
ブチャラティ
「お前は本気で頭の回りがトロいらしいな」
「惚れられてるに決まってるだろう」
眉を顰めた。
俺に惚れてるだぁ?
俺を知りもしないくせに、
「あんたもだ! 俺は信用したわけじゃねぇ、使えそうだと思ったからここにいる」
「あんたは勘違いしている」
ブチャラティは元から組織の人間だったわけじゃない、とフーゴが言った。
「ぼくたちとは違う。あの人には意志がある。昔からずっと」
(ブチャラティの生い立ち)
「口外は無用です。彼は自分を語ることを嫌う」
「お前はどうしてそれを」
フーゴは口を閉ざしてアバッキオを見つめ返した後、
「……ぼくは信用する人間にしか従いたくない」
「それがぼくの選ぶ正しい道だ」
どいつもこいつも馬鹿にしてやがる。
(怒りが募っていく)
引き金を引いた。男が倒れた時、アバッキオは、俺はもう、戻れないと感じた。今はそれを理解している。俺はもう戻れない。
9月25日
「調べてみたが、どうやらやっこさん、ギャング経由でゴロツキを雇って賄賂をやらせてるらしい」
「どういうことだ……?」
「青い新人に、甘い蜜の味を覚えさせてるのさ。裏から手を回してな」
「ひと月後か半年後か……どちらにせよ市長選の前だろう」
「」
「警官か市民のどちらかが巻き添えになる」
「カゼルタじゃあ市長に貢献した汚職警官がいたな」
「……何が言いたい」
「同じように株を上げたいんだろう……フラヴィオはお隣の市長と違って、意図的に」
アバッキオが拘留されている間に、同僚の葬儀は行われた。カゼルタの市長はそこでアバッキオのことを“社会の犠牲者”などと表現したらしい。
何が犠牲者だと思った。それなら許してくれ。この心の重みを取り去ってくれ。俺に責任がないというのなら、どうして俺が悩まなければならない。それは他の誰でもない、俺自身が犯した罪だからじゃないのか?
フラヴィオも、決して犠牲者などではなかった。己の心に悪魔を宿した、疑いようのない咎人だ。男自身の弱さが、悪を育てたのだ。
——全てのことは起こる前から起きている。
そうだ。言い逃れなどさせるか。法などで裁くものか。金を積んで罪を償える法など、何の意味がある。断ち切らなければならない。他人に罪をなすりつけさせなどしない。ギャングなら、それが出来る。
フラヴィオは今、どこにいる。
ミスタの所へ寄って、フラヴィオの所在を聞く。フーゴが後をつけているという。電話をして、教会に向かっていることを聞く。
小雨が降っていた。
これを煙雨と言うのかもしれない。霧のような細かい水滴が顔を濡らしたが、そこまで視界は悪くなかった。
栄光坂を大股でぐんぐん登る。雨のせいか、いつもなら夕刻には騒がしい子供たちの姿もなく、アバッキオだけが濡れそぼったコートを翻して歩いていた。それもいつの間にか早足になり、気づけば石畳を蹴って駆け足となり、鐘の音が鳴り響く頃には全速力で坂を駆け上がっていた。
こんなクズ、死んでもいい。俺のしていることは、罪だろうか。悪だろうか。その答えに、誰が首を振れるというのだろうか。
(正義の元では非道も許されると考えてしまったアバッキオ→ダーティハリー症候群)
忘れもしないあの雨の降る日、あの時引けなかった引き金を、今引くだけだった。昨日嗅いだばかりの硝煙の匂いはまだアバッキオの鼻にこびりついていて、小雨に混じると一層怒りをかきたてた。
「やめろアバッキオ!てめーは心まで捨てるつもりかッ!!」
怒りの滲んだブチャラティの大声が耳に飛び込んで、はっとした。泣き叫ぶ子供の声がする。足を血塗れにした男に覆い被さる子供が、アバッキオの銃口の先にいた。
放心して立ち尽くす。
この男は——
浮かんだ感情に、言葉が追いつかなかった。唇は荒い息を繰り返したまま静止している。
この男は確かにクズだ。どんな人間から見てもそうだと思って疑わなかった。
だが少なくとも、この子供には違う。どんなにどうしようもなくとも父親なのだ。男は子供が生まれた瞬間から、子供にとってただ一人の見つめるべき背中を持ったヒーローなのだ。
ひたすらにしがみつくのが弱者を踏みにじってきた血まみれの汚い足でも、この子供にとっては、追いかける地面を踏みならしてきた親の足だ。それを奪おうとするアバッキオのほうが、余程悪なのかもしれなかった。
「アバッキオ」
ブチャラティがアバッキオの肩を掴んだ。
「やめろ」
子供に諭すように、強く、一音一音を噛み締めて吐き出す。ゆっくりと男の低い声が、脳に振動していく。
「人を許せなきゃ、お前は人間じゃない」
興奮が抜けないのか、握りしめた銃から手が離れて行かない。こうやって、いつの間にか引き金を引く事に抵抗がなくなっていくのかと思うと、恐ろしくなる。見境なく
クズと吐き捨てた言葉が、酷く嫌らしく腐臭を放つかのように思えた。どうしてクズと呼べただろうか。どうして己を正義と信じられたのだろうか。
アバッキオは震えながら男を振り返った。見つめ返す瞳がそこにはあった。麻薬を売る組織のせいで親を失った男の、深い目だ。
この男もそうなのだろうか、と思った。何かを許してきたのだろうか。そうやって、悪鬼にまみれた組織の中で生きてきたのだろうか。この汚れた街を、立ち止まることもせずに歩いてきたのだろうか。
父親を守ろうと決めた時、一度だって警察を頼ろうとはしなかったのだろう。一見組織化されて統制が取れているように見えても、各々が個人の利益に走る腐敗した場所は、信用するに足らなかったのかもしれない。
勤務中にビーチで酒を浴びていても問題にされず、ギャングとつながりのある人間が近所の治安を乱していると訴えれば引っ越すことを勧めるような組織を、誰だって信用したいなどとは思わない。アバッキオだって、自分だけはそれを正したいと入ったのだ。
そんな組織であれば、例え警察に警護を頼んだとしても、カネに目が眩んで父親をゴロツキに売る輩だって必ずいる。その可能性を決して否定をすることは出来ないのが、この国だった。
ブチャラティがこの汚れた世界を選んだのではない。崖か沼地かを選ぶような、男自身の選択に見せかけた強制的な岐路が、幼かった男をこの道に進ませたのだ。正しく生きる者が馬鹿を見る悪習のせいで、たった一人の頼るものを失くした男は、ここへ身をやつすしかなかった。
俺だ──
アバッキオは力なくうな垂れた。ブチャラティをここへ落としたのは、自分だとアバッキオは思った。俺のような人間が、子供一人のためにクズさえ見殺しに出来ないこの男を、ギャングに、人殺しにしてしまったのだ。
銃が手からするりと抜け落ち、地面に落ちて鈍い音を立てた。ブチャラティが息をつくように、「それでいい」と呟いた。
腐っているのは組織じゃない。それに甘んじている人間だ。その甘えを覆すために警察を目指したというのに、アバッキオも半年足らずで泥沼にずぶずぶと足を踏み入れていた。同じだった。己が軽蔑するものと、かつて嫌悪していたものとアバッキオは、同じだった。
(組織に自ら身を投じたくせに、組織を汚らしいと思っていた。自らの悪に気づかず、上澄みだけを見て汚いと思うアバッキオの癖がここで治る。初めて自らを省みて、そうして償うために直そうと思うのではなく、自信をなくし自身に失望して本格的に落ちていく。)
地面に震えながら這いつくばっている惨めな男のことでさえ、貶す資格はアバッキオにはないような気がした。
全部自分のことだけだったのだ。初めから自分のことしか考えちゃいなかった。俺はこの男とどう違うってのだろうか──
子供は、ひたすら泣き喚いている。ぼんやり眺めながら、ナランチャが見たら俺を優しいなどとは口が裂けても言えなくなるだろうと、アバッキオは思った。
俺のどこに正義がある。悪を背負おうともしない。正義に隠れてくすねるだけだ。この男のように。
雨は嫌いだ。昔から嫌いだった。歩きづらいし泥は跳ねるし視界も悪い。しかし今、しとしとと降る雨はどこかアバッキオを安堵させた。この雨にずっと濡れていたいと思わせた。
「ナランチャは……あんたをヒーローだと」
ブチャラティは疑問を浮かべた顔で黙ってアバッキオを見つめていたが、一言「ああ」と答えた。
「俺には似合わない」
そうだな、とアバッキオは呟く。
「どっちかといえば、あんたは悪魔だ」
「……あんな男を生かしておいた」
あの父親を見て育った子供は、もしかしたら将来、また同じような人間になるかもしれない。アバッキオのように、間違った道を進んでしまうかもしれない。あるいはブチャラティやナランチャのように、父親がいながら孤独を味わうようになるかもしれない。家族を忌むようになるかもしれない。
静かに雨を受けていたブチャラティは、アバッキオを見つめながら、「俺達は神でも、ましてや人殺しでもない」と呟いた。
舞う水滴が男の顔を濡らしては、顎へと流れていく。男はそれを拭いもしない。ただ底の見えない表情で、アバッキオを静かに見つめ返すだけだった。
「俺達に子供の人生を決める権利はない。それがどんな父親だろうと、他人の決断で一人で歩まされるより、一人で歩く人生を自分で選んだほうが幸福だ。それが覚悟というものだ」
長い睫毛が伏せられる間際の一瞬、男の目にまた、燻る火が見えたような気がした。確かめようとした時には、白いスーツはとうに背を向けて歩き出している。
地下で泣いていた男を、不意に思い出した。ドナートは
霧雨の中を歩く男の背を追う前に、アバッキオはもう一度教会を振り返った。フラヴィオは痛みか恐怖からか、はたまたそのどちらからもか、放心したまま動こうとはしない。
「運が……運が悪かったんだ……」
誰に言い聞かせているのか、蹲った男からくぐもった声が耳に届いて、アバッキオは力なく首を振った。己の姿がようやく、男に重なって見えたのだった。
アバッキオは無言でブチャラティの後を追った。男はスーツを翻しながら黙々と栄光坂を降り続けていて、それっきり、アバッキオを振り返りもしない。
冷たい雨はたなびきながら降り続けていて、坂下の雑然としたネアポリスの街々はねずみ色にぼやけている。
坂の上からはまだ、子供の啜り泣く音がした。