港から2㎞ほどの地点にある長い坂は、地元住民の密かな名所であり、難所とも言われる坂だ。通りとは別に名前があって、周辺住民は丘の上にある小さな教会と一緒に“栄光の坂”と呼んでは、よく話題に出した。
 ネアポリスでも滅多に見ない急な傾斜で、そこを自転車で早く登りきれば出世する、という話は誰がいつから広め始めたのかは知らないが、その話をネタに子供たちが集まっては、よく競って遊んでいるようだった。
 アバッキオはその坂をずっと下った先にある、こじんまりとしたリストランテへ向かっていた。間口は狭いが雰囲気のいい洒落た店は、観光雑誌に載るほどには繁盛している。
 昼時になればそこそこ人の出入りの激しくなるそこには若い事業主がいて、夕刻にはその男の貸切になる。名前をブローノ・ブチャラティと言った。アバッキオの新しい上司であった。
「さっきの女は?」
 急な声にはっと顔を上げると、閉店したリストランテの前に立って、白いスーツに身を包んだブチャラティが、こちらへ目を向けていた。
「見ていたのか」
 無感情に呟く。一度止めた足をまた踏み出して、アバッキオは急な斜面を登り始める。子供には地獄のような坂かもしれないが、鍛えたアバッキオの足にはそれほど堪えはしなかった。
「たまたまだ。俺はトレドに用があった……昔の女か?」
「顔も知らない女だ」
 言いながら、ふくらはぎに力を入れて最後の一歩を踏み終えると、涼しげな顔をしたブチャラティがアバッキオを目で追った。何度見ても、静かな目をした男だった。
「だがお前の名を知っていたぞ」
 聞き捨てのならない言葉だった。アバッキオは僅かに息をついて、坂のために前傾だった体を持ち上げる。眉間にも力が入った。
「アバッキオか……珍しい姓だ。ここら辺じゃあ見かけない」
「疑ってるのか?」
 目付きが悪いと小さい頃から言われ、学生時代には初対面で笑いかけてもらったことなどついぞなかったアバッキオが睨んでも、ブチャラティは顔色一つ変えはしなかった。
 栄光坂の路地は、緩やかなカーブを描いて数百メートル続いている。ブチャラティのリストランテの辺りは、晴れた日には昼を過ぎると満遍なく光が注ぎ、一辺の影も払拭された明るい道ができる。古い煉瓦の坂も、ところどころに残る土塀も、この時ばかりはきらびやかな路地を作り出すのだ。
 そしてアバッキオとブチャラティが向かい合う、今がその時だった。リストランテの清潔な白壁を反射した光が、二人に照らしつける。
 そのせいか、波のように静かだった男の目には、火が燻っているように見えた。
 アバッキオの疑心を持った声に、
「まさか」
とブチャラティは喉を低く震わせて笑った。
「俺の特技は知ってるだろう?それにお前のことは入団の時にもう尋問した。白だ、と俺は思った。だからお前はここで生きてる」
 他の連中は知らないがな、と付け足すと、ブチャラティは髪を揺らしておもむろにリストランテの戸口を振り返った。アバッキオも、それにつられて顔を向ける。
「ブチャラティ、お話中失礼ですが」
 薄暗い店内から、よく通る声が伸びた。手下のパンナコッタ・フーゴが、ドアを開けた姿勢で佇んでいた。中性的な顔立ちをした、利発そうな少年だ。
「いや、いい。大したことじゃない」
 そう言ったブチャラティがアバッキオを横目に見た。大きく息を吐きだす。中断を促されれば、仕方なく顔を背けるしかなかった。

 ブチャラティは、19歳にして数人の配下を持っている。
 その配下を使って、回護料と呼ばれる所謂みかじめ料を収集したり、管轄内の風俗店やカジノを取り仕切りながら、港からの密輸品を捌く仲介をして儲けている。ギャングだ。
 警官だったアバッキオがこの男の配下になって、三ヶ月が経っていた。仮に昔の同僚に会ったとしても、はっきりと言えるのは、これは潜入捜査ではないということだ。
「一時間ほど前に、ポルポからの使いが来ました」
 店内へ入るなり、はきはきとしたフーゴの声が響いた。人避けがしてあるのか、ウェイターの姿もない。
「ポルポ“さん”だ。誰が聞いているかわからない。余計な疑心を持たせるな……それで、用は?」
「そのポルポ……ポルポさんが明日の朝、面会時間と同時に来るようにと。用件はそこで」
 ポルポとは、ネアポリスの港地区からほぼ全域を仕切る幹部だ。ブチャラティが直属する上司であり、今は海沿いの刑務所で服役している。
 ブチャラティはそれを聞きながら、椅子を避けてテーブルへ近寄り、用意されたティーポットを持ち上げた。
「内容は分かりませんが……あ、ちょうどいい頃合いです」
 フーゴがブチャラティの手元を指して言った。ブチャラティは蓋をつまみ上げて、中をのぞき込んでいる。いつものエスプレッソとも紅茶とも違う、アルカリ性の高い匂いが部屋を満たしていた。
「何を淹れたんだ?」
「プーアル茶です。60年ものですよ」
「そんなもの、どこで手に入れたんだ」
 ブチャラティが驚きを含んだ声を上げた。プーアル茶の年代物は、周期的に来る中国茶流行りの時期には、ものによっては2000万リラを下らないものもある。
 フーゴは「やだなぁ」と言って笑った。
「先週、ナランチャが回護料と一緒に、港の中国人から貰ってきたじゃないですか」
 フーゴが言う間も、ティーポットを置いたブチャラティは、「ああ、仲介のホァンか」と思い当たったように呟きながら、顔ほどの大きさもある餅茶を持ち上げてしげしげと眺めている。
「しかしこれだけのものだと、勿体無いな」
「あなたが飲めと言ったんですが……賄賂に使えましたかね」
 ブチャラティが笑った。少年が気を遣って言い直したからだった。
 フーゴは15という年の割に、頭の回転が早く機転が利く。そして上司であるブチャラティには、常に敬意を払っている。頼りにしているのか、もしくは仕事を学ばせようとしているのかは知らないが、男は少年の冷静さを重宝して、相談役として置いているようだった。
「そうだな……飲んじまうか」
 しかし大分掛かりそうだ、という二人の会話を聞きながら、アバッキオは話が途切れるのを見計らって歩み寄った。まだ、使いっ走りの仕事を終わらせていない。
 白いテーブルクロスに影が落ちて、紙袋が置かれると、どこか和やかだったブチャラティの顔つきが変わった。
 餅茶を置いて、
「それで、中身は何だ」
と促す。
 アバッキオは頷いてから、今にも破けそうな紙袋を開いて、中から一本のワインボトルと、箱入りの煙草を取り出した。煙草は店主のサービスだった。
「……この二つだけだ。チェーナに飲むには足りないし、安すぎるんじゃねーか」
 ふと、険しくなった二人の表情に不可解な様子を感じて、椅子に寄りかかりながらアバッキオが口を出すと、それを無視してブチャラティが歩み寄り、テーブルに立てたボトルを掴んで引き寄せた。
「……赤か」
 ブチャラティの呟きに、店内はしんと静まり返る。フーゴが眉を寄せて、同じく赤ワインのボトルを見つめていた。
 手紙が付いているわけでも、落書きがしてあるわけでもない。アバッキオには、どこからどう見ても普通の安いワインだ。
「一体これは何なんだ」
 買い出しを行った当人を置いてけぼりに、二人だけで納得をしていることに苛立ちを含んで聞くと、フーゴの整った鼻筋がアバッキオを向けられた。ブチャラティに対するのとは違う、遠慮の消えた顔だ。
「ワインは買収のサインだ。白なら成功。赤なら」
 フーゴが指で首を切る仕草をしながら、顔を顰めて「失敗だ」と言った。

 ブチャラティはアバッキオ達の問答を聞いているのか、彫刻のような冷たい表情で、手の中のワインボトルに目を向けている。
 男の心は、顔からはあまり読み取ることが出来ない。声色すらもその時々で変える様は役者顔負けで、恐らくそうでもしなければ、ここでは生きてのし上がってはいけないのだろう。馬鹿正直な人間は、ずっと下っ端のままだ。それはギャングだろうと、警察だろうと変わりはしない。
 信用ならねぇ男だ──
とアバッキオは思った。のことも目ざとく嗅ぎつけた。涼しい顔をして、男は腹では別のことを考えている。
 だたでさえ元警官ということが、他の組織の人間に目をつけられる原因になっていた。入団したばかりの今、下手な誤解が生まれれば、あのワインのように染まるのはアバッキオかもしれない。
 そう思えば、三ヶ月前のことが脳裏をよぎっていった。


 最初の日は、よく晴れ渡ったいい日和だった。水平線がすっかり見渡せて、世界がどこよりも近く見える。
 6月8日、ネアポリス湾。ブローノ・ブチャラティという男が、アバッキオの元へやって来た日だ。
 男は港近くの地区で有名な、パッショーネというギャングの下っ端だった。警官になったばかりのアバッキオでさえ、何度かその名を耳にしたことがあった。
 ブチャラティは管轄地区の回護料を集めているだけの安いギャングで、決して警察の捜査リストの上位には浮かんでこない。
 だが男が有名だったのは、回護料回収をしていた男の使いっ走りが、張り込んでいた警官に現行犯として取り押さえられた時、今しがた出てきたばかりの店の主がドアをぶち破らんばかりに飛び出して、「余計なことをするな!」と怒鳴った話が、この界隈の警官の間で皮肉なジョークとして広まっていたからだった。
 男は他の地区では考えられないほどに、市民に信用されていた。それこそ市民には害を与えまいと掟を持つ古き良き時代のマフィアを連想させ、市民には警官より余程頼りにされ、地区全ての情報が警察よりも先に男の下へ届けられる様には、ただただ舌を巻く。
 そして時代が時代なら、いつか市長にさえ推薦されたかもしれない程の人望を持ったその男が、湾口沿いに買い取ったアパルトメントの一室に監禁され、椅子に縛り付けられていたアバッキオの前に現れた。
 目隠しされて運び込まれてから一日、誰も部屋のドアを叩きも開けもしなかった。ここに放り投げられるようにして縛り付けられた後に一度意識を失ったが、目が覚めた時には、目隠しを外されていた。その代わりに、窓にはあらかじめ遮光カーテンがかけられていて、外の様子はまるきり窺えない。
 遠くから絶えず荷揚げの声とトラックの行き交う音が聞こえてくる以外、異様なほど活気のない静かな港で、プランツォの時間にはウミネコと波の音だけが微かに流れた。
 監禁二日目のその日は休日だったために、丸一日、時計代りになっていた作業の音すら聞こえず、朝からしんと静まり返っていた。
 カーテンの隙間から漏れる光で夜が明けたのは分かったが、一体今が何時で、日が沈むまで後どれくらいの時間があるのかもわからない。空腹の虫すら鳴き声をなくしたアバッキオの腹時計は、すっかり狂って当てにならなかった。
「ここまででいい」
 朦朧としていたところにくぐもった声が聞こえて、ドアを始めに開けたのは、頭頂に編みこみをしたボブカットの男だった。その前に、階段を登り室外の板を踏みしめる何人かの足音が聞こえていたが、部屋へ足を踏み入れたのは男一人だけだった。
 アバッキオは上目に男の姿を一瞥した。胸の開いた白いスーツが、学校時代に行ったフィレンツェから程近いビーチの、白い砂浜のように目に焼き付いた。
 それもすぐに力尽きて、元のように項垂れ、部屋の中央で縛られたまま、男の足音を聞く。体力がすり減っていた。息をするのさえようやくといった状態だった。
 浅い呼吸を繰り返しながら己の膝を見つめ続けていたアバッキオの視界に、男の派手な革靴が映り、思わず目を瞑る。衰弱した神経には、刺激の強すぎる色だった。
 アバッキオを値踏みしているのだろうか。数秒の静寂の後、擦り切れた板の上を男がゆっくりと踏み出し、一歩一歩、アバッキオに靴の音を聞かせるように椅子の周りをぐるりと回る。背後に来た時に、男の低い声がアバッキオの鼓膜を震わせた。
「気分はどうだ」
 アバッキオは口を開いた。舌が乾いて喉に張り付く。いつも通りに喋ろうとすると、息が漏れるだけに終わった。
 男はアバッキオの左隣に立って、椅子の背もたれに少し体を寄りかからせた。思案しているのか、何度か背もたれの突起を指で叩いている。
「俺達の仲間の店で暴れてくれたらしいな。元警官だって? 」
 問いかけるように話しながら、語気は返事を許さない雰囲気を漂わせていた。男はアバッキオの素姓も、既に念入りに調べ尽くしているに違いなかった。つまらない私欲で同僚を殺して、警察を解雇されたということもだ。
「お陰で何人かは骨が折れて病院送りだ」
 アバッキオは俯いたまま、横目に男を窺った。白いスーツを留めている金属のボタンが、薄暗い室内で微かに光っている。
「それだけなら別に構わない。お前の骨も二三本折ってやればいいだけだからな」
 男はまだ、椅子でリズムを刻んでいる。椅子に貼り付けられた全身を、男が作る不快な振動が刺激する。無性に苛立った。
「…………らえ」
「ん?」
 頭上すぐ近くから、男の声が降りた。
「クソくらえ……っつったんだよ、おかっぱ野郎」
 アバッキオが掠れた声を絞り出すと、間を置いて男の笑い声が室内に弾けた。
 アバッキオの口が、突然閉ざされた。上唇が下唇に張り付いたように、ぴくりともできない。
 男の革靴が床を打った。アバッキオの正面までゆっくりと回りこんで止まる。
「威勢がいいのは俺は嫌いじゃあないが、状況をわきまえるんだな。質問の答えだけを返していればいい……個人的なことで悪いが、他にも予定が詰まっていて時間を削減したいんだ」
 髪を無造作に掴まれ、俯いていたアバッキオの顔が無理やり引っ張りあげられた。火事でもあったのか、黒ずんだ天井が視界に入る。
「取引中だったダイヤを探してるんだ。一つや二つじゃない……お前は場所を知ってるだろ?」
 影ができて、男がアバッキオを覗きこんだ。ひた、と目が合う。
「協力してくれるかい?」
 アバッキオの耳を掠めるのは穏やかな声色だが、まるで家畜を見ているような、驚くほど冷たい目がそこにはあった。
 それがアバッキオの知る、ブローノ・ブチャラティという男だった。


 とにかく、というブチャラティの呟きに、アバッキオの思考が遮られ、フーゴとともに男へ目を向けた。
「このことはポルポさんに明日報告する。お前たちにも仕事を頼むかもしれない。詳しくはその時に説明しよう……出来ればナランチャもいた方がいい」
 男の言葉に気づいて、アバッキオは初めて店内を見回した。いつもいる配下が一人、今日は見当たらなかった。
「ナランチャは?」
「あいつはこれから暫く、港で荷揚げに駆り出される。他のことがまるっきり駄目だから」
 フーゴは片手を上げて、首を振りながらやれやれとわざとらしくため息をこぼすと、
「それで新入りの件はどうなったんです」
とブチャラティへ尋ねた。
 その問いに、ブチャラティは紙袋を避けて煙草を手に取り、フーゴへ投げ渡した。
「無罪放免ってことだ」
「こいつがそのサイン?」
 フーゴは訝しそうに、新品の煙草の箱を弄んでいる。
 ここふた月、チームで関心を寄せている事件があった。夏に起訴された銃殺事件のことだ。
 アバッキオにはこの辺りではよくあるチンピラ同士の抗争のように思えたが、それが報道されてから、ブチャラティは組織に引き入れることで一人の男を助けようとしていた。男は正当防衛で無実を主張していたが、有罪判決が下され、上訴期間内には費用も出せそうにはない。
 聞けば、数人の男から撃たれた銃の弾道がすべて逸れ、その男たちから奪った弾をシリンダーに込め直して、的確に全員を撃ち殺したのだという。ブチャラティでなければ、誰も信じもしないような話だった。
 しかしアバッキオの上司は、控訴を認めさせ、陪審員に金を握らせて無罪判決を出させた。男が見ず知らずの女を守るために、命を賭けた。その話を鵜呑みにしてだ。
 アバッキオはフーゴの手からマルボロの箱を取り上げて、先ほどとは反対に優位に口を開いた。
「ムショとはおさらば……煙草吸い放題ってことだろ」
 言って手の中で回してから、皮肉交じりにブチャラティの方へ箱を弾く。受け取ったブチャラティは、アバッキオの刺のある口調を気に留めず、「そういうことだ」と二つを紙袋へ戻し、フーゴへ手渡した。
「明日、拘置所に迎えに行ってやってくれ。こいつを土産に」
 受け取った手の中で、薄い紙袋ががさりと鳴る。一瞬目を丸めたフーゴが、続いて声を上げて笑った。
「そりゃあ人生で最高の酒と煙草ですね!」
「そうなればいいがな……明後日には入団試験を受けてもらうわけだからな。フーゴ、この件はお前に任せるぞ」
 ブチャラティの言葉にフーゴが頷く。二人の後ろで、アバッキオは低く喉を震わせた。笑いが込みあげたのだ。
 パッショーネの入団試験はギャングの間でもその厳しさで有名だった。死ぬ人間が後を絶たないからだ。
 男は有罪となって数年後に刑務所でくたばる可能性から救われた代わりに、無実で保釈された次の日に組織の手によって死ぬかもしれない。そうなれば男にとって、アバッキオが使いで買ってきた酒と煙草は人生最後のものとなり、フーゴの言う通り、最高の酒と煙草になるだろう。
 だが男にはその方が幸せかもしれない、とアバッキオは思った。また、どこでどんな過ちが待っているかわからない。男も自分のように、もう二度と最高の酒を味わえることがなくなるかもしれない。いつその日がやって来るかは誰にもわからないのだ。
 それならば、旨い酒を飲める内に死んでしまったほうが、余程幸せかもしれなかった。
「何を笑ってるんだ」
「いいや」
 ブチャラティが、密やかに笑い続けているアバッキオを訝しげに見つめている。きつく寄せられた眉を見て、男を怒らせたようだと気づくと、アバッキオは一層愉快な気分になった。
「ただ、死にゃしねーかと思っただけだ」
 呆れたようなため息が、フーゴから漏れる。
「金を積んだんだ。死なせはしませんよ」
 坂の上から鐘の音が響いた。リストランテ前の道は、既に影が差し始めている。
「くだらねーこと言ってないで、さっさと支度をしろ。次は4時だ、忘れるなよ」
 ブチャラティの強い口調に、アバッキオは渋々テーブルを離れた。日暮れ前にはまた別の仕事が待っている。
「あなたも飲みます? プーアル茶」
 空のカップを取り出して、フーゴがアバッキオを窺った。高価だというが、鼻の奥に淀むような匂いは好みではない。いつもより苛立ちが募るのは、そのせいなのかもしれなかった。
「俺に気を遣うな」
 突き放すように声を出したが、フーゴは「そうですか」と言うだけで、椅子に腰掛けたブチャラティにお茶を差し出し、アバッキオのことなど少しも気にもかけていないようだった。
 張り合いがねぇ──
 ここじゃ喧嘩もできないのか、と心がささくれ立つような気分になった。舌打ちをして店を出る。
 路地が陰ったせいで、気温が変わっていた。微かな肌寒さを感じると、不意にアバッキオは、警官時代に飲んだ火傷するほど熱いエスプレッソの味を思い出した。

*

 銃声が響いた。訓練以外で、覚悟もなしに聞いたのは初めてだった。目の前の人影が、飛ばされるようにして背中から倒れるのを見た。
 その日もアバッキオは、仕事の帰りに一杯のコーヒーを飲んで帰るはずだった。警官になってからいつの間にかついた日課だった。
 勤務を終えたら、エスプレッソが苦手だという相棒のために砂糖とミルクをふんだんに入れてもらって、アルファのパトカーに寄りかかりながら、疲れを癒すように飲み干すはずだった。
 その相棒は床に血を引きずって、アバッキオの足元で意識を失っている。浅く息をしているが、死んでいるように見えた。
 アバッキオは声も出せなかった。寒気がする。ゾッとするような震えが走った。立ちすくんで指一本すら動かすことが出来ない。濁った血が体中を巡っているような感覚にとらわれる。
 アパートの廊下に荒い息が反響していた。視界が揺れて、風景がブレる。合わない焦点で二つの人影を何度も交互に見た。捕まえるべき強盗は、数メートル先で蹲って呻いている。相棒の撃った弾が、胸に命中していたが、心臓を外れていたらしい。助かるかもしれなかった。
 絶え間なく降り注ぐ雨の音が、思考にモザイクをかけていた。不意に、床に投げ出された相棒の手が微かに動いたように見えた。
 救急車を呼ばなければ──
とようやく思い至ったが、アバッキオの背は非常口のドアに張り付いて剥がれなかった。まともに立ち上がれたとしても、数階下のパトカーまで歩いていけるとは到底思えなかった。たったの十数メートルが、地の果てのように長い。
 強盗のことは知っていた。アバッキオの管轄で、違法に売春を手引きしている男だったからだ。アバッキオはそのポン引きから、頻繁に金を受け取って見逃してやっていた。
 男にとって強盗を通報されたのは災難だったが、そこへ駆けつけた警官がアバッキオであったことは不幸中の幸いだっただろう。汚職という弱みを使えば、学生あがりの世間知らずの新米は、十中八九怖気づいて逃がすと思ったに違いなかった。
 アバッキオはドアにギリギリと背中を押し付けた。そうでもしなければ立っていられなかった。同僚は男の思う通り、怖気づいたアバッキオを庇って撃たれた。私欲と保身に傾いた男を、正義心で庇って倒れたのだ。ポン引きは自分が撃たれさえしなければ、思い描く通りの脚本を辿れただろう。
 蹲った男を見た。胸を抑えていた血まみれの手で床をひっかきながら、痛みにもがいている。アバッキオは、男の声が段々に小さくなっているのに気づいた。苦痛に歪んだ顔が俯いたまま、睨むようにしてアバッキオに向けられる。
 男の赤く充血した目を見た途端、竦んでしまった。アバッキオの胸を、どろりとした黒い塊が流れていった気がした。
「ちくしょう……」
 その声を最後に、男は背を丸めて動かない。意識を失ったようだった。
 アバッキオは震えながら、掠れた声で同僚の名前を呼んだ。自分の乱れた呼吸ばかりで、足元から確かな息が聞こえない。

 雨が降っていた。泥まみれで這いつくばってでも、パトカーまで辿り着かなければならなかった。ここにはアバッキオしかいなかった。それができるのは、アバッキオだけだった。

*

 どうして俺は歩いているのだろうか、とアバッキオは思う。ここに落ちれば歩みを止められると思っていた。己だけでは立ち止まれずとも、ここへ関われば、無理矢理にでも足を止められるのではないかと思っていた。
 それなのにアバッキオは今、警官時代には決して着られなかったようなアルマーニのスーツを着て、女の好くワックスで髪を整え、エトロの香水を振り、ベーメルの革靴を鳴らしながら、大金の入ったジュラルミンケースを片手に彩られたカジノのフロアを歩いている。
 組織の経営するカジノでの見張りは、それなりに金が入った。アバッキオやフーゴが属するブチャラティのチームでは、下っ端でこの仕事に就けたのはアバッキオだけだった。組織に捕まる前、構成員を相手に暴れまわった腕っ節を買われたようで、そのせいで入院した前任の代わりにアバッキオが駆り出されることになった。
 お陰で生きていくには困らない。それだけではない。たまに幹部からのお下がりで、ブランド物を渡されることも、ワインを奢られることもあった。アバッキオの身を包んでいて、組織の垢にまみれていないものはもうない。
 社会から遠ざかり、歩みを止めたかったアバッキオには、全てが予定外のことだった。皮肉な思いがした。
 正しく歩むべき時に道を逸れて泥を掴み、その泥に沈みたいと思った時には、泥によって生かされている。こうなったが最後どこへ行こうと、気づけば歯車の一部に組み込まれているのだ。
 既に後戻りをしようにも、道を逸れようにももう遅い。用意された歯を噛み続けて回るしかなかった。
 ブチャラティに言わせれば、アバッキオの期待など、くだらない甘えとでも言うかもしれない。
 それでも三ヶ月前のあの日から、アバッキオは組織に対して同じ事を望み続けている。


「相棒を死なせたらしいな」
とその日、散々アバッキオを殴り倒したブチャラティは言った。体を縛り付けられていた椅子が倒れて、世界が傾いていた。床に顔を押し付けたまま、アバッキオは虫の息になっている。
 ブチャラティの声は、僅かだが違う色を滲ませたように感じた。どんな手を使おうと、罵倒も、懺悔すらも漏らさないアバッキオに、何かを感じたのかもしれなかった。男の心など、アバッキオには知るはずもない。
 男はやはり、アバッキオの返事を聞くつもりはないようだった。
「それはお前の死で償えるものなのか?」
 男は何故そんなことを聞いたのだろうかと、違和感だけがアバッキオの胸に残った。しかし己のせいで相棒を死なせた罪は、どうすれば償えるか。それを考えると、いつもひとつの答えにたどり着いた。
 アバッキオは死ぬべきだったのは、自分だったのだと思った。消えた組織のダイヤのために、アバッキオを無人の港に監禁して殴りつけるような男のいる世界では、命を奪うことは報復であり、制裁であり、罪の洗浄なのだろう。
 だが世間はそうじゃない。アバッキオの暮らして来た世界では、どんなことをしたって償うことはできない。存在を消したところで、心から、罪の重みは消えることがない。
「組織では……」
 アバッキオは、潰れた喉で呟いた。床が軋んで、ブチャラティの歩み寄る足音がする。椅子ごとうつ伏せたアバッキオの横に、男が屈みこんだ気配がした。
「……失敗を犯したらどうなる?」
「小さいものなら挽回を、組織にとって取り返しのつかないものならば、殺されるだけだ」
 男の淡々とした答えに、アバッキオは埃まみれの板に額を擦りつけて、納得したように重々しく頷いた。
「俺は、そうしたい」


 ざわめきを通り過ぎた時、ふと女の声が頭をよぎった。
──今は何のお仕事を?
 声をかけられて何度目かの時、がアバッキオに尋ねた言葉だ。あの時アバッキオは、なんと答えればよかったのだろうか。
 込み上げた苛立ちと喪失感に、返事などできようはずもなかった。
「アバッキオ、6番テーブルへ」
 すれ違いざまに、カクテルウェイトレスに耳打ちをされる。目を細めて指定のテーブルを窺った。一人の細身の男が、女を肩に抱きながら盛り上がりを見せている。「3億だ」と誰かが叫んだ。
 男はイカサマをしているに違いなかった。今日は指定日ではない。誰一人として、このカジノで1億以上を勝つことなど、あり得ない日なのだ。
 大股でゆっくりと近寄ると、テーブルでは人垣ができていた。
「いい勝ちっぷりだ。ツキが回ってきてるようだな」
 アバッキオは数人を掻き分けて男の隣に立ち、馴れ馴れしく声をかけた。
「そうだろ? これでこいつに楽をさせれる!」
 男はそれに興奮しきった様子で、腕に抱いた女を揺さぶっている。
「そうかい、それじゃあそのツキ、俺にも少し分けてくれねーか」
 アバッキオはそう言って男の肩を掴んだ。逃げられないように、手を食い込ませる。男ははっとしたようにアバッキオを振り返った。男からは潮が引くように笑みが消えて、引きつった顔が残った。あとは事務所へ連れて行き、ギャングらしい制裁を施すだけだった。
「助けてくれ……!」
と男は震えた声で懇願したが、アバッキオは倉庫に放り込んで、椅子に無理やり縛り付けた。女が扉の外で、泣きながら喚いている。
「テメーのツキは、ここで終わった。それだけだ」

──今は何のお仕事を?
 倉庫をつんざく叫び声に反して、表は沢山の色彩で満ちていることだろうと、アバッキオは思った。
 カジノのスロットが回る音。チップを弾く音。ディーラーがカードをめくる音。きらびやかな照明。着飾ったなめらかなシルクのドレス。すれ違いざまに掠めるサンタ・マリア・ノヴェッラの香り。
 それに紛れて、に放った自分の声が蘇る。
──……てめーにゃ関係ねぇ

 どうして人は歩くのだろうか。アバッキオは革靴越しに地面を踏みしめている感触を味わう度に、それを考える。
 鼻先で風を切る度に、アバッキオは深く後悔する。アルマーニのスーツを着るたび、エトロの香水を振り、ベーメルの革靴を鳴らすたび、ワインで喉を潤し、マルゲリータ・ピッツアのトマトの味を知るたび。
 生きていると、感じるたびに。



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13/04/20 長編