02
警察というのは個人ではなく、組織という一つの顔として認識されているせいで、面識のない他者から知らぬ恨みを買っていることもある。
アバッキオがパッショーネに入団して身に受けたのは、もう一つの“警察組織の構成員”に対する憤怒と嘲りだった。
ギャングではなくとも、警察などというのは大して信用されてはいない。困ったときの一か八かの保険程度にしか思われていない。そうだろう、とアバッキオも思う。
昼をすぎれば気分で休みをとったり、バールで砂糖をたっぷり入れたエスプレッソを啜る仕事を優先するような警察など、追い詰められでもしない限り誰が頼ろうなどと思うだろうか。それが常識的な認識だ。善悪などではなく金のある人間を味方する警察は、たとえ猛犬に追われていようと子供でさえも素通りする。
そういう警察組織に対する意識のお陰で、他の部下や構成員は大抵、アバッキオが元警官だと知ると嘲笑混じりに侮蔑の表情を浮かべたものだった。ドナートも例に漏れずそういう男だ。
だがアバッキオを笑いものにするくせに、特別嫌いだとは思っていないようだった。それが厄介だった。いいように取れば、気に入られているらしい。
拷問が終わると、多少蒼白になったアバッキオを捕まえてドナートが言った。
「ブチャラティの小僧が教えてくれてねぇってんなら、俺が教えてやる。警察学校の行儀の良い殴り方じゃあだめだ」
「……遠慮する」
アバッキオは素っ気なく返したのだが、40を過ぎたドナートには、“元警官のお坊ちゃん”が、気を張っているようにしか見えなかったのかもしれない。それよりも、あの拷問を見た後でそんな態度が出来るアバッキオを、ドナートの部下は苦笑いしながら見守った。
部下の手には、人一人分の重さの詰まった麻袋が引きずられている。アバッキオは無表情のまま目を逸らした。
「誰に口きいてんのかわかってんだろうなァ?」
と笑ったきりドナートはそれ以上咎めることもなく、倉庫から外に出ると、兄弟分でも抱くようにアバッキオの肩を無造作に引き寄せた。
ドナートは背が低いので、アバッキオが幾らか身をかがめる格好になる。ギョロッとした目と彫りの深いラテン顔が、暗い白熱球に照らされた。
「オメーは根性がある。警察なんて面じゃあねぇ。そもそも何で警官なんぞになった? 碌なもんじゃあねーだろう。まともな女はチンピラより先に逃げてくぜ」
ドナートはアバッキオの肩に腕をかけながら、部下が停めていた白いアルナージまで歩み寄るが、アバッキオが答えないとわかると、慰めるように背中を叩いた。
「誰にでも間違いはあるさ。その“責任”は、取る必要があるけどな」
ドナートを乗せると、部下が運転席に乗り込む。倉庫の前で見送るように立ち尽くしていると、スモークガラスが開いた。スーツの上着を脱いですっかり寛いでいるドナートが、自分の座るシートの隣を指した。
「乗ってくか?」
「いや……」
と言った後、アバッキオは黙って首を振った。ドナートは頷いて、またスモークガラスを閉めた。闇夜でも真っ白なイギリス車は、独特のエンジン音を響かせて去っていく。
男の言う“間違い”とは、アバッキオが警察に入ったことだ。アバッキオの思う“間違い”とは、正反対のものを指している。
車のテールランプが角に消えたのを見計らって、微かな下水の臭いのする夜道をアバッキオはようやく歩き出した。もう数時間で夜が明ける。こんな時間に歩いているものは少ない。あとは閉店間際のバールに滑りこんで軽食をとり、埃臭いアパルトメントでシャワーを浴びて、固いシーツに身を転がすだけだ。
変わりばえのない日課が、唯一の救いだった。
*
父親は厳格だった。アバッキオが警察へ入ることを一番に反対していたのは父だ。北部生まれの古いタイプの人間なので、南部をあまり快く思っていない。しかしそれでも、南部生まれのアバッキオの母にだけは惚れた。
幼いアバッキオを抱いて、
「マンマだけが南部の誇りだ」
と、真顔で惚気を聞かせるような具合だ。その父が南部よりももっとも嫌いだったのが、警察だった。
母親の肩には大きな傷があった。
「この傷は警察がつけたのだ」
と、小さい頃から父親が嘆くようにして、よくアバッキオへ言い聞かせていた。しかしその傷がどうやってついたのか、アバッキオは今日まで一度も語られたことがない。両親にとっては、話したくもない傷だったのかもしれない。
しかししきりに父は警察を貶しては、その弊害をアバッキオに説いた。時にいい人間もいる。だが凡そ父の言うとおりだと思っていたので、否定することはなかった。母は何も語らなかったが、抑えきれない心が眉を曇らせていたのが、アバッキオには分かった。
両親の様子から、二人が警察の怠惰によって、何らかの被害を受けたのは明らかだった。アバッキオはそれが許せなかった。目に付くいい加減な仕事ぶりと、賄賂だけでなく、コネで事件を軽くするような姿を見る度に、もしかすると両親はこんな被害にあったのではないかと不意に想像が巡って、憤りを感じるようになった。多くの警察の、自己中心的な天秤にかけるような正義は、アバッキオの意思をふつふつと滾らせていった。
昔からアバッキオが反骨者だったのが、父にとっては災いしたのかもしれない。よく難しい性格だと形容されては、苦笑いをされた。自分でもこればかりはどうにもならない性分だと諦めていた。
間違っていると思えばすぐに口を挟まずにはいられなかったし、そのせいでよく喧嘩もした。ガタイだけは良かったので、殴り合いをしても負けたことはない。素行はとてもいいものとは言えなかっただろう。ねじ曲がった性格をしていたので、実直とも言い難かった。
だが、自分が正しいと信じたことだけは通したかった。警察や、それに甘んずる社会が反面教師であるかのように教える、父の言葉を信じた。
だからこそ、反骨の精神がむくむくと沸き上がってきたのかもしれない。アバッキオは次第に、忌むべき警察の中に入って、己の正義を通してみたいと思うようになった。それがまだ見ぬ警官の偶像として、憧れに変わっていった。
アバッキオは警察という職に憧れてはいたが、警察そのものに羨望していたわけではない。イタリアの、それも南部に生まれたのだ。警察が腐っていることは十分知っていた。それでも良かったのだ。そう思わなければ、アバッキオが入るわけなどない。
「警官になる」
とアバッキオが告げた時の父の様子は、まさに青天の霹靂だった。警察に入ったら勘当だとさえ言われても、止まることのないアバッキオの熱意が冷めることはなかった。
一人くらい、母のように困っている人間を助ける警官がいてもいい。自分はそうなりたいのだと思った。自分こそは警察を正そう、正しく生きようと大言を吐いて試験を受けて、すんなりと受かった。殆ど家出をしたようなものだった。
正しく生きれば市民なら自分に答えてくれるだろうと思っていた。しかし市民というのは、両親のようなものばかりではない。政治家の汚職を叩くくせに、自分たちは当たり前のようにコネを使い、賄賂を使い、その意識が汚職の温床になっているとは気づいてもいない。
アバッキオはこの国では寧ろ、両親が限りなく稀有な存在だったのだと、警官になってからようやく気づいたのだった。
正義を守れば市民に認められていくだろう、という考えは見事に覆され、アバッキオが抱いていた熱意は、警察にも市民にさえも必要とされない、まったくの見当違いなものとわかってしまった。
怠慢な警官へも混じれず、“警官”というだけで偏見のレッテルを貼られ、市民へも迎合されない。擦り寄るものは警官のコネを少なからず期待しており、それを跳ね返せば友人でさえも嫌な顔をした。心ない人間なのだと、陰口を叩かれるようになると、いつの間にか何かを失ってしまったような、孤独に似た穴から寒々とした風が心に吹きつけた。
己が望んだ姿を通そうとすればするほど、縁というのは遠ざかっていく。きっかけは、どこにあったのだろうか。
自分でも知らぬ間に、忌み嫌い決してそうはならないと思った姿に、アバッキオは落ちてしまっていた。汚職をしても、悪気などというものはなかった。気づきもしなかった。手に紙幣のざらついた感触を握らされても、正しいことをしているのだと、その時は不思議とそう思っていたのだ。
裁判を経て数ヶ月の刑期が決まった時、傍聴席に座る父と母は、やせ細ったアバッキオの顔をただただじっと見つめていた。一度も顔を向けられなかった。
母の実家になど、とてもじゃないが泊まれなかっただろう。近くにホテルを借りたのか、拘置所にも両親は何度も足を運んできたのだが、アバッキオに合わせる顔などあるはずもなかった。大言を吐いて家を飛び出したのだ。もしかしたらその時に父親をなじったかもしれない。自分の性格だ。ひどい暴言を吐いたかもしれない。
それでも父親がアバッキオを連れ戻さなかったのは、アバッキオが目指した姿を、信じていたからじゃなかっただろうか。そう思えば思うほど、一体自分は何人を裏切ったんだろうかと、アバッキオは暗闇の底に落ちる心地がした。
気づかなかった、間違っていた、では済まされない。人が一人死んでいる。自分の先輩だった。アバッキオが憧れた警官に、一番近かった人だった。
裁判を終えると、両親はなけなしの貯蓄をアバッキオの減刑のために使ったのだと、刑務官から言われて知った。
「親に感謝しろよ」
と肩を叩かれると、目の前が真っ暗になった。心臓をえぐり出されるような痛みが走って、脈だけがひとりでに嫌な音を立てて全身を駆けまわる。立っていられたのが奇跡だった。
俺はなんてことをさせたんだ──
己ばかりか、親までをも汚してしまったと、アバッキオは思った。父が最も嫌っていたことを、己の手でさせてしまったのだ。一つの罪が、幾重も幾重も増していく。その重みで押しつぶされそうになった。
刑務所を出れば、行き場所はどこにもなかった。あるいはポン引きの汚い手から、リラ紙幣を受け取った時から、ずっと。
*
組織の中で個人があがいたところで、どうにもなりはしない。警察も然り、パッショーネも然りだ。どこかで必ず失意に暮れる。波に沿って歩かなければならないことを、身をもって教えられる。
それでもアバッキオは今まで生きてきて、刑務所でさえ、背を丸めて歩いたことなどなかった。
小さい頃に両親に猫背を叱られて、意図的に胸を張るように歩いていたからかもしれないが、いつでもその癖のせいで堂々とした出で立ちだと言われ、目立ないことはなかった。それが今になってアバッキオは、今度はわざと背を丸めて歩いている。その方が脅しやすいからいいのだとドナートは言う。
釈然としなかったが、癖をつけるように歩いていると、ブチャラティやフーゴまでもがそれを「サマになっている」と言って褒めた。ここまで、言われて喜びようのない称賛は初めてだった。
その歩き方で港まで赴いた。あれから二週間近く、まだ港でこき使われているという、アバッキオと同じ配下のナランチャ・ギルガに用があった。
操縦に才能があると聞いていたので、てっきりトラックやフォークリフトでも教えられてコンテナなどの積荷の運搬をしているのだろうと思っていたのだが、中国人のホァンが管理しているという頑丈なビルまで行くと、案内された部屋の中では、休憩中のナランチャがサンドイッチを頬張りながら座っていた。
「あっ、アバッキオ!」
もう真夏の暑さは過ぎたが、こちらに気づくなり声を上げたナランチャは、砂漠でも横断してきたかのように汗と埃にまみれている。
「なんだよ、アバッキオもこっちに回されたのか~?」
「ちげぇよ」
「ヘマをやらかしたんだろ?」と言いたげな青年は、17にもなるというのに、あどけなくて少年のような顔をしている。どこまでも小憎たらしいフーゴとは大違いだと、セメントで固められかけたことを思い出して、アバッキオは苦虫を潰した。
「ブチャラティの使いかな?」
「ああ……あんたがホァンか?」
テーブルを挟んでナランチャの前に座り、雑誌を読みながらお茶をすすっていた男が席を立って、アバッキオを部屋の中へ促した。上背は高いがぽっちゃりとして、切れ長の目を持ついかにも中国人らしい40位の男だ。本名はホァンと言うが、ネアポリスでの洗礼名はニーノだと名乗った。言うものの、どちらで呼ぼうが拘りはないらしい。
アバッキオはナランチャの背後に立って、椅子の背もたれを掴んだ。パンくずを零しながらナランチャが振り返り、アバッキオを肩越しに見上げた。
「こいつに任せたい仕事があって、交代してほしい。ポルポさんがすぐに代わりの人間を寄越す」
「構わないよ。どうせこっちはトラックに荷物を積むだけの仕事だ」
ネアポリス訛りの完璧なイタリア語だった。目と鼻の先の港湾局と対峙しながら、長い間密輸を誘導してきたのだろう。
ナランチャは話が決まると、
「この仕事、結構キツかったんだよなァ~」
と言いながら、残りのサンドイッチを口に放り込んで慌てたように飲み込み、嬉しそうに椅子を立ち上がった。出ていけるならさっさと出たいという気持ちが、そのまま態度に現れている。ホァンも特別気にはならないようで、交渉は済んだとばかりに、早速読みかけの雑誌をめくり始めていた。
用は済んだので挨拶もそこそこにドアに向かう。途中で、「そうだ」とアバッキオは立ち止まった。椅子から尻の肉をはみ出しながら斜めに座っていたホァンが、視線だけをこちらへ寄越した。
「この前の餅茶、うまかったとブチャラティが」
「飲んだのかい?」
「ああ」
「それで?」
ホァンは雑誌をめくりながら雑談と変わらない雰囲気で、静かにアバッキオの返事を待った。
三週間前、ナランチャがホァンから貰ってきたという餅茶を砕くと、中からは見るからに最近書かれた新品のメモ用紙が一枚出てきた。餅茶製造時に印字され埋め込まれた、60年ものの内飛ではない。指令の暗号文だった。
その内容は、ブチャラティしか知らない。
「完了したと」
アバッキオが答えると、ホァンは納得したように頷いた。また何らかの手段で、ポルポへ伝達するのだろう。これだけで取引は終わった。アバッキオの仕事は、あとはナランチャを連れてミスタとともにフラヴィオの監視をするよう、説明するだけだった。
しかしドアを開ける途中で、また何気ない疑問が口をついて出た。餅茶は石のように固かった。壊して修正したとも考えられない。
「どうやってあの中に入れたんだ? 確かに60年ものなんだろ?」
「ポルポさんに聞いてごらん」
意味深に笑ってから、「忘れていた」とホァンが体を捻りながら、スボンのポケットを漁った。
アパルトメントの鍵が、ぼうっと立ち尽くしていたナランチャに投げ渡される。
「荷物を取ったら戸締りをして、右から三番目のプランターに突っ込んで置くんだぞ」
「はァい」
ナランチャの間抜けな返事と一緒に、事務所のドアは閉まった。
ホァンがいる事務所のあるその階以外は、内壁が全て壊されて、簡易な倉庫と化しているらしい。そこからトラックへ荷物を積み込み、別の倉庫へ運ぶ極々単純な作業を、丸一日やらされるのだという。
そんな仕事の話をナランチャから聞きながら、アバッキオは着替えと音楽雑誌がパンパンに入った荷物をナランチャが背負ったのを確認して、貸切状態のアパルトメントから、いつものリストランテの方角へ向かって港を出た。
「えぇーっ、車じゃないのかよ」
「俺が持ってねーのは知ってんだろうが。迎えがフーゴじゃなかったことを恨むんだな」
歩きながら適当に返すと、ナランチャはリストバンドで顔の汚れを拭いながら、
「いいよ、フーゴだと寄り道させてくんねーからな……ねぇ、途中でジェラート買ってもいいよな?」
と、アバッキオの隣へ並んだ。そんなことを一々尋ねてくるのがナランチャの癖だった。命令以外、何でも自分で判断してしまうフーゴには、その優柔不断さが耐え難いのだろう。
「ガキじゃねーんだから、好きにしろよ」
突き放すような言い方だったはずなのだが、それでもナランチャは満足気に頷くと、空気を蹴って歩きながら、「アバッキオはいいやつだよなァ」と浮かれた様子でジェラートのトッピングを考え始めた。