
01
確かにドゥオモとは言ったが、アバッキオは詳しい場所までは告げていない。しかしは、アバッキオの僅かなプライドも簡単に払いのけてしまった。
自分で約束を取り付けておきながら、アバッキオはオープンテラスにほぼ時間通りに現れたに、僅かに目を見張っていたらしい。ちょうど昼時だ。通りに面したテラスは人の出入りが激しく、男女差なく賑わっている。
エスプレッソの入った湯気の立つカップを手にしながら、人が座る狭い椅子と椅子の間を窮屈そうに掻い潜って来たは、「ボンジョルノ」と言う声と一緒に、気だるく斜めに腰を下ろしていたアバッキオの前にたどり着いた。
熱すぎるくらいの陽光がの黒髪に照って、エスプレッソの香ばしさを一層深くする。
「よいしょ」
とため息混じりに椅子を引くと、はいつも通りアバッキオの向かえ側に腰を落ち着けた。木製の丸テーブルに置かれたカップから、香りが流れてきた。アバッキオの方角に緩い風が吹いていたようだ。
言葉を失っているアバッキオの様子に気づいて、が瞬きをする。
「お前……」
何で分かった?──
アバッキオは聞きかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。しかしはそれを感じ取ったのか、すぐに得心したような小さな笑い声を漏らした。
「その、だって……アバッキオさん、テラスが好きでしょう?」
遠慮がちに言ってから、はほんのりと頬を上気させている。話してもいないアバッキオの好みを知っていることを、恥じらったようだった。
尋ねられても、アバッキオは相変わらず唖然としていた。知らなかった。己にそんな嗜好があったとは、知りもしなかった。に言われて初めて、気づいたのが些か信じられなかった。
見ればまで、アバッキオと同様にきょとんとしている。笑いはしたもののまさか思いもよらなかったのだろう。「気づいていなかったんですか?」と言いたげに目を丸くしている。
背後の座席から、先刻から徐々に盛り上がりを見せていた女同士の、高らかな笑い声が上がった。その奥では、店主の女房らしき女が客に笑いを零しながら、青々と葉の茂るプランターに水やりをしている。
灯台下暗しとは言ったものだ。アバッキオが己に無関心すぎたことを自覚しなければならなかった。仮にも少し前までは、女を巻こうなどと思っていたのだ。これではまだまだ気づかない内に、に知られている癖があるかもしれない。一抹の情けなさを自覚する。
アバッキオは肯定の意味で、テーブルの上に投げ出していた手を軽く掲げた。続いて、
「テメーには負けた」
と零せば、は意外そうだった表情をほどいて、緩やかに笑みを浮かべた。初めて自分がアバッキオを出し抜けたのだ、といった顔だ。いたずら気でいて、素を表したような、あどけない顔だった。
思わず目を逸らしてしまってから、アバッキオは舌打ちを零した。どこからともなく昨日のフーゴの言葉が浮かび上がって来たからだった。
余計なこと言いやがる──
居心地の悪さを感じながら、再び横目に女を見遣った。強い日照りのせいか、の白い肌が眩しい。目が眩むような感覚を覚える。
はアバッキオが悔しがっていると思ったのか、俯き加減に口に手を当ててくすくすと、一層可笑しそうに笑い声を漏らしている。
このところ調子を狂わされている、とアバッキオはの声を耳にして苦々しさがこみ上げてくるのがわかった。
本来なら、組織の命令に従って淡々と暮らしていればいい。以前を思い出すこともなく、いずれ来る終わりを待ちながも、無心にブチャラティの下についていれば良かった。
それがが来てからだ。否応なしにも警官時代を、それ以前を思い出さなければならなくなる。苛立ち紛れに女を背けても、どうにも振り払えなかった。無害と知ればその内面倒にもなり、女の執念深さが上だったのだと諦めるようにもなった。
だが、そう思い込んでいただけだったのかもしれない。
ひとしきり肩を震わせると、は落ち着けるためか、胸に手を当ててアバッキオを上目に窺った。
「私、花屋でバイトをしてたんです」
笑いの余韻を残した声が、唐突に言った。
「少しでも学費の足しにしようと思って」
今までのことを問答無用で跳ね除けてきたからか、はにかんだ口元がアバッキオの様子を探りながら、おずおずと言葉を紡いでいく。
口を挟みはしなかった。それよりもアバッキオは、思いもよらず初めて女のことを知ったことに驚いた。
女はお礼を口実にアバッキオに馴れ馴れしく話しかけ、知り合い面をしながらも、今まで決して一定の線を越えようとはしなかった。それが逆に懐疑心を抱かせていたのだ。
何故明かすのか、と思ったところで、アバッキオは自分が先にその境界線を破っていたのだと気づいた。
「つーことは……」
改めてを見つめなおした。高校を卒業したばかりだと言うのだから、17か、あるいは5年制の学校に入っていれば19歳なのだろう。考えもしなかったが、そう思えば、それくらいの年に見えないこともない。
覚えず、アバッキオは目に興味の色を浮かべていたらしい。これまで無視をされるだけだったというのに、いつにもなく無遠慮に寄せられるアバッキオの視線に慣れなかったのか、は頬に朱色を集めて居心地悪そうに顔をまた俯けた。
「常連のバールに花を届けた時に、アバッキオさんの姿を」
アバッキオが口を閉ざしたのを見て、はまた話を続けた。
「最初はわかりませんでした。少し似ている人かと。でも二回目に見た時、横顔を近くで見て確信しました」
だからつい声をかけてしまったのだと言う。
は照れ臭い気持ちを隠すためか、エスプレッソを一気に煽ると、はにかみながら僅かに濡れた口元を指で軽く拭った。そうしてから、茶色がかった瞳がちらりとアバッキオに向けられる。目が合えば、はどうしてか困ったように笑った。
いよいよの顔を見ていられなくなった。代わりに何か悪態でもつこうと思っていたのだが、いくら絞っても、アバッキオの口からそれは出てこない。
アバッキオの方が余程、困った顔をしたかった。振り払っても女はついて来るし、その女には自分ですら認識していなかったアバッキオの癖を知らぬ内に見抜かれていて、挙句唯一の落ち着ける日課だったバールでの時間さえ奪われている。
しかしそれでも、未だにアバッキオは女を怒鳴りつけることも、椅子を蹴倒して追い返すこともしていなかった。邪魔だとなじっていた女を目の前に座らせたままにして、無関心という顔をしながらも、その女の話に耳を傾けている。
の“お礼がしたい”という言葉は、本当なのかもしれない。それでも口実にすぎないと分かっていた。だがそれが何の口実なのかは、女を初めて正面から見て、知ったような気がする。
「迷惑、でしたか……?」
今更──
淀んでいた頭に、ぱっと言葉が浮かんだ。
今更だ。本当に。真っ先に浮かぶべきだった可能性を微塵も取り立てなかったアバッキオ自身も、今更だ。今まで俯きすぎていたのかもしれない。
女を、怒鳴りつけて追い払うことならいつだって出来た。組織仕込みの啖呵を切ってやれば、こんなぼんやりとした女など、すぐにでも現れなくなっただろう。振り払えなかったのでもない。面倒になったのでもない。アバッキオが、振り払わなかったのだ。
真っ赤な顔で、しかし眉に不安を滲ませるを一瞥して、アバッキオはゆるりとワインを飲み干した。胸がぶわりと燃えるように熱くなる。
何を今更──
もう一度、心の中で毒づいた。チンピラよりも鬱陶しい女は、アバッキオの罵倒を浴びることなく、何が嬉しいのかはにかみながら、今もずっと椅子に座っている。にこにこと、いつも変わらぬ笑みがそこにはある。
アバッキオは答えなかった。女に対してか、己に対してか。せめてもの矜持だった。フーゴが聞けば鼻で笑うような、小さなプライドだとは知っていた。
まだ緩やかな風の中に、エスプレッソの香りが残っている。
「おっ!」
錆びた金具を引き抜くように引っ張って木製のドアを開けると、薄ぼんやりとした室内からミスタが振り返った。待っていたと言わんばかりの口笛が高く響く。
汗や埃の混じった古い木の独特の臭いが鼻を突いた。毎度のことだが、息の詰まるような部屋だ。アバッキオは眉を顰めて、扉を枠の中に引き込んだ。
フラヴィオの邸宅の斜め向かいに位置する五階建てのアパルトメントでは、最上階の部屋を貸しきって、ミスタが住み込みでフラヴィオの監視をしていた。事務所にはフーゴが見張りに付いていて、アバッキオはそれらの伝達を受け持っている。
折角ナランチャを連れ戻したというのに、青年は裏手に回っていて、同じように借りたアパルトメントの壁中に関係者の写真を貼り付け、出入りする人間の見張りをしている。ブチャラティ曰く「こういうのには向いていない」らしい。つまりミスタはこの一週間、埃臭い閉めきった部屋に缶詰状態ということになる。
複数のモニターに囲まれながら、カーテンすら閉めた薄暗い室内に一人ぽつんと座っていれば、お喋り好きな男でなくとも気が滅入ってくるだろう。
特に、暇さえあれば女を冷やかして回るのが趣味のような性格だ。「何が楽しくて親父の盗撮なんかしなきゃならねーんだろうなぁ」などという愚痴を一週間で何度聞いたか知れない。
「待ってたぜ~~色男!」
「てめーは本当に真面目にやってんだろうな」
女をからかえない分、アバッキオへ標的を向けたミスタへ返しながら、埃で灰色を帯びた板目に沿って歩くと、ミシミシと不気味な音が鳴った。
このアパルトメントにも数年前に修復工事の話が上がったらしいのだが、申請が降りなかったために、痛んだまま中途半端に投げ出されて放置されている。普通ならば一部屋でも埋まるのが奇跡とも言える痛み具合だというのに、人口の多いネアポリスでは、問題なく入居を望むものがあとを絶たない。それでも最上階だけは、長く借り手がいなかったほどの劣悪な条件だ。
拘置所から出た時と何ら代わり映えのしない身なりをしたミスタは、どこからどう見ても金を持っていそうには見えなかった。それで大家に怪しまれることもなくすんなりと、フラヴィオ邸を監視しやすい最上階を借りられたのだった。
ブチャラティはミスタを監視に抜擢した時から、これを見越していたのだろう。
「俺は大真面目だぜ? なんてったって恩があるからな……けどよ、聞けばあんたも女と毎日楽しく遊んでるそうじゃねーか」
ミスタは持ち込んだ回転椅子をゆらゆらと揺らしながら、羨ましそうに「どんな女だ?」とにやけ面でアバッキオに催促をした。こんなくだらないことをミスタに話す人間など、フーゴしかいない。
「追い回されてんだよ」
苛立ち紛れに吐き出して男の顔に茶封筒を投げつけると、顔を抑えたミスタは何故か愉快げにケタケタと笑って、床に落ちた封筒を拾い上げた。
A4サイズの糊付けされたそれをバリバリと乱暴に開く。クリップ留めされたファイルが、男の手の中に数枚つまみ上げられた。それ確認してから、アバッキオは口を開いた。
「ブチャラティと俺で、フラヴィオから賄賂の取引をしてる連中を洗った。フラヴィオが何か目論んでるってんなら、こいつらも必ずグルだ。他のシマのやつらに借りができた分、信用はできるはずだ」
引き伸ばされた写真と経歴の書かれたシートを捲っては、「また男か……」とミスタがうんざりした様子で零した。
「しっかし、どいつもこいつも冴えねー顔だなぁ……こんな印象薄い顔、覚えられっかな」
「その冴えねー顔を覚えるのがてめーの仕事だろうが」
男の肩が小さく竦められた。
「フラヴィオは?」
「朝から一度も帰ってきてない。そうそう暇じゃねーのかもな」
ミスタは気だるげな口調で返した。しかしモニターを見つめる目だけは鋭い。
この目には見覚えがあった。この三ヶ月半、見てきた目だ。ブチャラティの元で、ドナートの元で。それは同じ色をしていた。
こちらはたった一人の女に煩っていたというのに、ミスタという男は一週間やそこらですっかり組織に順応してしまっている。男の楽観的思考と、元がチンピラ気質なところもあって、下っ端の仕事は気楽にこなせるのだろう。
アバッキオはこの時初めて、男がこれまでどういう生き方をしてきたのか興味が湧いた。
しかし尋ねたアバッキオにミスタは肩を竦めるだけで、
「過去には興味がねーんだ」
と言い切った。
カーテンの薄く開けられた隙間へ、男の視線が寄せられる。窓の外は、道路を挟んで豪邸が立ち並んでいる。子供の声が全て塀の内側から聞こえてくるのは、ネアポリスの貴族が何代も前から雇った使用人を、家族ぐるみで敷地内に住まわせているからだろう。
何の木だろうか。青い葉が枝の上に盛り上がって覆い、風の吹く日はゆりかごのように葉を揺らし、屋敷に降り注ぐ日差しから子供を守っている。納戸色の影に白い光をぽつぽつと飛ばしながら、葉と葉をすりつけてさわさわとそよぐ音は、小麦畑に埋もれて聞く、子守唄のようでもある。
塀の外は尿で汚れたブロックや、違法駐車でひしめく路地や、雑踏がばら撒く臭いの混ざり合った空気が絶えず満ちている。
塀のゆりかごで遊びまわる子供は、木槌で叩いただけでも壊れそうな家で、埃まみれになりながら窮屈に暮らす人間もいるのだということを、知らずに育つのだろう。そこで暮らす男が、見知らぬ女を助けるために殺しをしたというのに、証拠不十分で30年の禁錮刑を受けたことも、子供たちは一生知ることはない。
たとえば男が一度も補導されたこともなく、平生の素行が誰もが称賛するものであったのなら、男は罪を免れたのだろうか。新聞を開いた知識人は、普段の行いが招いた自業自得なのだとでも、子供たちへ教え諭すのかもしれない。
だが、そういう風にしか育つことが出来ない環境が、塀の外側にはあるのだ。
「知ってるか? 俺のモットー。深く考えないのが一番だ」
ミスタはいつでもけろりとしている。どん底だというのに、いつもどこか楽しんでいるフシがある。フーゴに連れられてきた初日からそうだ。アバッキオにはそれが理解できない。
「てめーは分かってんのか? ギャングに入ったんだぞ。もう昔のようにはいかねぇ」
「わかってるよ」
ミスタは窓から視線を外すと、壁に画鋲で止めたフラヴィオの写真を見て、感心したように声を漏らした。
「金ってのはスゲぇよな。こいつも自分の命を金で繋ぎ止めてるようなもんだ。こんな豪邸に住んでりゃそれも麻痺しちまうのかもしれねぇが……」
アバッキオは木箱の上に腰を下ろした。前の住人が置いて行ったのかもしれない。汚い割りに丈夫だが、アバッキオには小さすぎて、膝を折り曲げて座らなければならなかった。
「拘置所にいる間……」
ギシリと椅子が鳴った。大きく伸びをしたミスタが、背もたれに重心をかけた音だった。
「ずっと考えてたんだけどよ、人間一人の相場ってのはどれくらいなんだろうな」
後頭部に両手を回して天井を見上げる男は、ぽつりと呟くと、すぐさま微かに鼻で笑った。返事を求めている声色ではない。自分の感情を咀嚼しているようだった。
「俺だって分かるぜ、なんせ自分のことだ。ムショに30年も入ってたら、きっとくたばっちまってる」
後先考えずに女のために引き金を引いた男だ。その時の行為が気まぐれだったとしても、気まぐれで命をかけるような男なのだ。若くて細身で捻くれたところのない、如何にもシャバに飢えた刑務所のホモに好かれそうな雰囲気をしている。そいつらに迫られたら、この男には駆け引きなどという選択は思い浮かびもしないだろう。あるいはもし刑務所の中で殺した男達の仲間と出会ったのなら、報復を逃れるには殺してしまうしかない。
出会ったばかりのアバッキオから見ても、ミスタという男には、30年は死刑に近いように思えた。
「俺の命はブチャラティに買われた。一体幾らだったんだろーな」
「後悔したか?」
アバッキオを見下ろして、「冗談だろ」とミスタが笑った。
「安くはねぇ……そう思っただけだ」
悩むのが一番嫌いらしい男は、どうせ死んでいた命だとでも思っているのかもしれない。
「なんだっていいさ、俺はブチャラティに助けられた。後は楽しく生きれりゃそれでいい。そんで、今気になるのはあんたの女のことだな!」
愉快げな声が、狭苦しい室内に篭る。
モニターを見つめていた男はギャングだった。だがそれでも、一人ではこの世界では生きられそうにない。ブチャラティのような男についていなければ、恐らく。
気に食わないが、ブチャラティはチームの人間のことならなんでも知っていた。人を見抜く目があることだけは、どんなに悔しかろうと認めざるをえない。だからこそ、生かし方も殺し方も心得ている。
もちろん、アバッキオが警察を解雇された経緯も知っているはずだった。元警官だが、つまらない男だ。義理もなく私欲に走る、使いどころのない男だ。ブチャラティが港のアパルトメントへ現れた時、こんな人間を生かしておこうなどとはよもや考えないだろうと、アバッキオは思っていた。
刑務所を出て頼るものもなく、白い目と報復を避けながら暗がりへずぶずぶと逃げ込んで行くのは必然だった。そうして自暴自棄になっていたアバッキオに、ブチャラティは「殺しはしない」と言った。
「ダイヤの場所を吐いてもらわなきゃあならないからな」
煤けた床に横たわって見上げた冷たい男の目は、何を考えているのか分からなかった。アバッキオを見下ろしているせいで陰った顔は、底の見えない海のように思えた。
「とにかく」と男が言った。
「まずはダイヤだ。その後でてめーが死にたいってんならそうすればいい。俺は止めやしないし、そういう人間が勝手に死んだところで一向に構わない。……だがな、それはお前の都合だ」
男に顔を殴られたせいで、口を切っていた。口中血の味がする。臭いも鉄臭い。拳にその血を帯びた男は続けた。
「そんなつまらねーことで、俺達を人殺しにするな」
男の手から、血が滴っている。アバッキオが吐いた血だ。一瞬、この男は何を言っているのかと思った。
殺しなど、縄張り争いをしているこの男達には日常茶飯事だ。だからこそ、こうして顔色一つ変えずにアバッキオを血まみれに出来ているのではないか。
今もブチャラティはきっと、ポルポの命令に従って、組織の友人とやらを殺害しに行ってるだろう。家族がいたとしても、躊躇いもなく目標を殺すに違いない。報復に関して、ポルポの命令は殆ど絶対だからだ。
そうして多くの恨みを買いながら、ミスタのような人間たちから強い恩を抱かれている。二つの極端な顔は、ギャングそのものだ。腹の中は、決して読めないようになっている。
俺は助けろとは言ってねぇ。恩なんざありゃしねぇ──
「それじゃあな」
ミスタのからかいを無視して、アバッキオは戸口へ向かった。人二人分とモニターで室温の上昇したここから、一刻も早く出たくなった。息苦しくてたまらない。
恩を感じているといっても、ミスタは入団してすぐの右も左も分からない状態で、よくこの軟禁に耐えられるものだと、アバッキオは思った。
ミスタの焦った声がアバッキオの背を追いかける。
「おい、差し入れは? まさかこれだけかァ?」
「ああ、どうせ夜にブチャラティが来る」
一言返して、またドアを破るように押し出すと、足下には、急で不安定な階段が折り返し折り返し続いていた。
通りの向こうで騒ぐ楽しげな子供の声が、いつまでも耳に届く。懐かしさと悔しさが綯い交ぜになった痛みが突き上げて、アバッキオの胸にさざ波を立てた。
己は色あせた埃だらけの階段ではなく、以前まで、そちら寄りの通路を歩いていたような気がした。
その夜、ドナートのシマで騒ぎがあった。カジノで歓待をしていたドナートの元へ駆けつけた部下が耳打ちをすると、すぐさま席を外して暫く戻らなかったほどの大事だった。
アバッキオは騒動には何ら関係がなかった。ポルポのシマから派遣されたただの警備の代役で、経営には一切関わることを禁止されている。しかし、事情だけは伺うことが出来た。
ドナートの部下が仲間の経営していたナイトクラブに軽い爆薬を仕掛けて、火を放ったのだとアバッキオは耳にした。どうやら、ドナートが他のシマの幹部と共同で出資したクラブで、収益もなかなかのものだったのだという。
男は逃走してしまっているが、いずれ見つかるだろう。まず、犯行の原因を調べなければならなかった。
説明がつかなければ、相手方の幹部と険悪になりかねない。借りを作ってしまえば、ドナートに不利な取り引きを持ちかけられても断れなくなる。非がこちらにあったとしても、無理矢理にでも五分まで持って行きたいのがドナートの心境だった。
だからといって、カジノの警備を手薄にするわけにはいかない。信頼を置いている部下も、弱みを握っている崖っぷちの部下も、ドナートに逆心のないものへ逃げた男を追うよう、ドナートは叫ぶようにして電話を切った。呻きながら監視室のソファーに腰を下ろすと、筋の浮かんだ拳が苛立ち紛れにテーブルへ叩きつけられる。
まだ、表のカジノは賑わっていた。きらびやかな衣装で着飾った男女が、声を上げながら賭けを楽しんでいる。潤うルージュの唇。エメラルドのカクテルが細い指の中で踊り、チップを賭ける紳士の襟元からは新緑のコロンの香りがする。歓談の声が自然と頭に流れ込んでくるような光景が、絶えず画面に流れていた。
不意に、録画画面へ目を向けていたアバッキオを、ドナートが呼び寄せた。
「お前は確か……ポルポが取り引きしてたダイヤを盗んで、ブチャラティの小僧にシメられたんだろ?」
「ああ……」と返しつつ、アバッキオは問い返すように眉を寄せた。
「盗んだダイヤを、わざわざ使いの自宅の庭に忍び込んで隠したらしいな。ありゃあお前が吐くまで一生気づかなかっただろうよ」
ドナートが何故突然その話題を出したのか分からなかったが、事実、責任を取らされるのを恐れて血眼になってダイヤの行方を探していた男達は、自宅には見向きもしなかった。アバッキオに所在を知られていることすら、認識していないようだった。
「灯台下暗しだ」
ドナートはそう呟くと、テーブルの上の誰の飲みかけとも知れないバーボンを煽って、満足そうに目を細めた。