04


「悪ってのは一体どこからが悪なんだろうな」
「あ?」
暴行事件の報告を受け、調書を済ませた帰りだった。目抜き通りを外れて少々遅い昼を頬張る。警官の間では穴場のピッツェリアから持ち帰ったマルゲリータは、手の中でこんがりとした小麦色をさらけ出して、焼きたての熱を立ち上らせている。
「いつも考えるんだ。こういう職についてるからかな」
車通りの少ない路地に無理やり寄せたパトカーの中で、相棒が口の端のソースを舐め取りながら思案げに呟いた。人は絶え間なく通りすぎるが行商人はなく、車のクラクションも聞こえない比較的のどかな路地だ。
五拍子ほどの沈黙が落ちる。無視をしたわけではない。咀嚼中だったというのもあるが、意図する答えが少々哲学的で、アバッキオには難しすぎたのだ。
相棒は気にせずカプチーノを啜って、カップホルダーへ紙コップを収めた。
「こういう犯罪を取り締まっても、大抵はすぐに釈放されるだろう? そうして再犯が繰り返されれば、段々に俺達の行為は無意味にさえ思えてくる。軽犯罪で入所したとしても、劣悪な刑務所で更生できるとは思えない。だったらその連鎖はどこで断ち切ることができるんだ」
アバッキオは唇についたピッツァの油を舐めとりつつ、少し思考を巡らせてもみたが、やはり適当な答えは思いつかなかった。
「答えは出たのか?」
隣から、静かに首を振る気配がした。
何故その思考に至ったのかを推察は出来なかったが、真面目な相棒らしい悩みだと思った。アバッキオは今まで署内の誰からも、こんな心中を聞いたことがない。一見、誰もが通りそうな道だというのに。
紙コップを煽りながらそんなことを考えていると、代わりに、「昔」と呟く相棒の声がアバッキオのエスプレッソの残り香に重なった。平坦で静かな口調だった。
「俺がお前くらいの頃、教師へ暴行をした少年を補導したんだ……初犯じゃあなかった。近所じゃ有名な悪ガキさ。飼い犬に石を投げつけるくらいならいい。猫のシッポを切って郵便受けに放り込んだり、虫を詰め込んだ袋を投げ入れて、家人が大騒ぎしている間に金目の物をくすねてくような馬鹿なこともやっていて、周りの人間は随分手を焼いてた」
相棒の声に耳を傾け、アバッキオはポケットを弄って煙草を抜き出した。買ってから数本しか吸っていなかったが、乱暴に扱っていたせいで堅い箱だというのに潰れてしまっている。箱を弾きながら一本を取り出して、火をつける。
相棒が話を切ったのを見計らって、アバッキオはマルボロの印字の光る箱を差し出したが、相棒はそれに軽く首を振った。
「親が来たよ」と、カプチーノへ手を伸ばした相棒が続けた。
「初めてのことだった。今までは一度だって来たことがない。これだけのことをしてるのだから、さぞ頭を下げられるだろうと俺は思ってた……しかしそれどころじゃなかった。警察署へ駆けつけた父親は俺達に目もくれずに、その少年を罵倒したかと思うと、痣が浮き上がるほど何度も殴りつけた。どう見てもしつけにしては行き過ぎている……」
窓を開けていたお陰で、煙草の煙は車内にこもらず、窓の隙間をするすると抜けていく。アバッキオは度々隣へ視線を向けたが、話している間中、相棒は思い返すように、フロントガラスの向こうをぼんやりと見つめていた。
「俺は……」
唾を飲み込む音がした。
「その光景を見てようやく気づいたんだ」
相棒がゆっくりと、静かに息を吐き出した。
「少年の家庭はめちゃくちゃだったのさ……周囲も学校も、初めからそれを知っていたはずだったのに、誰一人として改善しようとはしていなかった。家にも居場所はない。少年にとって唯一の社会であるはずの学校は、彼を臭いもののように見る」
少年にとっては、子供の狭い社会の中では頼れる人間もいなければ、苦悩を吐き出す場所すらなかったということが分かったのだと、相棒は言った。
「少年は暴行したことを後悔していた。それでも刑期は言い渡される。もしかするとその刑務所は、どんな軽い罪であろうと、重犯罪者と一緒くたにして、ボロ雑巾のように扱うような場所かもしれない。囚人同士の抗争に巻き込まれて、また道を踏み外すかもしれない……どうなるかは分からないが、はっきりしているのは、たとえ刑務所で法的な罪を洗ったとしても、彼はこれから先もそういう人生しか歩めないということだ」
アバッキオは、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。少しばかり暑い日だった。静かな路地に射す影は木漏れ日に揺られるように心地よく、昼下がりに吹く微風もまた、ゆりかごであやされるようでもある。しかしここで立ち止まる人間によっては、のどかな路地にはならないこともあるのだろう。
アバッキオは煙を追いながら、相棒の言葉を待った。アバッキオの相槌を求めているようではなかったので、せめて聞き漏らすまいと思った。
「おかしいと思わないか?」
と、相棒はフロントガラスを真っ直ぐに見つめながら、やはり呟くように単調に言った。
「教師が受けた体の傷には罪がついて、少年が受けてきた心の傷には、どうして罪がつかない? 彼はおそらく一生、感情を拳で伝える生き方しかできない。少年がそういう風に育ったんじゃない。無関心が少年をそう育てたんだ。それなのに、耳を傾けない大人を、目を背ける社会を、取り返しの付かないほどに彼の傷を放置した無関心に対して、誰も責務は負わないのか? 少年は人生と、心の傷をつけられたというのに、他人の罪まで、少年自身が負って行かなければならないのか?」
それはあまりにも不条理だと、相棒が零した。
「俺たちはいつだって結果にしか目を向けられない。でも全てのことは、起こる前から起きている」
煙草の煙がゆらゆらと風に流れていく。路地の中の狭い空は、どこよりも青く見える。相棒の声は消えそうなほどに静かだったが、決して鈍色の石畳に沈んで行きはしなかった。
「俺はそれに気づけないことが、悔しくてたまらない」
煙が、空に立ち上っていく。

*

フーゴの元へ様子を見に行ってから、フラヴィオがようやく動き始めた。ネアポリス郊外のパッショーネの幹部の住む邸宅は大抵捜査局に見張られているが、その中でも“友人”の力によって免除されている場所もある。
取引現場の写真撮る。

元警官なんて言っても、一年足らずのパトロール勤務で、複雑な事件の捜査などとは縁遠い。犬が噛み付いたとか、ガス漏れの臭いがするとか、はたまた息子を朝起こしてくれなどというとんでもない通報やら頼み事で一日が過ぎていく。
汚い仕事だが、ブチャラティの元でやっていることの方が余程それらしい。


見張りをしていたミスタのところへ差し入れを持って、報告を聞きに行く。
フラヴィオは邸内で写真のリストアップをしていた。これから排除するための人間らしい。

「何なんだあいつは。何をやってんだ? 男の顔ばっかり並べてよォ」
おそらくは
「組織に依頼する人間だ」
「え?」
「抹消する人間だよ。路地の車に放置するための人間だ」

「全員反マフィア派の議員だ。市議会で湾港の取締を提言している。それが通りゃ、命が危ないのはフラヴィオのやつだからな。組織は役に立たない男をただで生かしてはおかない。利益分の誠意を求めている」
「なるほどな」
と呟いた後、ミスタは画面を指さしてフラヴィオが座るソファーの右端を円で囲った。
「分からねぇのはこっちだ。写真が全部ジジイだから議員だってのは分かる。でもこっちの書類は若い奴らばかりだぜ」
「ズームは出来るか」

「新人だ……」

「去年の警察学校卒業の新人リストだ。何でそんなものが必要になる。何に使う気だ」


*

銃声に鼓膜がキンと高い音を立てたような気がした。硝煙の匂いに頭がぼやけていく。いつまでも眠りの中にいるような、浮遊した感覚が続く。
とても現実とは思えない。
蒼白な顔。泣き崩れる体。

*

最悪だ。最悪の夢見だった。

遺族の顔が離れない。
今まで調子よく声をかけてきた も
アバッキオと目が合えば、他人の顔をしてそそくさと通り過ぎる。その先で歓談の声が聞こえてくれば、死にそうなほどに情けない気持ちで体を突き刺されたようになる。


緊迫したアバッキオの頭に、次々と今までの光景が舞い込んできた。ブチャラティが執拗に佐代の素性に拘ったのも、港のホァンの意味深な言葉も、ポルポとブチャラティのみで交わされる暗号も、ドナートがアバッキオを手元に置き続ける意味も。
ブチャラティはポルポには逆らえない。ドナートもポルポは組織内で敵対関係にはないが、いつ寝首をかかれるか分からない世界だ。ポルポの右腕同然の男の部下を、何ヶ月も配下として関わらせる危険性は、ドナートなら十分分かっているだろう。
しかしアバッキオはポルポの配下であっても、試験で信頼を示したわけではない。
初めから──
交換条件だったのだ。ドナートの抗争相手を嵌める代わりに、アバッキオの忠誠心を計るよう仕組まれていたのだ。それはドナートの元でなければならなかった。こういう男の元でなければ。
こんな簡単なことに
──全てのことは、
しかし気付いたところで、もう後戻りはできない。状況は変わらないのだ。

息が荒くなる。さんざ殴り倒してきたのとは違う。刑務所での喧嘩とも違う。殺すために撃つのだ。確実に、次に立ち上がれないように。この手で人を殺すのは初めてだった。
——目を見るな
ドナートの低い声を思い出す。軍隊上がりの教官も言っていた。

銃で撃ち殺す。引き金を
もう後戻りは出来ない。相棒が死んだ時と同じように。硝煙の匂いは変わらない。その先に、必ず死体が横たわることも。

殺人罪は何年だったか——
もし捕まったとして、二度目の刑務所はさぞや楽しいことだろう。暴行恐喝殺人これら全てを挙げられたら、次に出てくるのは一体いつになることか。いくらギャングでも、下っ端なんぞの刑期を縮めるのに奔走したりはしないだろう。もしかすれば長くなればなるほど、刑務所で女を作るようになっているかもしれない。
顔を顰めた。そんな気はさらさらなかった。
地獄に行っても抱きたいのは女だ。たとえば——


足音に振り返る。
「……佐代」
それにしても、この何万人と住む の穴で、よく会う女だと、場違いにもアバッキオは思った。
路地に停まった車から、血まみれの死体が見つかる。
佐代が「ひっ」と聞き取れないほど小さく声を上げた。
「ど……うしたんですか、その、銃……」

佐代は放心したようにアバッキオの手元を見つめていたが、すぐにハッとした顔になり、アバッキオの元へ駆け寄ると、その腕を掴んで引いた。
「ここにいてはまずいです、早く銃をしまって下さい」
「……何言ってやがる」
言いながらも、佐代の言葉に従って銃をしまい、後を追う。
「幇助でてめぇもしょっぴかれるぞ」
佐代は何も答えなかった
ただ、女の引く手が、
締めつけるほどに強く、足早な歩幅についていかなければならないような気になる。

薄汚れた階段を登り、狭い踊り場を3つほど過ぎたところで、女が立ち止まって右手のドアへ鍵を差し込んだ。
ガチャガチャと暫く忙しない音がするのを、アバッキオは背後や上階に目配せをしながら聞いていた。か細い金属音を立てて、足元に鍵が転がる。それを目で認めてから佐代へふと視線を向けると、蒼白な顔がそこにはあった。
アバッキオと目が合うとハッとして、震える手を強く揉みしだきながら、静かに鍵へ手を伸ばした。また、鍵は佐代の手を抜けて踊り場に冷たく落ちる。佐代は屈みこんだ姿勢で、ばつの悪そうにアバッキオをそっと窺った。
無言で佐代の指先から鍵を抜き取る。一瞬触れた女の白い指は、凍るように冷たかった。
鍵穴へ差し込み、 の悪い を何度か試して、
数センチドアを開ける。佐代と同じ香りが、中から漂ってくる。アバッキオは、入るのを躊躇った。入れば、この女を巻き込むことになる。
お願いです、と肩に消え入りそうな声がかかった。
「お願いですから……入って下さい……」
アバッキオが振り返ると、佐代は泣きそうな目でじっと見つめながら、深く頷いた。

「」

















「異常ですよ……どうして平気でいられるんですか……っ」

「人が、人が血を流して、倒れてるんですよ…」

「も、もう、やめてくださいアバッキオさん……関わるのは、」


「利用されているんじゃないですか」

「そいつに触るな!」

「ケジメだ。ケジメで殺された。殺したのは俺じゃない。組織だ」
「でも、目の前で、人が……」
「異常なのはてめーだ。引き金を引いたのを見ていながら、どうして俺を正しいと思える」
「俺もいずれそうなる」


「ねぇアバッキオさん、今は何をしてらっしゃるんですか」

「刑務所で、何かあったんですか?」
ハッと、佐代を振り返った。
警察
初めて声をかけられた時、「休暇ですか」と聞かれた。それにアバッキオは正直に「警察は辞めた」と答えたが、汚職で捕まったことは話していない。

「何で知ってやがる……?」

「調べたのか?」

青い顔をして、しまったというように口を閉ざす佐代。
「俺はオメーに聞いてんだぜ、佐代ッ!」
「半年、前……カゼルタに、警察に行ったんです……あなたを探して……そ、その時に」
アバッキオが服役している時だ。警察に行ってアバッキオの名を出せば、次は我が身と青ざめる者と、やり方が悪いと嘲笑う者の両者の空気を味わっただろう。
「あなたが刑……」
「もういい」
初めから佐代は知っていたのだ。
それを素知らぬ顔で近づいて、
俺を騙していたのだ。
馬鹿にしてやがる。
「俺に近づくんじゃねぇ」

追いかけてくる。

「でも、聞いて下さい……!」

「あなたのような人に、なりたかったんです」
と少し、照れ臭そうに言った。
分かったような口を聞く奴らばかりだ。
「二度と近づくなっていたよなァ?俺は」
振り向いて路地に引きずり込んで、無理やり壁に押し付けた。
「こーうことをされてぇのか?」

「俺はギャングだ」
佐代が息を止めたのが分かった。
「人を殺した。死にかけている人間を、自業自得だと言って助けもしない。それがテメーの言う、目指したい正義だってのか?」

「俺がオメーに何をしてやったかは知らねぇよ……でもお前は、自分を助けた人間が善人だと信じたいだけなんじゃねーのか」
佐代は、ひどく傷ついた顔をしていた。
佐代はいつもそうだった。汚れのない声を響かせて、警戒心もなく歩み寄ってくる。昔の自分を見ているようで、苛立った。

もう何もかも捨ててきた。突きつけられた罪からも逃げ、己のちっぽけで軽いプライドだけを抱えて歩き続けている。
「でも、私は……」
うるせぇよ。そう呟いた気がした。苛立ちで赤く燃える頭に、ひどく冷めた己の呟きが紛れていたような気がした。
強引にキス
底は気の強い女だ。舌を噛んでも抵抗してくるだろうとアバッキオは思っていた。だが佐代は、泣きそうな顔をしたまま、呻くだけだった。
恨めばいい。殴りたいのなら殴ればいい。しかし幾ら思えど、女はただ壁に背中を張り付けているだけだ。無抵抗に、アバッキオを罵倒することもせずに。今までと同じく。一言も。
胸ぐらをつかんでいた手を乱暴に離した。興ざめがした。
「二度と俺の前に現れるんじゃねぇ」
佐代の襟元は無茶苦茶に乱れている。壁に押し付けた時に、どこかに痣でもつけたかもしれない。

どこかで望んでいた だったというのに、
これでよかったのだ。
心は冷え切っていたのに身を燻る熱に、どこかで女を買わなければならないかもしれない。アバッキオは拳で壁を叩いて、そのまま立ち止まった。舌打ちが溢れる。


「俺たちはいつだって結果にしか目を向けられない。でも全てのことは、起こる前から起きている」

「俺はそれに気づけないことが、悔しくてたまらない」


路上駐車の車でひしめく路地。立ち尽くした少年たちの空が、そこにはあった。



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14/05/28 長編