即座にそう思った。どんな日でも相変わらずの憎まれ口で、クロウはこちらに足を進めてきた。
「…目が濁ってるんじゃないの?」
どうやったって寒さに震えている人間にしか見えない。それも、配給に漏れたと言わなくたって分かるくらい、沈んだ顔をしているのだから。
「クロウ様にそんなこと言っていーのかよ、さん?」
「…何よ」
気持ち悪い。言おうと口に出した声は、寒さで掠れていた。歯がカタカタと震え始める。どうやら思っていた以上に深刻だったようだ。
「お前は何でこう、運がねーんだろうな」
クロウに返す気力もなかった。節々が軋んで、言い知れない痛みが込み上げてくる。寒い。耐えきれずに息で呟くと、ふと、クロウが笑った。
肩に重みを感じるより先に、北風を遮る温かさが私を包み込んだ。最初はなんとなく。少しずつ、少しずつ、体が包み込まれていく。僅かに身じろぐと、砂ぼこりにまみれた優しい匂いが頬をさらった。クロウに抱き寄せられていると気づいたのはその時だった。
温かみが全身を包むと、直ぐにクロウは離れていった。
「どうせ帰っても新聞紙だけだろ」
何事もなかったように立ち上がる。それを使えと言うクロウは、この極寒の中で半袖一枚羽織っているだけだ。彼が来ていた厚手のジャンパーは、私の体をすっぽり包んでいた。
「ずっとその調子じゃ、張り合いがねーからな」
口早に告げた言葉は、静かに路地の中に吸い込まれていく。
手に、足に、凍えていた全身に血が巡る。そこにじんわりと染み込んでいくものがあった。クロウの体温でも、羽織ったジャンパーの温かさでもない。温度とは違う、ひとつの熱が私の中心に集まっていく。
震えを治めた私は石段に取り残されたまま、暫らく不可解な熱を一人持て余していた。

思えば一度きりの優しさだったけれど、私がクロウに恋をしたのなら多分、落ちたのはその時なんだろう。


押し込めていた記憶がよみがえった途端、私の心は鮮やかな色を持った。誘いたい。どうしても今、クロウを誘いたい。迷いつつ胸を巡る血は、記憶の中と同じ熱を持っている。でも。
何とか自分を落ちつけたくて、もう一歩踏み出すための力がほしくて、縋るように店長に目を向けた。もしかしたら、初めからチケットのことを分かっていたのかもしれない。眼尻に皺が寄って表情が和らぐと、店長は鷹揚に頷いてみせた。突き返したのはこのためだと、言外に読み取れる意味深な笑みを浮かべていた。
途端に少し身が和らいだ。ガムテープでぐるぐる巻きにされたみたいだった喉が、徐々に空気を受け入れていく。
大丈夫、断られても何も変わらない。なるべく自分が傷つかないように、もう一度心を優しく、優しく宥めてから、ゆっくり口を開いた。
「…チケットが、」
頭のてっぺんにクロウの視線が落ちた気がした。
「福引でチケットが当たったのよ」
「…へ、」
間の抜けた声。互いの欠点ばかり探してきた仲で、当然私のくじ運のなさをクロウはその身をもって知っている。
「お前が?福引を…?」
案の定、クロウの開いた口は塞がる気配を見せない。
「…一体何のチケットなんだ?」
「遊園地」
「遊園地ィ?!」
ちらりとクロウを窺う。本当に驚いているようで、珍しいどころじゃねぇなという呟きが聞こえる。私だって信じられなかったのだからしょうがない。こんなことはもう二度とないに違いない。それくらい滅多なことじゃない。私がくじを当てるということは。だから。だからこそ、私はクロウにこの話をしているのだ。だから、だから一緒に。
肝心のことを話そうとすると、喉が詰まってしまった。

──遊園地なんぞに一緒に行く間柄でもあるまいし
いざ口を開こうとすると、昔馴染みに言われた声がまざまざと蘇ってくる。よくよく考えれば、クロウと私にこそぴったりの断り文句だった。
急にさっきまで押し込めていた不安が、足もとから這いあがってくる。私の記憶と不安がせめぎ合って、誘う言葉を喉もとでせき止めてしまった。
ったらねぇ、」
押し黙ってしまった私の様子を見かねたらしい。店長が続けてくれた。
「折角当てたのにあたしにくれるって言うんだけど、男女ペアチケットだから」
そうして、おばさんには厳しいわぁと冗談交じりに笑った。店長には気を遣わせっぱなしだ。
いつも些細な言い合いの中に割り込んでくれるのも、私の気持ちを分かっていて、それで他愛もない話で引きとめようとしてくれていたのだろう。素直になれない私が、買い言葉のままにクロウを追い払ってしまわないように。クロウがすぐに行ってしまわないように。本当に店長はお節介焼きだ。
「…ああ」
ワンテンポ遅れて、クロウが言葉を返した。そして納得したようにひとつ、首を縦に頷けた。
「それで一緒に行く奴がいないから沈んでるってわけか。ご愁傷様」
胸に針が刺さる。クロウは言った。少しも変わらないからかい口調で、自分が誘われる対象にある可能性を微塵も考えていない声で。ご愁傷様、と。
「…うるさいわね」
眉が陰る。店長の後押し空しく、早くも突き返された気分になってしまった。胸の痛みと共に、不安がまた少し這い上がってくる。
無理。無理だ。だって本当に、今さらな仲じゃない。クロウとは長い付き合いでも、いがみ合いしかしたことがないのだ。また鼻で笑われるに決まっている。

突然ぱぁんと、決して広くはない店内に軽快な音が鳴った。店長が手を叩いた音だ。クロウも私も振り向く。
「そうだ!」
見かねて助け船を出してくれていると分かる、アップトーンの激しい声が、そのまま続けられる。
「クロウあんた興味ない?」
「あ…」
驚いた。店長へ寄せた視線が交わる。何度も言うが店長はお節介焼きだ。そうすることが当たり前みたいに、私に小さな頬笑みを見せる。
「ねぇクロウ、どうせあんたも暇でしょう?」
「店長…俺も働いてる身なんだが」
ちらりと、クロウが私を見た。ただ流れに身を任せているだけの身がずるい気がして、いたたまれなくなって、視線が合う前に目を逸らしてしまった。視界の隅で、クロウが眉を寄せた気がした。
「で、いいでしょう?」
店長の承諾を求める声。クロウが口を開く。もうすぐ答えが出る。そう思った途端、私の頭は思考を停止した。呼吸も微々として自分でさえ止めていると感じてしまう。心臓の鼓動だけが大きく鼓膜を揺らした。
大きく息を吸う。
「俺とこいつが二人で遊園地なんて、冗談でも笑えねーよ!」
心臓を抉られるような痛みが走った。あまりの苦痛に、思わず顔を顰めてしまうほどに大きな衝動が身を貫く。息も詰まってしまった。冗談でも笑えねーよ。ぐわんと鐘の中を何度も行き来するように、私の頭に延々と響く。
胸からどろどろと濁ったものが零れ落ちていった。わかってはいた。いたのだけれど、覚悟が足りなかったのかもしれない。何も言われても平気でいられる覚悟が。

滅多に合わないクロウの目がゆっくり私に向けられて、僅かに見開かれた。
「…お忙しい御身分で随分と長く油を売っていること」
ようやく開いた口は、いつもより刺々しくクロウに向けられた。クロウが何か話しかける。それを遮って、私は努めて冷静な声を放った。
「御引き留めして申し訳ありませんでした。またのご来店をお待ちしています」
静寂の後の鐘の音は、店内によく響いた。

「渡さなくてよかったの?」
寂しそうな顔をして店長は言う。ドアの明るい鐘の音が、店内に余韻を残していた。侘しい音だ。クロウは行ってしまった。私が無理やり追い出してしまった。
「いえ、元々行けるかも分からない物でしたし、色々気を遣わせてしまってすみませんでした」
「私、余計なことしちゃったかしら…」
店長は肩を落として、すっかり客足の途絶えたドアに呆然と呟く。私もそれを目で追いながら、静かに首を振った。
「いいえ、助かりました。ありがとうございます」
ポケットの中はまだ熱を持っている。確かにこれが、最後のチャンスだった。


唯一の救いは、去り際のクロウの顔が酷く落ち着かない様子だったことだろうか。でも、何か言いたげに私に向けられる視線を、私はなるべく合わせないようにして交わした。
クロウにしてみればいい迷惑だろう。だって私はただの喧嘩仲間なのだ。今までだってあれくらいのことは言い合ってきたし、私たちの間では何も変わったことを言ったわけではない。それをいつもの様に受け止めて返すことができなかった、私が悪い。
クロウは優しいから、サテライトでも身寄りのない子供を育てていたくらい優しい人だから、もしかしたらと、邪な心が芽生えてしまった私が、悪いのだ。

特別に思っているのは私だけということを、理解していたつもりだったけれど、やっぱり“つもり”でしかなかったのかもしれない。
今回のことはきっぱり忘れて、何もなかったことにしてしまおう。結局クロウにとって、私がどういう関係の人間であるか、それを知らされただけだったのだから。つくづく私の考えは甘かったと思い知らされた。断られたところで何も変わらないなんて、そんなことはない。変わらないのなら、私の胸はどうしてこんなに張り裂けそうなのだろう。


「気をつけて帰るのよ」
店長のお疲れさまという声を背に、私はすっかり日の落ちた街路に足を踏み出す。売れ行きが良かったせいで夕方には店を閉めたので、普段より早く帰路に着くことになった。
心なしか体がだるい。この時間に店を閉めたのも店長の気遣いかもしれないが、疲れが溜まっていたせいもあって助かった。春のこの時期は寒かったり暑かったりと忙しないので、毎年体調を崩しそうになる。
どうせ明日は休みなのだから、早く帰って寝てしまおう。
鬱々とした思考を振り切るように一歩踏み出して、ぶるりと身を震わせた。今日は春といえど、少し肌寒い。日が落ちる頃の気温には、どうしてか身震いせずにはいられない。春特有の寒さだった。
何か羽織るものを持ってくればよかったと思って、脳裏にクロウのジャンパーが浮かんだ。

あの時クロウに貰ったジャンパーは、今でも大事に取ってある。借りたつもりでいたから、冬の終わりころに返すつもりで、服のほつれも汚れも綺麗にしておいた。ならどうして今でも持っているのか。私の自尊心が返すことを拒んだのだ。
恥ずかしいことに、一言、
「ありがとう」
それがどうしても言えずに、クロウに返すことなく家財の中にひっそりとしまわれている。
それに、返してしまうのを惜しむ気持ちもあった。あいつに借りを作るなんて情けないと意固地にもなっていたけれど、葛藤するたびに恋心の方が勝って、結局丁寧に畳み直して箪笥に収めてしまうのだ。
だから今でもクロウのジャンパーは、汚れひとつないまま綺麗に箪笥に眠っている。いつか返さなければと思いながら、素直に言えない一言も一緒にたたみ込んでしまっていた。
──助かりました。ありがとうございます
クロウが店を出た後、店長に言ったこの言葉は、一番クロウに言いたかった言葉なのかもしれない。あの時のお礼を言いたくて、ずっと機会を待っていたのかもしれなかった。

でも思うのだ。決して仲がいいわけでも、同じ地区で育ったわけでもない私たちが、こうして新たな生活を始めた今でも些細なことで口喧嘩出来るのは、あのジャンパーがあるからじゃないかって。そう思ってしまう。
確かな関わりのないクロウと私を、あのジャンパーが繋ぎ止めてくれているとしたら、私はずっと手元に留めておきたい。
一言が言えなくても、こうして一方通行に胸を痛めても、そんな意味を持つなら私は返したくないと願ってしまうのだ。

考えれば考えるほど、細い透明な針が胸に刺さっていく。刺したところが痛みで脈打って、痛みと鼓動は大きくなっていくばかりだった。
そんな霞んだ聴覚に響いてくる声がある。
!」
一瞬耳を疑った。私が歩くのは、路地の家々からすでに明かりが漏れる静かな帰路だ。街の騒がしさはどこにもない。!もう一度呼ばれる声に、不安な気持ちを抑えながらゆっくり振り返った。
「……クロウ…」
ぽつりと彼の名前を零す。夢か真か息を切らしたクロウが、私に視線を向けていた。
「何でここに」
うわ言のように呟いた声を、息を整えながらクロウは丁寧に拾って返す。
「店長に聞いてきた」
そして私の思考が追いつく前に、勢いよく頭を下げた。
「悪かった!」
と。クロウはそう言って、綺麗な角度90度を描きながら頭を下げていた。
「ま、待ってよクロウ!何を急に、」
お前が。私がクロウにしたように、無理やり言葉を遮られた。
「お前がそんなに楽しみにしてたなんて思わなかったんだ」
「え…、」
動揺してしまった。なんて答えればいいのか分らない。偶然、ここにクロウがいたんじゃないことは確かだ。このために私を追ってきたのだと。謝るためだけに私を追ってきたのだとわかった。
それがまた、私の心を揺さぶらせた。
「私そんな、」
気にしてなんかいない。咄嗟にそう言おうとして、また胸が痛んだ。今だって高鳴る中に痛みで疼く傷口がある。まだ期待していたいという気持ちで、胸が溢れかえりそうになる。
戸惑う私の言葉を待たずに、クロウは言葉を続けた。顔をうつ伏せたまま、頭が上がる。
「俺なんかでもいいってんなら、明日、さ」
ひとつ息を吐いて、一拍置いた後、クロウが言った。
「行ってやってもいいぜ」
さっきとは違う衝動が体を貫いた。興奮の余り、皮膚が泡立つ。聞き間違いじゃ、ない?耳を澄ましても、それらしい声は聞こえない。クロウが言ったことに間違いはない。
本当の、ことだろうか。私と、それこそ私なんかと行くのは、苦痛じゃないのだろうか。本当に。本当にクロウと、行けるのだろうか。

行きたい。一緒に行きたい!
そう言ってやりたいのに、喉はきゅるきゅると変な音を出すだけでひとつも言葉になってくれない。だから代わりに私は大きく頷いた。クロウに見えているか心配になって、何度も頷いてみせた。
ぴたりと見開かれた目と合ったので、零れるように笑う。普段の私じゃ考えられない仕草だ。驚いた様子のクロウは、ほっと溜息をついた。
「そんな行きたかったのかよ…」
呆れたように苦笑いするクロウに、私は相変わらずうんうんと、何度も頷く。違う。そうじゃない。クロウと行けることが嬉しいのだ。でもこれは幾らなんでも言えそうにない。
胸の内からあふれる言葉はたくさんあった。なのに、そのどれ一つとして声にはならなかった。喉の奥がしわしわに寄っている。ちょっと気を抜くと、涙が出そうになる。
やっぱり、クロウは優しかった。どんなに憎まれ口を叩いてきた腐れ縁であっても、自分が悪いと思えば簡単に頭を下げるくらい。優しかった。
私はつまらないプライドで、ずっと避けてきたというのに。
「ありがとう…」
全てはその一言に集約された。何年経っても言えなかった、この一言に。

「とりあえず、このパン置いてくっかぁ」
頭をかいてゆるゆると歩き始めるクロウを小走りに追いかける。隣に立つと、驚いた顔をした。
「どこに置いてくるの?」
「ガキ共のお土産にな」
そっか。呟いて、クロウを見上げる。今なら普通の関係を築けそうだ。憎まれ口なんかじゃなく、思っていることを思ったままに話せる関係に。踏み出すのは簡単だと教えてくれたのは、息を切らして追いかけてきたクロウだった。それなら私だってできるはずだ。
意を決して口を開いた。
「わ、私も行く」
案の定、クロウは目を見開いて返す言葉に困っている。断られないように、にこりと笑う。私の精一杯だった。
「ん、あ、ああ…そっか」
クロウは得心して頷いた。
「お前パン食いたいんだろ、残念だがやらねーぞ」
「ち、違うわよ!」
相変わらず言い合いながら、いつもとは違う温かみを言葉に感じる。ひとつ言葉を貰うたび、痛む傷口が覆われていく。なんて単純な心だろう。
少し先に停まるD・ホイールまで私たちは並んで歩いた。それでも吹き抜ける春の風は、やはりどこか肌寒い。
「ただし特別に、マーサの飯は奢ってやらんこともない」
「あんたが作ったんじゃないでしょ」
「いーんだよ、俺の親代わりなんだから…うー」
しかし冷えるな。そう呟いて僅かに身を竦ませたクロウに軽く頷く。
確かに震えあがるような、身を縮めてしまうような寒さじゃない。だけど、どうしてか寒いと思わずにはいられない春の風。歩みを止めれば、僅かばかりの冷たさを残して私の肩をすり抜けていく。
この季節じゃなければ、道行く人々すべてがコートを被る季節であれば、クロウは抱き寄せてくれたのだろうか。あの時のように、包み込むような温かさで。
「春なのに寒いわね」
「早めにあったまりに行くか」
私の横で、クロウの手はゆらゆらと揺れている。D・ホイールのハンドルを、子供たちに買ったお店のパンの袋を握り締めるのであろうその手は、私の目の前をゆらゆらと揺れている。
口から息を吐き出した。こんなにも寒いのに、生ぬるい息は、私の目には映らない。欲張りな私はまた、あの体温を望まずにはいられない。

冬に少しだけ、恋をした。



|終
バレンタインリクエスト『クロウとデートしたいヒロイン』
10/06/14 短編