02
薄々感じてはいたが、どうやらフーゴはブチャラティの命令に従う以外には、大して関心を持たないらしい。
翌朝になって、ブチャラティの事務所へ向かった。繁華街から少し離れた場所にある静かな袋小路に、ブチャラティはリストランテとは別に自宅を兼ねた事務所を設けている。チームの会合以外は、男は大体ここにいる。
そこへ顔を出すと、先に来ていたミスタが「あんた警官だったんだってな!」とソファーから立ち上がってアバッキオを迎えたので、ギョッとした。
アバッキオが誰から聞いたのかと睨むと、男は人なつっこい顔で笑いながらフーゴだと告げた。
あの野郎──
とスカした顔を思い出して歯を食いしばる。とことん憎たらしいガキだった。
ミスタは苛立つアバッキオに気づかないのか、もしくは自分の話を進めるためなら無視を通すのが男のやり方なのか、
「あんな警察辞めてよかったよ。正解だぜ」
と昨日の緊張もすっかり溶けた様子で、やけに嬉しそうにアバッキオに笑顔を見せた。隣に座れというように、ソファーに間を空ける。
柱時計を見た。予定まで10分はある。ブチャラティもフーゴも遅れて来ないだろうと、アバッキオは仕方なくミスタの隣に腰を下ろした。
「あんたは死んだ人間を見たことがあるか?」
とミスタが言った。
アバッキオは質問の意図をはかりかねながらも、眉を潜めて横目に男を睨んだまま、話に付き合ってやるつもりで静かに頷いた。
最後に死人を見たのは、自分の過失で死んだ同僚だ。我が身可愛さで逮捕を迷った末に、こんな人間を庇って、同僚は死んでしまった。
アバッキオがこみ上げる後悔の念に、僅かに息をつまらせたのに気づかないミスタは、膝の上に組んだ自分の両手のひらを見つめながら、構わずに間延びした声で語り出した。
「ある日の帰り道、通りの角を一台のワゴン車がドアを閉めながら走り去っていった。アメ車だったから、珍しいなと思ったんだ。それで何気なく路地を覗きこんだ。すると、道端に男が倒れていた。ひきつけを起こしたみてーに痙攣して泡まで吹いてたのよ。すぐに分かった。こいつは麻薬中毒で、ぶっ飛んじまってるってな。そういうのは自業自得だ。助ける義理なんて俺にはない。だが遭遇してしまったからには、目の前で死にかけてる人間を見殺しにはできねぇ……そうだろ?」
ミスタが話を切って同意を求めるようにアバッキオへ視線を送ったが、アバッキオは答えず、「それで?」と続きを促した。ミスタは頷いてまた、自分の手へ視線を戻した。
「男はどうせどっかの店で吸い過ぎただけだろうが、それを道端にゴミのように投げ捨てるってのは異常だ。この男だけじゃなく、他にも何人も殺されてきたかもしれない。だから近くのタバコ屋で電話を借りて通報したんだよ。警察経由で救急車を呼んで貰おうってな」
男は静かに口を閉じた。数秒の沈黙が落ちて、男が喉を震わせた。
「45分だった」
「あ?」
アバッキオがミスタへ顔を捻ると、いつの間にか笑みを引っ込めていたミスタが、アバッキオを通して何かを睨むように手から視線を上げた。
「通報してから警察が来たのは、45分経ってからだった……」
その間に男は死んじまったよ、とミスタが言った。
「俺はそれ以来警察なんてもんを一度も信じたことはない。あいつらはお飾りだ。何の役にも立ちゃしねー。だから危ない奴がいたら警察を待つよりも、自分でどうにかしちまった方が早いってこった」
その考えのせいで自分が捕まり、こんな場所へ身をやつすことになった経緯を、男はたいして悔いていないように見えた。
「この街には、そういう人間が多いってことさ。市民の声になんざ耳を貸さねー癖に、危うい時にカモを見つけりゃ見せしめのように裁いて罪状をつきつける。何が正義だか分かりゃしねーな、世の中」
ミスタは自分の身の上を話しているのだろう。自嘲するように笑ってから、警官だったアバッキオへゆるりと目を向けた。
「お前もそうされたクチだろ?」
お前は正義を通したんだろ? だからここへ落とされたのだろう? ──ミスタの目はそう言いたげだった。アバッキオの事情を知らずとも、正義に裏切られる形で挫折を味わったばかりの男は、そう信じているようだった。正直者が馬鹿を見る世の中なのだと、それがこの国なのだと思って疑わない目をしていた。
思わずアバッキオは、男の目を振り切って、自分の骨ばった手に視線を落とした。
*
カゼルタで勤務していた。母の生まれ故郷で、アバッキオも少年時代までは住んでいたから、そこまで古い記憶ではない。
父親の転勤で中部に引っ越したものの、大学へは行かず就職するために入った三年制の高校を出た後、郷愁を理由にカンパニアに戻り、そこで警察の試験を受けると難なく受かった。それでもアバッキオにとっての警官は、夢にまで見た職業だった。
といっても警察学校を終えてから、実際に勤めることが出来たのは大した期間ではない。たったの一年足らずだ。夢はその数ヶ月の間に、多くのものを引き連れてアバッキオから遠ざかっていった。
事件の後、同僚は搬送先の病院で数時間と経たずに息を引き取った。手術には間に合わなかった。最期まで意識は戻らず、付き添っていたアバッキオにも謝る暇すら与えられなかった。
同僚の両親が駆けつけた時には、既に顔に布がかけられていて、それを見るなり崩れ落ちた母親は、廊下に蹲ったまま悲痛なうめき声を上げた。胃にずしりとのしかかるような、地を這いずるような声だった。アバッキオがそれを泣き声だと気づいたのは、その肩を抱いた父親の目から静かに涙が溢れていたからかもしれなかった。
それに対して、ポン引きは辛うじて生き延びていた。昏睡状態から目が覚める頃には、アバッキオの汚職も露見するだろうと分かっていたのだが、とても非現実的なことのように思えた。
この件は当初は殉職のみとして扱われたが、ポン引きの男が意識を取り戻した日に、やはり男の証言によって汚職が露見し、収賄罪の絡んだ事件として捜査が開始された。
犯罪都市と呼ばれるネアポリス県に隣接したカゼルタでも、汚職は大して珍しいことではない。地方の新聞に小さく載って、翌日には忘れ去られる程度の事件だ。日常茶飯事のため誰もが辟易として、跳ねた泥を拭うように記憶から消し去った。この国に汚職は蔓延しすぎていたからだ。
だが、アバッキオの時は違った。同僚の死が、国を憂う人間の心に大きな同情の波を寄せてしまった。その波は嵐になり、犯罪を甘んじ、私腹を肥やしている政府への怒りとなってアバッキオへ返って来た。
地方新聞の端っこに小さく掲載されるだけのはずだった事件は、“汚職”“殺人”“強盗”の三つが絡んだ警官の不祥事として紙面に大字で印刷され、ニュースでも連日取り沙汰される騒ぎになった。
アバッキオの判決に最も不利だったのは、市長が同僚の葬式に赴いて行った「犯罪組織と癒着の撲滅」の演説が、意外にもその場の人間の心を揺さぶることに成功したことだった。市長の演説はカゼルタだけではなく、反マフィア団体の力も得て、記憶を呼び覚ますように幾度も全国のメディアを流れた。市長の支持が上がると共に、賄賂と怠慢の巣窟だった警察の信用は今まで以上に落ち、非難の嵐を浴びた。
その時にはもう既に、アバッキオは警察と社会という居場所を同時に失くしてしまっていたのだろう。
運が悪かったと、日々懐の重みを擦っている人間は言うかもしれない。けれど本当にそうなのだろうか。
窃盗や暴行、違法売春の容疑で逮捕されたあのポン引きは、
「俺を殺しとくべきだったな」
と下卑た笑いを浮かべて、ねっとりとアバッキオを見た。弧を描いたポン引きの目の中に、真っ青な男が立っていた。今にも消え入りそうな男だ。それが自分だと気づくまでには時間がかかった。
二人が倒れたあの時、アバッキオがもう一発銃を撃って男の息の根を止めていれば、後で正当防衛だとでも言って逃れられたはずだった。関り合いを恐れて、住人の誰もが門戸を閉ざして息を潜めていた。アバッキオしか目撃者はいなかったのだ。何とでも誤魔化しが効いた。
「ムショで仲良くしようや」
男には賄賂の宛もなく、もしあったとしてもこれだけの罪状を並べられれば服役を逃れることは出来ない。男は目が覚めた時に既に覚悟を決めていたようだった。
アバッキオもまた、その言葉で現実を思い知らなければならなかった。腹をくくる必要があったのだ。だが男に切り替えがすぐに出来たのは、刑務所にも信頼出来る仲間がいるからに違いなく、警察学校を卒業したばかりの社会を知らないアバッキオには、頼れる知り合いなどいるはずもない。
汚職に罰金刑はない。陪審員は絶対にアバッキオを有罪にするだろう。そうすれば待っているのは刑務所だ。その中に収監されて元警官ということが知れれば、たちまち憂さ晴らしとしていいカモにされるのは間違いなかった。男の目的も、それしかない。
最初から覚悟が必要だったのは、アバッキオの方だったのだ。
*
ミスタをチームに迎えた翌日、アバッキオ達がブチャラティに呼び出されたこの日、フラヴィオ・ラ・トッレという名が上がった。ネアポリスの市長だ。パッショーネじゃ知らない者はいない。ギャングと癒着して地位を得、誰よりも運を頂戴している。言わば政界の“友人”だ。
その男が、組織への上納金を滞納しているのだという。敵対する素振りはなく、金も払うと言っては幹部たちを酒会に招き、他のもので機嫌取りをしているが、それでは本来の上納金の一割にも満たない。私欲に目が眩んだと見て間違いないと、ポルポがブチャラティへ指示を出した。
「これから俺たちはフラヴィオの監視に入る。命を取りはしない。ああいうやつには、俺たちにとっても使える駒であってほしいからな」
「おっと、“友人”だったかな」と言って、ブチャラティはテーブルの上にフラヴィオの関係者の写真をばら撒いた。
「まずは男を追い詰める。政治家生命を断つのは最終手段だ」
「聞いた所、随分図太そうですが……遠回しで効果があるんですかね?」
写真を手に取りながら尋ねたフーゴに、ブチャラティが僅かに唸った。
「フラヴィオと同じような“友人”を始末しろとポルポさんに言われたが……」
全員の顔を見た後に、ブチャラティが言った。
「それは俺がやろう。お前らはとにかくどんな小さなことでもいい、弱みを探して握れ。今はまだ手を出さなくていい……年が明ければ市長選挙があるからな」
アバッキオはテーブルの真ん中に置かれたフラヴィオの写真をつまみ上げた。私腹を肥やしている割には頬がこけた痩男で、背ばかりが高い。お陰で見つけるのは簡単そうだった。
「この木偶の坊を脅すには丁度いいってことか」
嘲ったアバッキオにブチャラティが静かに頷くと、黙って聞いていたミスタが、「ギャングってのは分かりやすくていいな」と、どこか気に入ったように呟いた。
ギャングは分かりやすいというミスタの言葉に、そうかもしれないとアバッキオは思った。利益のためなら法を犯すことを厭わない。フラヴィオのような政治家は市民にもギャングにもへつらっていかなければならないが、ギャングが跪くのは金だけだ。金が全てを支配する。そこに偽善はない。その姿が、時に自由に見える。
住民がブチャラティを頼るのは、その自由なはずの男が、規律を持ったように歩いているからかもしれなかった。ブチャラティはアバッキオから見ても、イタリア人らしからぬ几帳面な男だった。
神経質そうに見えるくせに大雑把なフーゴとは違い、駐輪する時ですら、決してアメリカンスタイルで停めるようなことはしない男だった。
男が適当なのは食事だけだった。摂ったり摂らなかったり、そんなことがざらにある。それ以外は仕事も人付き合いも、まめでそつがなかった。だからこそ、この若さで幹部に気に入られ、主に回護料をまとめるだけの下っ端とはいえ、早くにチームを任せられるまでになったのだろう。
その上、街の人間にすら好かれ頼られている。本来市民を守るはずの警察を差し置いて、捕まえられる対象である人間が護衛の窓口のような役割を担っているのだ。
大した男だが、アバッキオにはその完璧さが鼻持ちならなかった。そこまでにブチャラティという男は、ひと昔前のギャングの写し身だった。
麻薬で稼ぐことを汚れた仕事と嫌い、市民には決して手を出さず、回護料を払う商店は手を回して守った。市民の顔のように振る舞い、弱きものを助け、ギャングという特権を使ってゴロツキを挫いた。女には手を出さず、家庭や血縁を尊いものと信じ、仲間を家族のように見た。
そのくせ平気で拷問をし、人を殺した帰りに何食わぬ顔でピッツェリアに立ち寄れる人間の矛盾を持つ、まさしくギャングそのものという印象を、初対面でアバッキオに抱かせた。
だが、決して善人ではない。ギャングというものに善人などはいない。誰も彼もが、罪と冷酷さを心臓に持ち歩いている。
過ちを犯さない人間などいない。それが神の作った人間の業だからだ。しかし、どんな過ちを犯し、どんなに窮地に陥ろうと、その人間が真っ白な道徳心を持っているならば決して、ギャングの道などを選ぼうなどとは思ったりはしない。
決してだ。
カジノの幹部と上手くやっているかとブチャラティに報告を促され、アバッキオにとっては他愛もない言葉を交わして、別れた後だった。
その光景を偶然見ていたらしいが、買い物帰りの大荷物を両手に抱えながら慌てて追いかけてきて、
「あの人と知り合いなんですか?」
と言って、息も絶え絶えにアバッキオを捕まえた。
「この通りでも有名なギャングの下っ端ですよ?」
と、真っ青な顔で詰め寄るのだ。アバッキオは面倒な女に余計なものを見られたと、顔を顰めた。
大荷物で歩いているのだから、この辺りに住んでいるのだろう。随分とブチャラティの事務所に近かった。
ブチャラティに警告されても、女のことを調べようなどとはつゆにも思わなかったアバッキオは、がどこに住んでいるかなど知らなかった。厄介なことになりそうな予感を覚えた。
「あの人に関わるのはやめて下さい……! 知人も余計な事に首を突っ込んで、この前病院送りにされたんですよ……? 警察なんて媚びるだけで誰も助けてくれません、だから……」
事情を何も知らないくせに首を突っ込んでくる女に、無性に苛立ちを感じた。女の声を遮って、アバッキオは口を開いた。冷たい声だと思った。
「死んだのか?」
「え……?」
「そいつは死んだのか?」
いえ、と女は困惑し切った声色でアバッキオを窺った。
「ならそいつは運がいい」
女は目を丸めてアバッキオを凝視した。言葉にはしなくとも、信じられないと言う思いが顔に克明に表れていた。
「お前が俺にどんな恩を感じてるのかは知らないが、それは一年以上前の話だ」
コートを翻して女に背を向けた。女は呆然と立ち尽くしたまま、何か言いた気にアバッキオの背を目で追いかけた。それでも、引き止める声はしなかった。
アバッキオは角を曲がる前にひっそりと呟いた。
「もう大昔だ」
状況は変わってしまっていた。ブチャラティの言うように“運の悪かった”アバッキオは、警官どころか、社会にもまともに戻ることが出来ない。
はたして、運が悪いとは何に対して使われるべき言葉なのだろうか。賄賂を隠し通せなかったことなのか、それとも同僚が死んでしまったことに対してなのか。
刑務所の数ヶ月で、アバッキオの法的な罪はとっくに償った。それなのに同僚の母親の泣き声が、背後からひたひたとどこまでも追いかけてきて、アバッキオの足に絡みついて離れない。アバッキオは気づいてしまった。真っ暗な獄中で悲痛な泣き声に追いかけられながら、この世に本当の償いなんてものはないのだと気づいた。その時、アバッキオの人生のこの先全ての道が、暗闇に変わっていた。
そうして今のアバッキオは、運を吸い取り、金に変える側にいる。虚しさばかりを抱え、己の罪を償おうという気は、どこかへ消えていた。ただ動物の本質に従って、死に向かって生きるのみだった。そこに、道徳はいらない。
警官の制服を着た時に胸に燃えていた情熱と英気は、警察学校を卒業してたったの半年足らずで萎み、汚職にまみれた周囲に溶け込むようにして、己の身も同化して行った。
それなのに、どうしてかアバッキオ一人だけがこの場所にいる。警察も政治家の誰一人として、同じ場所には立っていない。懐に賄賂を受け取りながら、何食わぬ顔でアルファのパトカーやベンツを乗り回しているのだ。
腐ってやがる──とアバッキオは思った。何もかにもが腐っている。
それを許せないと言うくせには、その腐敗の只中にいたアバッキオを恩人だと言って譲らなかった。