どうして人は歩くのだろうか。
 いつ頃からか、アバッキオは革靴越しに地面を踏みしめている感触を味わう度に、それを考えるようになった。
 どんなに疲れを感じようとも、誰しもが立ち止まることを恐れている。たとえ向かう先が決まってなかろうと、足を止めるよりならば歩き続ける方が余程利口であると思っている。社会の波に沿って流れる、そんな自分自身に安堵を覚えているのかもしれない。
 あるいは、歩みを止めることが全ての終わりを意味するかのように、いつも背後から迫ってくる何かを恐れている。そうして人は這いずってでもひたすらに進み続けようとしている。

レオーネ・アバッキオも、立ち止まれなかった男だった。



Prologo



 トレド通りから横道に逸れ、モンテカルヴァリオから伸びる狭い路地を更に曲がった先に、古びた商店がある。
 開店時には鮮やかな緑色だったのだろう壁は色がくすみ、無造作に貼られた広告でほとんどを覆われていて、それすら破れや落書きが目立つ。その隣のホコリだらけのウィンドウ内を覆う黄ばんだガラスを覗けば、お世辞にも綺麗とは言えず、余程の知り合いでもなければ、ちょっと寄り道をしようなどという気にはとてもならない。
 店に取り付けられた鈴が、寂しい路地に微かな音色を響かせてドアが開いた。それに無愛想な店主の代わりとばかりに見送られ、アバッキオは紙袋を腕に、その誰もが通り過ぎる店のドアの隙間から、身を滑らせるようにして出た。
 腕に抱えた紙袋は薄っぺらく、オリーブ漬けの瓶をふたつでも入れたら、底が破けてしまいそうなほどけち臭い。そのせいで、片手で持ち上げるようにして底を押さえて歩かなければならないのが不便だった。
 面倒だな──と思ったものの、アバッキオは口には出せなかった。些細な不平でも、どこで誰が聞いて、それがどんな誤解を伴って伝わるか分からない。
 悪態を飲み込むために、仕方なく大股に一歩足を踏み出した。
 ここ数ヶ月の間にできた新しい上司から、買い出しを言いつけられていた。上司が変わっても、使いっ走りであることだけは変わっていない。紙袋を抱え直しながら、それを皮肉のようだとアバッキオは思った。

 暗い灰色のブロックに転がる空き缶を避けた時、ふと脇に目を遣る。壁際に見知った人影が佇んでいたような気がしたからだった。
「アバッキオさん」
 はたしてその通りだった。アバッキオが舌打ちをするのと、人影が呼びかけるのはほとんど同時だった。
 アバッキオの姿を認めるなり、俯き加減に寄りかかっていた壁から急いで体を離し、心配そうに声をかけた人間を、と言った。日系の女だった。
 アバッキオはあえて女を知らぬふりをした。ここ数週間で、何度も付け回されている。
 狭い道幅に、ボディを壁に擦りつけそうなほどに寄せて停められた車の横を、無言で乱暴に歩いて行く。女は慌ててアバッキオの後を追いかけてきた。
 遠慮がちな女の声が投げかけられる。
「あの、ここで一体何を?」
 それを聞くべきはこちらの方だとアバッキオは思った。のような女が、あの店に用事があるとは思えない。アバッキオに用があるとしても、この数週間幾度も鉢合わせたことを思えば、どこで行き先を勘づくのかなどと呑気に考えられるほど、偶然で片付けられもしない。
 面倒が待っていない保証があるのなら、今すぐにでも背後をついて来る女を振り返り、脅すようにして詰め寄りながら、「ここで何をしている」とそっくりそのまま返してから、二度と近づけないようにしてやりたかった。
 アバッキオは無言で路地を突き進んだ。それが女への返事だった。
 女はいないものと思って、極力余裕のあるように歩いた。それでも、ただの通行人なら易々と引き離せる歩幅を持って生まれてきたはずだった。
 しかし小走りにパンプスを鳴らしてついて来る音は、遠ざかりも近づきもしない。それを鬱陶しく思っても、自分まで駆け出すことを想像したほうが苛立ちを覚えた。ギャングや警察ならまだしも、何の力もない女ごときから、逃げるために急いでいると思われるのは、アバッキオの矜持が許さなかった。
「少しでいいんです、お時間、ありませんか?」
 早足が駆け足になり、昼間でも薄暗い路地に足音が反響する。それでも女は走る振動に声を震わせながら、アバッキオを引きとめようとしている。答える気はなかった。
 アバッキオは細い路地を曲がって坂を下り、トレド通りへ出た。シーズンなのか、通りはツアーの観光客でごった返している。その人混みに自然な動作で紛れ込めば、簡単に女など巻いてしまえる。
 人に遮られて慌てた女が、アバッキオの名を呼んだ。通行人の波が、アバッキオへ駆け寄ろうとする女をどんどん引き離していく。
「お話があるんです……!」
 女は尚も必死でアバッキオの名を呼んだ。振り返らずとも、徐々に距離が空いていることは分かる。女からはもう、アバッキオが見えなくなっているかもしれなかった。
 数秒足りとも構っている暇はなかった。幾ら時間にルーズな国柄だと言われていようが、今のアバッキオは悠長に歩いていられるような立場にいない。
 アバッキオさん──
 小さく消えていく女の声を背に、アバッキオは雑踏を掻き分けて、暫くしてから横道へ身を滑らせた。



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13/03/14 長編