03
胸の隙間にじっとりと染みこんでくるような雨が降って、数時間と経たずにすぐに止んだ。しばらく干した記憶のないシーツの汗の臭いが、雨上がりの僅かに湿った空気に混ざって、余計にアバッキオの気分を重くさせる。
もう10時はとっくに過ぎている。こんな時間まで体を横たえていたことは何年もない。しかし起き上がる気にはなれなかった。薄暗い天井にぽつぽつと浮かぶ染みを無為に眺めながら、できることならこのままベッドに沈んでいたいとさえ思えた。忘れたいことが多すぎた。
隣人の男はすっかり一人暮らしの気分で、聞きたくもない歌を吠えるがごとく歌っている。朧な歌詞が何度か繰り返され、周回したあと、男の声に加えてラジカセからも大音量が鳴り響く。隣の人間は見たことがなかったが、こちらの才能は哀れなほどにない。男が家具らしきものを叩いてリズムを取り始めた時、アバッキオは衝動的に壁にコップを投げつけていた。飛び散った破片が床に崩れ落ちていく。
男の声が止む。しかし音楽は依然として大きく空気を震わせている。起き上がって靴をつっかける。破片を踏むのも構わず正面の壁に大股で歩み寄ると、アバッキオはももを持ち上げて思い切り壁に足の裏を叩きつけた。
何かを引っ掻き回す音が響いて、すぐに音楽は途切れた。屋根から滴っていた雨滴も、いつの間にか窓を蛇行して緩やかに滑り落ちるのみになっている。
薄暗い部屋に、しんと静まり返った暗い空間が舞い戻ってきた。望んでいた静寂だった。いつもこの静けさが手に入ればよかった。しかし体中を虫が這いずっているような、気色の悪い感覚が胸を取り巻いている。
窓から見下ろす路地は、鈍色に濡れている。雲もまだ晴れず、いつも陰っていた路地が、更に暗闇に覆われている。棚の上に置いた、新聞紙で包んだ銃を手に取って、アバッキオはそっと目を伏せた。覚悟を決める時が来ていた。
──全てのことは、起こる前から起きている
不意に、声が蘇る。しかし、誰のものかわからない。最近聞いたような、遠い昔に耳にしたような、近しい者のような、一度会ったきりのような、記憶はとてもおぼろげで形を成していなかった。
ただその言葉だけがはっきりと浮かび、必ず同時に、二日前からの光景が匂いや肌の感触まで鮮明に思い出された。
眼球をちらちらと光が刺激していた。それを追うように瞬きをすれば、瞼の暗がりに紛れるような地下室が、視界に現れた。その隅に、アバッキオは立っていた。
勧められるがままに飲み過ぎたのかもしれない。一瞬、意識を飛ばしていたようだった。
天井からぶら下げられた、たったひとつの裸の白熱球が、じりじりとコンクリートの肌を焼いている。壁は三面が、ぎっしりと背表紙が詰まった本棚に囲まれていた。小型の冷蔵庫と重厚な作業机が、余った一面を陣取っていて、そこだけ粗い壁の姿を見ることが出来る。小奇麗だがくすんだ色合いに統一された一室に、刑務所のような薄気味悪さがあった。
天井をヒールが踏みしめる音が通り過ぎていった。丁度、アバッキオの真上だ。はしごは畳まれ、誰も入ってくる気配はない。幾重の戸越しに、微かに男女の笑い声が聞こえてくるだけだ。
「バーボンかワインの二択だ。ワインは勿論ネアポリス産。どうする?」
アバッキオは四方を軽く見回した後、声の方角を窺った。
整然とした机には、蜂蜜色とルージュの液体を煌めかせたボトルが置かれている。その横に軽く腰を下ろしたドナートが、二本のボトルの頭を手のひらに押し付けて、愉快げにゆらゆらと揺らしていた。
頭上をまた、女の甲高い声が過ぎった。はしごを登った先は階段下の通路に繋がっている。そこからピアノのあるダイニングへ向かえば、どこかで見たことのあるような顔が、幾人も食卓を囲んでいる。
ドナートのパーティは、上手く市民に紛れ込んでいる友人だらけで、素顔の仮面舞踏会のようである。何も知らないものからすれば、どの笑顔どの言葉もがまさに仮面のようで、真実の顔はついぞ見ることは出来ない。表面上は知人同士のパーティそのものだ。
「……あんたと同じでいい」
「そりゃあいい選択だ。バーボンはワインほど苦くも甘くもなりゃしねぇからな」
喧騒から離れた地下室に、ウィスキーグラスに液体の落ちる小気味のいい音がよく響く。ドナートの手元から伸びる蜂蜜色の線が、磨かれたグラスの中で波打つのを、アバッキオはじっと見つめた。
「こいつはストレートがいい。坊や」
ドナートは自分のすぐ横にグラスを置いて、僅かに押し出した。アバッキオへ近寄れと言っているらしい。
板に敷かれた絨毯を踏みしめて、斜めからドナートの元へ歩み寄る。グラスへ手を伸ばしながら、ふと男を上目に窺った。
地下室は閉め切った納屋のような暗さだ。古書の匂いが充満していて、時折噎せ返りそうになる。ぎくりとした。どんよりした漆黒の瞳が、その中に紛れるようにしてあったのだ。
ドナートが机に半腰で寄りかかったまま、無言でアバッキオを見下ろしていた。知れず身が強張る。この半身の距離に、触れてはならないピンと張った糸を感じる。
アバッキオは動揺を誤魔化すように「グラッツェ」と一言呟いて、グラスへ視線を落とした。
バーボンは手の中で甘い色を煌めかせているが、一飲み出来るような代物ではない。ドナートという男が好んで然るべきと思わせた。
「あら、もしかしてレオーネ?」
キッチンでの出来事だった。
香ばしい匂いと共に落ち着いたアルトが、キッチンの戸口に凭れて呆然としていたアバッキオの前を流れた。飲みもしないのに、口につけっぱなしにしていたワイングラスを緩慢に離し、視線だけをずらせば、ひまわりのワンピースにルージュのカーディガンを羽織った、しとやかな女が立っていた。
「レオーネでしょう?」
女は作りたてのミートボールを乗せた皿を抱えながら、アーモンド形の目を細めてアバッキオに笑顔を作っている。若く見えるが、身にまとう独立した雰囲気から、30は過ぎているだろうか。しかし知らない顔だった。
「茄子とトマトのポルペッティーネよ。食べる?」
身を反らせてシンクの上のフォークを手に取ると、女はアバッキオへ差し出した。迷いながらも受け取る。トマトソースのかかったミートボールへフォークを差し込めば、さっくりとしたいい感触がする。少し大きいが、一口で食べる。牛肉の汁が舌の上で滴った。美味かった。
女は自慢げな表情を浮かべて、咀嚼するこちらの様子を窺っている。アバッキオの言葉を待っているのだ。
「ボーノ」と飲み込みながら言うと、詰まった声が出た。軽くワインを口に含む。
「……何故俺を?」
突然自宅に来た使いに呼び出されて来たものの、何のパーティであるかも聞かされていない。広い邸宅は人でひしめき合っているので、ドナートも接待でアバッキオに気づく様子もない。仕方なくワインを手にとって、女だけが忙しなく出入りするキッチンに居場所を定めた。ここなら声をかけられることもないだろうと予想したのだ。
カジュアルな雰囲気に、大した祝い事ではないらしいとは感じたが、ドナートの招待客にアバッキオが気さくに話のできる知人などいるはずもない。一人だけ場に浮いていると感じていたところへ、アバッキオを知っているらしい女が現れた。
「何故って分かるわ、ドナートったらすっかりあなたにご執心だもの」
思案げに床に落としていた目を僅かに開いて、女へゆるりと向けた。“女”ではない。アバッキオにとっては、そう呼ぶべき人間ではなかった。
「……シニョーラ」
クローチェ、と呟こうとした時、空気を読んだようなタイミングで、横合いから「俺の女を口説くんじゃあねーぞ」と声がかかる。潰れたようなハスキーボイスと高圧的な口調は、紛れも無く話題の男のものだった。
「ドナート……」
「妻にはシニョーラ、俺にはドナートか」
気の抜けた音を鼻から漏らして、ウィースキーグラスを片手に、ドナートはクローチェ夫人の腰を抱き寄せた。いかにも機嫌を損ねたという素振りをするが、上機嫌なのは疑いようもない。アバッキオへ向けられるのは今に鼻歌でも歌いそうな声色だ。
「女に敬意を払うってのは評価できる」
トレーを抱えた夫人の髪や額と、啄むように唇を寄せるので、夫人は「きゃっ」と声を上げながらドナートの腕の中で身体を捩った。
料理が落ちると咎められなければ、ドナートの愛撫は際限なく続きそうだった。
「酔いすぎよ、どれくらい飲んだの?」
「男はいつでも酔えるのさ、都合よくな」
ドナートはそう言って夫人を解放したあと、アバッキオへ目配せをしてから顔を背けて吹き出した。アバッキオは眼前で繰り広げられる痴態地味た光景に、知らぬ間に呆れた表情でも浮かべていたのかもしれなかった。
それがつい先程のドナートの姿だった。この男が、妻を抱いていた同じ手を使って、倉庫で凄惨な拷問をやってのけているのだ。
毎日欠かさず餌を与えて可愛がっていた鶏を屠り、何の悲しみも抱かずに食卓へ出すように、先程まで笑い合っていた人間の皮でも、簡単に剥ぐことが出来る。それが己の生きる糧になると判断した限りは、情を自分の意志でもって捨ててしまうのがドナートという男だ。
誰しもが、表の顔と裏の顔を持っている。ギャングであろうとなかろうと、少なくとも2つは。ドナートにもまた、幾つもの顔があるのを、アバッキオは承知していた。この世界の誰もが持っている表裏を、器用に使い分けている。その切り替えを感じさせない男こそ、人を動かす器量を持っているのだ。
そう、理解しているつもりだった。だが豹変する様を目の当たりにするのは別だった。倉庫での拷問とは違う。あれがドナートという男なのだと思っているから、少しも気後れはしない。しかし夫人を前にしたドナートを知った瞬間、男の二つ目の顔が家庭的であるほどに、言い知れぬおぞましさが込み上げる。
男が見せる情は、いつでも捨て去ることの出来る虚構かもしれない。表と裏の境目に立った時、男が掲げた情がハリボテであると知った時、“この男は俺も殺す”という理由のない確信が、そこから来る恐れが、アバッキオの体へのしかかる。そうだ。男は、まともじゃあない。まともな頭をしていたら、この世界じゃあ生きていけない。
グラスの中で揺れている己の顔が、酷く引き攣っているのをアバッキオは認めていた。
「どうして俺を見た」
恐怖の裏には、疚しさがある。観察していたかのように、ドナートはアバッキオの動揺を、決して見逃しはしなかった。恐らく、初めからそれが狙いだったに違いない。
ドナートの身内だけで行われるパーティに、突然アバッキオが誘われた意味がようやく分かった。どれだけ下っ端として働こうが、お坊ちゃん育ちのカタギはカタギだ。その中の常識で測って、勘が働かない。危機感を覚えない。恐怖しない動物は、決して従うことはないのだ。それが組織の人間ならば、手に余って始末するしかない。
ドナートが呼び出したのは、己の“顔”を見せるためだったのだと、アバッキオは感づいた。それは、組織に背くとどうなるかという、警告を意味していた。
アバッキオは震える指先でグラスを煽り、胃に落ちてくる重たい熱で腹の底に力を入れた。
「なんとなくだ。それより……用事ってのを聞きたい」
そうまでして念入れするほどの本題が、後に控えていないはずがなかった。声を張ってドナートを見据えると、男は眉の下の影を揺らしながら、「物分かりのいいやつだ」と笑った。
一昨日の騒動の話だ、とドナートが言った。
「俺のクラブをおシャカにしたのはパオロって俺の部下だ。いや、“やったってことになってる”って言った方がいいな……あいつはヤクの常習者だった」
心臓に細い針を刺されているかのような感覚がして、アバッキオは息を潜めた。
アバッキオが男の元に駆り出されたのは、部下の欠員の代わりだ。先にブチャラティの尋問で病院送りにされたお陰で、誰もが震えるドナートの拷問は受けずに済んだが、下っ端の更に下っ端としてこき使えるよう、ドナートがポルポへ掛け合ったのだ。ケジメをつけさせないと気が済まない、男の性格のせいだった。
アバッキオはまだ、ポルポの傘下だった。だからドナートも経営には関わらせはしないし、取引先も日程も絶対にアバッキオの耳に入れないよう気を遣っている。だがたった今、ドナートは誰にも聞かれることのない地下で、他の誰でもない、ポルポの手下のアバッキオへ、内情を明かそうとしている。
嫌な音が胸から漏れだしていた。酒が回ったからではないことは分かっている。背に染み出してくる汗を感じながら、アバッキオは耳の奥でその胸の音を聞いた。
ドナートが語気を強めて、「だが昔の話だ」と首を振った。
「出会った頃は顔合わせる度にイッちまってて、まともなヤツを見たことがなかったくらいだが、今じゃヤクとはきっぱり縁を切っちまってる」
パオロは、隣県で麻薬のディーラーをしていたのだと、ドナートは言った。麻薬を売る内に自らも手を出し始め、次第にそのアガリをくすねるようになったらしい。その頃にはすっかり依存して廃人の体になっていて、パオロを使っていた組織も処分したがっていた。そんな殺される手前のところを、ドナートが話をつけて拾ってやったのだという。
「面倒なことに、そいつは俺の親友の甥子でな……カタギだった甘ちゃんのてめーにゃそう分からねぇだろうが、親友は血の繋がった本物より兄弟みたいなもんだ。そいつの頼みを断るやつはタマ無しだ」
固唾を呑んで聞いているアバッキオへ、いくら“兄弟”の頼みでも、ヤク漬けの男を更生させるのは難しい問題だったと、ドナートは続けた。
「ヤク中なんざ、組織に引き入れようもねぇ……だがヤクが抜けてる時のヤツは見込みがあった。だから足を洗うのを条件に、俺のクラブの経営を任せてやったのさ。腑抜けのくせに死にたがりだから、苦労をした」
そう話し終えてから、ドナートは銃を打つ真似をして、ニヤリと笑った。
「仕舞いにはヤツの股間スレスレに弾を打ち込んで、“男が足りねぇならタマァ増やしてやる”って怒鳴ってやったら、ヤツはションベン漏らしながらクラブを選んだ。だがもしかしたら、ついてたタマの方は縮み上がって、なくなっちまってるかもしれねぇな」
その時の光景を思い出しでもしたのか、「それでも駄目なら、俺は本気で撃ち込むつもりだった」と腹を抱えて笑い始めたドナートに、アバッキオはひっそりと眉を寄せた。一向に話が見えてこない。
アバッキオの心中を察したドナートは、肩に腕を乗せて「まあ聞けよ」と宥めるように言った。
「そのパオロだが、言わば俺の甥子のようなもんでもある。そいつが俺の恩を忘れて、クラブを爆薬でふっ飛ばしたらしい。何故だ?」
アバッキオは先を促すように、ドナートを間近に見返した。男のギョロついた目が、先ほどとは打って変わり、怒りを含んで見開かれる。
「“ヤツはラリってた”……そいつが返って来た答えだ」
「誰がそれを?」
「共同の経営者とパオロの使ってた下っ端だ。俺ともう一人の幹部で出資したクラブだから、互いに部下を一人ずつ出した」
ドナートはアバッキオから体を離すと、ズボンのポケットに左手を突っ込み、苛ついた様子で部屋を往来し始めた。
「パオロがまたヤクに手を出すはずがない。ヤツが俺の話を飲んだのも好いた女がいたからだ。クラブで儲けるようになってからは、プロポーズの相談も受けた。酒じゃあねぇんだ。一度死にかけた人間が、これからって時にヤクなんざやるはずがない……そうだろ?」
「つまり……」
アバッキオは握りしめるようにして持っていたウィスキーグラスをテーブルにそっと乗せ、乾ききった唇を軽く舌で舐めた。舌先にカサついた感触がしたが、反対に口内は粘着性の唾液でぬめりとしていた。声が強張る。
「あんたは俺に、何をさせたいんだ」
「スパイがいる」とドナートが言った。
「パオロの使ってた下っ端だ。パオロはそのクソッタレを知人の伝手で雇い入れたと言っていたし、俺もそいつとは旧知の仲だったから信用していたが、あのヤロウ、上手く潜り込ませたな」
“あのヤロウ”とは誰であるかは聞くべきではないと、アバッキオは口を閉ざした。ドナートの悪態から察するに、共同出資の幹部か、或いはドナートに怨恨のある者がその幹部と組んで陥れようとしているのだろう。
「パオロはもう助からねぇ……あいつはクソッタレにヤクを“吸わされ”、火を“付けさせられた”……だが、混濁してたとしても、“吸った”のも“付けた”のも事実だ、ケジメはつけなきゃならねぇ……」
ドナートの声は震えていた。悲壮にくれて丸まった肩は男をより小さく見せ、窪んだ目からぽろりと涙が鼻筋を伝うと、子を失う親であるかのように見える。
言い知れぬ濁った空気を吸ってしまったような感覚がした。アバッキオは目の前の情景に同情などではなく、薄ら恐ろしさを覚えた。
どんなに泣こうとも、男はやるのだ。チカチカと暖色の電灯が照らすあの湿った倉庫で、甥子と目をかけてきたパオロを椅子に縛り、皮のシャツを脱がせるのだ。人が涙を零すのは悲しみを乗り越えるためかもしれないが、この男に限っては、血だまりを少しでも薄めるためにすぎない。情を捨て去るための、儀式にすぎない。
情とは結果だ。泣いたか悲しんだかどうかは問題ではない。ドナートはどんな理由があろうと拷問をする。涙を流した後、しかし助けはしないのだ。それは非情の結果だ。
「アバッキオ」
沈黙を終えて、ドナートが鼻をすすった。そうしてアバッキオの名を呼ぶ。
「俺の言いたいことは分かるな?」
アバッキオは微動だにもできなかった。顔はドナートが話し始めた時からずっと強ばっていて、これ以上硬くはならない。
「クソッタレのネズミを殺せ」
ドナートが言った。やけにハッキリとした口調だった。
「パオロは俺が殺すんだ、それに比べればお前の仕事は軽い」
いつの間に唇を噛み締めていたのだろうか。切れてはいなかったが、蒼白に違いなかった。アバッキオは声を絞り出した。
「……俺はあんたの部下じゃない」
「いいや」
ドナートはもう一度、力を込めて「いいや」と繰り返した。
「今はポルポと“俺の”部下だ。ポルポにそう話をつけた。別にポルポの仕事を邪魔してるわけじゃあない。甘ちゃんを男にしてやるってんだからよ……それにお前にはまだ責任を果たしてもらってない。何度も聞いてるだろ? ケジメだ……ギャングになるって、ケジメをよ」
ケジメだと?──
人を殺すことが、入団の条件だとでも言うのだろうか。アバッキオは思わず自嘲を浮かべそうになった。それならもう、一人殺している。十分素質はあるはずだった。
ドナートはまた机へ腰掛けて、上から二段目の取っ手に手をかけた。よく作られた丈夫な引き出しは、音もなくすらりと開く。
汗を滲ませながら様子を追うアバッキオへ、ドナートは中を漁りながら声を上げた。
「俺ァお前を見ていて、一つだけ分からねぇことがある」
男の手が何かを掴んだのを、アバッキオは確かに見た。引き出しから手がゆっくりと引き抜かれる。視線を感じた。真っ暗な視線だ。涙で赤らんだ眼球は、血走っているように見える。
「組織に忠誠を誓う気はあるのか?」
ぞくりとしたものが、背中をかけずった。それが何であるか、アバッキオは知っていた。悲鳴の響く倉庫で何度も感じてきた得体のしれない影だ。それがドナートの声と視線を介して、アバッキオの背中に張り付いている。
今、わかった。たった今。ポルポが、ブチャラティが、他のシマの幹部へアバッキオを貸し出したわけを理解した。
どんなに下っ端であろうと、配下を好き勝手使われて、独占欲と猜疑心の強いポルポが黙っているはずはなかったのだ。ドナートが“ケジメ”なら、ポルポは“信頼”に重きを置く男だ。
俺は試験を受けられていない。信頼と、忠誠を示すはずの試験を──
「出来るだろ? ダーティ」
凍りつくような、闇を持った目だった。不穏だった空気が鈍重にアバッキオへのしかかってくる。これは警告だ。組織を選ばなければ、死ぬまで“ダーティ”だ。組織にすら永遠にあざ笑われて生きていく。そしてもしこれを断ったならば、あの倉庫が待っていることは明らかだった。
拷問で殺されるのは、嫌に決まっている。自分で立ち止まることすら出来ないから、下水臭い暗がりを徘徊しているのだ。どうせ死ぬのなら、歩いて歩いて、何も考えられないくらいに歩きまわり、心まで擦り切れてぼろぼろになって、枯れ葉が崩れていくように無為に死んでいきたい。
ダイヤを盗んでブチャラティに捕まった時が、初めの機会だった。だが、もう状況は違う。新しく、歩く足を与えられてしまっている。自分の意志で立ち止まれないのなら、足が折れるまで、また歩くしかない。
瞬きを一つ。遅れて首を縦に一つ。見逃しそうなほどに小さく、ほんの僅かに動かせば、ドナートが手に持っていた新聞紙を差し出した。引き出しは、気づかぬ間に閉められている。
腕を伸ばした。二つ折りに丸められたそれは、掬うように受け取った途端、冷たい鉛となって、アバッキオの手のひらへのしかかった。
「……さん」
まどろみを誘うような、心地の良い風だった。
「アバッキオさん」
ゆっくりと目を開ける。木陰のある公園のベンチに座って、が隣から、遠慮がちにアバッキオを覗き込んでいる。納戸色の影が揺れていて、女の白い肌を一層際立てていた。
「顔が真っ青ですよ」
どうも、上手く声が出なかった。
「ああ……」
唾を飲み込んで、ようやく音を絞る。それに思考がもったりとしていて、すぐに目を閉じてしまいたくなる。
朝の涼しさの中、通りがかったを無理やり公園へ引きずってきたのは、アバッキオだった。だが、何と言える用事もない。灰色の歩道に溶けこむ背中を見つけ、気づいた時には、
「」
と女の名前が飛び出していた。はっとして口を閉ざすが、もう遅い。アバッキオの声を聞きつけたは振り返ると、心から驚いた顔でこちらを凝視していた。
整然とした石畳を大股で歩み寄って、「どこへ行く」とか当り障りのない声をかけて別れるつもりが、細い腕を攫うように掴んで、アバッキオはを公園へ引き込んでいた。
「あのっ」だとか「そのっ」だとか、背後で小走りについてくるに焦った声を上げられれば上げられるほど、手を離してやりたくなくなったのだ。
しかしベンチに座ってからというもの、会話らしい会話を交わしていない。
緩い風は緑の匂いがする。裏通りの生臭さや、表通りの埃っぽさは不思議と消えている気がする。
「……何かあったんですか」
ちらりと、を一瞥した。女は気遣わしげな様子で、じっとアバッキオの言葉を待っている。アバッキオの心境を多少でも斟酌しようと、考えこんでいるのだろうと思った。そういうふうに女の胸中を察するようになったのが、自分でも可笑しかった。
いつでも何かがある。声を出すのはとても億劫だったが、答えるまで恐らくしぶとく待ち続ける女を思うと、そう、皮肉っぽく言い返してやるのがよかった。
「あ」
とが小さく声を漏らした。
アバッキオが口を開こうとするのと同時のことだ。視線がアバッキオの頭上に向けられ、女の手が伸びてくる。かさりと音がした。アバッキオは、頭に葉っぱが落ちてきたのだろうと気づいた。そんなもの、口にさえすれば自分で取れる。だが、は手を伸ばした。頑固で、どこか抜けていて、でもそれがだった。
不意に、胸が詰まった。どこからか言葉にしがたいものが込み上げて、感情を支配される。
の指が髪に触れるか触れないかという距離を通り、まだ青い葉が、アバッキオの頭にこそばゆさを残して取り払われた。その感触は体の中心までするすると落ちて、何故か胸を締め付けた。
こんなつまらないことをどうしてこうも真剣に受け取っているのか、不可解でならなかった。けれど、重要だったのだ。
には、何でもないことなのかもしれない。葉っぱが気になったから取っただけだ。見たまんまその通りだろう。でもそれは善意だった。当たり前で、何でもなくて、ちっぽけだからこそ、見返りを求めない無垢な善意がそこにはあった。女の指先が見せたのは、人の心の中心にある、善の部分だった。
アバッキオはそんなものがあることを、自分がすっかり忘れてしまっていたことに気づいた。世の中には、何も救いがないものなのだと、勝手に思い込んでしまっていたのだ。葉っぱをとってやる、たった、そんなことですら。
「……な、」
耳元で声がする。
「なにか、」
甘い匂いもする。
「あ……あったんじゃ……」
息を吸い込んで、指先を動かし、柔らかな感触を辿る。久しく感じたことのない、心地の良い感触だ。
そう思ってから、アバッキオはハッとして顔を離した。肌を真っ赤に染めたが、羞恥に耐えるように顔を逸らしながら、アバッキオの腕の中にいる。
アバッキオは声もなく、慌てての体を離した。全身に、女の香りや肉感が残っている。バールで手を掴んだ時のように、また衝動に任せて、無意識に抱き寄せてしまっていたらしい。
体一つ分開けてベンチに座り直すが、気まずい空気が流れた。咳払いを一つして、アバッキオは言葉を選んだ。流石に会話を避けては、場が持ちそうになかった。それでも随分と時間がかかった。
「……家族は?」
「えっ……?」
の驚いた目がアバッキオを見た。横目にを見返してから、アバッキオも顔を向ける。
自分でも分かっていた。世間話を進んでするだけでなく、そんなことを尋ねるような男ではない。急すぎる変貌に、以前までのアバッキオのように、女は警戒心を抱いたのかもしれなかった。
「聞いちゃ悪かったか」
「い、いえ……!」
は大きく首を振った。
「ただちょっと、びっくりしただけで……」
そう答えると、恥ずかしいからなのか、或いは本当に答えたくないのか、もじもじと居心地の悪そうに体を捩らせて、は少しだけはにかんだ。
「喧嘩をして、会いづらくて……」
暫く会っていないのだと、が言った。
「そうか」
俺も似たようなもんだ──と返しかけて、気休めにすぎないと思い直した。アバッキオは喧嘩などではなかった。自分が消えることのない深い傷をつけたようなものだった。
さわさわと木が枝葉を揺らす。その度に視界もちらちらと瞬いた。光が動いているようでもあり、影が動いているようでもある。どっちだろうがどうでもいい、とアバッキオは思考を投げ捨てた。
「少し……寝たい」
先程から眠気が押し寄せてきて、とてもじゃないが抗えない。には申し訳ないが、付き合ってもらうしかなかった。ひとりきりで寝たら、何があるかわかったもんじゃない。
「ここでですか?」
「ああ……数分だ」
気だるげなアバッキオへ、が眩しそうに目を細めたように見えたが、気のせいだったかもしれない。持っていた袋から缶ジュースを取り出して、
「ちょっとだけですよ」
とプルタブをひねりながら、は困った顔で笑った。
安堵して目を閉じると、直前のが、シャッターを切ったように瞼に残る。忘れたいことが多すぎたが、この顔だけは記憶に残していてもいい──とアバッキオは思った。
北東の遥か向こうに雨雲が迫ってきている。明日まで降るらしいと、通りすがりの声が呟いた。
頬に生ぬるい風が当たって、アバッキオはふと、目を覚ました。
うとうとと思い返していたら、気づかぬ内に、また寝てしまっていたようだった。
寝る前とは打って変わって、周囲はやけに静かだ。隣の部屋の男は出掛けたのだろうか。それとも息を潜めているのだろうか。
棚の置き時計に目を遣るが、昼を過ぎたばかりだ。隣人が出掛けそうな時間でもない。先刻の脅しが効きでもしたのかもしれない。ボロ臭いアパルトメントは恐らく他の部屋も出払っていて、無人であるかのようにひっそりとしている。
何か、夢を見ていたような気がした。思い出せそうでもあるが、意識を集中させてみても靄がかって、これ以上かき回すと逆に消えてしまいそうだった。
感覚だけが体に沈滞している。肩にのしかかる酷い疲れと、そして、真綿に包まれるように温かでいて、仄かな切なさがやわらかく胸を締めつける。
アバッキオは呆然と部屋の光を追った。窓の外は嫌気が差すほど明るい。気持ちが疲れていた。喉が渇いたが、数歩の距離すら動く気にもなれない。
もう一度寝るのもいいかもしれない、と思った。
何もせず、何も考えず、寝てしまうのもいい。きっと、それがいい──